忍者ブログ

織田北陸方面軍と一向一揆との戦い 1

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、三河長篠の地で武田勝頼と決戦し、これを大いに打ち破った(長篠の戦い)。これによって東の脅威が減少し、戦略状況が大いに好転した事から、信長は軍を西方、北方へと進めて行った。その過程で、同年8月、信長は、一向一揆が支配する越前国へと大軍を押し進める。織田軍は越前一向一揆を撫で斬りにして殲滅すると、余勢を駆って更に北上し、加賀国の江沼・能美の2郡、手取川以南までの地を制圧した。信長はこれらの地に譜代の家臣を配置すると、本国へと引き揚げていった。


征服地の内分けとして、織田家の家老、柴田勝家には越前国の内、8郡が与えられ、越前全体の統治者とされた。勝家の与力となる佐々成政・前田利家・不破光治らには府中2郡が分封され、金森長近には大野郡の三分の二を、原政茂はその三分の一を、武藤舜秀は敦賀郡をそれぞれ委ねられた。
未征服の加賀一国には梁田広正が封ぜられ、加賀の全域平定を委ねられた。梁田はこれまでは、信長の馬廻りの小部隊指揮官であったのが、一躍、一国の主に大抜擢されたのである。


梁田は信長の期待に応えるべく、加賀北部に割拠する一向一揆との戦いを開始する。ところが、梁田は加賀を平定するどころか、占領地を保持するのが手一杯で、逆に拠点の大聖寺城まで攻め込まれる始末であった。これは梁田が無能だったのではなく、加賀一向一揆の勢力が未だ強大な勢力を保持し、しかも、これに立ち向かう梁田の軍勢が少な過ぎたからだと思われる。しかし、信長は早々に見切りをつけ、翌天正4年(1576年)秋梁田を尾張に召喚した。これによって北陸平定の大事業は、越前の柴田勝家の手に委ねられる事になる。


この北陸平定を目指した軍団の顔触れは、柴田勝家を筆頭に佐々成政、前田利家、佐久間盛政といった織田家の歴戦の猛者達であった。(以後、北陸方面軍は柴田軍と記す)そして、この軍団には、越前一国と加賀南半分の勢力範囲があった。太閤検地と一万石につき250人の兵力を得られたとすると、越前50万石、12,500人、加賀半国18万石、4,500人で、この軍団は合計1万7千人の兵力が動員できるという大体の計算になる。 柴田軍は、梁田が苦戦した加賀の平定に取り掛かったが、やはりこの地の一向一揆は頑強で、戦況は一進一退の状況が続いた。


なかなか戦況が好転しなかったのは、一揆勢の抵抗が激しかったのもあるが、柴田軍の与力部将達が度々、他の戦線に引き抜かれたせいもあった。しかも、越後の強豪、上杉謙信が本願寺と結んで織田家と敵対するに至ると、加賀の一向一揆は更に勢いづき、織田軍に奪われた御幸塚、鵜川、仏ヶ原などの南加賀の城砦を奪い返し、再び大聖寺城に襲い掛かり始めたのである。そして、大敵、上杉謙信も本腰を上げて動き始めた。天正5年(1577年)7月謙信は、2万人余の大軍を率いて、能登七尾城を取り囲んだのである。七尾城の実権を握っていた長網連は、弟の長連龍を信長のもとへと送り、織田軍の来援を要請した。ここにおいて信長は謙信との決戦を決意し、柴田勝家を長とする3~4万余の大軍団を北陸に送り込んだ。


8月8日、柴田軍は越前を発したが、有力部将の羽柴秀吉が戦線離脱するなど、軍の足並みはなかなか揃わなかった。それでも柴田軍は大軍であり、南加賀で勢力を盛り返した一向一揆勢を制圧していった。柴田軍は安宅、本居、小松などの村々を焼き払い、御幸塚城を取り戻し、手取川を渡って松任近くまで進出した。しかし、それ以上の進軍は困難であった。


何故なら、加賀北部は一向一揆の完全な支配下になり、能登までの通路は塞がれていたからである。織田軍が手間取っている最中、七尾城では異変が生じていた。9月15日七尾城において、遊佐続光が謙信の調略に応じ、長網連を始めとする長一族を皆殺しにして、城を明け渡してしまったのである。 七尾城を落とした謙信は、余勢を駆って南方の末森城も攻め落とすと、織田軍を追い散らすべく、一路、加賀を南下した。


天正5年(1577年)9月23日、一方の柴田軍は情勢の不利を悟って、撤退を開始した。だが、柴田軍は手取川付近にて上杉軍に補足され、千人余りの討死を出す大打撃を受けたとされている(手取川の戦い)。謙信は家臣に宛てた書状に合戦の勝利を高らかに宣言し、その勢力範囲は加賀北部にまで及んだ。この合戦の詳細は今もって不明であるが、一向一揆を味方にした謙信が優勢であったのだろう。


謙信は合戦後、深追いはせず、冬の到来を前にして領国に引き返していった。北陸の柴田軍はひとまず当面の危機は脱したが、謙信の進出によって支配下の加賀南部や越前は動揺し、再び一揆勢が蜂起する事態となっていた。柴田軍は地盤を固め直すため、越前に引き返す必要に迫られた。だが、この後も南加賀は維持すべく、御幸塚城を堅固にして佐久間盛政を留め置き、大聖寺城にも勝家の家臣を入れてから、帰還していった。


