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戦国時代の支城

2008.10.30 - 戦国史 其の一
戦国時代、有能な実力者が一国を手に入れようとしても、非常に時間がかかる事が多かった。何故なら、国内には様々な勢力が独立割拠しており、支配される事を嫌って、必死に抵抗するからだ。それらは寺社勢力であったり、同族であったりと様々だが、最も一般的なのは在地に根付く国人と呼ばれる小領主の存在だろう。戦国大名が一国を統一するためには、それらの勢力を跪かせ統制下に置かねばならない。しかし、それらの勢力は、ほぼ全てが自前の城を持っており、しかも本城を中心に円を描くように支城網を廻らせて防御を固めていた。


一国の大名であれば、本城が政治軍事の中心となり、支城は郡単位の統治と防衛を担った。一郡を支配する国人であれば、やはり本城が政治軍事の中心となるが、その支城の造りは、勢力の規模が小さいのもあって、砦のようなものであったろう。支城は、本城に兵力と兵糧を供給し、さらに本城を攻めようとする相手を牽制する。その支城網を残したまま敵本城へ強攻すれば、補給路を脅かされたり、背後を襲われる危険性が高くなる。そこで大抵の戦国大名は、支城を一つ一つ落としていって徐々に敵勢力の力を削ぎ落とし、最後に本城を取り囲むといった戦略を取る。そして、本城一つのみとした敵対勢力を攻め滅ぼす、または降伏、服属させるといった手順を繰り返してその国の統一を図る事となる。


永禄4年(1561年)
から始まった織田信長による美濃攻略戦の場合、斎藤家の本城、稲葉山城を早期に奪取しようと、西美濃平野部から攻略戦を開始するが、斉藤家の抵抗は激しく、はかばかしい戦果を挙げられなかった。そこで信長は、東方の山間部から美濃を徐々に切り取っていく作戦に切り替えた。美濃の東から城を一つ一つ落として稲葉山城に近づいてゆく、その作戦は地道で時間がかかったものの、確実に斎藤家の戦力を削ぎ落としていき、永禄10年(1567年)8月頃、斎藤龍興は抵抗力を失って逃走するに到った。これで信長は念願の稲葉山城を手中に収め、更に尾張・美濃を領有する戦国有数の大大名となって、天下人への道が切り開かれる。


戦国大名の間では度々、主力決戦が行われているが、それに勝利してもその勢いで相手の本拠地を奪い取るのは困難であった。何故なら、支城網が立ち塞がって防衛機能を発揮し、その間に相手勢力は体制を立て直す時間を稼げたからだ。天正3年(1575年)5月21日に行われた、武田家と織田、徳川家との決戦、長篠の戦いでは、織田、徳川軍が完勝しているが、武田家の滅亡を見るのは、それから7年後の、天正10年(1582年)3月11日まで待たねばならない。


この場合、武田の本拠地、甲斐までは遠く、間には多数の支城が立ちはだかっていたので、一気に引導を渡す事は出来なかった。そして、織田、徳川軍は幾つかの支城を落としただけで、引き揚げている。勝頼としては、支城が稼いでくれた時間のお陰で軍を立て直し、その後も長く抵抗する事が出来た。だが、決戦地から相手本拠地までの距離がそう遠くなく、勝利者が徹底的な追撃を行うと、そのまま相手の本城を奪える事もあった。


天正元年(1573年)8月織田信長は、刀根坂(近江と越前の境目)の戦いで朝倉義景の主力を討滅すると、そのまま越前に攻め込み、立ち直る隙を与えず、一気に朝倉家を滅ぼして越前一国を平定している。天正17年(1589年)6月、東北の戦国大名、伊達政宗は摺上原(磐梯山と猪苗代湖の間にある草原)の戦いで、会津の大名、芦名義広を打ち破ると、義広は本城の黒川城を保つ事が出来なくなって、白河に逃れている。そして、伊達政宗は抵抗を受ける事なく黒川城に入城し、一時、奥州の覇者として君臨する。


関東に君臨した北条家は、領内に支城の網を築きあげ、有効に活用した大名として有名である。その支城網は武田・上杉家といった戦国有数の大名にも威力を発揮し、その攻撃を凌いでいる。しかし、この支城網も威力を発揮するのは兵力と補給力に限りがある、同級の大名までであって、相手が無限に近い兵力と補給力を持った天下人ともなると通用しなくなる。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による北条征伐では、圧倒的な戦力を有する豊臣軍は、関東の北と東から同時に北条領に侵攻する。豊臣軍主力が北条家の本城、小田原城を囲んでいる間、別働隊は次々に支城を落していって、小田原城を本城のみの裸城とした。同年7月6日、補給の見こみが無くなり、伊達政宗も秀吉に降参して後詰めの見込みも無くなった北条家は降伏を余儀なくされる。関東に五代、100年にも渡って君臨した北条家は、豊臣家の4ヶ月程の攻勢で滅亡する。


戦国大名は敵対勢力を倒す時、相手の本城を武力で攻め落とす事は少なかったのではないか。大抵は有力な支城が落ちた時点、または全ての支城を失い、本城が包囲された時点で相手勢力は降伏、開城している模様である。同級の大名には大きな防御力を発揮する支城網も、戦う相手が天下人、または地方の覇者ともなれば、城主達は戦力差を鑑みて、戦わずして開城・寝返り・逃走する場合も多かったようだ。



こちらのHP「北神戸丹生山田の郷」のページ、秀吉の足跡(播州三木合戦)の地図を見ると、三木城とそれを支える支城の様子が良く分かります。
http://www14.plala.or.jp/niu_yamada/hideyoshi.htm



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