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明智光秀の両腕

2009.04.19 - 戦国史 其の二
戦国一の出世人である豊臣秀吉には、黒田孝高、豊臣秀長という、天下取りの覇業を支えた両腕とも言える家臣がいた。その秀吉と激しく競い合い、運悪く天下を逃した明智光秀にも、両腕とも言える家臣が存在していた。それが斎藤利三、明智秀満の2人である。


斎藤内蔵助利三 (1534?~1582)


斉藤利三は美濃国に生まれ、長ずると斉藤義龍に仕えた。その後、稲葉一徹に仕えるが、明智光秀に見込まれて高禄で誘われ、家老格として仕える事になる。(余談だが、この時、光秀は稲葉家臣の中からもう一人、一鉄が頼みとしていた那波直治も引き抜こうして、訴訟沙汰を起こされている)。利三が光秀に仕えていた期間はそれほど長くないにも関わらず、片腕として重用されている。これは利三が、光秀と縁者関係にあった事と、武将としての力量に優れていたからであろう。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変においては、本能寺襲撃の現地の指揮を執り、的確な指示を出した。その後の山崎の戦いにおいても明智軍の主力として戦い、奮戦している。山崎の戦いの後、近江の地に潜伏していた所を捕縛され、六条河原にて斬首された。 娘に、後の春日局ことお福がいる。


利三には、石谷頼辰(いしがい・よりとき)と云う兄がいた。頼辰は、室町幕府奉行集を勤めていた石谷光政の女婿として迎えられ、石谷姓を名乗った。永禄6年(1563年)、土佐の戦国大名、長宗我部元親は、石谷光政の息女と婚姻する事となり、これを受けて、頼辰、利三兄弟は、義妹を通じて長宗我部元親と縁戚関係となった。天正3年(1575年)頃、光秀は四国の取次ぎ役を任され、元親と信長との間を取り持つようになる。そして、元親と光秀の仲介役を担ったのが、頼辰であった。頼辰は義父と同じく、室町幕府奉行を勤めていたが、幕府滅亡後からは、光秀に仕えていた。明智、斉藤、長宗我部家の三家は、この様に石谷家を通じて結び付いていた。


信長は、元親に四国の切り取り次第を許可していたが、天正10年(1582年)を迎えると天下統一も視野に入った事から、元親に制限を加え、土佐一国に留めようとした。しかし、元親はこの違約に激怒して反抗の姿勢を見せた事から、信長は長宗我部討伐に乗り出さんとした。これを受けて、取次ぎ役であった光秀は面目を失い、頼辰と利三も苦悩したであろう。この政策変更は、光秀の反逆の芽を生むと同時に、頼辰と利三もその決断の後押しをしたのではないか。本能寺の変は、長宗我部家を救う一面もあった。そして、光秀は信長を倒すも、ほどなく羽柴秀吉に敗れ去った。これを受けて、石谷頼辰と利三の子、三存は土佐の元親のもとへ逃れ、家臣として仕える事になる。その後、頼辰の娘は元親の嫡男、信親に嫁いでいる事からも、斉藤、石谷、長宗我部家の強い結び付きが窺える。




明智弥平次(左馬助)秀満 (?~1582)


旧姓は三宅弥平次。秀満の出自や前半生は不明瞭であるが、早くから光秀に仕えて篤い信頼を得ていたようだ。光秀に見込まれて明智の性を賜り、その娘も娶って一門となった。光秀の筆頭家老格で、各地の戦いに従軍して、丹波福知山城主となった。本能寺の変においては、斎藤利三と共に本能寺襲撃の指揮を執ったとされている。変後、秀満は安土城の守備を任されていた事から、山崎の戦いには参戦出来なかった。
山崎の敗報が伝わると、秀満は近江坂本に引き揚げんとするが、この時、安土城を焼いた疑いがもたれている。