天正5年(1577年)11月、謙信進出に呼応する形で、越前勝山の七山家衆と呼ばれる一向一揆の残党が立ち上がり、谷城に立て篭もった。勝家はこの一揆勢を討伐すべく、一族の柴田義宣に一軍を授けて、谷城へと差し向けた。ところが、義宣はこの谷城をめぐる攻防戦で、一揆勢の激しい反撃を受けて討死してしまう。翌天正6年(1578年)春、勝家は今度は自身の養子、柴田勝政を差し向けて、一揆討伐に当たらせた。勝政は激しく攻め立てて、一揆勢を打ち破る事に成功した。勝家はその功を評し、勝政にこの地の支配を委ねた。


こうして、勝家が地盤である越前の地を再び固め直している間、佐久間盛政は加賀一向一揆との最前線に当たる御幸塚城にあって、絶え間なく蜂起する一揆勢への対処に忙殺されていた。北陸の柴田軍は、この様な状況下で再び謙信が来襲する事を恐れていた。だが、同天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死して、柴田軍の大きな脅威の1つが消えた。信長はこの機に乗じて越中の上杉方を駆逐し、織田家の勢力を拡大せんとして、美濃の有力部将、斎藤新五朗を飛騨経由で越中に派遣した。


新五朗は越中守護代、神保氏の嫡流、神保長住の軍と合流すると、10月4日、月岡野において数に勝る上杉方を討ち破り、360人余を討ち取る殊勲を挙げる(月岡野の戦い)。この勝利によって、織田家は越中中部に足掛かりを築く事に成功し、上杉支配下にある、能登、越中の地侍や一揆勢に動揺が走った。この新五朗の動きは、北陸の柴田軍と連動してのものであったと思われる。しかし、勝家を始めとする柴田軍は、加賀一向一揆との戦いに忙殺されていたのであろう。加賀を突っ切って、この好機を生かす事は出来なかった。


翌天正7年(1579年)8月9日、柴田軍は安宅、木折、小松の地を放火した。しかし、これらはいずれも南加賀の地であり、柴田軍は未だに加賀を突破出来ないでいた。柴田軍は、歴戦の将が揃った1万を越える軍勢である。それと互角に渡り合っていたのだから、加賀一向一揆とは余程、手強い相手だったのだろう。 加賀は90年近くもの間、一揆持ちであった国であり、彼らは容易には侵略者に屈さなかった。それに、一向一揆は大量の鉄砲を保有しており、地の利もあった。


信仰心に寄って団結し、長く自治を守り抜いてきた一揆勢には寝返り工作などは通用し難く、柴田軍は力で相手を叩き伏せていく他、無かったろう。しかも、加賀北半の坊官、地侍、民衆が一体となって抵抗してくるのであれば、1万人余の柴田軍でも、戦力不足であったと思われる。 これを打ち破るには、長島一向一揆を殲滅した時の様に、織田家の総力を上げた3万以上の兵力が必要だったろう。しかし、信長は中国戦線に主力を振り向けており、そんな余裕は無かった。


そこで、柴田軍は単独で出来る事として、一揆方の拠点を一つ一つ潰していく、地道な作戦を取ったのではないか。だが、激しい抵抗を受けて捗捗(はかばか)しい戦果は得られなかったようだ。柴田軍は数年かけても、戦線はまったく拡大しなかった。勝家は信長への聞こえを気にして、心中穏やかではなかったはずである。加賀における織田軍の戦いの様子は、現在ほとんど伝わっていないが、極めて過酷な戦場だったのではないか。


苦戦に喘ぐ柴田軍であったが、天正8年(1580年)3月、織田信長と本願寺顕如が和睦に合意すると、急速に展望が開けてくる。この和睦の条件は、本願寺側が石山の地を退去する代わりに、織田側が占領していた加賀の南2群を本願寺に返還するというものであったが、信長も勝家も折角、占領した土地を返還する気などさらさらなかった。それに加賀の一向一揆は、和平派と抗戦派に分かれて、結束の乱れが生じていた。天正3年(1575年)に信長が越前を平定できたのも、越前の一揆勢が分裂していたからであり、勝家もこれを加賀平定の絶好の機会と捉えた。


そして、勝家はこの和睦に乗じて戦果を拡大すべく、3月中に行動を起こす。柴田軍は手取川を越えると方々に放火して回り、続いて野々市砦を攻め立てて、一揆勢数多を討ち取った。柴田軍は数百艘の舟に兵粮を積み、乱捕りを働きつつ、奥地へ奥地へと焼き討ちを進めていった。民衆にとって村の焼き討ちは、生業、財産、食料、住居、家族を失う事に繋がり、これ以上の打撃は無かった。柴田軍の攻撃は、恐るべき破壊と殺戮を伴うものであったろう。そして、柴田軍はついに加賀を突っ切って、越中まで辿り着いた。
柴田軍は安養寺越え(越中と加賀の境目にある主要道)近辺に軍勢を進めると、坂を右手に南下して白山の麓に至り、そこから能登境の谷々に至る村落を悉く焼き尽くしていった。そして、一揆勢の拠点の一つである木越寺を攻め破り、そこの一揆勢数多を斬り捨てた。


