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富田長繁と越前国の動乱

2008.10.30 - 戦国史 其の一
富田長繁は、天文21年(1551年)頃、朝倉家の重臣の子として生まれた。「朝倉記」によれば、元亀元年(1570年)4月、織田信長の越前侵攻に際して、1,000人を率いて出陣したのが、初陣とされる。


元亀3年(1572年)8月織田信長は大軍をもって浅井長政の居城、小谷城を取り囲んだ。危機に陥った長政は直ちに盟主の朝倉義景に救援を求め、義景もこれに応じて、自ら軍を率いて小谷城に陣取った。しかし、時の勢いは信長にあって、義景は守りを固めるのに精一杯であった。8月8日、こういった状況を見越して、朝倉家臣の前波吉継は、義景を見限って織田方に投降し、翌8月9日には、同じく朝倉家臣の富田長繁も降った。 信長はこれら有力部将の投降を喜び、それぞれに褒賞を与えた。


天正元年(1573年)8月朝倉義景は信長によって滅ぼされ、越前国は織田家の所領となった。ところが信長は意外な寛大さを示して、朝倉旧臣の多くを許し、その所領を安堵した。これら朝倉旧臣達の中でも、桂田長俊(前波吉継が改名)は、いち早く信長に投降した事と、越前の道案内を務めた功を評されて、越前守護代に任ぜられた。朝倉時代、側近の1人に過ぎなかった桂田は、一躍、越前全域の行政、軍事を司る全権者となったのだった。それだけに止まらず、朝倉義景が有していた広大な所領をも受け継いでいた。桂田と同じ時期に織田家に通じた富田長繁も、龍門寺城に拠って府中領主に任じられたものの、同輩であった桂田よりも恩賞が少なかったため、大いに不満を抱いた。


同年9月24日、信長は北伊勢の長島一向一揆を攻めんとして、富田長繁ら越前衆も加えた大軍をもって岐阜から出陣した。織田軍は一揆方の城を次々に攻め落とし、一定の成果を上げると、10月25日、帰陣に取り掛かった。ところが、一揆勢は戦力を温存しており、先回りして難所で待ち受けていた。そして、行軍中してきた織田軍に雨あられの如く、弓矢を浴びせかけて、死傷者を続出させた。この苦戦の最中、富田長繁の与党である、毛屋猪介は四方の敵に当たって、抜群の武功を示した。しかし、織田軍不利の状況である事には変わりなく、信長自身も命からがら岐阜に帰り着く有り様であった。


戦いは敗北に終わったが、富田長繁は、与党の毛屋猪介が武功を挙げた事から、その恩賞を、桂田を通して信長に求めた。ところが長繁の勢力増大を警戒してか、桂田はこれを握りつぶしてしまう。朝倉家に仕えていた頃の桂田は、さほどの地位ではなかったが、今では信長の寵を得て、越前の最高権力者となっていた。桂田は
その権威を背景に専横に振る舞い、かつて上席だった朝倉一族さえ家来の様に扱った。そればかりか、信長に進物を送り届けて、更なる寵を受けんとして、越前国内に重税を布くのだった。これにより、朝倉旧臣や領民の心は、桂田から急速に離れてゆき、それに合わせて、桂田と長繁の対立も日毎に深まっていった。


天正元年(1573年)桂田は上洛して信長に謁し、「若輩者に府中を任せるのは不都合であり、長繁とその与力の領地を削減してもらいたい」と申し立てる。これを伝え聞いた長繁は憤激し、こうなれば桂田を討取り、越前領有の既成事実を作って信長に認めてもらう他に無しと、決意するに到った。その桂田は京都から越前に戻る時、にわかに目を患って両眼を失明してしまう。人々は、神の御罰なりと噂したと云う。桂田を激しく憎む長繁は、同じ思いを抱く朝倉景健、景胤らと語らって策を練った。そして、長繁は越前に多数存在する一向宗徒に目を付け、彼らも大いに不満を抱いている事を知って、これを煽動せんとした。一向宗徒の蜂起を切っ掛けに自らも挙兵し、一挙に桂田を討たんとしたのである。


