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織田北陸方面軍と一向一揆との戦い 2

2008.10.30 - 戦国史 其の一

鳥越城と佐久間盛政との戦い


鳥越城周辺の一揆勢は山内衆と呼ばれ、本願寺に最も忠実で、鉄砲の技術も習得していた強力な軍事集団であったらしい。山内衆を束ねていたのが、この周辺の領主的存在であった鈴木出羽守である。本願寺顕如はこの鈴木出羽守宛ての書状に、「山内の儀は、とりわけ毎度粉骨有難く候。弥(いよいよ)しかるべき様たのみ入候ほかに他無く候」と述べており、常々、頼りとしていた。


山内衆は、越前が織田家の支配地となって加賀と大阪本願寺との連絡が断たれた際には、白山を越え、飛騨高山経由の道を開いて、情報伝達の中枢を担った。顕如が信長と和睦し、大阪を退去しても、その子、教如が徹底抗戦を呼びかけるとこれに応じて、戦闘を継続したのである。佐久間盛政は、御山御坊を落した後、今度は鳥越城の一揆勢討伐に向かった。これに対し、一揆勢は鳥越城を主城として、大日川を挟んだ対岸にある、二曲城(ふとげじょう)と連携して、迎え撃つ構えを取った。一揆勢は数的には織田軍より劣勢であったと思われるが、地の利と大量の鉄砲という強みがあった。


天正8年(1580年)6月23日、盛政軍と鈴木出羽守率いる一揆勢は手取川と大日川の合流点、河合の地で激突した。盛政軍は鉄砲を縦横に撃ちまくる一揆勢に苦戦し、200人余の戦死者を出して押し返された。6月28日、盛政は今度こそ一揆勢を打ち破らんと再び軍を進め、先の戦いよりやや下流の狭い隘路で、両軍は激突した。しかし、盛政軍はまたもや敗れ、一揆勢の追撃を受けて370人余の戦死者を出す大打撃を被ってしまう。鈴木出羽守率いる一揆勢は、尋常ならざる相手であった。これまで常勝を重ねて来た盛政は二度の敗北を味わって、屈辱で身悶えしたであろう。そこで、盛政は勝家と相談した上で謀略を用いる事とし、顕如と信長の和睦に事よせて、鈴木出羽守らに本領安堵の条件で講和を呼びかけた。


同年11月、この講和を受けて、鈴木出羽守と4人の息子、若林長門、など一揆勢の首領19人が松任城に出向いて来た。ここで勝家と盛政は彼らを悉く謀殺し、その上で盛政は鳥越城に攻めかかった。首領達を失い、統率力が弱まった一揆勢にこの攻撃を凌ぐことは出来なかった。とうとう鳥越城は落城したのである。盛政は城を落した後、鳥越城と二曲城に2人の将と300人の兵を留め置いた。


先に討ち取った一揆軍首領達の首が安土に届けられると、信長は大いに満足した。そして、勝家に労いの言葉を述べ、盛政にはこれまでの武功を評して、11月20日に加賀国の内、石川・加賀の2群18万石を与えたと云われている。これによって盛政は一躍、大身の身となった。そして、盛政は御山御坊を尾山城と改名し、道場を城郭に改め、石垣を築いて自らの居城とした。


天正8年(1580年)、この年、柴田軍はようやく加賀一国を平定し、その矛先を越中・能登へと向けてゆく。そして、長連龍は柴田軍の後援を受けて、能登の地へと入った。連龍は七尾城落城時に一族を皆殺しにされており、その恨みを晴らし、御家を再興すべく大いに働き、飯山の戦い、菱脇の戦いと立て続けに上杉方の温井軍を打ち破った。そして、同年7月には七尾城を開城せしめた。能登は復讐と御家再興に執念を燃やした連龍の活躍によって、天正8年中に平定の見通しが立った。


信長は連龍の働きを評し、能登鹿島半群と福光城を与えた。同年8月より、柴田軍から佐々成政が離れて、単独で越中で働くようになる。成政は越中守護代の神保長住を擁して越中に入封するが、まだこの国の東半分は上杉方が抑えており、一向一揆の残存勢力も抵抗を続けていた。成政は上杉方と対峙しつつ統治にも力を注ぎ、常願寺川の治水事業に取り組んで「佐々堤」を築き上げた。


天正9年(1581)2月、越中一国は未征服のまま、佐々成政に与えられた。越中の全権者となった成政は、守山城を拠点にして越中各地を転戦し、一向一揆の残存勢力である、勝興寺を攻め落とし(天正9年、勝興寺系譜)、続いて瑞泉寺を焼き討ちにする。敗れた勝興寺の坊主が、窪城に逃れると、成政はこれも攻め落とした。