秀満は坂本城に入ると、外を囲んだ秀吉方の部将、堀秀政に明智家伝来の家宝を譲り渡してから、城に火を放ったと云う。そして、燃え盛る炎の中で、妻および光秀の妻子を刺し殺し、自刃して果てた。 また、坂本城に落ち延びて行く際、湖水渡りの伝説を残し、自分の娘に家来を付けて、落ち延びさせてやったという逸話もある。こうした逸話が伝えられているのと、潔い最期を迎えている事から、高潔な人物であったのではなかろうか。それに光秀から、最大級の信頼と待遇を受けている事から、極めて有能な人物であった事が窺える。尚、明智秀満は天海と同一人物であるという説もある。



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和歌山城

和歌山城は和歌山県を代表する、規模の大きな城です。


天正13年(1585年)、豊臣秀吉は紀州を平定すると、弟の秀長に紀伊国を任せて、和歌山城の築城を開始した。城の縄張りは秀吉自らが行い、普請奉行は藤堂高虎が務めた。しかし、秀長は大和郡山に移ったため、その家臣の桑山重晴が城代として和歌山城に入る。


慶長5年(1600年)、浅野幸長が関ヶ原の戦功をもって、37万6千石で入城する。元和5年(1619年)、浅野氏は安芸広島に移封され、徳川家康の十男、頼宣が55万5千石で入城する。和歌山城は、頼宣の入城直後から大規模な改修を施され、以後、南海の鎮として徳川御三家の居城となった。この紀州徳川家からは、第八代将軍、吉宗(1684~1751)、第十四代将軍、家茂(1846~1866)を輩出している。


和歌山城には、嘉永3年(1850年)に作られた三層の天守閣が戦前まで現存していたが、昭和20年(1945年)7月、米軍の空襲を受けて、焼失してしまう。現在の天守閣は、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリートで再建されたものである。和歌山城は姫路城、松山城と並んで日本の三大平山城と云われている。



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↑岡口門


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↑隅櫓


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↑和歌山城の石垣

さすが、徳川御三家の居城なだけはあって、巨大な城郭でした。高さ10メートル以上の石垣を登っていた、命知らずの若者達がいました。


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↑天守閣

中は近代的な作りになっており、鎧兜や武器、書物などが陳列されていました。外から眺めるとなかなか立派な天守閣なのですが、どうも私は鉄筋コンクリート製で作られたものは好きにはなれません。

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↑天守閣からの眺め

和歌山市街が見渡せ、奥には紀ノ川があります。


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↑鳶魚閣(えんぎょかく)と御橋廊下

西の丸庭園にあります。秋に訪れると、紅葉が映えて美しいでしょう。

根来寺

根来寺は和歌山県岩出市にある寺院です。


根来寺は、大治元年(1126年)、覚鑁(かくばん)上人によって開かれる。根来寺はその後、学問の寺として栄え、真言宗三大学山の一つとして全国から学問を志す僧侶が集まったとある。寺は年代を重ねるごとに栄え、警固のための僧兵の勢力も強大となっていった。戦国時代、根来寺は周囲の山々も取り込んだ一大城郭となり、更にいち早く鉄砲を取り入れて、強力な武装集団となる。「鉄砲記」によれば、天文12年(1543年)、鉄砲伝来のこの年、種子島にいた津田監物算長なる根来寺僧兵が、島の領主、種子島時尭から鉄砲を一丁譲り受けたとある。


算長はこの鉄砲を紀州に持ち帰り、鍛冶職人、芝辻清右衛門に複製させる。根来はもともと高度な技術を要求される宮大工、鎧鍛冶が多くいた事から、たちまちのうちに高度な鉄砲製造技術が確立された。日本最古の砲術、津田流を開いたのは津田算長とされており、その指導を受けて、根来寺僧兵による鉄砲隊も編成された。この鉄砲製造技術は、根来とは目と鼻の先にあり、かつ血縁関係も深い雑賀にも伝わっていった。かくして、紀州には鉄砲隊を主力とした、真言宗根来衆と、一向宗雑賀衆の二つの強力な武装集団が誕生する。しかし、両者は度々、対立関係となった。これは宗旨の違いに加え、勢力、利権争いなども絡んでいたのだろう。


