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高射砲塔

高射砲塔とは、第二次大戦中、連合軍の爆撃機から、ドイツの都市を防衛するために建設された要塞である。しかし、その建造には膨大な費用と労力を要する事から、ベルリン、ハンブルグ、ウィーンなどの重要都市に限定して建設されていった。各高射砲塔のデザインはそれぞれ異なっており、大きさ、武装も様々である。どの塔においても対空火力の強力さは折り紙つきで、その絶大な火力と防御力は、地上軍との戦闘においても有効であった。


高射砲塔は、多数の高射砲を装備したG塔と、対空射撃の精度を高めるため、ヴュルツブルクレーダーやマンハイムレーダーなどの高度な射撃指揮装置を備えたL塔とが、セットで建設され、迎撃も両塔が連携して行う。 G塔はコンクリート製で壁は2mから2.5mもの厚さがあり、高さは40mから50m、その頂部に12,8cm連装高射砲などの大口径砲を4基装備、塔の上部の張り出しには自己防衛用に37mmから20mmの口径の対空機関砲が12基装備されている。 砲塔内部には発電機や弾薬庫、人員の居住施設、貯水槽が設置されており、自立的な戦闘が可能だった。設計段階での収容人数は8千人程であるが、最大3万人を収容したとの記録もある。


これらの高射砲塔は、肝心の連合軍爆撃機との交戦の機会はあまりなかった。だが、ドイツに侵攻してきたソ連軍との間では、激しい地上戦を行っている。こうした高射砲塔群の中でも、有名なのがベルリンのツォー高射砲塔である。12,8cm連装高射砲を4基装備し、その強力な火力と防御力でベルリンに押し寄せるソビエト軍と熾烈な地上戦を展開し、ライヒスタークに押し寄せるソ連軍にも大きな損害を与えた。 大物量を誇るソ連軍でも、さすがにこの要塞を武力で攻略するのは手に余り、ツォー高射砲塔に対して軍使を派遣して降伏せしめている。


第二次大戦終結後、高射砲塔は無用の長物となり、解体が検討されるが、それは容易な作業では無かった。高射砲塔は余りにも巨大で頑丈であったため、その解体にも莫大な費用と労力を必要としたからである。ベルリンにあった高射砲塔は苦労して解体されていったが、ハンブルクとオーストリアのウィーンには今でも高射砲塔が残されており、周囲を圧する異様な迫力を醸し出している。



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↑高射砲塔




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ライヒスタークに赤旗を立てよ!独ソ戦最終幕

1945年4月末第二次世界大戦界大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、ソ連の大軍によって包囲され、風前の灯火となっていた。この様な絶望的状況にも関わらず、ヒトラーは尚も戦局挽回を夢見ていた。そして、あくまで首都を守り抜かんとして、ベルリン中の老若男女を動員し、ろくな武器も与えないまま、市街戦に投入していった。即席の動員兵が守る拠点は、圧倒的物量を誇るソ連軍によって次々に押しつぶされていったが、それでも多数のソ連兵を道連れにしていった。崩れ落ちた市街での戦いは、基本的に守備側が有利であり、ソ連軍の進撃は多大な犠牲を伴うものだった。しかし、人的犠牲を顧みないソ連軍は遮二無二に突進して、着実に包囲の輪を狭めていった。



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↑戦車の砲塔を用いたベルリンの防衛陣地


1945年4月30日、ついにソ連軍は、ヒトラーが立て篭もる総統官邸にまで達し、あと1日持ちこたえられるか、どうかという状況となった。ここに至ってヒトラーも最後を悟り、総統官邸の薄暗い地下室にて、結婚したばかりの妻エヴァ・ブラウンと共に自殺を遂げた。だが、ヒトラーの死で、戦いが終わった訳ではない。ソ連の勝利を決定付けるには、ヒトラーの死だけでは不十分で、ドイツという国家を象徴する建造物にソ連の赤旗を掲げる必要があった。それが、ライヒスターク、すなわちドイツの国会議事堂である。
ヒトラーの死の少し前、ソ連軍は総統官邸攻略と並行して、ライヒスタークの攻略も目指していた。ライヒスタークを始めとする官庁街の北側には、シュプレー川が流れており、それが堀の役割を果たしていた。だが、そこには歴史的な橋、モルトケ橋も架かっており、これを奪取すれば官庁街に突入可能だった。



