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朝倉義景と志賀の陣

2008.10.26 - 戦国史 其の一

永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて、上洛戦を開始する。信長は破竹の勢いで京まで攻め上がり、見事、義昭を将軍の座に着ける事に成功した。そして、信長は自らの武力と、将軍の権威を後ろ盾として、畿内周辺の諸大名を次々に服属させていった。足利義昭からの上洛命令、すなわち信長からの命は、越前の大名、朝倉義景のもとにも届けられたが、気位の高い義景はこれを完全に無視した。義景の信長否定は、その実力に裏打ちされていた。


太閤検地に拠れば、朝倉氏の勢力範囲と動員力は、越前約50万石(動員力12,500人)、加賀35.6万石の内、南半分17万石余(4,250人)、若狭8万5千石(2,125人)で、合計すると75万石余、動員力は18,750人となる。この内、若狭と加賀南部は支配が完全ではなかったが、それでも1万5千人は動員できたであろう。信長としても、これほどの実力者が京のすぐ上にあって、しかも自らに非協力的とあっては、遅かれ早かれ討伐せねばならなかった。


元亀元年(1570年)4月25日、信長は機先を制して、大軍をもって越前に攻め入る。不意を突かれた義景はたちまち追い詰められ、本拠の一乗谷も危うくなった。だがこの時、浅井長政が朝倉方に味方して、信長の背後を突いてくれたお陰で窮地を脱する事が出来た。しかし、信長は間もなく体制を整え、復仇戦を仕掛けて来る。そして、浅井氏の本拠である、小谷城に迫ったので、義景は一族の朝倉景健に8千人余の兵を授けて救援に向かわせた。同年6月28日、近江北部の姉川を挟んで、朝倉景健、浅井長政連合軍1万3千人余と、織田信長、徳川家康連合軍2万5千人余が激突した。


緒戦は朝倉、浅井方が押したものの、最終的には数の差が物を言い、朝倉、浅井軍は千人以上の戦死者を出して敗れた。この戦いで朝倉、浅井軍は大きな打撃を被ったものの、まだ余力は残っており、傷を舐めつつ次の機会を待った。7月21日、四国の三好三人衆が8千余の兵を率いて渡海し、摂津の野田、福島を拠点として、周辺国への進出を図った。8月20日、信長もこれは捨て置けないとして、岐阜から出陣し、8月26日、摂津天王寺に着陣する。信長は諸国の兵を集めた4~5万人もの大軍をもって、戦いを優勢に進めていたが、9月12日夜半、野田、福島の近隣にある大寺社勢力、石山本願寺が、突如として反信長の兵を挙げたので、戦況は一転、苦戦に陥った。


9月13日、こうして信長が摂津戦線に釘付けとなったのを見越して、朝倉義景、浅井長政が兵を挙げる。そして、信長の背後を襲うべく、京に向かって進撃を開始した。三好家、本願寺、朝倉家、浅井家の連携が取れている事から、予め、申し合わせた上での挙兵であったようだ。越前を発った朝倉軍には、浅井軍と、近江の一向一揆勢も加わり、総勢3万人余の大軍となって湖西を南下していった。9月16日、朝倉、浅井軍の先鋒は坂本に達したが、ここで織田家の部将、森可成の迎撃を受ける。可成は、信長の信頼篤い宿将で、近江南西部の織田方の重要拠点、宇佐山城の城将を任されていた。京都防衛を担っていた信長の弟、信治も2千人余を率いて駆けつけ、迎撃に加わった。


可成は、この宇佐山城と坂本の町を抜かれれば主君の身が危ういと見て、小勢ながら城から打って出る。最初の前哨戦は森軍が勝って、少々の首を取った。だが、 9月19日、朝倉、浅井軍は陣容を整え、二方向から坂本を猛攻してくると、森軍は支えきれず、重囲に陥った。森軍は奮闘を重ねたが、ついに崩れたち、森可成と織田信治を始めとする、1,800人余が討死したという。9月20日、義景は、続いて宇佐山城も落とさんとしたが、これが意外に堅城で、しかも可成の家臣達が奮戦するので攻めあぐねた。この宇佐山城を残したまま、京に進軍すれば、後方の安全を脅かされる事になる。義景は、宇佐山城を包囲しつつ、大津に進出して放火し、9月21日には、逢坂(おうさか)を越えて醍醐、山科にも火を放った。


