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歴史に残る海の大惨事

1945年1月、第二次大戦末期、かつてヨーロッパ全土を席巻したナチスドイツも、東西から連合軍に締め付けられ、今ではドイツ本土を残すのみとなっていた。ドイツの滅亡は間近に迫っていたが、それでも連合軍の攻撃が緩む事はなかった。中でもソ連は、自国が戦場となって荒廃した事から、凄まじい復讐心をもってドイツ本土に攻め入らんとしていた。そして、ソ連軍はドイツ領の東プロイセンに侵攻すると、住民に略奪、暴行の限りを尽くしつつ横断し、東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクをドイツ本土から切り離した。このままでは、孤立地帯の住民はソ連軍によって蹂躙され、数え切れない程の犠牲者を出す事になる。そこでドイツ海軍は、海路から住民を避難させるべく、総力を挙げて救出作戦を実施する事にした。これが、「ハンニバル作戦」である。決行するに当たって、大小問わず稼動する全ての艦艇、商船が動員され、その内の1隻に25,484トンの大型客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」も含まれていた。


 1月30日、東プロイセンの港湾都市ゴーテンハーフェンから、グストロフ号は定員の4倍にあたる合計6,050人もの人員を乗せて出航した。しかし、船が動き出して間もなく、周辺に避難民達の小船が殺到して、必死に乗船を希望した。船長は仕方なくグストロフ号を停止させて、避難民を出来るだけ多く船内に収容する事にした。この時、さらに乗り込んだ避難民達を合わせると、船内の人数は1万人余に膨らんだと見られている。その大半が女、子供であった。
だが、夜間航行中、グストロフ号はソ連軍の潜水艦に発見されてしまう。潜水艦は4本の魚雷を発射し、その内の3発がグストロフ号に命中した。


船体に激しい衝撃を受けて人々はパニック状態となり、悲鳴を上げつつ、一斉に救命ボートや救命胴衣を目掛けて殺到した。しかし、その数はまったく足りておらず、人々は船を右往左往するばかりであった。その間にも水は容赦なく侵入してきて、グストロフ号は急激に傾斜を強めてゆく。人々は着の身着のままで、暗い酷寒の海に飛び込まざるを得なかった。しかし、船内ですし詰め状態となっていた人々は逃げる事も叶わず、押し潰されつつ、船と共に沈んでいった。海に難を逃れた人々も、零下10度の海水に晒されて、多くが救助を待つ間に凍死していった。周辺のドイツ船は直ちに救助活動を実施したものの、1,200人余りしか救う事は出来なかった。実に9千人もの人々が、凍てついたバルト海に消えていったのだった。



この海域では他にも、避難民を満載した船舶ゴヤ号とシュトイベン号が、それぞれソ連潜水艦によって撃沈されている。ゴヤ号では乗員6,849人の内、救助されたのは183人、犠牲者は6,666人。シュトイベン号では乗員3,450人の内、救助されたのは300人、犠牲者は3,150人であった。(これらの犠牲者数には諸説がある。)


この3隻の船に起こった悲劇は戦時中に起こった出来事であり、海難事故とは見なされない向きがあって世には余り知られていない。「海難とはあくまでも平時において海で発生した商船や艦艇の事故を原則とするものであって、遭難の内容が如何に甚大であろうとも、如何に社会的に与える影響が大きくとも、戦禍で沈んだ船は海難とは扱われる事はない」とあるからだ。しかし、これらの出来事は、歴史に残る海の大惨事である事に間違いはない。平時に於ける最大級の海難事故としては、(1912年4月15日)かの有名なイギリス豪華客船タイタニック号が、氷河と接触して沈没し、1,500人余りの死者を出している。 そして、日本では、(1954年9月26日)台風によって洞爺丸が沈没し、1,155人の死者を出したのが最大の海難事故とされている


しかし、戦争となると、(1945年4月7日)戦艦大和は、3,000人余の乗員と共に沈み、(1944年8月22日)沖縄からの避難民を乗せた対馬丸が、アメリカ潜水艦によって撃沈され、学童775名を含む1,418人の犠牲者を出している。その他も挙げて見ると。

(1944年2月)隆西丸、ボルネオ島沖にて雷撃を受け沈没。犠牲者数4,999人。

(1944年6月)富山丸、徳之島東方30海里地点にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,695人。

(1944年11月)摩耶山丸、済州島西方にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,437人。

第二次大戦中、戦禍で失われた世界の商船の中で、犠牲者数の多い上位15隻を示した場合、日本の商船がその大半を占める。


余談となるが、冒頭にもあった東プロイセンは古くからのドイツ人の土地で、第二次大戦までドイツ領だった。しかし、戦後、東プロイセンの内、北半分はソ連に編入され、その中心都市であったケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名されて現在に至っている。南半分も、ポーランドに編入されている。東プロイセンはドイツ人にとって心の故郷であり、日本で言えば京都に当たる土地だそうで、その無念さは察するに余る。日本も敗戦間際、瀕死の病人の枕元から財布を抜き取るように、ソ連に千島列島と樺太南部を奪われている。樺太南部も千島列島も全て日本固有の領土である。こちらも何とも無念である。


こちらにシュトイベン号の記事が少し載っています

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0502/index2.shtml




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