勿論、ドイツ軍もこの橋の重要性を理解しており、爆破の備えをした上、橋の両岸に障害物を築き、南岸のビル群に陣取って厳重な火線下に置いていた。4月29日早々の深夜、ソ連軍は準備射撃をせず、静かに強襲を行ったが、ドイツ軍に察知され、熾烈な銃砲火を浴びせられて撃退された。次に戦車を先頭に突破を図ったものの、これも対戦車兵器の攻撃を受けて撃退された。ソ連軍は死傷者を積み重ねながらも、波状攻撃を繰り返し、人海戦術によってドイツ側の人員、弾薬を消耗させていった。ドイツ軍は守り切れないと見てモルトケ橋を爆破したものの、人が渡れる程度には残っていた。ソ連軍は重砲で対岸のドイツ軍を制しつつ、夜通し攻撃を続行し、夜明けを迎える頃、ようやくモルトケ橋を突破する事に成功した。続いて、内務省ビルを占拠し、対岸に橋頭堡を築いて、ライヒスタークを遠望できる地点に達した。モルトケ橋からライヒスタークまでは、距離にして僅か600m、目と鼻の先である。だが、ソ連軍は、この距離を死者無しには突破出来ないと悟っていた。ライヒスタークを初めとする官庁街には、まだ1万人余のドイツ軍が厳重に守りを固めており、ここからが戦闘の本番であった。



まず、ライヒスターク前面にあるケーニヒスプラッツ(前広場)には、川から水を引いた水壕に加えて、多数の塹壕と砲座を組み合わせた堅固な陣地が築かれていた。更にライヒスタークを始めとする周辺のビル群には、隙間という隙間に銃眼を設けたレンガが積み重ねられており、砲撃にも耐えうる事ができた。つまり、ライヒスタークと周辺のビル群は、それぞれ堅固な要塞と化して、相互支援する態勢となっていた。更にこれを、動物園にあるツォー高射砲塔(コンクリート製の強固な対空要塞で、大口径砲を多数、備えている)が火力支援した。4月30日午前6時ソ連軍の最初の1個中隊がライヒスタークを目指して駆け出したが、50メートルも進まぬ内にドイツ軍の激しい銃砲火を受けて、地面に釘付けにされた。続いて2個大隊が突撃するが、これも多数の戦死者を出して阻止された。ライヒスターク自体から繰り出される猛烈な銃砲火と、ケーニヒスプラッツ西側に位置するクロール・オペラハウスからの側面攻撃もあって、正面からの突破は甚だ困難であった。ソ連軍がライヒスタークを攻略するには、まず、クロール・オペラハウスと周辺のビル群を抑える必要があった。



同日午後13時00分ソ連軍はライヒスターク周辺のビル群攻撃と並行して、再びライヒスタークに突撃を開始した。激しい銃火を潜り抜け、ソ連兵はケーニヒスプラッツの水壕に達した。そして、いよいよライヒスタークに乗り込もうとした時、突如、背後から猛砲撃を受けた。2km後方にある、ツォー高射砲塔の大口径砲が火を噴き始めたのだった。ケーニヒスプラッツのソ連軍はたまらず遮蔽物に身を隠し、攻撃停止を余儀なくされた。だが、この間にも、モルトケ橋から多数の戦車と自走砲を渡して戦力を増強し、周辺ビル群の掃討を続けた。また、ライヒスタークに打撃を与えるべく、152mm迫撃砲と203mm迫撃砲を含む90門余りの火砲、それにカチューシャロケットによる絶え間ない砲撃が加えられた。ソ連軍の砲撃は熾烈を極めたが、ライヒスタークの堅牢な建物はこの砲撃をよく耐えて、砲煙の間から重厚な存在を示し続けた。同日午後18時前後、濃い煙と夕闇に紛れて、ソ連軍はライヒスタークへの再突撃を開始した。そして、戦車の濃密な援護を受けつつ、ライヒスタークの外壁に取り付く事に成功した。しかし、窓や扉は全て障害物やレンガで塞がれており、内部には入れなかった。そこで重砲による至近距離からの砲撃、またはレンガに爆薬を仕掛けるなどして、突破口を開いた。



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↑ライヒスターク


ソ連兵は突入する度、次々に撃ち倒されていく。しかし、ソ連兵に後退はありえない。ソ連の独裁者スターリンは、ライヒスタークの早急な奪取を望んでいた。4月30日夜に開かれる、メーデー(労働者の祭典の日)に彩りを添えるためである。ソ連の威信を内外に示すためなら、兵士達にどのような犠牲が生じようともスターリンは意に返さなかった。上官に急き立てられ、ソ連兵は大きな危険が待っている、小さな穴に次々に飛び込んでいく。躊躇すれば銃殺が待っているので、行くしかないのである。
一方のドイツ軍にも後退はあり得ない。彼らは街の片隅に追い詰められ、後退する場所など存在しなかった。また、ドイツ軍は大戦中、ソ連軍捕虜を人として扱わず、多くを死に至らしめていた。そのため、ソ連軍に投降しても、人として扱われる保障はなかった。実際、ソ連に囚われたドイツ兵捕虜の多くが、ロシアの土と化している。彼らは戦って目の前の敵を倒し、束の間の生を得るしかなかった。