同日、摂津にあった信長はこの報を聞くと驚愕し、自らが挟撃の危機に瀕している事を悟った。そして、直ちに明智光秀、村井貞勝、柴田勝家の軍を京に差し向けて、二条城の守備を固めさせた。これらの軍は、強行軍で同日夜半には、京に入っている。この内、柴田軍は、9月22日、京都東方を偵察した後、摂津に帰陣した。9月23日、信長自身も京に取って返す事を決断し、三好、本願寺軍への抑えとして、和田維政と柴田勝家を残すと、これまた強行軍で、同日深夜、京に入った。この時の信長の行動は、実に機敏であった。


9月24日、義景は、信長本隊が京に入ったと聞くと、宇佐山城の囲みを解いて、近隣の比叡山延暦寺へと退いた。朝倉、浅井連合軍は比叡山の峰々に陣を構え、信長も宇佐山城を拠点として、下坂本一帯に軍を展開した。この時の朝倉、浅井軍の人数は、延暦寺の僧兵3千人余も合わせると、総勢3万人余であった。対する信長軍も3万人余の軍勢であったらしい。両軍ほぼ同数で、迂闊に手は出せず、義景、信長共、じりじりした思いで対陣の日を重ねた。


織田軍は比叡山を囲んでいたが、山上に陣取る朝倉、浅井軍への強攻は極めて難しいと見て、比叡山延暦寺に朝倉軍立ち退きの申し入れを行った。

「朝倉に味方する事をやめ、自分に味方してほしい。そうすれば織田分国内にある延暦寺領は返還する。しかし、出家の身ゆえ一方に味方できぬとあらば、せめて中立を保ってほしい。もし、これに違約するならば、延暦寺全てを焼き払う」

延暦寺は、この申し出を完全に無視したので、信長は内心、憤怒を漲(みなぎ)らせた。その一方、心強い援軍も来てくれた。10月3日、三河の徳川家康がわざわざ近江南部まで援軍にやってきて、織田家部将の木下秀吉や丹羽長秀の軍も駆けつけてきた。これらの援軍を得て、織田軍の方が兵数は上回っただろう。


この時、信長は四方に敵を抱えていた。摂津には本願寺と三好軍があり、近江各地では一向一揆が蜂起、南近江では六角義賢が挙兵、更に信長の本拠、尾張から程近い、伊勢長島でも一向一揆が不穏な動きを示していた。信長は早々に片をつけるべく、10月20日、義景に挑戦状を送りつけて決戦を促した。「信長公記」によれば、義景はこれには応えず、代わって和睦を申し入れてきたが、信長はこれを拒否したとある。その一方、同日、朝倉、浅井軍は、比叡山から下りて、洛北の修学寺、一乗寺、松ヶ崎周辺を放火している。10月21日、「尋憲記」によれば、今度は浅井長政が和睦を申し入れてきたが、信長はこれも拒否したとある。2つの史書に、朝倉方から和睦の提案があったとされている。義景は、信長の勢いに恐れをなしたのか、それとも冬の訪れを前に撤兵を図ったのか、理由は定かではない。


10月22日、三好軍が進撃を開始して、織田方の拠点、山城の御牧城、河内の高屋城、烏帽子形城に攻撃を加えた。これらは、事前に申し合わせた上での攻撃であったと思われる。 御牧城は落ちたが、木下秀吉と細川藤考がすぐに奪回し、高屋城、烏帽子形城は守りきって、三好軍を退ける事に成功した。朝倉、浅井軍と、三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。だが、伊勢方面では、新たな反織田勢力が生じていた。伊勢長島において、一向一揆数万人が蜂起して、信長の弟、信興が守る尾張小木江城を囲んだのである。 信長は主力をもって朝倉、浅井軍と対峙中であり、援軍を派遣する余裕など無かった。


11月21日、一揆軍の猛攻を受けて小木江城は落城し、信興は自刃に追い込まれた。信長は歯軋りする思いであったろう。信長は苦境にあったが、外交面から事態打開を図る。11月22日、六角義賢と和睦を成立させ、続いて三好家との和睦成立にも成功した。これで信長は挟撃の危機から脱したが、朝倉、浅井軍に取っては、梯子を外された形となった。それでも、朝倉、浅井軍は、織田の大軍と向き合っている以上、背中を見せる訳には行かず、否応無しに対陣を続ける他、無かった。