柴田軍はさらに能登国に侵攻し、末盛城の土肥親真を攻め立ててこれを落とし、名立たる侍数多を討ち取った。その間、七尾城の長一族の生き残り、長連竜は柴田軍に呼応して、飯山から諸方に放火を行い、これに対して信長は感状を送ってその働きを讃えた。この一連の出来事の最中に加賀一向一揆の一大拠点である、御山御坊も陥落している。この御山御坊をめぐる攻防戦では佐久間盛政とその弟、勝政が大いに働いたとされる。


盛政軍はまず、御山御坊を守る最前線の要害、木越の三光(光徳寺、光専寺、光琳寺の城塞化された寺院群)に攻めかかった。この戦いには長連龍の軍も盛政に加勢した。連龍は御家再興の機会と必死に戦い、盛政、勝政も激しく攻め立てて、これらの要害を攻め落とした。更に盛政は周辺の城砦群を落とし、御山御坊を裸城とした。御山御坊は台地の先端にあって、堀を巡らせた堅固な要害であったらしい。


だが、盛政は味方した住民の手引きを受けて、背後の台地から御山御坊に痛撃を加えると、留守を預かっていた坊主達は御山御坊を明け渡したと云う。天正8年(1580年)4月の出来事であったらしい。これによって、「百姓の持ちたる国」と謳われた加賀一向一揆の象徴的存在は陥落した。しかし、これで一向一揆との戦いが終った訳では無かった。霊峰白山麓にある鳥越城には、まだ徹底抗戦派の一揆勢が立て篭もっていたのである。


其の二に続く・・・



 
PR

富田長繁と越前国の動乱

2008.10.30 - 戦国史 其の一
富田長繁は、天文21年(1551年)頃、朝倉家の重臣の子として生まれた。「朝倉記」によれば、元亀元年(1570年)4月、織田信長の越前侵攻に際して、1,000人を率いて出陣したのが、初陣とされる。


元亀3年(1572年)8月織田信長は大軍をもって浅井長政の居城、小谷城を取り囲んだ。危機に陥った長政は直ちに盟主の朝倉義景に救援を求め、義景もこれに応じて、自ら軍を率いて小谷城に陣取った。しかし、時の勢いは信長にあって、義景は守りを固めるのに精一杯であった。8月8日、こういった状況を見越して、朝倉家臣の前波吉継は、義景を見限って織田方に投降し、翌8月9日には、同じく朝倉家臣の富田長繁も降った。 信長はこれら有力部将の投降を喜び、それぞれに褒賞を与えた。


天正元年(1573年)8月朝倉義景は信長によって滅ぼされ、越前国は織田家の所領となった。ところが信長は意外な寛大さを示して、朝倉旧臣の多くを許し、その所領を安堵した。これら朝倉旧臣達の中でも、桂田長俊(前波吉継が改名)は、いち早く信長に投降した事と、越前の道案内を務めた功を評されて、越前守護代に任ぜられた。朝倉時代、側近の1人に過ぎなかった桂田は、一躍、越前全域の行政、軍事を司る全権者となったのだった。それだけに止まらず、朝倉義景が有していた広大な所領をも受け継いでいた。桂田と同じ時期に織田家に通じた富田長繁も、龍門寺城に拠って府中領主に任じられたものの、同輩であった桂田よりも恩賞が少なかったため、大いに不満を抱いた。


同年9月24日、信長は北伊勢の長島一向一揆を攻めんとして、富田長繁ら越前衆も加えた大軍をもって岐阜から出陣した。織田軍は一揆方の城を次々に攻め落とし、一定の成果を上げると、10月25日、帰陣に取り掛かった。ところが、一揆勢は戦力を温存しており、先回りして難所で待ち受けていた。そして、行軍中してきた織田軍に雨あられの如く、弓矢を浴びせかけて、死傷者を続出させた。この苦戦の最中、富田長繁の与党である、毛屋猪介は四方の敵に当たって、抜群の武功を示した。しかし、織田軍不利の状況である事には変わりなく、信長自身も命からがら岐阜に帰り着く有り様であった。


戦いは敗北に終わったが、富田長繁は、与党の毛屋猪介が武功を挙げた事から、その恩賞を、桂田を通して信長に求めた。ところが長繁の勢力増大を警戒してか、桂田はこれを握りつぶしてしまう。朝倉家に仕えていた頃の桂田は、さほどの地位ではなかったが、今では信長の寵を得て、越前の最高権力者となっていた。桂田は
その権威を背景に専横に振る舞い、かつて上席だった朝倉一族さえ家来の様に扱った。そればかりか、信長に進物を送り届けて、更なる寵を受けんとして、越前国内に重税を布くのだった。これにより、朝倉旧臣や領民の心は、桂田から急速に離れてゆき、それに合わせて、桂田と長繁の対立も日毎に深まっていった。


天正元年(1573年)桂田は上洛して信長に謁し、「若輩者に府中を任せるのは不都合であり、長繁とその与力の領地を削減してもらいたい」と申し立てる。これを伝え聞いた長繁は憤激し、こうなれば桂田を討取り、越前領有の既成事実を作って信長に認めてもらう他に無しと、決意するに到った。その桂田は京都から越前に戻る時、にわかに目を患って両眼を失明してしまう。人々は、神の御罰なりと噂したと云う。桂田を激しく憎む長繁は、同じ思いを抱く朝倉景健、景胤らと語らって策を練った。そして、長繁は越前に多数存在する一向宗徒に目を付け、彼らも大いに不満を抱いている事を知って、これを煽動せんとした。一向宗徒の蜂起を切っ掛けに自らも挙兵し、一挙に桂田を討たんとしたのである。