ライヒスターク内での戦い。ドイツ軍は建物内部の各所で、構造物の段差や陰影を利用して待ち伏せの構えを取っている。特に、中心部の議場ホールの守りは固く、障害物を築いて、多数のドイツ兵が配置に付いていた。そこへソ連軍が突入して来ると、上階のドイツ兵がパンツァーファーストで狙い撃ちし、更に機関銃で追い討ちをかけた。壮麗な石壁や石柱には、たちまち銃痕が刻まれてゆき、そこに飛び散った血肉が張り付いていった。そして、弁論で応酬するはずの議場ホールは、銃火と手榴弾で応酬する場となり、ホールはたちまち死で埋め尽くされた。ソ連軍が上階に進出し始めると、地階のドイツ兵がその背後を襲った。建物内各所で、銃声、罵声、うめき声、爆発音が響き渡り、さらに内部の火災がこの戦場を燻しあげる。


4月30日22時50分ソ連軍の発表によれば、激戦の最中、赤旗第5号旗を抱えたソ連軍兵士が建物内を駆け上がり、ライヒスタークの屋上に到達して、高々と赤旗を掲げたとされる。それは、モスクワ時間のメーデーの日が明ける70分前の出来事であったとされる。しかし、その時間帯、建物内部は、まだ激戦の真っ只中にあって、本当にメーデーの日に間に合ったのかどうかは定かではない。
ソ連軍が屋上に旗を立てたとしても、ライヒスターク内ではまだ、建物の1室1室を巡って、死闘が繰り広げられていた事は確かである。地上階は徐々にソ連軍に制圧されていったが、ドイツ軍は地下室から尚も抵抗を続けた。だが、追い詰められ、弾薬も使い果たしたドイツ兵は、5月2日ついに降伏する。 暗い地階から300人余のドイツ兵が投降し、奥には500人余の負傷兵と200人余の戦死者が横たわっていた。この戦闘におけるソ連軍の死傷者数は不明だが、ドイツ軍を遥かに上回るものであったろう。


戦闘終了後、ヨーロッパでの第二次大戦終結を印象付ける、かの有名な写真がライヒスターク屋上で撮られる事となる。


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ゼーロウ高地1945 ドイツ最終防衛線の攻防 2

オーデル、それは、ドイツ東部を流れる、ヨーロッパ有数の大河である。この河は、ソ連の大軍を食い止める、最後の防壁と見なされていた。だが、ソ連軍はその河をも超えて、西岸に橋頭堡を築き上げた。戦力に劣るドイツ軍は、これを排除する術もなく、ただただ、ソ連軍の集結を見守るばかりであった。橋頭堡は急速に成長して、数十万ものソ連軍がオーデル西岸に進出して配置に付き、東岸にも重砲の砲列が布かれて支援の体制を取った。後は、攻撃命令を待つのみとなる。そして、1945年4月16日ベルリン標準時間午前3時、穏やかに流れるオーデルに、突如として轟音が轟いた。東岸に陣取ったソ連軍の火砲1万門が一斉に火を噴いて、ヨーロッパの第二次大戦、最終戦となるベルリン攻略戦の幕が切って落とされたのである。



土砂降りのような砲弾の雨が30分に渡ってドイツ軍陣地に降り注ぎ、次々に火柱が立ち昇って大地が鳴動する。この時の地震の様な振動は、60キロ離れたベルリンでも感じられるほどであった。ベルリン市民は迫り来る脅威を身近に感じて、不安に慄いた。一方、ドイツ軍指揮官ハインリチはこの砲撃を予期して、前夜に前線陣地から兵員の大部分を後方の陣地に後退させていたので、被害を最小限に止める事に成功していた。そんな事を知る由も無いソ連軍は、あの猛砲撃を受けたドイツ軍は壊滅状態に違いないと誰もが思っていた。そして、ソ連兵達は口々に、「ベルリンへ!」と叫んで前進を開始した。ソ連軍司令官ジューコフは、まず歩兵を前進させて進路を切り開かせ、その後で戦車軍を投入する予定であった。



ソ連軍は進撃するにあたって、ドイツ軍の目を眩ませようと、143基のサーチライトをドイツ軍陣地に向けて、強烈な閃光を浴びせかけた。しかし、このサーチライトの閃光は、砲撃で舞い上がった土煙に反射して前方の視界を塞ぎ、逆にソ連軍の目を眩ましてしまう結果となった。ドイツ軍にとって、この閃光はなんの脅威でもなかったが、圧倒的大多数のソ連軍が迫って来る様子には、さすがに鬼気迫るものがあった。大勢いた即席の動員兵の中には、砲撃と閃光を受けてパニックに陥る者もいた。ソ連が攻勢を開始する以前、ドイツ軍は予め、川を計画的に氾濫させて、オーデル河畔の湿地帯を泥の沼地に変えていた。さらに水路や堤道、鉄道築堤などもソ連軍の戦闘行動の障害となっていた。



