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東部戦線での戦い

1941年6月22日、ドイツ軍300万人の大軍が、ロシアの大地に雪崩れ込んだ。人類史上、最も凄惨な戦いとなる独ソ戦の始まりである。ソ連は国境沿いに260万人の兵力を配置していたが、奇襲を受けて次々に包囲殲滅され、開戦早々、正規軍の大半を失う事となった。そこで、ソ連は素人の大衆を大量動員して、何とか戦線の穴埋めをせんとした。しかし、そうした努力も空しく、ソ連の重要都市は次々に陥落してゆき、1941年11月、ドイツ軍はついに、ソ連の首都モスクワの前面にまで至った。存亡の危機に立ったソ連は、ここで形振り構わぬ手段を用いて、首都を守り抜かんとした。すなわち、阻止分遣隊(銃弾をもっての味方の督戦、及び逃走を阻止する部隊)の全面採用である。



この時期のソ連軍は、一般人に銃の操作を教えただけの素人揃いであり、
ドイツ軍得意の空陸一体の攻撃を受けると、容易にパニックに陥った。さらに、敗北続きで士気も低下しており、脱走兵が絶えなかった。そこで、軍としての統制を維持すべく、味方の背中に機関銃を向ける事にしたのである。実際、阻止分遣隊は、味方兵士を引き締め、戦線維持に貢献する事となった。しかし、阻止分遣隊の存在は諸刃の剣でもあり、味方兵士に無謀な突撃を強要し、しかも退却を許さなかったので、ソ連軍兵士の死者はうなぎ登りに上がっていった。



●戦争初期のあるソ連軍部隊の攻撃


ソ連軍部隊が、緊張の面持ちで攻撃命令を待っていた。部隊で最も権限があるのは、共産党から送られてきた政治将校で、その政治将校が、前方のドイツ軍陣地を攻撃するよう部隊長に命じる。それを受けて部隊長が号令を発し、兵士達は一斉に雄叫びをあげて飛び出した。

「ウラーーー!!!(ばんざーい) 」

この時期のソ連軍は、味方全員に行き渡るほどの武器は無く、銃を所持しているのは先頭の兵士のみ、後方から続く兵士は少量の弾薬だけを携帯し、先頭の兵士が倒れたら、その手から銃をもぎ取って戦うのだ。何の遮蔽物もない吹雪の平原を、ソ連軍の集団が駆けて行く。その行く手には、ドイツ軍が陣地を築いて待ち受けていた。それは凍土を浅く掘っただけの塹壕に過ぎなかったが、それでも身を隠せるだけましであった。ドイツ軍も弾薬が欠乏しており、無駄弾は許されなかった。必中を期し、ソ連兵の顔が確認出来るまで引き付ける。そして、ドイツ軍の機関銃と小銃が一斉に火を噴き、ソ連兵は血飛沫を上げて次々に薙ぎ倒されてゆく。それでも、ソ連軍は突撃を続行し、倒れた戦死者から銃をもぎ取って戦った。



しばし、激しい銃撃戦が展開され、ドイツ軍も幾人かは倒れる。しかし、圧倒的に損害が多いのはソ連軍であった。ついにソ連軍は攻撃を諦め、元の陣地へと引き返してゆく。だが、敗走して来た彼らに待っていたのは、なんと味方からの機関銃掃射であった。阻止分遣隊を率いる政治将校は、敗走者を残らず射殺するよう命じ、それは確実に実行された。報告に上がった部隊長も攻撃失敗を咎められ、政治将校によってピストルで頭を撃ち抜かれた。ソ連軍は、1943年初頭のスターリングラード戦で勝利を収め、戦況が好転するまで兵士達をこのように扱っていた。



また、ソ連軍では、敵の包囲下に陥って退却してきた部隊の指揮官・兵士を決死的任務に投入する懲罰部隊に編入している。この懲罰部隊に編入されると、傑出した働きを示すか、戦死するか、負傷して前線に復帰可能となった場合のみ、元階級と地位を回復する事ができた。この懲罰部隊は、他のソ連軍部隊の進撃を容易にするため、地雷原をその足で切り開くよう、一列に並んで前進を強要される事もあり、その犠牲は大きかった。



●独ソの動員数と死傷者数

1941年6月22日、独ソ戦開始時、ドイツはルーマニア、フィンランドなどの同盟軍を合わせて376万人の兵力を有し、同年9月11日には最大402万人を数えた。しかし、その後は減少の一途を辿り、同年12月1日には340万人となっていた。ドイツは兵員補充に努めたが、それでも死傷して戦線離脱する者の方が上回った。1941年末までに、ドイツ軍は130万人に上る損害(負傷、行方不明、戦死)を出しており、その内、戦死者は20万を越えていた。ドイツは広大な占領地を有していたが、その戦線は危険なほど薄くなっていた。対するソ連軍は、開戦当初は260万人であったが、その後は増加の一途を辿り、1941年12月1日の時点で、ドイツ軍を上回る419万人に達していた。これ以降、ドイツ軍が数的に勝る事は無かった(両軍の動員数は、歴史群像を参照)。



