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零戦

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↑零式艦上戦闘機21型  

正式採用年月日 1940年7月

●性能要目
全長9.06m 全幅12.00m
出力940hp 最大速度 533km/h
全備重量 2410kg 航続距離(正規) 2222km (増槽あり)3350km

●武装
胴体内7.7mm機銃×2 (弾数各700発)翼内20mm機銃×2(弾数各60発) 爆弾 60kg×2または30kg×2

開戦時の日本海軍主力戦闘機
洗練された機体デザインと徹底した軽量化によって、高い運動性能を誇り、強力な20mm機関砲との組み合わせは絶大な制空能力を発揮した。また、長大な航続力を有して、広い大洋での戦いに向いていた。しかし、その反面、防御力は無きに等しく、被弾には脆い。限られた出力で最大限の性能を引き出そうとした結果、機体に余裕が無くなって改良による性能向上が難しく、量産性も低い。空中無線機の能力不足で組織的戦闘が難しい。このように零戦は、長所と短所を併せ持つ諸刃の剣ともいえる戦闘機であったが、登場時には紛れもなく世界第一級の性能を誇っていた。

開戦時の保有機数は200機程(400機程とも)で空母部隊に優先的に配属された。開戦時には中国戦線で実戦経験を持つパイロットが多数存在し、本機の性能と相まって大活躍、日本軍進撃の立役者となる。各型合わせて1万機が生産された。

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↑F4F-3 

正式採用年月日 1939年8月

●性能要目
全長8.76m 全幅11.58m
出力1200hp 最大速度 531km/h
全備重量 3208kg 航続距離(正規) 1360km

●武装
翼内12・7mm機銃×4(弾数各450発)
爆弾 45kg×2

開戦時のアメリカ海軍主力戦闘機
平凡な設計だが、機体構造は頑丈である。零戦よりも高出力なエンジンと優秀な無線機を搭載している。零戦と比べると、上昇力、旋回性能、航続力の各々で劣るが、防御力には優れ被弾に強く、急降下性能で勝る。戦争初期には零戦に格闘戦に持ち込まれて苦戦するが、後に2機で一体となる戦術を考案し、本機の特徴を生かした高高度からの一撃離脱戦法を取るに至って、零戦に対して互角以上の働きを示すようになる。約7千8百機が生産された。


Zero-52.jpg






↑零式艦上戦闘機52型 

実戦配備年月日 1944年初頭

●性能要目
全長9.12m 全幅11.00m
出力1130hp  最大速度565km/h
全備重量2686kg  航続距離(正規)1920km

●武装
胴体内7・7mm機銃×2(弾数各700発) 翼内20mm機銃×2(弾数各100発)  爆弾60kg×2または30kg×2

大戦後期の日本海軍主力戦闘機
零戦の改良性能向上型で更に甲・乙・丙に分派する。
速度性能が向上し、後期型になるに従って防御力が強化されてゆく。防弾ガラスの採用、主要部の防弾装備や炭酸ガス式自動消火装置の装備なども施され、戦闘の実情に沿う仕様となった。しかし、高められた防御力もアメリカ側の水準には及ばず、重量増加によって零戦の特徴である軽快な運動性は失われてしまう。本機が登場する頃には、アメリカ軍の新型F6F戦闘機が実戦参加しており、しかも開戦時の熟練パイロットの大半は戦死しているので、大変な苦戦を強いられる。 ちなみに、零戦52型の当時の値段は約9万円で、現代の価値に直すと1億4500万円ほどであったそうだ。


F6f.jpg






↑F6FF-3 

実戦配備年月日 1943年8月

●性能要目
全長12.24m 全幅13.06m
出力2000hp 最大速度 605km/h
全備重量 5997kg 航続距離(正規) 1750km (増槽あり)2980km

●武装
翼内12・7mm機銃×6(弾数各400発)
爆弾454kg×2 5インチロケット弾×6

大戦後期のアメリカ海軍主力戦闘機
F4Fを拡大した堅実な設計の新型機で、優れた操縦性を発揮。F4Fと同じく優秀な無線機を搭載しており、組織的戦闘が容易である。エンジン出力は零戦の2倍あって速度、火力、防御力でも勝っている。低速域での運動性こそ劣っていたが、高速域での運動性では零戦を凌駕する。約1万2千機が生産され、日本軍機を圧倒して約5千機を撃墜。