ソ連軍はそれらの障害物に足を取られて隊列に乱れが生じ始めるが、それでも徐々にドイツ軍陣地へと接近して行く。歩兵が地雷原に入って爆散していくが、これもジューコフの計算の内だった。戦車の道を切り開くための犠牲である。ソ連空軍も動き出し、シュトルモヴィーク地上攻撃機の群れが、高地上のドイツ軍陣地を狙って爆弾を投下していった。この日、延べ6,500機もの爆撃機が出撃を繰り返す事になる。しかしながら、爆撃の効果は不明瞭だった。両軍の間には、川霧、砲煙、砂塵が立ち込めていて、視界が極端に悪かったからだ。待ち受けるドイツ軍には、呼び合うソ連兵の声が聞こえてくるが、その姿はまったく見えなかった。そして、濃い煙をすかして、間近にソ連兵の姿を認めた時、熾烈な射撃が始まった。こうしてゼーロウ高地を巡る緒戦は、視界が利かない中での接近戦となった。



しかし、ドイツ軍が陣地に立て篭もっているのに対し、ソ連軍の周辺には泥濘の湿原が広がるのみ、射撃を回避する術が無く、ソ連兵は次々に撃ち倒されていった。ソ連軍は出鼻を挫かれる形となったが、圧倒的な戦力差があるので、全戦線で重厚な攻撃を加え続ければ勝利は疑いない。 だが、陣地攻撃に不可欠な直協砲兵隊は、砲爆撃の穴や泥濘の大地に難渋して、なかなか前に進めなかった。その為、泥だらけになった歩兵だけが、援護の無いまま前進する形となり、それを、高地上に陣取るドイツ軍から狙い撃たれて、死傷者が続出する事態となった。攻勢第一波のソ連軍は、河を渡ってゼーロウ高地の麓に達する、この僅かな距離を踏破するのに非常な困難に見舞われていた。そこで、総司令官ジューコフは予定を変更して、早期に戦車軍の投入を決定する。



しかし、この決定は、収拾の付かない大混乱を生み出した。砲兵隊の車両群が泥に埋まっているところへ、数千の戦車が殺到して大渋滞を引き起こしたのである。ソ連軍部隊が立ち往生すると、そこにドイツ軍の銃砲火が集中した。指揮官達は必死になって交通整理を行い、ようやく少量ずつ戦車が前線に参加していった。そして、ソ連軍は損害を省みない力押しで、ドイツ軍の第一線陣地を踏み越え、続いてゼーロウ高地上に築かれた第2線陣地に攻めかかった。この第2線こそ、ドイツ軍の主防衛線であった。そこには、無数の対戦車砲陣地や、機関銃陣地が設けられており、塹壕には、パンツァーファウストを手にした歩兵も潜んでいた。ソ連戦車は、高地を乗り越えんとするが、勾配が急で、エンジン全開でも直登は難しかった。そこで、ソ連戦車は高地を巻くようにしてよじ登り始めるが、弱い横腹を晒した途端、ドイツ軍の対戦車砲によって次々に撃ち抜かれていった。



塹壕に潜んだ歩兵も、ここぞとばかりにパンツァーファウストを撃ち込んでいく。辺りは炎上して黒煙をあげるソ連戦車ばかりで、さながら、戦車の火葬場の様相を呈していた。 ソ連軍の受けた損害は、ドイツ軍によるものだけではない。味方砲兵による誤射や、味方爆撃機による誤爆も相次いでおり、この戦いを通して、誤射によって受けたソ連軍の被害は甚大であった。ソ連軍の攻撃は夜を徹して続けられ、じりじりと前進はしたものの、突破は果たせなかった。同じ頃、南方でもコーネフの第一ウクライナ方面軍が攻撃を開始していたが、こちらのドイツ軍の抵抗は微弱で、早々に戦線を突破していた。しかし、ジューコフ正面のドイツ軍は手強く、容易には通してくれそうに無かった。



4月17日早朝、ソ連軍の攻撃が再開され、シュトルモヴィーク編隊による爆撃と、各種重砲による砲撃で始まった。この日は好天で、ソ連軍爆撃機は前日よりも正確に爆撃を加える事が出来た。砲兵も、あらゆる建物に集中砲撃を加える。ゼーロウ高地上のドイツ軍陣地は大きな損害を受け、周辺の町や村のほとんどが燃え落ちた。辺り一帯に、人間や家畜の焼ける強烈な臭いが立ち込める。ソ連軍は、こうして大量の砲弾と爆弾を叩き込んだ後、防御上の要であるゼーロウの町の奪取を狙って、歩兵と戦車を前進させた。ドイツ軍は前日の激戦で消耗し、更に爆撃と砲撃で痛め付けられていたにも関わらず、驚異的な粘りを見せて、この攻撃を阻止した。しかし、ドイツ軍もこの第一撃によって消耗し、防衛線に亀裂が生じたので、全予備兵力の投入を余儀なくされた。