膠着状態が続く中、信長が先に動いた。近江志賀郡には、堅田という琵琶湖水運の要衝がある。この時は朝倉軍の支配下にあって、比叡山に立て篭もっている朝倉、浅井軍の補給、連絡路となっていた。この堅田の地侍達が、織田方に内通を打診して来た。 補給路を断つ、絶好の機会である。織田家部将、坂井政尚が堅田派兵を進言すると、信長はこれに許可を与えた。堅田の地侍懐柔と出兵は、政尚が中心となって行ったようだ。11月25日、政尚は1千人余を率いて湖水を渡ると、夜陰に紛れて堅田城に入った。朝倉方はそうと知るや、翌26日早々、朝倉景鏡、前波景当らを差し向けて、猛攻を加えた。


敵地に単独で乗り込んでいる、政尚も必死であったが、補給路を断たれんとしている、朝倉方も必死であった。局地戦ながら激戦が展開された模様で、朝倉家の重臣、山崎吉家の書状によれば、堅田衆を含む、織田方1,500人余を討ち捕らえたとあり、京都の公家の日記、「言継卿記」によれば、織田軍は500人、朝倉軍は800人の戦死者を出したとある。朝倉方では、前波景当や、義景右筆の中村木工丞が討死し、織田方では坂井政尚が討死した。そして、この戦いで織田軍は退けられ、堅田は朝倉軍が確保する所となった。


比叡山を挟んだ両軍の睨みあいは既に3ヵ月を過ぎ、季節も秋から冬へと移り変わっていた。義景、信長は、共に相手の喉笛に剣を突きつけながらも、なかなか止めを刺せなかった。義景は、三好家との挟撃策が消えて勝機を失っていた上、積雪によって、本国、越前への道が閉ざされようとしていたので、早く撤兵したかった。信長も山上の敵を攻めあぐねていた上、四方に敵を抱えていたので、これまた撤兵したかった。11月28日、室町将軍、足利義昭と、関白、二条晴良が三井寺にやってきて、両者の和睦調停に乗り出した。義景、信長は、共に焦りを募らせていた事から、この調停は渡りに船であったろう。


しかし、延暦寺がこの和議に強く異見したので、困り果てた足利義昭と二条晴良は、正親町天皇から綸旨(りんじ)を出してもらい、延暦寺の権益を保障する事を約して、ようやく和議成立に持ち込んだ。義景、信長は共に苦しく、ここらで手を打たざるを得なかった。そして、12月13日、両軍は人質を交換した後、12月14日、織田軍が先に撤兵し、12月15日には朝倉、浅井軍もそれに続いて撤兵した。これによって、3ヶ月に渡って続けられた両軍の対峙は終わった。義景は信長打倒の絶好の機会を失い、その反面、信長は大きな危機を脱した。


この志賀の陣は、義景が攻勢を仕掛け、信長は防勢であったので、義景が主導権を握っていたと思われる。だが、その後、決め手を欠いた事が惜しまれる。三好、本願寺軍との挟撃は果たせなかったとはいえ、義景の手元には朝倉、浅井、延暦寺軍を合わせて3万人余の大軍があった。対する織田軍は4万人余で兵数的に劣るが、それでも、もっと積極的な攻勢を見せる事も出来たのではないか。これ以降、義景が戦いの主導権を握る事は二度と無かった。一方の信長は年を越えると再び攻勢に出て、敵対勢力の各個撃破を狙った。まず、煮え湯を飲まされた延暦寺に矛先を定めて、元亀2年(1571年)9月12日、数万の兵をもって堂塔を悉く焼き払い、僧侶や住民、数千人余を斬殺して、昨年来の鬱憤を晴らした。


守勢に回った義景は徐々に追い詰められ、家臣にも見放され始める。武田信玄の西上戦によって息を吹き返すかに見られたが、それも信玄の死によって絶望的となった。元亀4年(1573年)8月、義景は、織田軍に包囲された小谷城を救うべく、最後の近江入りを果たす。しかし、既に小谷城の運命は極まっており、義景は救援を諦めて越前への撤兵を開始した。ところが、それを察した信長の猛追撃を受け、同年8月13日、義景は刀根坂にて、ついに致命的な敗北を喫してしまう。8月20日、織田軍の勢いは止まらず、そのまま越前に攻め入って来たので、義景は奥地の大野郡へと落ち延びていった。しかし、ここで一族の朝倉景鏡の裏切りに遭い、賢松寺にて無念の自刃を強いられた。朝倉義景、享年41。