アメリカ軍は開戦時にはF4Fを運用していたが、その後継機たるF6Fは既に1938年3月から開発が始まっており、1942年には量産に入っていた。アメリカ側にF6Fが登場した時点で日本海軍も新型艦上戦闘機を投入しなければならなかったのだが、開発に手間取って最後まで投入される事は無かった。後継機の烈風は1942年に開発が始まっていたが、戦闘機用2千馬力エンジンの実用化に難渋して、ようやく量産に入ったのは1945年の終戦直前であった。このため、零戦は戦争中盤以降、力不足を感じながらも最後まで主力として戦い続けなければならなかった。


戦争初期、零戦とアメリカ機のキルレシオは1:6の優勢にあったのに対して、戦争後期に入ると16:1の劣勢になったと言われている。日本とアメリカの工業力の差は歴然としており、時間が経てば経つほどアメリカ側が有利に立つという事が航空機の開発にも表れている。残念ながら日本は、開戦の時点で既に敗れる運命にあったのだろう。 それでも日本は、アメリカの挑発に堪えかねて戦わざるを得なかった。圧倒的な物量を誇るアメリカに対し、日本は創意工夫と兵士の旺盛な戦意で立ち向った。零戦は、日本の栄光と悲哀をそのまま体現した戦闘機であった。


 


 
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いわくつきの城

2008.10.30 - 歴史の怪奇談
いわくつきの城と言えば東京都に在る八王子城が有名です。この城は戦国時代に北条氏照が築いた山城です。(1590年)豊臣秀吉によって北条氏が討伐されるに至って北条家は本城、小田原城に主力を集めて征討軍を迎え撃つ事とし、これに伴い氏照も主力を率いて小田原城に移ります。このため八王子城では氏照の家老が留守を預かり、女子供を含む領民達を動員して2000名程の人員と共に城を守っていました。


天正18年(1590年)6月23日早朝、八王子城は、征討軍の攻撃を受けます。城方は所々で奮戦しますが、城主と主力部隊の不在が響き、僅か半日で落城してしまいます。落城に際して、秀吉は北条家に対し見せしめにするという意向もあって、城内の生ける者達の多くは殺戮されます。その犠牲者数は女子供も含めて千名にも上ったとか。


以来、八王子城では現在に至るまで、様々な怪奇談が語られています。(6月23日)落城の日の夜には城兵達の恨めしげなうめき声が聞こえてくる、婦女子達が自害した滝の側では幽霊が目撃される、等などテレビでも心霊スポットとして取り上げられていました。


もう1ついわくのありげな城跡を紹介します。


戦国時代、三木城の別所氏は播磨の有力大名でありましたが、織田家の部将、羽柴秀吉が進出してくるとこれに従い、その与力となりました。しかし、別所氏は天正6年(1578年)3月、突如、三木城に立て篭もり、織田家に反旗を翻します。以後、秀吉方と別所方は三木城周辺を舞台に戦いを繰り広げ、両軍共、おびただしい数の犠牲者を出します。やがて、三木城は秀吉方によって完全に包囲され、2年にも及ぶ兵糧攻めを受けて多くの餓死者を出した末、天正8年(1580年)に落城します。


三木城は現在では住宅街に埋め尽くされ、見る影もありませんが、いわくありげな城跡ではあります。そして、三木城からやや離れた場所ではありますが、(1990年代前半)道路造成工事を行った際、古い祠か墓を撤去したそうです。それは、三木合戦で戦死した武士の墓であったのかもしれません。その後、道路は開通して、多くの車両が行き来するようになりますが、ある交差点の付近では事故が多発するようになります。そして、その事故を起こした多くの人が、武士の霊を目撃したと言うのです。特に深夜、雨がよく降る日に武士の霊が目撃されたそうです。この噂は当時、この付近全域に伝わっていました。