ドイツ空軍も数少ない航空機を総動員して、ソ連軍を食い止めんとした。そして、使用可能なあらゆる戦闘機、爆撃機を繰り出して、オーデルに架かる舟橋を破壊せんとした。舟橋を破壊すれば、一時的にソ連軍の増援を断ち切る事が出来る。ドイツのユターボーク基地では、基地司令官フックス少将が、レオニダス飛行中隊の隊員35名に自爆攻撃を誓約させた後、500キロ爆弾を抱いたFw190戦闘機に乗せて、送り出したとされる。そして、3日間で17本の舟橋を破壊したと報告したが、実際の成果はキュストリンに架かった鉄橋1本のみであったようだ。ソ連軍でも、出所は不明ながら、ドイツ軍パイロットはしばしば、ソ連軍爆撃機に体当たりして、双方が炎に包まれて墜落したと報告されている。



この日は、前日にも増して各所で激しい戦闘が繰り広げられた。ドイツ軍の切り札、88ミリ対戦車砲は、ソ連戦車を次々に鉄屑に変えてゆき、ドイツ兵が撃ち放つ機関銃も、ソ連兵の集団を肉塊に変えていった。しかし、戦車を撃破しても撃破しても、歩兵を倒しても倒しても、ソ連軍は地平線の奥から、次から次に現れて来るのである。 ドイツ軍は奮闘を続けたものの、さすがに消耗は隠せなかった。やがて予備兵力も底を尽き、戦線が崩れ始める。そして、17日も終わりかけた頃、主防衛線は貫かれて、ゼーロウの町は陥落した。4月18日早朝、ソ連軍の攻撃再開。連日の激闘でソ連軍も疲労の色は隠せなかったが、それでも圧倒的な数的優勢にあった。ソ連軍の重圧にドイツ第9軍はどうにか持ちこたえていたが、左側面の戦線は崩壊し始めており、右側面の戦線も南から突破したコーネフの進撃に脅かされていた。それでも、中央のドイツ軍部隊はこの1日、奮闘を続けたが、増援が緊急に必要な状況だった。



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↑88ミリ対戦車砲


しかし、増援が送られて来る気配はなく、その後も休みなくソ連軍の攻撃は続けられた。ドイツ軍の後方にある救護所には、次から次に負傷兵が運び込まれて来るが、既に軍医が処置できる範囲を超えていた。粗末な野戦病院は、たちまち血の臭いと苦しみ喘ぐ声によって満たされる。大勢の負傷者が生じると、平時ならば、重傷者の治療が最優先とされ、軽傷者は後回しになる。しかし、戦場においては逆となり、治療は、早期に戦線復帰が見込まれる軽傷者が最優先され、重傷者は後回しとなる。手のかかる手術をする暇など無く、腹部に重傷を負った者は、既に死んだも同然だった。緊急を告げる前線の要求を受けて、将校らは野戦病院を駆け巡り、まだ歩ける負傷兵を見つけては強引に前線に連れ戻していった。



ドイツ軍は取り得るあらゆる手段を用いて戦線を取り繕ってきたが、とうとうソ連軍の波状攻撃を支え切れなくなった。ぼろぼろに磨り減ったドイツ軍は高地帯から後退し、後方のミュンへベルク前面に構築されていた第三線陣地に移動した。ソ連軍もその後を追ってミュンヘベルクへと進撃したが、路上でまたもや渋滞に陥り、そこを生き残ったドイツ戦車隊に攻撃されて大損害を出してしまう。ジューコフは一連の戦いで大量の戦車を失い、二つあった戦車軍団を一つに統合せざるを得なくなった。だが、この日、ソ連軍の前に大きく立ちはだかっていた、ゼーロウ高地は陥落した。戦場には数え切れない程の戦車が黒煙をあげて擱座し、無数の両軍兵士の死体が横たわっていた。生き残った将兵も休み無く続いた4日間の死闘で、憔悴しきっていた。



4月19日、ソ連軍の攻撃再開。ソ連軍は第三線陣地に深く食い込み、この日の遅くにはミュンへべルクを陥落させた。兵員、武器、弾薬を使い尽くしたドイツ第9軍は総崩れとなり、3つに分断されつつ後退していった。全ての防衛線を突破されたドイツに残されたものは、剥き出しとなった首都ベルリンのみ。そして、ソ連軍の大津波は、たちまちベルリンを取り巻いて、4月24日にはこれを完全に包囲する。それでもヒトラーは、幻想のドイツ救援部隊が駆けつけて来ると信じ、徹底抗戦の構えを崩さなかった。そして、市内ではパンツァーファウストの応急訓練を受けた婦人や十代前半の少年を含む一般人まで動員されて、独ソ戦最後の死闘が繰り広げられる事となる。



ソ連軍は、ゼーロウ高地を突破して最終勝利を確実なものとしたが、そのために支払った犠牲は凄まじいものがあった。ソ連軍の公式発表による戦死者は3万3千人(実数は7万人を超えるとも言われている)を数え、装甲車両は700両以上、失った。一方のドイツ軍も1万2千人の戦死者を出したとされる。両軍の正確な戦死者数は、今もって判明しない。第二次大戦屈指の激戦地となったこのゼーロウ高地では、現在でも塹壕などの戦争遺跡が生々しく残されており、両軍の将兵多数も人知れず眠りについている。