この志賀の陣の主役であった朝倉義景は、戦国武将としては覇気がなく、臨機応変の対応も出来なかった。足利義昭を奉じて上洛し、畿内に覇を唱える機会もあったはずだが、それを実行に移す事は無かった。彼の野心は、本国、越前の安定を図る為、周辺の加賀、若狭、近江を従える程度のものだったのだろう。だが、外交面では、遠く薩摩の島津義久にも書状を送って、琉球との交易の可能性を探っていた一面もある。雪深い越前の地にありながら、義景の目には海外が映っていたのであろうか?越前は日本海交易の拠点であったので、義景はそれを更に発展させようとしていたのだろう。また、朝倉氏の本拠地、一乗谷は文化面で非常に発展しており、京都の公家や文化人も憧れを抱いて度々、下向する程であった。義景は領国の統治者としては有能であり、もし平和な時代に生まれていれば、名君として称えられていたかもしれない。



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浅井長政の決断

2008.10.26 - 戦国史 其の一
元亀元年(1570年)4月20日、戦国の風雲児、織田信長は、目の上の瘤であった越前の戦国大名、朝倉義景を取り除くべく、京を発した。そして、同年4月25日、織田軍は越前敦賀に侵入すると、たちまちの内に金ヶ崎城を落とし、続いて、朝倉家の本拠、一乗谷を窺う形勢となった。この時、近江北部を領有する戦国大名、浅井長政は、古くからの繋がりがある朝倉家に付くか、それとも、新興の大勢力で、婚姻も結んでいる織田家に付くかの選択を迫られた。それは浅井家の存亡を賭けた、重大な選択であった。長政は父、久政や家臣達と意見を交わし、自らも小谷城の一室で苦悩する。浅井家はどう出るべきか・・・と。
 
 
信長に味方すれば、勿論、朝倉家は滅亡する事になるだろう。そうなれば、浅井家は織田家の領国に取り囲まれ、信長に従属せぜるを得なくなる。戦国大名としての発展の道は閉ざされ、ここからは織田家の一部将として働かねばならない。そして、当分は各地の戦いに引っ張り出される事になるだろう。その浅井家の働きが認められれば、越前に国替えされ、徳川家康が東海道方面の抑えとなって信長を支えた様に、長政も北陸方面の抑えに起用されたかもしれない。そうなれば、信長の天下統一事業は加速して、将来的には大きな地位と領国を有する織田家の有力一門の座を約束されたであろう。織田家中には、羽柴秀吉や明智光秀などの有能な部将が揃っているが、長政は彼らよりも上席に座る事になるだろう。
 
 
信長とは、永禄11年(1568年)に同盟を結び、その妹、市を娶って関係を深めた。史実では確認されていないが、この同盟を結ぶにあたって信長は、浅井家の了解なしに朝倉家を攻める事はしないと約束したと云われている。そして、同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、長政は織田軍の自領通過を認めた上、共に六角氏を攻め立てて、上洛戦に貢献した。また、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢侵攻を開始すると、長政はこれにも協力して軍を派遣している。ところが、これらの協力に対し、信長は浅井家の領国を安堵したのみで、恩賞沙汰はなかった。同じく信長の同盟者であった徳川家康も似たような扱いをされていたが、長政は内心、不満を覚えたのではないか。
 
 
一方、朝倉家に味方した場合、大勢力である織田家を敵に回す事となって、自家の存亡にも関わってくる。これは大きな賭けとなるが、勝てば得られる利益も大きかった。もし、信長を討つ事に成功すれば、織田家は強力な指導者を失って主体性を失い、嫡男、信忠もまだ幼い事から、当面は守勢に廻らざるを得なくなる。織田家はせっかく手にした京も放棄して、本領の美濃・尾張を保つのがやっととなるだろう。近江南部も織田家の領分であるが、防衛もままならなくなって、浅井家単独でも容易に奪取出来たであろう。京に近く、肥沃な近江一国を平定すれば、浅井家は戦国有数の大大名となり、天下を狙う位置に立つ事すら出来る。浅井家自身も、近江制覇を強く望んでいたであろう。だが、現実の浅井家は、東西南は織田家の領国に囲まれ、北には朝倉家の存在があって、発展の道は完全に閉ざされていた。浅井家が更なる飛躍を望まんとすれば、早晩、どちらかと手を切って戦わねばならなかった。