残された一揆勢は善徳寺に籠城して抵抗したが、往時の勢いはなくなり、越中の一向一揆は終焉しつつあった。
こうして越中西部を制圧した成政は、続いて上杉方が抑える東部へと進出し、その地の国人達を次々に組み敷いていった。しかし、彼らは上杉、織田の間を揺れ動いて、どっちつかずの態度であったため、信長は彼らを安土城や能登七尾城に呼び出しては殺害していった。


同年3月、能登七尾城に信長の側近、管屋長頼が城代として赴任し、遊佐、温井、三宅など、かつて上杉方として働いていた国人達の掃討に乗り出した。その結果、温井、三宅らは越後に逃れ、遊佐続光は七尾城下に潜伏していたところを発見された。遊佐続光は息子、孫共々斬り捨てられ、長連龍はようやく積年の恨みを晴らしたのだった。この能登を始め、越中の国人粛清にも管屋長頼が信長の代官として、大いに力を振るった。このように地ならしをされた上で、12月2日付けの朱印状で能登一国は前田利家に与えられた。


天正9年(1581)2月28日、信長は支配地各地から諸将を京都に呼び集めると、正親町天皇を始めとする大観衆の前で、大馬揃えを催す。この馬揃えは大成功となり、信長は自らの威信を内外に大いに広めたが、その反面、一時的に領内の防備が手薄になってしまう弊害もあった。北陸でも柴田勝家、佐々成政、前田利家らが馬揃えの為に上洛すると、越後の上杉景勝は越前、越中、加賀の一向一揆と連携して動き始めた。3月6日、成政不在の越中を突くべく、上杉方の河田長親が松倉城から出撃し、近隣を焼き払いつつ、3月9日には小出城を包囲した。これに呼応して白山山内衆も再び立ち上がり、鳥越城の奪還に向かう。


この時、柴田軍の中で盛政だけは馬揃えに参加せず尾山城にあった。そこへ、「鳥越と二曲の二城危し」の急報が届けられると盛政は直ちに救援に向かった。しかし、駆けつける頃には、一揆勢は2人の将と300人余の兵を悉く討ち果たして、城を奪還していた。盛政はそうと知ると猛り狂い、一気呵成に一揆勢を攻め立てた。


盛政は一揆勢を追い散らし、たちまちの内に2城を奪還した。その時の盛政の活躍は、『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして、盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて、鬼玄蕃と呼ぶようになったと云う。越中の小出城の方も、急報を受けた佐々成政が駆けつけると上杉方は撤退し、事無きを得た。


天正10年(1582年)3月、織田軍が武田領に大挙、侵攻すると、白山麓七ヶ村(現代の鳥越村の東)の門徒達が武田家を側面援助すべく蜂起して、吉岡、佐良に要害を構えて立て篭もった。盛政はすぐさま鎮圧に向かい、吉岡、佐良の要害を攻め落とすと、手取川渓谷で徹底した掃討を行った。この時、盛政軍は捕えた門徒300余人を磔に処し、七ヶ村の男女多数を殺傷した。そのため七ヶ村では、耕す者がいなくなり、それから3年間は荒地と化したと云われている。この時の容赦のない盛政軍の摘発によってか、鳥越城周辺では、子ころし谷、かくれ谷、首切り谷、自害谷などの地名が今に伝わっている。


このように、「本能寺の変」が起きる3ヶ月前まで、柴田勝家を長とする北陸の織田軍は、一向一揆を相手に悪戦苦闘していた。特に、何度でも不屈の闘志で立ち向かってくる、鳥越城周辺の門徒達と佐久間盛政との戦いは苛烈極まりないものであった。柴田軍と加賀一向一揆との間では、この鳥越城の様な戦いを加賀全土で繰り広げていたのではなかったか。だが、加賀一向一揆は、柴田軍との戦いで完全に滅亡した訳ではない。顕如の呼びかけに応じて矛を収めた一向一揆は、その後も加賀で勢力を維持し続けていた事には留意する必要がある。


現在、この鳥越城は史跡として復元保存されている。その鳥越城の遺跡を見ると、盛政軍と一揆勢との熾烈な戦いの一端を窺い知る事が出来る。鳥越城は、一揆方が築いた石垣の上に織田方が石垣を築くなどしているので、両者の遺構は複雑に絡み合っていた。タタラ跡があったことから、城内で鉄砲を製造していた事が窺えた。


城には焼土層が二層あって、焼け米も見つかった。また、サイコロ、紅コウガイが出土した事から、女性が篭城していた事も明らかとなった。城には鈴木出羽守に仕えていた女性達がおり、落城の際、逃れ出たものの、盛政軍に追われ、三坂という山中で自決したと伝わる。その場所は女郎窟と呼ばれ、クシやコウガイが出土したらしい。




 

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