根来寺はその勢力を紀伊、和泉、河内にまで及ぼし、周辺の戦国大名の戦にも介入するようになった。永禄5年(1562年)には、畠山高政に協力して久米田の戦いに参加し、敵方の三好義賢を鉄砲で討ち取っている。天正4年(1576年)には織田信長に協力して、本願寺攻撃に参加し、天正5年(1577年)の信長の紀州雑賀攻めにも協力している。しかし、根来寺は信長没後の天下人、豊臣秀吉に楯突いたことから、天正13年(1585年)、10万人余の大軍勢による征伐を受け、一部の建物を除いて全山灰燼となって滅んだ。現在の建物のほとんどは、江戸時代に徳川氏の援助を受けて建てられたものである。



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↑根来寺大門

根来寺は桜の名所でもあります。


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↑大塔

この塔は明応5年(1496年)に建立され、国宝に指定されています。この塔は、紀州征伐による焼打ちの難を逃れました。


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↑興教大師覚鑁(かくばん)上人の御廟所

奥の院にあり、根来寺でもっとも神聖な場所であります。


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↑本坊内にある庭園


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↑聖天堂

スターリングラード 終

(12月12日)、フォン・マンシュタイン元帥率いるドイツ軍が、南から包囲網を解囲するための攻撃、冬の嵐作戦を発動する。孤立地帯のドイツ軍兵士は口々に「マンシュタインが救援に来るぞ!」と言い合い、目を輝かせた。しかし、この作戦もソ連軍の激しい反撃を受けて頓挫し、(12月23日)、マンシュタイン率いるドイツ軍は退却していった。孤立地帯のドイツ軍及び同盟軍は、ロシアの奥地に完全に取り残された。


(1942年12月)、孤立地帯のドイツ兵達は、寒気・栄養失調・砲撃・感染症で次々に倒れていった。それでも兵士達はクリスマスを祝うため、乏しい食料から少しずつ取り置きをするようにした。(12月24日)、クリスマスイブの日の気温は、零下25度であった。兵士達は薄暗い壕の中、かすれ声で、「清しこの夜」を歌った。大勢の兵士達が故郷を思って忍び泣いた。このような状況であったにも関わらず、ある兵士は、「今年のクリスマスはこれまでで、一番美しいクリスマスの一つでした。僕は一生忘れないでしょう」と述べている。


しかし、クリスマスの早朝から猛烈な砲撃にさらされた部隊もあった。最後に残ったシャンペンを開いて、今まさにグラスを上げようとした時、砲弾が立て続きに落下して、皆は一斉に地に伏せた。そのため、せっかくのシャンペンはこぼれてしまい、死傷者も出る事態となった。年が明けて(1943年1月6日)、気温は零下35度まで低下した。大草原に野ざらしのドイツ兵達は次々に死んでいった。第6軍司令官パウルスの報告、「軍は飢え、凍っている。弾薬なし。もはや戦車を動かせない」 軍医の書き残し、「第一の敵は飢えだ。相変わらず飢えだ!」


(1月10日)、孤立地帯のドイツ軍に対し、ソ連軍の総攻撃が始まる。ドイツ軍は痩せ衰えていたが、驚異的な抵抗を見せる。最初の3日間で、ソ連のドン方面軍は2万6千人余の兵と戦車の半数を失った。しかし、それでもソ連軍の勢いは止められず、ドイツ軍の戦線は次々に突破されていった。その頃、孤立地帯の飛行場では、この地獄から逃れようとする兵士で溢れかえり、混沌の極みにあった。輸送機が着陸する度に負傷兵達は、他者を押し退けて我先に乗り込もうとする。憲兵は制止しようと、しばしば群集に向けて発砲したが効果はなかった。そういった合間にもソ連軍の爆弾、砲弾が着弾し、大勢が死んでいった。運良く輸送機に乗り込めたとしても、負傷者を満載した結果、重過ぎて墜落したり、ソ連軍に撃墜される機が後を絶えなかった。