天正2年(1574年)1月18日、ついに一向宗徒が蜂起すると、長繁もそれに合わせて挙兵し、両者は合流して2万人余の軍勢となって桂田の居る一乗谷を目指した。一方の桂田は普段の行いからか、味方する者はほとんどおらず、僅か500人余で迎え撃たねばならなかった。しかも、桂田は失明して指揮が執れないとあって、あえなく一族諸共、討ち取られた。続いて、長繁と一揆軍は、信長が越前の目付けとして置いていた三人の奉行も追放した。この後、長繁は自らの地位を固めんとしてか、同僚で、鳥羽城主である魚住景固(うおずみ・かげたか)も粛清せんとした。そして、
同年1月24日長繁は魚住景固とその次男を朝食に招くと、酩酊させた上で、自ら魚住父子を斬殺した。続いて鳥羽城に手勢を差し向け、魚住一族を皆殺しにして、その所領を奪い取ったのだった。


これで、長繁は越前で並ぶ者のいない地位に立った。天正2年(1574年)1月29日の南条郡、慈眼寺に宛てた長繁の制札に国中の屋敷(棟別銭)を免ずるとの条があるので、長繁は一時的であるが、越前全域に統治権を及ぼした模様である。この時、長繁は己の権力に酔いしれた事だろう。しかし、それは束の間の栄光であった。魚住一族を滅ぼした事によって、朝倉旧臣達は次は自分達かもしれないと思い定めて、所領に篭って武備を固め始めたのである。長繁は越前の諸侍に叛かれ、早くも越前支配が立ち行かなくなってしまった。



信長はこうした越前の動乱に対して、兵を動かすことが出来なかった。甲斐の武田勝頼や長島一向一揆、石山本願寺の動向が気になる状況であったし、越前国境の峠も積雪で閉ざされていたからである。信長は岐阜から事態を望見するしかなかったが、そのような折、長繁から侘びを請う使者が送られて来たと云う。長繁にとって桂田との争いは国支配の主導権をめぐる争いであり、信長に対する反抗ではなかった。そのため、詫びを入れて守護代の朱印状を得ようとしてきたのである。この詫び云々の真偽のほどは定かではないが、当時こういう風聞は流れていた。風聞故、その時の信長の反応も定かではないが、長繁の要求は通らなかったであろう。


一向一揆と結んでの蜂起、越前守護代に任じていた桂田の殺害、越前に留め置いた3人の奉行の追放、この様な長繁の勝手を許せば、他に示しがつかなくなる。如何なる理由があろうと、長繁の行動は信長にとって身勝手極まるものに映り、遅かれ早かれその征討を受けたであろう。そして、長繁が信長に誼を通じようとした動きは、一向宗徒に洩れ伝わってしまったと云う。一向宗徒が長繁に協力したのは、織田方の桂田や三奉行を敵としたからであり、その信長と長繁が結ぶとあれば、一向宗徒にとっては許し難い行為であった。



こうした越前の混乱を知って、大坂の本願寺顕如が動き出した。この混乱に付け込んで、越前を一向一揆持ちの国に作り変え、信長への反抗拠点にせんと試みたのである。当時、顕如率いる本願寺勢は信長の攻勢を受けて衰退しつつあったが、越前に退勢挽回の機会を見出したのである。そして、長繁を始めとする越前の支配層を一掃すべく、顕如は、越前一向宗徒達に向けて、「長繁を討て!」と激を飛ばした。これを受けて、越前中の一向宗徒達が立ち上がった。更に顕如は隣国、加賀から坊官の七里頼周を送り込んで、越前の一揆勢を統率させた。この一揆勢は10万人以上と号される勢力(実数は3~4万人か)となり、さらに朝倉旧臣の朝倉景健、朝倉景胤らも加わって、圧倒的な勢力となった。


一方の富田方は府中の町衆や、誠照寺・証誠寺・専照寺などの一向宗三門徒寺院(本願寺とは宗派違いと思われる)に知行を約束して味方につけるが、これらの合力衆を合わせても5、6千人余でしかなかった。2月13日富田方と一揆勢との戦闘が始まったが、圧倒的多数の一揆勢によって長繁の部将、増井甚内が方山真光寺城で討たれ、同日中に毛屋猪介も北の庄で討たれてしまう。勢いに乗った一揆勢は長繁の本拠、府中まで押し寄せ、これを隙間なく包囲した。2月16日早朝長繁は、このまま竜門寺城に篭もれば座して死を待つばかりと見て、7百騎の手勢をもって城から打って出ると、一揆勢の大軍に向かって遮二無二、突撃した。


思慮分別こそ足りないものの、長繁は武勇に長けた歴戦の猛者であり、自ら先陣に立って敵中を縦横に駆け巡り、ついには一揆軍の本陣まで攻め破った。長繁は逃げ散る一揆勢を追って数多を討ち取り、夕刻になって悠々、府中に引き揚げた。
2月17日勢いに乗った長繁は府中の町衆や三門徒寺院の兵を引き連れ、再び一揆勢に挑みかかった。前日は敗れたとはいえ、七里頼周率いる一揆勢はまだまだ大人数であり、返り討ちにせんと取り巻くが、長繁の突撃を受けてまたもや散々に打ち破られてしまう。一揆勢を蹴散らした長繁は勢いに乗って、朝倉景健が陣取る長泉寺山へと攻め掛かった。だが、高所に陣取る朝倉勢は頑強に抵抗し、こちらは双方一歩も引かずに激戦となり、長繁は一旦、兵を引いて山麓で夜を明かした。