私も当時、その道を通った事はありましたが、幸いその霊を目撃する事はありませんでした。どこかで聞いた噂話によると、余りにも事故が多発するという事で、その武士の霊を慰めるため祠を立て直し、供養をおこなったところ、武士の霊は現れることはなくなったそうです。しかし、この交差点付近では今でも事故がたびたび起こるようでして、通るたびに、電柱に花が飾ってあるのを見ます。 南無阿弥陀仏・・・



 

白川郷の戦国武将

2008.10.30 - 戦国史 其の一
白川郷一帯の戦国時代に少しばかり触れてみる。
 

戦国期、飛騨は山々に囲まれた小さな国で石高は3万8千石で動員数は950人ほどであったとされている。米の生産高こそ低かったものの、鉱物資源と山林資源を豊富に産出しており、貧しい国ではなかった。鉱物資源を例に挙げれば、天正元年(1573年)飛騨の土豪、塩屋秋貞が上杉謙信に鉛600kgを送ったとの記録もある。また、天正14年(1586年)に金森長近が飛騨に入部してからは、和佐保銀山、茂住銀山などが開発されて、隆盛を極めている。元禄5年(1692年)、飛騨が幕府の直轄領となった頃からは、銅、鉛の鉱山開発が相次いだ。さらに明治期に入ると三井組が神岡鉱山の開発を進めて、鉛の精錬が大規模に行われた。飛騨は山深く、農産物の生産には適していなかったものの、このように鉱物資源は豊富に産出する地域であった。


戦国期、白川郷一帯は帰雲山に築かれた帰雲城を本拠とした内ヶ島氏が治めていた。白川郷一帯は一向宗の影響が強かった事から、内ヶ島氏は、照蓮寺という本願寺系列の寺と深く結び付き、政教合体で統治した。内ヶ島氏は、帰雲城以外にも向牧戸城・萩町城といった支城を持つ有力な国人領主で、その財力を支えていたのが、支配地域から産出する豊富な鉱物資源であった。内ヶ島氏の最後の当主は、氏理(うじさと?)と云う武将で、彼の代になると照蓮寺とは手を切り、織田信長と誼を結んで、隣国、越中に赴任してきた織田家部将、
佐々成政と連携した。その後も成政との連携は続き、天正13年(1585年)、小牧長久手合戦の際には、氏理は徳川方に付いた佐々成政に味方して、自ら越中に出陣している。しかし、その隙に豊臣秀吉の命を受けた金森長近が、越前大野から白川郷に侵入してきた。


金森軍は内ヶ島氏の支城、向牧戸城に攻めかかって来たが、城将はよく守って、容易には落ちなかった。金森軍侵入の報を受け、氏理は急ぎ帰国したが、その頃には向牧戸城は落ちてしまっていた。戦っても利がないと悟った氏理は、長近の下を訪れ、献上金を差し出して降伏する。この結果、氏理は領土は削られたものの白川郷の本領は安堵された。 内ヶ島氏は鉱物の産出する場所を知っていた事と、多くの鉱山技術者を抱えていた事もあって、長近もこれを滅ぼす訳にはいかなかったのである。 当時、鉱物資源を採掘するためには独自の技術が必要であり、その技術を持つ者は少なかった。


この難局を切り抜けた氏理は、帰雲城に帰還する。しかし、氏理が帰雲城に帰還してから3ヶ月後、天正13年(1585年)11月29日、震度8の天正大地震が発生して帰雲山が大崩壊し、凄まじい地鳴りを伴った山津波が、帰雲城と3百余戸の城下町を一瞬にして呑み込んでしまう。 これにより内ヶ島氏理を始めとする1500人余の人々は、悉く土砂の下に埋もれてしまった。 この時、所用で他国へ出かけていた4人だけが助かったと云う。山深い飛騨の地で内ヶ島氏は豊富に産出する金で栄えていたとされており、この出来事をもって帰雲城の埋蔵金伝説が生まれる。


(余談)昔、旅行で白川郷を訪れた事があります。車で国道156号線を走って白川郷を目指していた時、山頂が大きく崩壊した帰雲山を見かけました。地震から数百年たった現在でも、山頂付近は茶色い土砂が剥き出しになっていました。その麓の地中深くには内ヶ島一族や多数の領民が今でも眠っている事でしょう。もしかすると黄金の埋蔵金と共に・・・



