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織田北陸方面軍と一向一揆との戦い 1

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、三河長篠の地で武田勝頼と決戦し、これを大いに打ち破った(長篠の戦い)。これによって東の脅威が減少し、戦略状況が大いに好転した事から、信長は軍を西方、北方へと進めて行った。その過程で、同年8月、信長は、一向一揆が支配する越前国へと大軍を押し進める。織田軍は越前一向一揆を撫で斬りにして殲滅すると、余勢を駆って更に北上し、加賀国の江沼・能美の2郡、手取川以南までの地を制圧した。信長はこれらの地に譜代の家臣を配置すると、本国へと引き揚げていった。


征服地の内分けとして、織田家の家老、柴田勝家には越前国の内、8郡が与えられ、越前全体の統治者とされた。勝家の与力となる佐々成政・前田利家・不破光治らには府中2郡が分封され、金森長近には大野郡の三分の二を、原政茂はその三分の一を、武藤舜秀は敦賀郡をそれぞれ委ねられた。
未征服の加賀一国には梁田広正が封ぜられ、加賀の全域平定を委ねられた。梁田はこれまでは、信長の馬廻りの小部隊指揮官であったのが、一躍、一国の主に大抜擢されたのである。


梁田は信長の期待に応えるべく、加賀北部に割拠する一向一揆との戦いを開始する。ところが、梁田は加賀を平定するどころか、占領地を保持するのが手一杯で、逆に拠点の大聖寺城まで攻め込まれる始末であった。これは梁田が無能だったのではなく、加賀一向一揆の勢力が未だ強大な勢力を保持し、しかも、これに立ち向かう梁田の軍勢が少な過ぎたからだと思われる。しかし、信長は早々に見切りをつけ、翌天正4年(1576年)秋梁田を尾張に召喚した。これによって北陸平定の大事業は、越前の柴田勝家の手に委ねられる事になる。


この北陸平定を目指した軍団の顔触れは、柴田勝家を筆頭に佐々成政、前田利家、佐久間盛政といった織田家の歴戦の猛者達であった。(以後、北陸方面軍は柴田軍と記す)そして、この軍団には、越前一国と加賀南半分の勢力範囲があった。太閤検地と一万石につき250人の兵力を得られたとすると、越前50万石、12,500人、加賀半国18万石、4,500人で、この軍団は合計1万7千人の兵力が動員できるという大体の計算になる。 柴田軍は、梁田が苦戦した加賀の平定に取り掛かったが、やはりこの地の一向一揆は頑強で、戦況は一進一退の状況が続いた。


なかなか戦況が好転しなかったのは、一揆勢の抵抗が激しかったのもあるが、柴田軍の与力部将達が度々、他の戦線に引き抜かれたせいもあった。しかも、越後の強豪、上杉謙信が本願寺と結んで織田家と敵対するに至ると、加賀の一向一揆は更に勢いづき、織田軍に奪われた御幸塚、鵜川、仏ヶ原などの南加賀の城砦を奪い返し、再び大聖寺城に襲い掛かり始めたのである。そして、大敵、上杉謙信も本腰を上げて動き始めた。天正5年(1577年)7月謙信は、2万人余の大軍を率いて、能登七尾城を取り囲んだのである。七尾城の実権を握っていた長網連は、弟の長連龍を信長のもとへと送り、織田軍の来援を要請した。ここにおいて信長は謙信との決戦を決意し、柴田勝家を長とする3~4万余の大軍団を北陸に送り込んだ。


8月8日、柴田軍は越前を発したが、有力部将の羽柴秀吉が戦線離脱するなど、軍の足並みはなかなか揃わなかった。それでも柴田軍は大軍であり、南加賀で勢力を盛り返した一向一揆勢を制圧していった。柴田軍は安宅、本居、小松などの村々を焼き払い、御幸塚城を取り戻し、手取川を渡って松任近くまで進出した。しかし、それ以上の進軍は困難であった。