2月18日早朝長繁は攻撃を再開し、自ら先陣に立って突撃してゆくが、突如、背後から一発の銃声が響いて、どっと馬から崩れ落ちた。その銃を撃ったのは、小林吉隆と云う者であった。この者は、長繁が一乗谷を攻めたときは桂田側であったが、形勢を見て富田側へ寝返っており、更に今度は一揆勢へと寝返りをうったのであった。この時、富田長繁は若干24歳。類まれな剛勇の持ち主でありながら、裏切り、反乱を重ねた、短くも強烈な人生であった。そして、大将を失った富田勢は散々に打ち破られ、その支配は瓦解した


この後、一揆勢は三門徒寺院と朝倉旧臣達を攻め滅ぼし、さらに反目する平泉寺と朝倉景鏡も討ち滅ぼして越前は一揆持ちの国となった。一揆勢は越前を制すると、信長の侵攻に備えて、国境に大規模な山城、木ノ芽城を築いた。これによって、越前は本願寺領国として磐石の基盤を整えたかに見られた。しかし、それは足元から崩れ落ちて行く。
新たに支配者として君臨した本願寺坊官と、蜂起に活躍した越前門徒との間で対立が生じて、それが武力抗争にまで発展してしまう。そうしたところへ、信長の調略の手も伸びてくる。一揆勢同士の疑心暗鬼と内紛によって、越前の防衛体制は戦う前から穴だらけとなっていた。心ある者はこの状況を憂いていたが、如何ともし難かった。国境の砦を守っていた一向宗指導者の、切迫した危機を訴える書状も現存している。天正3年(1575年)8月15日、信長はそういった状況を十分見越した上で、有力部将を総動員した3万以上の大軍を率いて、越前侵攻を開始する。


織田軍は、本願寺を裏切った堀江景忠の手引きによって国境を抜くと、そうと知った木ノ芽城の一揆勢は戦わずして逃走していった。一揆勢は越前府中に逃れようとしたが、そこには既に明智光秀や羽柴秀吉の軍が手ぐすね引いて待ち構えており、
一揆勢2千人余が片っ端から斬殺されていった。信長はこの惨状を、「府中の町は、死骸ばかりにて一円あき所なく候、見せたく候、今日は山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候」と自慢げに書状に認めて、京都所司代、村井貞勝宛てに送っている。さらに信長は、「山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」と厳命し、山へ逃げ込んだ者らを引きずり出して、門徒かどうか確かめもせずに片っ端から首を刎ねていった。


こうして、少なくとも1万人を超える一揆勢が斬り殺されると共に、多数の人々が奴隷として何処かに連行されていった。翌天正4年(1576年)府中周辺では再び一揆勢が蜂起するが、これも織田軍によって、容赦なく鎮圧される。(この出来事は、天正8年(1580年)教如が一揆蜂起を呼びかけた際に起こったものであるとも)。捕らえられた一揆勢は、前田利家の手によって虐殺されていった。後年、小丸城跡から発見された瓦には、その時の様子が書き残されている。

「この書物、後世に御覧になり、話していただきたい。5月24日に一揆おこり、前田又左衛門尉殿が、千人ばかり生け捕りにされ、御成敗は磔(はりつけ)、また釜に入れてあぶられ候なり。一筆書き留どめ候」

富田長繁を滅ぼし、強勢を誇った越前一向一揆もこうして歴史の片隅に消えていった。




歴史に残る海の大惨事

1945年1月、第二次大戦末期、かつてヨーロッパ全土を席巻したナチスドイツも、東西から連合軍に締め付けられ、今ではドイツ本土を残すのみとなっていた。ドイツの滅亡は間近に迫っていたが、それでも連合軍の攻撃が緩む事はなかった。中でもソ連は、自国が戦場となって荒廃した事から、凄まじい復讐心をもってドイツ本土に攻め入らんとしていた。そして、ソ連軍はドイツ領の東プロイセンに侵攻すると、住民に略奪、暴行の限りを尽くしつつ横断し、東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクをドイツ本土から切り離した。このままでは、孤立地帯の住民はソ連軍によって蹂躙され、数え切れない程の犠牲者を出す事になる。そこでドイツ海軍は、海路から住民を避難させるべく、総力を挙げて救出作戦を実施する事にした。これが、「ハンニバル作戦」である。決行するに当たって、大小問わず稼動する全ての艦艇、商船が動員され、その内の1隻に25,484トンの大型客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」も含まれていた。


 1月30日、東プロイセンの港湾都市ゴーテンハーフェンから、グストロフ号は定員の4倍にあたる合計6,050人もの人員を乗せて出航した。しかし、船が動き出して間もなく、周辺に避難民達の小船が殺到して、必死に乗船を希望した。船長は仕方なくグストロフ号を停止させて、避難民を出来るだけ多く船内に収容する事にした。この時、さらに乗り込んだ避難民達を合わせると、船内の人数は1万人余に膨らんだと見られている。その大半が女、子供であった。
だが、夜間航行中、グストロフ号はソ連軍の潜水艦に発見されてしまう。潜水艦は4本の魚雷を発射し、その内の3発がグストロフ号に命中した。