戦国時代の支城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
戦国時代、有能な実力者が一国を手に入れようとしても、非常に時間がかかる事が多かった。何故なら、国内には様々な勢力が独立割拠しており、支配される事を嫌って、必死に抵抗するからだ。それらは寺社勢力であったり、同族であったりと様々だが、最も一般的なのは在地に根付く国人と呼ばれる小領主の存在だろう。戦国大名が一国を統一するためには、それらの勢力を跪かせ統制下に置かねばならない。しかし、それらの勢力は、ほぼ全てが自前の城を持っており、しかも本城を中心に円を描くように支城網を廻らせて防御を固めていた。


一国の大名であれば、本城が政治軍事の中心となり、支城は郡単位の統治と防衛を担った。一郡を支配する国人であれば、やはり本城が政治軍事の中心となるが、その支城の造りは、勢力の規模が小さいのもあって、砦のようなものであったろう。支城は、本城に兵力と兵糧を供給し、さらに本城を攻めようとする相手を牽制する。その支城網を残したまま敵本城へ強攻すれば、補給路を脅かされたり、背後を襲われる危険性が高くなる。そこで大抵の戦国大名は、支城を一つ一つ落としていって徐々に敵勢力の力を削ぎ落とし、最後に本城を取り囲むといった戦略を取る。そして、本城一つのみとした敵対勢力を攻め滅ぼす、または降伏、服属させるといった手順を繰り返してその国の統一を図る事となる。


永禄4年(1561年)
から始まった織田信長による美濃攻略戦の場合、斎藤家の本城、稲葉山城を早期に奪取しようと、西美濃平野部から攻略戦を開始するが、斉藤家の抵抗は激しく、はかばかしい戦果を挙げられなかった。そこで信長は、東方の山間部から美濃を徐々に切り取っていく作戦に切り替えた。美濃の東から城を一つ一つ落として稲葉山城に近づいてゆく、その作戦は地道で時間がかかったものの、確実に斎藤家の戦力を削ぎ落としていき、永禄10年(1567年)8月頃、斎藤龍興は抵抗力を失って逃走するに到った。これで信長は念願の稲葉山城を手中に収め、更に尾張・美濃を領有する戦国有数の大大名となって、天下人への道が切り開かれる。


戦国大名の間では度々、主力決戦が行われているが、それに勝利してもその勢いで相手の本拠地を奪い取るのは困難であった。何故なら、支城網が立ち塞がって防衛機能を発揮し、その間に相手勢力は体制を立て直す時間を稼げたからだ。天正3年(1575年)5月21日に行われた、武田家と織田、徳川家との決戦、長篠の戦いでは、織田、徳川軍が完勝しているが、武田家の滅亡を見るのは、それから7年後の、天正10年(1582年)3月11日まで待たねばならない。


この場合、武田の本拠地、甲斐までは遠く、間には多数の支城が立ちはだかっていたので、一気に引導を渡す事は出来なかった。そして、織田、徳川軍は幾つかの支城を落としただけで、引き揚げている。勝頼としては、支城が稼いでくれた時間のお陰で軍を立て直し、その後も長く抵抗する事が出来た。だが、決戦地から相手本拠地までの距離がそう遠くなく、勝利者が徹底的な追撃を行うと、そのまま相手の本城を奪える事もあった。


天正元年(1573年)8月織田信長は、刀根坂(近江と越前の境目)の戦いで朝倉義景の主力を討滅すると、そのまま越前に攻め込み、立ち直る隙を与えず、一気に朝倉家を滅ぼして越前一国を平定している。天正17年(1589年)6月、東北の戦国大名、伊達政宗は摺上原(磐梯山と猪苗代湖の間にある草原)の戦いで、会津の大名、芦名義広を打ち破ると、義広は本城の黒川城を保つ事が出来なくなって、白河に逃れている。そして、伊達政宗は抵抗を受ける事なく黒川城に入城し、一時、奥州の覇者として君臨する。