勢力の大きい織田家に味方するのが安全策であるが、それでも、朝倉家を見放すには忍びない事情が浅井家にはあった。
戦国浅井家を興したのは、初代、亮政であるが、この亮政を物心両面で援助したのが朝倉家であった。亮政が江北に勢力を伸ばしていく過程で、北近江の守護、京極氏や南近江の守護、六角定頼と対立を深める事になるが、六角氏の勢力は強大で度々、その侵攻を受けた。そこで亮政は越前の朝倉氏と結び、その援助を受けて浅井家の基盤を固めた。浅井家と朝倉家との深い結び付きは、ここから始まる。しかし、天文22年(1553年)、二代目久政の時代、六角義賢に挑んで敗れた事から(地頭山合戦)、従属を余儀なくされた。これを受けて朝倉家との関係も一事、途切れた事だろう。だが、この状態を不服とした浅井家臣達は久政を隠居に追い込み、その嫡男である賢政(後の長政)を立てた。
 
 
そして、賢政は、六角氏からの離反を明らかにすると共に、背後を固める意味で再び朝倉家と盟約を結んだと思われる。その上で賢政は、永禄3年(1560年)、六角義賢に戦いを挑み、重臣達の力添えを受けつつ、見事、これを撃ち破る事に成功した(野良田合戦)。この時、賢政は若干16歳の少年ながら、知勇を兼ね備え、気概ある武将で有る事を示したのだった。そして、1560年代前半、賢政は、六角義賢からの一字偏諱である、賢の字を捨てて長政と改名する。以後、長政は自立した戦国大名として動きだすが、それでも尚、朝倉家の影響は強かったと思われる。浅井家が近江北半分30万石余を有する大名となっても、越前の朝倉家はそれに倍する勢力であり、この実力を決して無視する事は出来なかった。


それに経済的な面でも両者の結びつきは強く、日本海から運ばれてきた産物は、朝倉家の領国越前を経て、浅井家の領国近江を通り、さらに琵琶湖の水運を経て京へと運ばれていた。この琵琶湖の水運は、浅井家の重要な資金源であった。日本海交易を通じて、朝倉、浅井家の経済はほぼ一体化していたと考えられる。浅井家にとって朝倉家は特別な存在であり、歴史的にも経済的にも一蓮托生の様な関係であった。この様な縁から、浅井家中では、父、久政を筆頭に、親朝倉派が多数を占めていたと思われる。今回の信長の越前遠征においても、久政は朝倉家に味方するよう強硬に主張したそうである。長政がこれらの意向を無視して信長に味方すれば、家中が分裂する恐れがあった。
 
 
織田家からは市を迎えて、将来有望な同盟関係となったが、それでも朝倉家と比べると縁は薄い。それに信長という人物は、傑出した能力の持ち主の半面、性格は苛烈で人に恐怖を与える存在であった。信長自身は長政の武将としての器量を高く評価して、信頼していたとされるが、長政はそこまで義兄を信頼しきれなかったのではないか。そして、越前の朝倉家が滅べば、次に狙われるのは自分達であると思い定めたのかもしれない。信長は浅井家の本領を安堵すると言っていたが、彼は人に安心感を与える様な存在ではなかった。その信長は今、無防備な背中を晒している。この時、長政は、後の明智光秀の様に、不安と誘惑の入り混じった思いに駆られたのではないか。もし、信長の打倒に成功すれば、恐怖を打ち消すと共に、その領国を掠め取る事も思いのままとなる。長政も一角の戦国武将であり、まったく野心が無いと言えば嘘になるだろう。
 
 
それに信長との同盟時に約束したとされる、朝倉を攻める際には、事前に浅井家の了解を得るとの約束が真実であれば、これを先に破った信長の方に非がある。長政の腹は固まった。信長を討つと決めたのである。それは、永禄3年(1560年)、強大な六角義賢に戦いを挑んで以来の大きな決断であった。だが、今度の相手は更に強大な織田信長である。それに相手は苛烈な性格の持ち主で、一度取り逃がせば、強烈な復讐心をもって攻めかかってくるのは目に見えていた。それでも、長政は己の全身全霊をもって義兄に挑むと決した。そして、元亀元年(1570年)4月26日前後、長政は織田家からの離反を明らかにして、信長の退路を断たんとした。しかし、結果は知られている通り、信長を取り逃がす事となる。ここから、長政の長い苦闘の日々が始まるのである。