天正2年(1574年)1月18日、ついに一向宗徒が蜂起すると、長繁もそれに合わせて挙兵し、両者は合流して2万人余の軍勢となって桂田の居る一乗谷を目指した。一方の桂田は普段の行いからか、味方する者はほとんどおらず、僅か500人余で迎え撃たねばならなかった。しかも、桂田は失明して指揮が執れないとあって、あえなく一族諸共、討ち取られた。続いて、長繁と一揆軍は、信長が越前の目付けとして置いていた三人の奉行も追放した。この後、長繁は自らの地位を固めんとしてか、同僚で、鳥羽城主である魚住景固(うおずみ・かげたか)も粛清せんとした。そして、
同年1月24日長繁は魚住景固とその次男を朝食に招くと、酩酊させた上で、自ら魚住父子を斬殺した。続いて鳥羽城に手勢を差し向け、魚住一族を皆殺しにして、その所領を奪い取ったのだった。


これで、長繁は越前で並ぶ者のいない地位に立った。天正2年(1574年)1月29日の南条郡、慈眼寺に宛てた長繁の制札に国中の屋敷(棟別銭)を免ずるとの条があるので、長繁は一時的であるが、越前全域に統治権を及ぼした模様である。この時、長繁は己の権力に酔いしれた事だろう。しかし、それは束の間の栄光であった。魚住一族を滅ぼした事によって、朝倉旧臣達は次は自分達かもしれないと思い定めて、所領に篭って武備を固め始めたのである。長繁は越前の諸侍に叛かれ、早くも越前支配が立ち行かなくなってしまった。



信長はこうした越前の動乱に対して、兵を動かすことが出来なかった。甲斐の武田勝頼や長島一向一揆、石山本願寺の動向が気になる状況であったし、越前国境の峠も積雪で閉ざされていたからである。信長は岐阜から事態を望見するしかなかったが、そのような折、長繁から侘びを請う使者が送られて来たと云う。長繁にとって桂田との争いは国支配の主導権をめぐる争いであり、信長に対する反抗ではなかった。そのため、詫びを入れて守護代の朱印状を得ようとしてきたのである。この詫び云々の真偽のほどは定かではないが、当時こういう風聞は流れていた。風聞故、その時の信長の反応も定かではないが、長繁の要求は通らなかったであろう。


一向一揆と結んでの蜂起、越前守護代に任じていた桂田の殺害、越前に留め置いた3人の奉行の追放、この様な長繁の勝手を許せば、他に示しがつかなくなる。如何なる理由があろうと、長繁の行動は信長にとって身勝手極まるものに映り、遅かれ早かれその征討を受けたであろう。そして、長繁が信長に誼を通じようとした動きは、一向宗徒に洩れ伝わってしまったと云う。一向宗徒が長繁に協力したのは、織田方の桂田や三奉行を敵としたからであり、その信長と長繁が結ぶとあれば、一向宗徒にとっては許し難い行為であった。



こうした越前の混乱を知って、大坂の本願寺顕如が動き出した。この混乱に付け込んで、越前を一向一揆持ちの国に作り変え、信長への反抗拠点にせんと試みたのである。当時、顕如率いる本願寺勢は信長の攻勢を受けて衰退しつつあったが、越前に退勢挽回の機会を見出したのである。そして、長繁を始めとする越前の支配層を一掃すべく、顕如は、越前一向宗徒達に向けて、「長繁を討て!」と激を飛ばした。これを受けて、越前中の一向宗徒達が立ち上がった。更に顕如は隣国、加賀から坊官の七里頼周を送り込んで、越前の一揆勢を統率させた。この一揆勢は10万人以上と号される勢力(実数は3~4万人か)となり、さらに朝倉旧臣の朝倉景健、朝倉景胤らも加わって、圧倒的な勢力となった。


一方の富田方は府中の町衆や、誠照寺・証誠寺・専照寺などの一向宗三門徒寺院(本願寺とは宗派違いと思われる)に知行を約束して味方につけるが、これらの合力衆を合わせても5、6千人余でしかなかった。2月13日富田方と一揆勢との戦闘が始まったが、圧倒的多数の一揆勢によって長繁の部将、増井甚内が方山真光寺城で討たれ、同日中に毛屋猪介も北の庄で討たれてしまう。勢いに乗った一揆勢は長繁の本拠、府中まで押し寄せ、これを隙間なく包囲した。2月16日早朝長繁は、このまま竜門寺城に篭もれば座して死を待つばかりと見て、7百騎の手勢をもって城から打って出ると、一揆勢の大軍に向かって遮二無二、突撃した。