何故なら、加賀北部は一向一揆の完全な支配下になり、能登までの通路は塞がれていたからである。織田軍が手間取っている最中、七尾城では異変が生じていた。9月15日七尾城において、遊佐続光が謙信の調略に応じ、長網連を始めとする長一族を皆殺しにして、城を明け渡してしまったのである。 七尾城を落とした謙信は、余勢を駆って南方の末森城も攻め落とすと、織田軍を追い散らすべく、一路、加賀を南下した。


天正5年(1577年)9月23日、一方の柴田軍は情勢の不利を悟って、撤退を開始した。だが、柴田軍は手取川付近にて上杉軍に補足され、千人余りの討死を出す大打撃を受けたとされている(手取川の戦い)。謙信は家臣に宛てた書状に合戦の勝利を高らかに宣言し、その勢力範囲は加賀北部にまで及んだ。この合戦の詳細は今もって不明であるが、一向一揆を味方にした謙信が優勢であったのだろう。


謙信は合戦後、深追いはせず、冬の到来を前にして領国に引き返していった。北陸の柴田軍はひとまず当面の危機は脱したが、謙信の進出によって支配下の加賀南部や越前は動揺し、再び一揆勢が蜂起する事態となっていた。柴田軍は地盤を固め直すため、越前に引き返す必要に迫られた。だが、この後も南加賀は維持すべく、御幸塚城を堅固にして佐久間盛政を留め置き、大聖寺城にも勝家の家臣を入れてから、帰還していった。


天正5年(1577年)11月、謙信進出に呼応する形で、越前勝山の七山家衆と呼ばれる一向一揆の残党が立ち上がり、谷城に立て篭もった。勝家はこの一揆勢を討伐すべく、一族の柴田義宣に一軍を授けて、谷城へと差し向けた。ところが、義宣はこの谷城をめぐる攻防戦で、一揆勢の激しい反撃を受けて討死してしまう。翌天正6年(1578年)春、勝家は今度は自身の養子、柴田勝政を差し向けて、一揆討伐に当たらせた。勝政は激しく攻め立てて、一揆勢を打ち破る事に成功した。勝家はその功を評し、勝政にこの地の支配を委ねた。


こうして、勝家が地盤である越前の地を再び固め直している間、佐久間盛政は加賀一向一揆との最前線に当たる御幸塚城にあって、絶え間なく蜂起する一揆勢への対処に忙殺されていた。北陸の柴田軍は、この様な状況下で再び謙信が来襲する事を恐れていた。だが、同天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死して、柴田軍の大きな脅威の1つが消えた。信長はこの機に乗じて越中の上杉方を駆逐し、織田家の勢力を拡大せんとして、美濃の有力部将、斎藤新五朗を飛騨経由で越中に派遣した。


新五朗は越中守護代、神保氏の嫡流、神保長住の軍と合流すると、10月4日、月岡野において数に勝る上杉方を討ち破り、360人余を討ち取る殊勲を挙げる(月岡野の戦い)。この勝利によって、織田家は越中中部に足掛かりを築く事に成功し、上杉支配下にある、能登、越中の地侍や一揆勢に動揺が走った。この新五朗の動きは、北陸の柴田軍と連動してのものであったと思われる。しかし、勝家を始めとする柴田軍は、加賀一向一揆との戦いに忙殺されていたのであろう。加賀を突っ切って、この好機を生かす事は出来なかった。


翌天正7年(1579年)8月9日、柴田軍は安宅、木折、小松の地を放火した。しかし、これらはいずれも南加賀の地であり、柴田軍は未だに加賀を突破出来ないでいた。柴田軍は、歴戦の将が揃った1万を越える軍勢である。それと互角に渡り合っていたのだから、加賀一向一揆とは余程、手強い相手だったのだろう。 加賀は90年近くもの間、一揆持ちであった国であり、彼らは容易には侵略者に屈さなかった。それに、一向一揆は大量の鉄砲を保有しており、地の利もあった。