 

ある戦場のエピソード

北太平洋にはアリューシャン列島と呼ばれるアメリカ、アラスカ州に属する、弧状に連なる島々がある。人も通わぬ寒冷地であるが、第二次大戦時には、日米の激闘の地となり、幾つかの逸話を残した。


1942年6月、第二次大戦時日本軍はミッドウェー作戦を発動するに当たって、アメリカ軍の注意を北方に引き付けるべく、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略した。しかし、肝心のミッドウェイ海戦で、日本海軍は致命的な敗北を喫してしまったので、意味の無い作戦となってしまった。それでも、日本軍はアッツ、キスカ島を保持し続けるが、戦況の悪化に伴って、孤立の度を深めていった。
1943年5月13日、アメリカ軍がアッツ島に上陸して、激しい交戦の後、日本軍2,650名を全滅させて、島を奪回した。このため、キスカ島の日本軍6,000名は完全に孤立し、アッツ島に続く玉砕は確実な情勢となった。 だが、日本海軍は、キスカ島守備隊を何としても救出せんと努力を重ね、木村昌福少将率いる艦隊を派遣して、6,000人の守備隊を奇跡的に無傷で救出した。


キスカ島から日本軍が撤収するまでの間、アメリカ軍は絶え間なく空襲を加えていた。その過程で、1機のアメリカ軍機が撃墜されていた。爆撃を受けて痛い目に遭っていた日本軍であるが、アメリカ軍パイロットの遺体を回収すると、丁重に埋葬した。そして、キスカ島から撤退していく時、日本軍は後から上陸してくるアメリカ軍に分かるように、パイロットを埋葬した場所に、撃墜された日や状況が分かるよう、英文の立て札を立てておいた。

kiska.jpg















↑キスカ島の立て札

英語に堪能な兵士が書いたと思われ、大体の訳は、祖国に命を捧げし若者ここに眠る。日本陸軍。


上記の写真と訳文はこちらHPを参照

http://www.sinzirarenai.com/



もう一つアッツ島にまつわる話を一つ紹介。

アッツ島玉砕後、日本潜水艦がアメリカ軍の動向を探るため、アッツ島付近の海上を浮上哨戒していた。艦橋で警戒に当たっていた艦長と見張り員は、アッツ島上空に青白い炎のようなものを見つけた。ほどなくして、その火の玉はオレンジ色に変わると同時に、急速に潜水艦に向かってきた。あっと言うまに火の玉は、艦の間近にまで接近し、巨大な炎を揺らめかせた。


目の前でそれを見た艦長の背中には寒気が走り、艦に急速潜航を命じた。そして、艦は直ちに海中へと逃れた。しばらく経っても攻撃の気配は無かったので、敵機ではないようだった。艦内で乗員達は、あの火の玉について話しあった。艦橋にあった艦長を始め、見張り員達もあの火の玉を目撃していた事から、皆は口々に、「あれはアッツで玉砕した英霊達であったに違いない」と噂した。





武田家臣小話集

2008.10.26 - 戦国史 其の一
●武田家臣は有能

戦国時代、数多くの名臣が存在して戦国大名を支えていたが、その中でも武田家の家臣は有能であるとの評価が高い。特に名高いのは、武田四名臣と呼ばれている、高坂昌信・内藤昌豊・馬場信春・山県昌景といった部将達だろう。実際、この四人は信玄の代理として、一定の領域支配を委ねられたり、外交交渉を担ったり、一軍を率いて戦場に赴いたりと大いに活躍している。武田家には他にも、武田信繁・真田幸隆・ 昌幸父子など数多くの有能な部将が存在していた。その数多い武田部将の中で、個人的に好きなのは秋山信友である。この部将も知勇に優れており、一軍と一定の領域を任されている。この武将の画像は渋く、刀をじっと見つめるその姿はまさに「もののふ」といった感じがする。