思慮分別こそ足りないものの、長繁は武勇に長けた歴戦の猛者であり、自ら先陣に立って敵中を縦横に駆け巡り、ついには一揆軍の本陣まで攻め破った。長繁は逃げ散る一揆勢を追って数多を討ち取り、夕刻になって悠々、府中に引き揚げた。
2月17日勢いに乗った長繁は府中の町衆や三門徒寺院の兵を引き連れ、再び一揆勢に挑みかかった。前日は敗れたとはいえ、七里頼周率いる一揆勢はまだまだ大人数であり、返り討ちにせんと取り巻くが、長繁の突撃を受けてまたもや散々に打ち破られてしまう。一揆勢を蹴散らした長繁は勢いに乗って、朝倉景健が陣取る長泉寺山へと攻め掛かった。だが、高所に陣取る朝倉勢は頑強に抵抗し、こちらは双方一歩も引かずに激戦となり、長繁は一旦、兵を引いて山麓で夜を明かした。


2月18日早朝長繁は攻撃を再開し、自ら先陣に立って突撃してゆくが、突如、背後から一発の銃声が響いて、どっと馬から崩れ落ちた。その銃を撃ったのは、小林吉隆と云う者であった。この者は、長繁が一乗谷を攻めたときは桂田側であったが、形勢を見て富田側へ寝返っており、更に今度は一揆勢へと寝返りをうったのであった。この時、富田長繁は若干24歳。類まれな剛勇の持ち主でありながら、裏切り、反乱を重ねた、短くも強烈な人生であった。そして、大将を失った富田勢は散々に打ち破られ、その支配は瓦解した


この後、一揆勢は三門徒寺院と朝倉旧臣達を攻め滅ぼし、さらに反目する平泉寺と朝倉景鏡も討ち滅ぼして越前は一揆持ちの国となった。一揆勢は越前を制すると、信長の侵攻に備えて、国境に大規模な山城、木ノ芽城を築いた。これによって、越前は本願寺領国として磐石の基盤を整えたかに見られた。しかし、それは足元から崩れ落ちて行く。
新たに支配者として君臨した本願寺坊官と、蜂起に活躍した越前門徒との間で対立が生じて、それが武力抗争にまで発展してしまう。そうしたところへ、信長の調略の手も伸びてくる。一揆勢同士の疑心暗鬼と内紛によって、越前の防衛体制は戦う前から穴だらけとなっていた。心ある者はこの状況を憂いていたが、如何ともし難かった。国境の砦を守っていた一向宗指導者の、切迫した危機を訴える書状も現存している。天正3年(1575年)8月15日、信長はそういった状況を十分見越した上で、有力部将を総動員した3万以上の大軍を率いて、越前侵攻を開始する。


織田軍は、本願寺を裏切った堀江景忠の手引きによって国境を抜くと、そうと知った木ノ芽城の一揆勢は戦わずして逃走していった。一揆勢は越前府中に逃れようとしたが、そこには既に明智光秀や羽柴秀吉の軍が手ぐすね引いて待ち構えており、
一揆勢2千人余が片っ端から斬殺されていった。信長はこの惨状を、「府中の町は、死骸ばかりにて一円あき所なく候、見せたく候、今日は山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候」と自慢げに書状に認めて、京都所司代、村井貞勝宛てに送っている。さらに信長は、「山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」と厳命し、山へ逃げ込んだ者らを引きずり出して、門徒かどうか確かめもせずに片っ端から首を刎ねていった。


こうして、少なくとも1万人を超える一揆勢が斬り殺されると共に、多数の人々が奴隷として何処かに連行されていった。翌天正4年(1576年)府中周辺では再び一揆勢が蜂起するが、これも織田軍によって、容赦なく鎮圧される。(この出来事は、天正8年(1580年)教如が一揆蜂起を呼びかけた際に起こったものであるとも)。捕らえられた一揆勢は、前田利家の手によって虐殺されていった。後年、小丸城跡から発見された瓦には、その時の様子が書き残されている。

「この書物、後世に御覧になり、話していただきたい。5月24日に一揆おこり、前田又左衛門尉殿が、千人ばかり生け捕りにされ、御成敗は磔(はりつけ)、また釜に入れてあぶられ候なり。一筆書き留どめ候」

富田長繁を滅ぼし、強勢を誇った越前一向一揆もこうして歴史の片隅に消えていった。




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