信仰心に寄って団結し、長く自治を守り抜いてきた一揆勢には寝返り工作などは通用し難く、柴田軍は力で相手を叩き伏せていく他、無かったろう。しかも、加賀北半の坊官、地侍、民衆が一体となって抵抗してくるのであれば、1万人余の柴田軍でも、戦力不足であったと思われる。 これを打ち破るには、長島一向一揆を殲滅した時の様に、織田家の総力を上げた3万以上の兵力が必要だったろう。しかし、信長は中国戦線に主力を振り向けており、そんな余裕は無かった。


そこで、柴田軍は単独で出来る事として、一揆方の拠点を一つ一つ潰していく、地道な作戦を取ったのではないか。だが、激しい抵抗を受けて捗捗(はかばか)しい戦果は得られなかったようだ。柴田軍は数年かけても、戦線はまったく拡大しなかった。勝家は信長への聞こえを気にして、心中穏やかではなかったはずである。加賀における織田軍の戦いの様子は、現在ほとんど伝わっていないが、極めて過酷な戦場だったのではないか。


苦戦に喘ぐ柴田軍であったが、天正8年(1580年)3月、織田信長と本願寺顕如が和睦に合意すると、急速に展望が開けてくる。この和睦の条件は、本願寺側が石山の地を退去する代わりに、織田側が占領していた加賀の南2群を本願寺に返還するというものであったが、信長も勝家も折角、占領した土地を返還する気などさらさらなかった。それに加賀の一向一揆は、和平派と抗戦派に分かれて、結束の乱れが生じていた。天正3年(1575年)に信長が越前を平定できたのも、越前の一揆勢が分裂していたからであり、勝家もこれを加賀平定の絶好の機会と捉えた。


そして、勝家はこの和睦に乗じて戦果を拡大すべく、3月中に行動を起こす。柴田軍は手取川を越えると方々に放火して回り、続いて野々市砦を攻め立てて、一揆勢数多を討ち取った。柴田軍は数百艘の舟に兵粮を積み、乱捕りを働きつつ、奥地へ奥地へと焼き討ちを進めていった。民衆にとって村の焼き討ちは、生業、財産、食料、住居、家族を失う事に繋がり、これ以上の打撃は無かった。柴田軍の攻撃は、恐るべき破壊と殺戮を伴うものであったろう。そして、柴田軍はついに加賀を突っ切って、越中まで辿り着いた。
柴田軍は安養寺越え(越中と加賀の境目にある主要道)近辺に軍勢を進めると、坂を右手に南下して白山の麓に至り、そこから能登境の谷々に至る村落を悉く焼き尽くしていった。そして、一揆勢の拠点の一つである木越寺を攻め破り、そこの一揆勢数多を斬り捨てた。


柴田軍はさらに能登国に侵攻し、末盛城の土肥親真を攻め立ててこれを落とし、名立たる侍数多を討ち取った。その間、七尾城の長一族の生き残り、長連竜は柴田軍に呼応して、飯山から諸方に放火を行い、これに対して信長は感状を送ってその働きを讃えた。この一連の出来事の最中に加賀一向一揆の一大拠点である、御山御坊も陥落している。この御山御坊をめぐる攻防戦では佐久間盛政とその弟、勝政が大いに働いたとされる。


盛政軍はまず、御山御坊を守る最前線の要害、木越の三光(光徳寺、光専寺、光琳寺の城塞化された寺院群)に攻めかかった。この戦いには長連龍の軍も盛政に加勢した。連龍は御家再興の機会と必死に戦い、盛政、勝政も激しく攻め立てて、これらの要害を攻め落とした。更に盛政は周辺の城砦群を落とし、御山御坊を裸城とした。御山御坊は台地の先端にあって、堀を巡らせた堅固な要害であったらしい。


だが、盛政は味方した住民の手引きを受けて、背後の台地から御山御坊に痛撃を加えると、留守を預かっていた坊主達は御山御坊を明け渡したと云う。天正8年(1580年)4月の出来事であったらしい。これによって、「百姓の持ちたる国」と謳われた加賀一向一揆の象徴的存在は陥落した。しかし、これで一向一揆との戦いが終った訳では無かった。霊峰白山麓にある鳥越城には、まだ徹底抗戦派の一揆勢が立て篭もっていたのである。


其の二に続く・・・



 
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