torasige.jpg













↑秋山虎繁の画像


●間違って伝わる名前

現在、私達が知っている武田部将で、間違って伝わっている名があるようだ。例えば私が好きな武将として挙げた秋山信友は、秋山虎繁と呼ぶのが正しいとされている。

他にも、
高坂昌信 > 春日虎綱  
内藤昌豊 > 内藤昌秀
真田幸隆 > 真田幸網(晩年に幸隆と改めたとある)
であるとされている。


●武田家臣で悪く言われている武将達

小山田信茂・穴山信君・木曽義昌・長坂光堅・跡部勝資

この中で小山田氏や穴山氏は、ある程度の独立性を保った国人領主であった。この両者は武田家が甲斐統一途上、まだ強力ではない段階で、武田家と盟約を結ぶような形で従ったため、その後も大きな既得権を維持する事が出来た。信濃南部の国人、木曽氏も似たようなものだろう。武田家はこの三者と婚姻関係を結んで、親類集として遇したが、武田滅亡の際には三者とも裏切っている。これは、武田家は最後まで、国人領主を家臣として完全に掌握するには至らなかったという事だろうか。


武田滅亡の際、武田勝頼は小山田信茂を頼って落ち延びるものの、土壇場で離反され、行く宛てもなくなった勝頼一行は天目山にて滅亡してしまう。勝頼一行が小山田のもとへ向かわず、真田昌幸のもとへ向かっていればあるいは?との声もある。しかし、真田昌幸も、まだ勝頼存命時に敵方である北条家に接触していた。これは、武田家のためを思って北条家と折衝していたのか?それとも落ち目の武田家を見限って降ろうとしていたのか?は分からないが疑わしい行動ではある。結局、勝頼が頼れる者は誰もいなかったのかもしれない。


長坂光堅・跡部勝資の両者は、甲陽軍鑑では武田家を滅亡に追い込んだ佞臣とされている。だが、実際には両者とも最後まで勝頼に付き従い、天目山で殉死したとする説が有力である。それどころか、跡部勝資は勝頼の側近として大いに働き、その政権を支えた重要人物であった。

小山田氏関連HP
http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html
 

豊臣秀吉のダブルショック

2008.10.26 - お笑い歴史街道
豊臣秀吉は晩年、大勢の共を引き連れて吉野の桜を見に行きました。
(=^ω^)お花見ルンルン♪


そして、秀吉は上機嫌で、吉野の見事な桜を肴に宴に興じました。
へ(´∀`へ)ヨイヨイ♪(ノ´∀`)ノヨイヨイ♪


しかし、宴の最中、突然、大量の毛虫が垂れ下がってきたのです!
ウギャ━━━ヾ(;゚;Д;゚;)ノ━━━!!!


秀吉はその時のショックで寝込んでしまいました。
( ̄~ ̄;) ウーン、ウーン


そして、希代の英傑、豊臣秀吉はそのまま、あっけなく息を引き取ってしまいました。
ヘ(-_-ヘ 無念じゃ、毛虫によって命を落とすとは・・・


秀吉の妻、淀殿は、悲しみに暮れました。
秀吉様、どうして幼い秀頼を残して逝ってしまわれたのですか・・・
(ノД`)シクシク


しかし、淀殿も戦国の女、泣くのをやめ、新たな決意を胸に固めます。
秀吉様、ご安心ください。この淀と大野治長の子である秀頼は、私が一命に懸けて守り通して見せまする。(何気に問題発言)
i~∧(-.-)ナムナム


秀吉の霊。
秀頼はわしの子じゃないだって!
工工工エエエエエエェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェエエエエエエ工工工 


豊臣秀吉ダブルショック!!
⊂⌒~⊃。Д。)⊃ ドテッ



大野治長とは豊臣家の家臣ですが、淀殿とは幼馴染であったそうで、江戸時代にはそういった事を結びつけて、両者は密通していたという噂が流されました。徳川方がでっち上げた噂でしょうが、実際、2人は親密な間であったそうなので真相は分かりません。

上記は、昔ある本に載っていた、歴史のお笑い小編をアレンジしてみたものです。春に毛虫とはちょっとおかしいですが、昔、この小編を見た時は大笑いしました。しかし、毛虫が突然、大量にぶら下がってきたなら私も寝込んでしまうかもしれませんね。

そういえば、私は春にの吉野を訪ねたことがあります。吉野は桜の名所であるので人で一杯でしたが、歴史を感じるなかなか良い所でした。




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重家 
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