1943年春の時点で、東部戦線のドイツ軍の兵力は270万人強で、ソ連軍の兵力は580万人弱であった。1945年初頭の段階では、東部戦線のドイツ軍は200万人で、ソ連軍は650万人に達していた。大戦後半、ソ連軍は圧倒的な数的優勢にあったが、それでも恐るべき損害を出し続けていた。1944年秋までに戦死、行方不明、捕虜は1千万人以上を出しており、負傷者も1,300万人に達していた。ただし、この数字は正規の軍人だけで、民間人の犠牲者は含まれていない。第二次大戦を通して、ソ連兵の死者は1,300万人余、民間人の死者は1,300万人以上で、ソ連の戦争犠牲者の総数は、2,600万人を超えると見られている。これは、中規模の国家が消滅するほどの死者数であった。ドイツの戦争死者の総数は、兵士、民間人を合わせて、430~530万人と見られている。



●バービィ・ヤール

独ソの攻防で、最大の焦点となったのはウクライナであった。この地は資源豊富で、ソ連の中で、最も重要な地域と認識されていた。前線での戦闘は激しく、死者が続出したが、後方の占領地でも虐殺の嵐が吹き荒れた。ドイツ軍はこの重要地を確実に確保すべく、反乱分子と見なした者、特にユダヤ人を根絶せんとした。その一例を挙げたい。



1941年9月19日、ドイツ軍は、ウクライナの首都キエフを占領したが、ソ連軍の仕掛けた時限爆弾が爆発して、数十人のドイツ兵が死亡した。この事件を受けてドイツ軍は、市街に居住していた5万人のユダヤ人に疑いを抱き、危険分子と見なして殲滅を決した。そして、彼らに新たな居住地を提供すると布告して、市街から誘い出し、郊外の谷へと連れ出していった。ユダヤ人達は検問所に着くと、そこで貴重品を取り上げられ、服も脱がされた。そして、峡谷の縁に10人ぐらいずつ並べられて、次々に銃殺されていった。



後から続く人々は、死体の山に腹ばいにさせられてから銃殺されていった。恐るべき作業は延々36時間、続けられ、こうして3万3千人余のユダヤ人が殺された。1943年11月6日ソ連軍の反攻によってキエフが解放されるまで、さらにパルチザン(対独レジスタンス)や、捕虜の虐殺等の犠牲者も加わって、10万人以上がこの谷を埋め尽くしたという。この谷はバービィ・ヤール(女の谷)と呼ばれている。



●東部戦線に派遣されたドイツ軍新兵。

東部戦線の広大な戦場は、幾らでも血と命を吸い続けた。それでも戦争が続く限りは、ベルトコンベアーの様に兵士を次々に送り込んでいくしかなかった。ドイツ本土で召集された新兵達は、列車に乗って東部戦線へと運ばれていく。新兵の多くは、まだ顔にあどけなさの残る20歳前後の若者達だった。彼らは列車に揺られつつのんびり風景を眺めたり、他愛もない会話を交えながら、戦場へと向かっていく。行く先に何が待っているのかは、この時点では知る由もなく、笑顔で談笑する余裕があった。
しかし、いざ列車から降り立ち、過酷な東部戦線に身を晒した途端、彼らの容貌は激変した。絶え間ない緊張の日々、不衛生な環境、粗末な食事、戦友の死、ロシアの酷寒、ソ連軍との常軌を逸した殺し合い。しばらくすれば、その顔から若者らしい初々しさは消え、恐怖と苦悩によって頬に深いしわが刻まれ、十歳以上、年をとった様な容貌に変わるのだった。



●大戦後半、ある戦場での話。

ソ連軍の大攻勢を受けて、ドイツ軍の集団が包囲されつつあった。そこでは、ドイツ本土へ向かう最後の列車が、負傷者を満載して、大急ぎで避退の準備を進めていた。それは、動けない重傷者を救う最後の命綱であった。ようやく列車は走り出したものの、ソ連軍の網から逃れるには一歩遅かった。ソ連軍爆撃機の攻撃を受け、列車は爆発炎上、線路から転覆する大惨事となった。この攻撃で大勢の重傷者が死んだが、まだ息のある者も多数いた。重傷者が呻(うめ)く側らを後退中のドイツ軍部隊が通りかかったが、助けようとする者は誰もいなかった。ソ連軍はすぐにここまで押し寄せて来る。自分達の命も危い中、動けない重傷者を助ける余裕など無かったからだ。



取り残される重傷者達は、ソ連軍の万に一つの慈悲にすがるしかなかったが、大半は虐待された挙句、殺される運命にあった。それが分っているある重傷者は、通りすがる兵士達の中に親しい戦友を見かけると、こう懇願した、自らの頭を撃ち抜いてくれと。その兵士は逡巡したが、尚も懇願され、やむなく承諾する。乾いた銃声が響き渡り、重傷者は事切れた。その側らで、戦友であった兵士は泣き崩れた。その間もドイツ軍部隊は歩みを止めず、重傷者のうめき声から耳を塞ぐ様に、うつむきながらその場を去っていった。


下記に紹介している本「最強の狙撃手」は、第二次大戦に従軍したドイツ軍一兵士の従軍記で、東部戦線の実態が生々しく描写されています。しかし、この本には、残酷な記述や写真が多数掲載されているので、心して読んでください。

 
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