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北ノ庄落城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正11年(1583年)4月20日織田信長亡き後、柴田勝家と羽柴秀吉は家中の主導権を巡って対立を深め、賤ヶ岳にて決戦に及んだ。だが、勝家はこの天下分け目の戦いに惨敗し、本拠地、北ノ庄城へと撤退してゆく。この際、次の様な逸話が伝わっている。勝家は撤退の帰路、前田利家の居城、府中城に立ち寄り、そこで湯漬けと替え馬を一頭、所望した。前田利家は賤ヶ岳の戦いの際、勝家に従って参陣していたが、裏切りとも取れる無断撤退をして、柴田軍敗走の切っ掛けを作っている。しかし、勝家は恨み言一つ言わず、これまでの利家の協力に感謝の意を表し、今後は秀吉に付くよう勧めると、北ノ庄へ去っていったと云う。


北ノ庄城は、信長の命によって勝家が天正3年(1575年)に越前の地を任された時から築城が始まり、天正11年(1583年)までの9年間を通して工事が行われたと考えられている。天正9年(1581年)宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄を訪れた際にも、城はまだ工事中であったらしい。その記述に寄れば、城は甚だ立派で、町の規模は安土の2倍もあった。城及び屋敷の屋根の全てが笏谷石(しゃくだにいし)と云う立派な石で葺かれており、その青みがかった色によって、城の美観は一層増していたと云う。北ノ庄城は足羽川(あすわがわ)と吉野川の合流点に築かれた総石垣の平城で、五層九重の天主を置いた本丸を中心として、二の丸、三の丸を設け、更にその外周を総構えが取り囲んでいたようだ。フロイスは、信長の築いた安土城にも引けを取らない壮大な城であったと伝えている。


4月21日夕刻勝家は北ノ庄に帰城する。北ノ庄は巨城であったが、城の守兵は3千人余りでしかなかったため、外郭線は放棄され、二の丸、三の丸の防備が固められた。そして、勝家は己の最後を飾り立てるべく、城中に旗指物を高く掲げて、その心意気を示した。4月23日前田利家を先鋒とした、秀吉の大軍が北ノ庄を囲み、城壁に接触するほどの線まで包囲の陣を敷く。
時間をかければ勝家の元へ援軍が駆けつける恐れがあった為、秀吉は直ちに攻撃を下令する。城内にいた将兵の妻子達は攻撃を逃れんとして逃げ惑い、裸足で右往左往する様は、見るも哀れであった。そして、この日の内に二の丸、三の丸は陥落し、寄せ手は本丸近くに陣取った。これで、北ノ庄の命運は誰の目にも明らかとなった。この夜、勝家は一族近臣達を集め、別れの酒宴を催す。勝家達は楽器を奏でて心のままに歌い、舞った。この世に思い残すことが無きよう、その宴は戦勝祝いの様に賑やかなものであった。


篭城の最中、勝家は妻であるお市の方に、3人の娘と共に秀吉の下へ投降するよう勧めている。しかし、お市の方は承服せず、勝家と共に最後を迎える決意を示した。そして、秀吉宛てに自筆の書をしたためると、茶々、初、江の3人の娘に自分付きの侍女達を添えて城から送り出した。お市の方は娘達を御三ノ間まで見送り、親子は今生の別れを惜しんだ。この時、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘、麻阿も城から解放され、投降したと思われる。城内で勝家とお市は昔語りをしつつ、酒宴は朝まで続いたと云う。


4月24日午前4時秀吉は本丸への総攻撃を命令する。数万にも及ぶ秀吉軍の攻撃を受けるも、城方は頑強な抵抗を示し、戦いは数時間に渡って繰り広げられた。正午頃、秀吉は犠牲を厭わぬ猛攻を続けさせ、寄せ手はついに本丸内部に突入する。だが、寄せ手の眼前には、まだ難関が残っていた。それは、鉄の城門を備え、高石垣の上に築かれた勝家自慢の五層九重の大天守閣である。
寄せ手は多勢を頼りに天守閣に取り付き始めるが、城方は弓鉄砲を盛んに撃ち放ち、長物で突き伏せて、容易には天守閣に踏み込ませなかった。勝家以下、主に殉ずる覚悟を決めている精兵200人余は激烈な抵抗を示し、寄せ手側の手負い、死者を続出させる。僅かな人数で何時間も持ちこたえる勝家の奮闘には、秀吉も感嘆の声を上げた。城中は狭く、多人数で踏み込めば犠牲が増すばかりと見た秀吉は、ここで選りすぐった武士を集めた切り込み隊を編成し、天守閣内部へと突入させた。


武辺に優れたる勝家は、ここが意地の見せ所とばかりに、七度まで城門を打って出て寄せ手と切り結んだ。しかし、波の様に次々に新手を繰り出して来る寄せ手によって、強兵達も徐々に討たれてゆく。午後17時頃寄せ手が天守閣内部に殺到してくると、勝家も最早これまでと定め、天主の梯子を引き上げさせた。そして、天守に火を放つと、勝家は九重の階上に上がり、寄せ手に大音声で呼び掛けた。

「修理が腹の切様を見届け、後学にするがよい!!」

寄せ手は、威に打たれて静まり返る。そして、勝家は、念仏を唱え始めたお市と一族の者達へと振り返った。勝家はお市を引き寄せると、すまぬと言って刺し貫き、続いて一族の者達を次々に刺し殺していった。全ての処置を終えると、勝家は自らに刃を立て、見事に腹掻っ捌いて果てた。それに続いて、股肱の臣80名余りも次々に自害して果ててゆく。やがて、炎は天守閣を包み込み、遺骸は紅蓮の中へと消えていった。寄せ手の者共は言葉を無くして立ち尽くし、心ある者は涙して鎧の袖を濡らした。


この落城の際、一人の老女が寄せ手に投降して、勝家達の最後の様子を詳しく語った。勝家は、自らの最後がどのようなものであったのかを世に伝える為、身分が高く、語りに長けた老女を選んで、城中での最後の様子をつぶさに目撃させ、城から落とさせたのだった。



Shibata_katsuie.png













↑勝家が最後を迎えるにあたって、描かせた肖像画と伝わる。

柴田勝家は享年62、お市の方は享年37であったと云う。


現代、北ノ庄城は様々な思いを秘めて、福井の町の地下に埋もれている。



 
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