船体に激しい衝撃を受けて人々はパニック状態となり、悲鳴を上げつつ、一斉に救命ボートや救命胴衣を目掛けて殺到した。しかし、その数はまったく足りておらず、人々は船を右往左往するばかりであった。その間にも水は容赦なく侵入してきて、グストロフ号は急激に傾斜を強めてゆく。人々は着の身着のままで、暗い酷寒の海に飛び込まざるを得なかった。しかし、船内ですし詰め状態となっていた人々は逃げる事も叶わず、押し潰されつつ、船と共に沈んでいった。海に難を逃れた人々も、零下10度の海水に晒されて、多くが救助を待つ間に凍死していった。周辺のドイツ船は直ちに救助活動を実施したものの、1,200人余りしか救う事は出来なかった。実に9千人もの人々が、凍てついたバルト海に消えていったのだった。



この海域では他にも、避難民を満載した船舶ゴヤ号とシュトイベン号が、それぞれソ連潜水艦によって撃沈されている。ゴヤ号では乗員6,849人の内、救助されたのは183人、犠牲者は6,666人。シュトイベン号では乗員3,450人の内、救助されたのは300人、犠牲者は3,150人であった。(これらの犠牲者数には諸説がある。)


この3隻の船に起こった悲劇は戦時中に起こった出来事であり、海難事故とは見なされない向きがあって世には余り知られていない。「海難とはあくまでも平時において海で発生した商船や艦艇の事故を原則とするものであって、遭難の内容が如何に甚大であろうとも、如何に社会的に与える影響が大きくとも、戦禍で沈んだ船は海難とは扱われる事はない」とあるからだ。しかし、これらの出来事は、歴史に残る海の大惨事である事に間違いはない。平時に於ける最大級の海難事故としては、(1912年4月15日)かの有名なイギリス豪華客船タイタニック号が、氷河と接触して沈没し、1,500人余りの死者を出している。 そして、日本では、(1954年9月26日)台風によって洞爺丸が沈没し、1,155人の死者を出したのが最大の海難事故とされている


しかし、戦争となると、(1945年4月7日)戦艦大和は、3,000人余の乗員と共に沈み、(1944年8月22日)沖縄からの避難民を乗せた対馬丸が、アメリカ潜水艦によって撃沈され、学童775名を含む1,418人の犠牲者を出している。その他も挙げて見ると。

(1944年2月)隆西丸、ボルネオ島沖にて雷撃を受け沈没。犠牲者数4,999人。

(1944年6月)富山丸、徳之島東方30海里地点にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,695人。

(1944年11月)摩耶山丸、済州島西方にて雷撃を受け沈没。犠牲者数3,437人。

第二次大戦中、戦禍で失われた世界の商船の中で、犠牲者数の多い上位15隻を示した場合、日本の商船がその大半を占める。


余談となるが、冒頭にもあった東プロイセンは古くからのドイツ人の土地で、第二次大戦までドイツ領だった。しかし、戦後、東プロイセンの内、北半分はソ連に編入され、その中心都市であったケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名されて現在に至っている。南半分も、ポーランドに編入されている。東プロイセンはドイツ人にとって心の故郷であり、日本で言えば京都に当たる土地だそうで、その無念さは察するに余る。日本も敗戦間際、瀕死の病人の枕元から財布を抜き取るように、ソ連に千島列島と樺太南部を奪われている。樺太南部も千島列島も全て日本固有の領土である。こちらも何とも無念である。


こちらにシュトイベン号の記事が少し載っています

http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/feature/0502/index2.shtml




東部戦線での戦い

1941年6月22日、ドイツ軍300万人の大軍が、ロシアの大地に雪崩れ込んだ。人類史上、最も凄惨な戦いとなる独ソ戦の始まりである。ソ連は国境沿いに260万人の兵力を配置していたが、奇襲を受けて次々に包囲殲滅され、開戦早々、正規軍の大半を失う事となった。そこで、ソ連は素人の大衆を大量動員して、何とか戦線の穴埋めをせんとした。しかし、そうした努力も空しく、ソ連の重要都市は次々に陥落してゆき、1941年11月、ドイツ軍はついに、ソ連の首都モスクワの前面にまで至った。存亡の危機に立ったソ連は、ここで形振り構わぬ手段を用いて、首都を守り抜かんとした。すなわち、阻止分遣隊(銃弾をもっての味方の督戦、及び逃走を阻止する部隊)の全面採用である。



この時期のソ連軍は、一般人に銃の操作を教えただけの素人揃いであり、
ドイツ軍得意の空陸一体の攻撃を受けると、容易にパニックに陥った。さらに、敗北続きで士気も低下しており、脱走兵が絶えなかった。そこで、軍としての統制を維持すべく、味方の背中に機関銃を向ける事にしたのである。実際、阻止分遣隊は、味方兵士を引き締め、戦線維持に貢献する事となった。しかし、阻止分遣隊の存在は諸刃の剣でもあり、味方兵士に無謀な突撃を強要し、しかも退却を許さなかったので、ソ連軍兵士の死者はうなぎ登りに上がっていった。