現在のゼーロウ高地(ゼーロフとも言う)を写したHP

http://www.mas-yamazaki.com/seelow06.html 



主要参考文献、アントニー・ビーヴァー著「ベルリン陥落 1945」、ピーター・アンティル著「ベルリンの戦い 1945」


 

ゼーロウ高地1945 ドイツ最終防衛線の攻防 1

1945年2月、第二次大戦末期、ドイツ第三帝国は滅亡の淵に立っていた。西部戦線ではアメリカ、イギリス連合軍がフランスを解放し、ドイツ国境に到達する。ライン川に沿った640キロの戦線では、370万人の連合軍が2月下旬に行われる攻勢に備えて待機していた。これを迎え撃つのはドイツ軍100万人であり、戦いはドイツ国内へと移りつつあった。東部戦線では、1945年1月の時点でソ連軍は600万人の兵力を有していたが、これを迎え撃つドイツ軍は200万人の兵力でしかなかった。



2月になるとソ連軍はポーランドのほぼ全域を制圧し、ドイツの首都ベルリンから65キロのオーデル河畔にまで達する。そして、来たるべきベルリン攻略に向けて、その通り道にあたる交通の要衝、キュストリンに対する攻勢を開始する。 オーデル河畔にある都市キュストリンは、ソ連軍の攻勢からベルリンを守る盾とも言うべき都市であり、ヒトラーもここを要塞都市に指定して、死守を命じていた。1月31日、キュストリンを巡る攻防戦が始まる。圧倒的なソ連の大軍を迎えながらもドイツ軍は頑強に抵抗し、少数のドイツ戦車隊が局地的には勝利を収める場面もあった。



しかし、増援が無ければ、キュストリンの陥落は時間の問題だった。このように首都前面は危機的な状況にあったのだが、1月22日にヒトラーは信じがたい決断を下していた。「戦争を遂行するためには、ハンガリーの油田が必要だ!」と主張して、ハンガリー方面での攻勢「春の目覚め作戦」を指示したのである。このため、キュストリンに有力な部隊が送られる事はなかった。春の目覚め作戦に投入される装甲師団(戦車と自動車化歩兵を中心とした強力な部隊)は、ドイツに残された最後の有力部隊であり、ベルリン前面に迫ったソ連軍に対して、打撃を与え得る矛となりえたのだが、こうして副次戦線であるハンガリーに送られる事となった。



もし、春の目覚め作戦が失敗して、この戦力が失われれば、最早、ドイツには後が無い。3月6日早朝、ドイツ軍最後の攻勢、春の目覚め作戦は、ベルリン前面の危機的状況、深刻な燃料不足、数的劣勢などのあらゆる悪条件を無視して強行された。しかも、この攻勢はソ連軍に事前察知されており、予め、強固な防衛線が築かれていた。ドイツ軍は燃料不足に加えて、春の雪解けによる泥濘の影響で進撃がままならないところを、待ち伏せしていたソ連軍によって次々に撃破されていった。それでもドイツ軍は前進を強攻し、数十キロに渡って戦線を拡大した。



しかし、3月15日にはドイツ軍は攻勢限界点に達して、進撃は完全に止まった。翌3月16日、それを待っていたソ連軍が大反撃を開始すると、逆に包囲撃滅される危機に陥ったドイツ軍は、ヒトラーの死守命令も無視して壊走していった。戦場には、遺棄された多くの装甲車両が横たわっていた。ドイツ最後の有力部隊はこうして失われ、3月29日にはキュストリンも陥落する。ベルリンを守る盾と矛は失われた。もっとも、キュストリンに装甲師団を投入していたとしても、敗戦が先延ばしになるだけの効果しか無かったが。ソ連軍はキュストリンを確保したものの、数週間に渡る激戦の後であり、一旦進撃を停止して部隊を休ませ、消耗した装備を補充して5月に大攻勢を行おうとした。



しかし、スターリンは西側連合軍に先んじてベルリンを確保することを欲しており、ジューコフとコーネフの両元帥に対して、早急なベルリン攻略を求めた。その結果、4月16日をもってジューコフはベルリンの真東から、コーネフはその南からベルリンへの大攻勢をかける事となった。数百万もの兵員を動かす大攻勢は、本来ならば2、3ヶ月の準備期間を必要とする。だが、これが僅か2週間で進められる事となり、その橋頭堡としてキュストリンには、兵員の集中と大量の軍需物資の集積が急速に進められた。



ドイツ側も、ソ連軍がキュストリンから大攻勢を発するのを察し、その前面に位置する要衝、ゼーロウ高地の備えを固めた。ゼーロウ高地はオーデル川西岸にある穏やかな丘陵地帯であるが、地表からの標高差が40メートルあって、オーデル河一帯を射線に収める事が可能な、天然の要害だった。キュストリンから発するソ連軍の大津波を、この低い丘陵で食い止めねば、ベルリンは壊滅する。ソ連軍の手から、首都と市民を守るべく、ドイツ軍の将兵は粛々と配置に付いた。