関東に君臨した北条家は、領内に支城の網を築きあげ、有効に活用した大名として有名である。その支城網は武田・上杉家といった戦国有数の大名にも威力を発揮し、その攻撃を凌いでいる。しかし、この支城網も威力を発揮するのは兵力と補給力に限りがある、同級の大名までであって、相手が無限に近い兵力と補給力を持った天下人ともなると通用しなくなる。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による北条征伐では、圧倒的な戦力を有する豊臣軍は、関東の北と東から同時に北条領に侵攻する。豊臣軍主力が北条家の本城、小田原城を囲んでいる間、別働隊は次々に支城を落していって、小田原城を本城のみの裸城とした。同年7月6日、補給の見こみが無くなり、伊達政宗も秀吉に降参して後詰めの見込みも無くなった北条家は降伏を余儀なくされる。関東に五代、100年にも渡って君臨した北条家は、豊臣家の4ヶ月程の攻勢で滅亡する。


戦国大名は敵対勢力を倒す時、相手の本城を武力で攻め落とす事は少なかったのではないか。大抵は有力な支城が落ちた時点、または全ての支城を失い、本城が包囲された時点で相手勢力は降伏、開城している模様である。同級の大名には大きな防御力を発揮する支城網も、戦う相手が天下人、または地方の覇者ともなれば、城主達は戦力差を鑑みて、戦わずして開城・寝返り・逃走する場合も多かったようだ。



こちらのHP「北神戸丹生山田の郷」のページ、秀吉の足跡(播州三木合戦)の地図を見ると、三木城とそれを支える支城の様子が良く分かります。
http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/hideyoshi.htm



高射砲塔

高射砲塔とは、第二次大戦中、連合軍の爆撃機から、ドイツの都市を防衛するために建設された要塞である。しかし、その建造には膨大な費用と労力を要する事から、ベルリン、ハンブルグ、ウィーンなどの重要都市に限定して建設されていった。各高射砲塔のデザインはそれぞれ異なっており、大きさ、武装も様々である。どの塔においても対空火力の強力さは折り紙つきで、その絶大な火力と防御力は、地上軍との戦闘においても有効であった。


高射砲塔は、多数の高射砲を装備したG塔と、対空射撃の精度を高めるため、ヴュルツブルクレーダーやマンハイムレーダーなどの高度な射撃指揮装置を備えたL塔とが、セットで建設され、迎撃も両塔が連携して行う。 G塔はコンクリート製で壁は2mから2.5mもの厚さがあり、高さは40mから50m、その頂部に12,8cm連装高射砲などの大口径砲を4基装備、塔の上部の張り出しには自己防衛用に37mmから20mmの口径の対空機関砲が12基装備されている。 砲塔内部には発電機や弾薬庫、人員の居住施設、貯水槽が設置されており、自立的な戦闘が可能だった。設計段階での収容人数は8千人程であるが、最大3万人を収容したとの記録もある。


これらの高射砲塔は、肝心の連合軍爆撃機との交戦の機会はあまりなかった。だが、ドイツに侵攻してきたソ連軍との間では、激しい地上戦を行っている。こうした高射砲塔群の中でも、有名なのがベルリンのツォー高射砲塔である。12,8cm連装高射砲を4基装備し、その強力な火力と防御力でベルリンに押し寄せるソビエト軍と熾烈な地上戦を展開し、ライヒスタークに押し寄せるソ連軍にも大きな損害を与えた。 大物量を誇るソ連軍でも、さすがにこの要塞を武力で攻略するのは手に余り、ツォー高射砲塔に対して軍使を派遣して降伏せしめている。


第二次大戦終結後、高射砲塔は無用の長物となり、解体が検討されるが、それは容易な作業では無かった。高射砲塔は余りにも巨大で頑丈であったため、その解体にも莫大な費用と労力を必要としたからである。ベルリンにあった高射砲塔は苦労して解体されていったが、ハンブルクとオーストリアのウィーンには今でも高射砲塔が残されており、周囲を圧する異様な迫力を醸し出している。



Flakturm.jpg








↑高射砲塔




 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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