●戦争初期のあるソ連軍部隊の攻撃


ソ連軍部隊が、緊張の面持ちで攻撃命令を待っていた。部隊で最も権限があるのは、共産党から送られてきた政治将校で、その政治将校が、前方のドイツ軍陣地を攻撃するよう部隊長に命じる。それを受けて部隊長が号令を発し、兵士達は一斉に雄叫びをあげて飛び出した。

「ウラーーー!!!(ばんざーい) 」

この時期のソ連軍は、味方全員に行き渡るほどの武器は無く、銃を所持しているのは先頭の兵士のみ、後方から続く兵士は少量の弾薬だけを携帯し、先頭の兵士が倒れたら、その手から銃をもぎ取って戦うのだ。何の遮蔽物もない吹雪の平原を、ソ連軍の集団が駆けて行く。その行く手には、ドイツ軍が陣地を築いて待ち受けていた。それは凍土を浅く掘っただけの塹壕に過ぎなかったが、それでも身を隠せるだけましであった。ドイツ軍も弾薬が欠乏しており、無駄弾は許されなかった。必中を期し、ソ連兵の顔が確認出来るまで引き付ける。そして、ドイツ軍の機関銃と小銃が一斉に火を噴き、ソ連兵は血飛沫を上げて次々に薙ぎ倒されてゆく。それでも、ソ連軍は突撃を続行し、倒れた戦死者から銃をもぎ取って戦った。



しばし、激しい銃撃戦が展開され、ドイツ軍も幾人かは倒れる。しかし、圧倒的に損害が多いのはソ連軍であった。ついにソ連軍は攻撃を諦め、元の陣地へと引き返してゆく。だが、敗走して来た彼らに待っていたのは、なんと味方からの機関銃掃射であった。阻止分遣隊を率いる政治将校は、敗走者を残らず射殺するよう命じ、それは確実に実行された。報告に上がった部隊長も攻撃失敗を咎められ、政治将校によってピストルで頭を撃ち抜かれた。ソ連軍は、1943年初頭のスターリングラード戦で勝利を収め、戦況が好転するまで兵士達をこのように扱っていた。



また、ソ連軍では、敵の包囲下に陥って退却してきた部隊の指揮官・兵士を決死的任務に投入する懲罰部隊に編入している。この懲罰部隊に編入されると、傑出した働きを示すか、戦死するか、負傷して前線に復帰可能となった場合のみ、元階級と地位を回復する事ができた。この懲罰部隊は、他のソ連軍部隊の進撃を容易にするため、地雷原をその足で切り開くよう、一列に並んで前進を強要される事もあり、その犠牲は大きかった。



●独ソの動員数と死傷者数

1941年6月22日、独ソ戦開始時、ドイツはルーマニア、フィンランドなどの同盟軍を合わせて376万人の兵力を有し、同年9月11日には最大402万人を数えた。しかし、その後は減少の一途を辿り、同年12月1日には340万人となっていた。ドイツは兵員補充に努めたが、それでも死傷して戦線離脱する者の方が上回った。1941年末までに、ドイツ軍は130万人に上る損害(負傷、行方不明、戦死)を出しており、その内、戦死者は20万を越えていた。ドイツは広大な占領地を有していたが、その戦線は危険なほど薄くなっていた。対するソ連軍は、開戦当初は260万人であったが、その後は増加の一途を辿り、1941年12月1日の時点で、ドイツ軍を上回る419万人に達していた。これ以降、ドイツ軍が数的に勝る事は無かった(両軍の動員数は、歴史群像を参照)。



1943年春の時点で、東部戦線のドイツ軍の兵力は270万人強で、ソ連軍の兵力は580万人弱であった。1945年初頭の段階では、東部戦線のドイツ軍は200万人で、ソ連軍は650万人に達していた。大戦後半、ソ連軍は圧倒的な数的優勢にあったが、それでも恐るべき損害を出し続けていた。1944年秋までに戦死、行方不明、捕虜は1千万人以上を出しており、負傷者も1,300万人に達していた。ただし、この数字は正規の軍人だけで、民間人の犠牲者は含まれていない。第二次大戦を通して、ソ連兵の死者は1,300万人余、民間人の死者は1,300万人以上で、ソ連の戦争犠牲者の総数は、2,600万人を超えると見られている。これは、中規模の国家が消滅するほどの死者数であった。ドイツの戦争死者の総数は、兵士、民間人を合わせて、430~530万人と見られている。



●バービィ・ヤール

独ソの攻防で、最大の焦点となったのはウクライナであった。この地は資源豊富で、ソ連の中で、最も重要な地域と認識されていた。前線での戦闘は激しく、死者が続出したが、後方の占領地でも虐殺の嵐が吹き荒れた。ドイツ軍はこの重要地を確実に確保すべく、反乱分子と見なした者、特にユダヤ人を根絶せんとした。その一例を挙げたい。



1941年9月19日、ドイツ軍は、ウクライナの首都キエフを占領したが、ソ連軍の仕掛けた時限爆弾が爆発して、数十人のドイツ兵が死亡した。この事件を受けてドイツ軍は、市街に居住していた5万人のユダヤ人に疑いを抱き、危険分子と見なして殲滅を決した。そして、彼らに新たな居住地を提供すると布告して、市街から誘い出し、郊外の谷へと連れ出していった。ユダヤ人達は検問所に着くと、そこで貴重品を取り上げられ、服も脱がされた。そして、峡谷の縁に10人ぐらいずつ並べられて、次々に銃殺されていった。