ゼーロウ高地突破を担うソ連軍は、ジューコフ指揮下の第1白ロシア方面軍、兵員76万人、戦車3千両、火砲1万4千門であった。一方、この方面を守るドイツ第9軍は、兵員9万人、戦車及び自走砲512両、火砲は高射砲を含めて700門程度という劣勢にあった。しかも、兵員の多くは戦闘未経験者で、一般市民も含まれていた。重火器はほとんど無く、弾薬も携行定数を大きく割り込んでいた。1945年型編成のドイツ1個師団の定数は、1万2千人であったが、多くは定数割れを引き起こしていて、実際には4千~6千人程度でしかなかった。戦争の敗北が間近に迫っている事から兵士達の士気も低く、出来れば、負傷して後送されたい、脱走したい、投降したいと願う者が多かった。それでも彼らが持ち場に止まっていたのは、軍規による即決処刑と、家族への罰則適用を恐れてのものだった。



1941年6月22日から始まった独ソ戦は、人類史上最も凄惨な消耗戦となった。ソ連は1944年12月までに、1千万人を超える兵員の戦死、行方不明者を出していた。さらに民間人の犠牲者はこの数字を上回るものと推定されており、1945年には、人口大国のソ連と言えども人的資源の供給限界に達していた。一方のドイツも1944年12月までに兵員の戦死、行方不明者を300万人出しており、ソ連より人口の少ないドイツは、より深刻な人的資源の枯渇に見舞われていた。



1943年以降、歩兵のかなりの部分はドイツ領に編入されたドイツ系民族から補わざるを得なくなり、ドイツ国内で編成された部隊でも外国人の割合が増えていた。さらに連合軍のノルマンディー上陸以降、西部戦線にも戦力を割かねばならなくなって状況は悪化の一途を辿り、末期のベルリン攻防戦に至っては、陸に上がった海軍の水兵や、10代前半の少年から老人まで陸兵として動員された。この様な状況であったため、ベルリンを守る最重要の軍団ですら、定数割れしていたのだった。



1945年4月6日、ソ連軍の大攻勢が迫っていたこの日、ベルリン防衛を担当するヴァイクセル軍集団の司令官ハインリチ上級大将は、本土防衛の全体戦略を討議するため、ベルリンの総統官邸に召喚された。この会議には、ヒトラーを含む軍首脳が全員列席していた。そして、この会議でハインリチは、列席者が最も聞きたくない事実を報告する。「私は申し上げなくてはなりません。我が軍集団には、もはや予備と呼べる部隊はほとんど存在しません。前線の部隊は、敵の第一撃には耐え抜くかもしれません。しかし、最早、補充は無いのです。総統閣下、これが現実です。我々はせいぜい数日間、戦線を支え得る兵力しか保持しておりません。そして、全ては終わりを迎えることになるでしょう」



ハインリチの発言に対して、ヒトラーは机を叩いてこう叫んだ。「信念だ!信念と成功への強い意志があれば、兵力の不足は補えるのだ!この戦いに是非とも勝たなくてはならないという事実を君が自覚すれば、戦闘に勝てる!もし君の部下が同じ信念を持てば、その時こそ君は最大の勝利を達成し得るのだ!」。そして、運命の日、4月16日を迎え、ベルリンを目指すソ連軍の大攻勢が始まる。



北ノ庄落城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正11年(1583年)4月20日織田信長亡き後、柴田勝家と羽柴秀吉は家中の主導権を巡って対立を深め、賤ヶ岳にて決戦に及んだ。だが、勝家はこの天下分け目の戦いに惨敗し、本拠地、北ノ庄城へと撤退してゆく。この際、次の様な逸話が伝わっている。勝家は撤退の帰路、前田利家の居城、府中城に立ち寄り、そこで湯漬けと替え馬を一頭、所望した。前田利家は賤ヶ岳の戦いの際、勝家に従って参陣していたが、裏切りとも取れる無断撤退をして、柴田軍敗走の切っ掛けを作っている。しかし、勝家は恨み言一つ言わず、これまでの利家の協力に感謝の意を表し、今後は秀吉に付くよう勧めると、北ノ庄へ去っていったと云う。


北ノ庄城は、信長の命によって勝家が天正3年(1575年)に越前の地を任された時から築城が始まり、天正11年(1583年)までの9年間を通して工事が行われたと考えられている。天正9年(1581年)宣教師ルイス・フロイスが北ノ庄を訪れた際にも、城はまだ工事中であったらしい。その記述に寄れば、城は甚だ立派で、町の規模は安土の2倍もあった。城及び屋敷の屋根の全てが笏谷石(しゃくだにいし)と云う立派な石で葺かれており、その青みがかった色によって、城の美観は一層増していたと云う。