大多数の負傷兵は輸送機に乗れず、そのまま置き去りにされた。負傷兵達は幾日も食べ物を口にしておらず、絶望の嘆き声を上げていた。孤立地帯の状況を報告するため、第6軍の将校が輸送機に乗り込んで西方のドイツ軍戦線に到着した。その将校と謁見した将軍と副官は、その姿を見てびっくり仰天した。将軍と副官は染み一つないきれいな軍服に身を包んでいたが、その将校は頬はこけ、髭は伸び放題、服は汚れきってシラミがたかっていた。足元は凍傷を防止するため、ぼろを巻きつけていた。副官はまじまじと将校を見つめた挙句、恐る恐る彼と握手した。


(1月17日)、孤立地帯の西半分はソ連軍に制圧された。大草原から10万人余の兵士が、よろよろと瓦礫の都市に退却していった。多くの兵士は赤痢、黄疸などの病気に罹っており、顔は緑黄色をしていた。追撃するソ連軍の報告、「猛烈な寒さだ。凍るような空気は鼻のあたりで氷になる。歯が痛くなる。凍結したドイツ兵の無傷の死体が道端に並んでいる。彼らを殺したのは我々ではない。寒さの仕業だ。長靴も上着も粗末で、軍服の上着は紙のように薄い。雪の上にはいたる所に足跡がある」


スターリングラードの廃墟の地下には、2万人余の負傷兵と4万人余の病人が詰め込まれた。うめき声、助けを求める叫び、祈りの言葉が、爆撃の轟音に混じって聞こえた。(1月31日)、ドイツ軍は分断され、市街地の一角を辛うじて保つのみとなる。ドイツ軍の全滅は、間近に迫った。追い詰められ、憔悴しきった第6軍司令官パウルスは、とうとうソ連軍に降伏を申し入れた。


それを受け、痩せ衰えた兵士達は降伏の証拠として、両手を高く上げて地下室や掩蔽壕からよろめき出た。ひどい凍傷のため、歩くのがやっという兵士が大勢おり、そのほとんどが足指か足の爪がなかった。あるソ連軍将校は捕虜達の前に立ちはだかり、周囲の廃墟を指差して、「ベルリンもこうなるのだ!」と叫んだ。


スターリングラードで捕虜となったのは、13万人余(ソ連側の発表によれば9万1千人)であった。11月22日に包囲されて以来、15万人以上の兵士が死んでいったのであろう。しかし、正確な数字は誰にも分からない。過酷な戦いを生き抜いて捕虜となっても、さらに過酷な運命が彼らを待っていた。


ソ連軍では、自軍の兵士に給養する食料でさえ欠乏していた。そのため、ドイツ軍捕虜に与える食料など、ほとんどなかった。ドイツ兵捕虜の内、半数は春を待たずして死んだ。スターリングラードで捕虜になったドイツ兵で、戦後、東ドイツに生還したのは5千人余だった。ドイツ軍に協力したヒーヴィも相当数が捕虜となったが、ほぼ全員がソ連に抹殺されたと考えられる。


このスターリングラード戦全体で、ソ連は110万人余の死傷者を出し、その内、48万5千人余が戦死した。ドイツと同盟国は50万人余の兵士を失った。ソ連側の方が人的損失は大きかったが、ドイツ側にとってこの損失は許容できる範囲を超えていた。この破滅的な損害を受けた結果、東部戦線の主導権はソ連側が握る事になり、さらには第二次大戦の転換点ともなった。


(1943年2月2日)、市内での戦闘は完全に終息し、瓦礫の街を静寂が包んだ。しかし、破壊音と戦闘音に慣れてしまった人々には、この静けさは異様に感じられた。かつてスターリングラードは美しい都であったが、それを偲ばせるものはほとんど残っていなかった。唯一、往時を偲ばせるものは噴水池だった。形を留めた少年少女の像が池の周りを踊っている。しかし、
市街の瓦礫の下には、幾万もの女子供が原形を留めずに埋もれていた。