後から続く人々は、死体の山に腹ばいにさせられてから銃殺されていった。恐るべき作業は延々36時間、続けられ、こうして3万3千人余のユダヤ人が殺された。1943年11月6日ソ連軍の反攻によってキエフが解放されるまで、さらにパルチザン(対独レジスタンス)や、捕虜の虐殺等の犠牲者も加わって、10万人以上がこの谷を埋め尽くしたという。この谷はバービィ・ヤール(女の谷)と呼ばれている。



●東部戦線に派遣されたドイツ軍新兵。

東部戦線の広大な戦場は、幾らでも血と命を吸い続けた。それでも戦争が続く限りは、ベルトコンベアーの様に兵士を次々に送り込んでいくしかなかった。ドイツ本土で召集された新兵達は、列車に乗って東部戦線へと運ばれていく。新兵の多くは、まだ顔にあどけなさの残る20歳前後の若者達だった。彼らは列車に揺られつつのんびり風景を眺めたり、他愛もない会話を交えながら、戦場へと向かっていく。行く先に何が待っているのかは、この時点では知る由もなく、笑顔で談笑する余裕があった。
しかし、いざ列車から降り立ち、過酷な東部戦線に身を晒した途端、彼らの容貌は激変した。絶え間ない緊張の日々、不衛生な環境、粗末な食事、戦友の死、ロシアの酷寒、ソ連軍との常軌を逸した殺し合い。しばらくすれば、その顔から若者らしい初々しさは消え、恐怖と苦悩によって頬に深いしわが刻まれ、十歳以上、年をとった様な容貌に変わるのだった。



●大戦後半、ある戦場での話。

ソ連軍の大攻勢を受けて、ドイツ軍の集団が包囲されつつあった。そこでは、ドイツ本土へ向かう最後の列車が、負傷者を満載して、大急ぎで避退の準備を進めていた。それは、動けない重傷者を救う最後の命綱であった。ようやく列車は走り出したものの、ソ連軍の網から逃れるには一歩遅かった。ソ連軍爆撃機の攻撃を受け、列車は爆発炎上、線路から転覆する大惨事となった。この攻撃で大勢の重傷者が死んだが、まだ息のある者も多数いた。重傷者が呻(うめ)く側らを後退中のドイツ軍部隊が通りかかったが、助けようとする者は誰もいなかった。ソ連軍はすぐにここまで押し寄せて来る。自分達の命も危い中、動けない重傷者を助ける余裕など無かったからだ。



取り残される重傷者達は、ソ連軍の万に一つの慈悲にすがるしかなかったが、大半は虐待された挙句、殺される運命にあった。それが分っているある重傷者は、通りすがる兵士達の中に親しい戦友を見かけると、こう懇願した、自らの頭を撃ち抜いてくれと。その兵士は逡巡したが、尚も懇願され、やむなく承諾する。乾いた銃声が響き渡り、重傷者は事切れた。その側らで、戦友であった兵士は泣き崩れた。その間もドイツ軍部隊は歩みを止めず、重傷者のうめき声から耳を塞ぐ様に、うつむきながらその場を去っていった。


下記に紹介している本「最強の狙撃手」は、第二次大戦に従軍したドイツ軍一兵士の従軍記で、東部戦線の実態が生々しく描写されています。しかし、この本には、残酷な記述や写真が多数掲載されているので、心して読んでください。

 

駄目な戦国武将

2008.10.29 - 戦国史 其の一
戦国武将は名将ばかりではありません。中には駄目な武将だなと思える人物もいます。個人的にはこの人が一番駄目な武将の様に思えます。


大友 義統(1558~1610)

大友宗麟の後を継いで、当主となるも指導力を発揮出来ず、耳川の戦いの敗北の一因ともなる。この敗北後、大友家分国では反乱が続発するが、義統はなんらの対処も出来ず、隠居していた父、宗麟の力を頼む。 家臣団を始め、宗麟自身も義統の能力には疑問をもっていたらしい。


天正14年(1586年)、島津家が九州統一を目指し、大友家の領国に攻め込んでくると大友家部将の高橋紹運・利光宗魚らは城に立て篭もり、最後まで戦って討死するが、義統は戦わずして居城を捨てて逃げ出したと云う。


文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の折には渡海して軍を率いるも、無断で撤退して豊臣秀吉の逆鱗に触れ、御家取り潰しに遭う。 その後、毛利氏に預けられ幽閉されたが、慶長3年(1598年)の秀吉の死によって解放される。


慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍側に付いたほうが良いという家臣の進言もあったが、義統は西軍側で参戦する。義統は毛利輝元の後援を受け、御家再興を目指して、旧領、豊後に上陸する。そして、石垣原に於いて黒田如水の軍と激突するが敗北し、忠臣の吉弘統幸らは討ち死にしてしまう。しかし、義統自身は剃髪して降伏する。その後、常陸の国に流刑にされ、生涯を終える。 享年53歳


何もかもが裏目に出た義統だが、関ヶ原の戦いに於いて嫡男、義乗が徳川家康の元にいた事が幸いして、高家として取り立てられたので、大友家はその後も名家として存続する事だけは出来た。



 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
▼ 最新CM
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
[08/11 重家]
[05/02 通りすがり]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場