北ノ庄城は足羽川(あすわがわ)と吉野川の合流点に築かれた総石垣の平城で、五層九重の天主を置いた本丸を中心として、二の丸、三の丸を設け、更にその外周を総構えが取り囲んでいたようだ。フロイスは、信長の築いた安土城にも引けを取らない壮大な城であったと伝えている。4月21日夕刻勝家は北ノ庄に帰城する。北ノ庄は巨城であったが、城の守兵は3千人余りでしかなかったため、外郭線は放棄され、二の丸、三の丸の防備が固められた。そして、勝家は己の最後を飾り立てるべく、城中に旗指物を高く掲げて、その心意気を示した。


4月23日前田利家を先鋒とした、秀吉の大軍が北ノ庄を囲み、城壁に接触するほどの線まで包囲の陣を敷く。
時間をかければ勝家の元へ援軍が駆けつける恐れがあった為、秀吉は直ちに攻撃を下令する。城内にいた将兵の妻子達は攻撃を逃れんとして逃げ惑い、裸足で右往左往する様は、見るも哀れであった。そして、この日の内に二の丸、三の丸は陥落し、寄せ手は本丸近くに陣取った。これで、北ノ庄の命運は誰の目にも明らかとなった。この夜、勝家は一族近臣達を集め、別れの酒宴を催す。勝家達は楽器を奏でて心のままに歌い、舞った。この世に思い残すことが無きよう、その宴は戦勝祝いの様に賑やかなものであった。


篭城の最中、勝家は妻であるお市の方に、3人の娘と共に秀吉の下へ投降するよう勧めている。しかし、お市の方は承服せず、勝家と共に最後を迎える決意を示した。そして、秀吉宛てに自筆の書をしたためると、茶々、初、江の3人の娘に自分付きの侍女達を添えて城から送り出した。お市の方は娘達を御三ノ間まで見送り、親子は今生の別れを惜しんだ。この時、北ノ庄城で人質となっていた前田利家の娘、麻阿も城から解放され、投降したと思われる。城内で勝家とお市は昔語りをしつつ、酒宴は朝まで続いたと云う。


4月24日午前4時秀吉は本丸への総攻撃を命令する。数万にも及ぶ秀吉軍の攻撃を受けるも、城方は頑強な抵抗を示し、戦いは数時間に渡って繰り広げられた。正午頃、秀吉は犠牲を厭わぬ猛攻を続けさせ、寄せ手はついに本丸内部に突入する。だが、寄せ手の眼前には、まだ難関が残っていた。それは、鉄の城門を備え、高石垣の上に築かれた勝家自慢の五層九重の大天守閣である。


寄せ手は多勢を頼りに天守閣に取り付き始めるが、城方は弓鉄砲を盛んに撃ち放ち、長物で突き伏せて、容易には天守閣に踏み込ませなかった。勝家以下、主に殉ずる覚悟を決めている精兵200人余は激烈な抵抗を示し、寄せ手に手負いと死者を続出させた。僅かな人数で何時間も持ちこたえる勝家の奮闘には、秀吉も感嘆の声を上げざるを得なかった。城中は狭く、多人数で踏み込めば犠牲が増すばかりと見た秀吉は、ここで選りすぐりの武士を集めて、切り込み隊を編成し、天守閣内部へ突入させた。


武辺に優れたる勝家は、ここが意地の見せ所とばかりに、七度まで城門を打って出て寄せ手と切り結んだ。しかし、波の様に次々に新手を繰り出して来る寄せ手によって、強兵達も徐々に討たれてゆく。午後17時頃寄せ手が天守閣内部に殺到してくると、勝家も最早これまでと定め、天主の梯子を引き上げさせた。そして、天守に火を放つと、勝家は九重の階上に上がり、寄せ手に大音声で呼び掛けた。

「修理が腹の切様を見届け、後学にするがよい!!」

寄せ手は、威に打たれて静まり返る。そして、勝家は、念仏を唱え始めたお市と一族の者達へと振り返った。勝家はお市を引き寄せると、すまぬと言って刺し貫き、続いて一族の者達を次々に刺し殺していった。全ての処置を終えると、勝家は自らに刃を立て、見事に腹掻っ捌いて果てた。それに続いて、股肱の臣80名余りも次々に自害して果ててゆく。やがて、炎は天守閣を包み込み、遺骸は紅蓮の中へと消えていった。寄せ手の者共は言葉を無くして立ち尽くし、心ある者は涙して鎧の袖を濡らした。


この落城の際、一人の老女が寄せ手に投降して、勝家達の最後の様子を詳しく語った。勝家は、自らの最後がどのようなものであったのかを世に伝える為、身分が高く、語りに長けた老女を選んで、城中での最後の様子をつぶさに目撃させ、城から落とさせたのだった。



Shibata_katsuie.png













↑勝家が最後を迎えるにあたって、描かせた肖像画と伝わる。

柴田勝家は享年62、お市の方は享年37であったと云う。


現代、北ノ庄城は様々な思いを秘めて、福井の町の地下に埋もれている。



 
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