何十年経っても、スターリングラードで建設作業を始めれば、必ずと言っていいほど、戦闘の名残の死体が発見された。スターリングラードは現在ではボルゴグラードと改名され、百万人が住む大都市として復興を遂げている。しかし、郊外に広がる原野には、生々しい激戦の跡が今でもそこかしこに残っている。


主要参考文献、アントニービーヴァー著「スターリングラード」



スターリングラード 2

激戦の最中にも、まだ市内には多数の民間人が残っていた。男は兵士として戦場に駆り立てられたため、残されたのは女子供ばかりであった。市街に残された市民は、廃墟の地下室や下水道、河岸に掘った横穴に隠れたが、多くは生き残れなかった。西のドイツ軍占領地に向かった避難民もいたが、そこには何もなかった。ドイツ軍はあらゆる物資を摘発していたので、食料も何も残っておらず、避難民達は寒々とした荒野に捨て置かれ、その大半がロシアの土と化していった。


ソ連の情報筋によれば、ドイツ軍は戦闘中に3千人余の市民を処刑し、また、ヒトラーの命令で6万人余の市民が、強制労働に従事させるべくドイツ本国へと運ばれていったと云う。独ソ両軍とも、市民を積極的に助ける気など毛頭なかった。スターリンはドイツ軍の命令に従った市民は全て射殺せよと命令を発し、たとえ強要されて行動したとしてもその例外ではないとした。 そのため、ソ連軍が自国民を殺害するケースも多々あった。


スターリングラード攻略の主力を担うドイツ第六軍には、5万~7万人余の元ソ連兵が含まれていた。彼らはヒーヴィ(対独協力者)と呼ばれ、その構成はコサックなどの志願した現地住民、脱走したソ連兵、捕虜となったソ連兵などであった。ヒーヴィの多くはソ連兵捕虜で占められており、始めは労働に従事していたが、ドイツ軍の兵力不足を補うため、次第に戦闘に駆り出されるようになっていった。ドイツ軍参謀長の報告、「我が戦闘部隊をロシア人捕虜で強化せざるを得ないのはまことに遺憾であります。彼らはすでに我らの射撃手になろうとしております。敵であるべき野獣が今や一致協力して我々と生活を共にしているとは、何とも奇妙な状況であります」。


ヒーヴィは同国人に対し勇敢に戦い、忠誠心篤い態度を示したため、総じて前線のドイツ軍はヒーヴィを厚遇した。何故、これほど多くのヒーヴィがドイツ軍に協力したかと言うと、多分にソ連の残酷な体制に対する不信と恐怖からであった。一旦、ドイツ側に協力した者を、ソ連の体制は決して許容しなかったため、彼らは最後までドイツ軍と共に戦わざるを得なかった。しかし、ドイツ軍は協力者以外の捕虜にはろくに食料も与えず、その多くを餓死に追い込んだ。


(10月初旬)、スターリングラード攻防戦の中盤、ドイツ軍によって市街の大半は占領され、ソ連軍はヴォルガ河を背後にした、細長い戦線を維持するのみとなっていた。ソ連軍の戦線は、ヴォルガ河の対岸から船で運ばれてくる増援と補給によって辛うじて支えられていた。船は兵士や物資を西岸に届けた後、負傷兵を満載して東岸に運んだ。


ドイツ軍も勿論、それは察している。そのため、渡河地点に猛烈な砲撃を加えたり、急降下爆撃機で船を攻撃して、全力でこれを阻止しようとした。船の乗組員の死傷率は、第一線で戦う部隊と変わりなかった。船舶の損失は甚大であり、おびただしい数の負傷兵が対岸に渡れず、岸辺に横たわってうめき声を上げていた。船に乗せられても、負傷兵達は穀物袋を積載するように積み重ねられて運ばれていったので、状態がより悪くなったり、東岸に渡るまでに死亡する例も多かった。また、東岸に渡っても、満足な治療が受けられる保障はなかった。


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ヒトラーはスターリングラードの象徴性に取りつかれており、その奪取に執念を燃やしていた。それにソ連軍は最早、撃滅寸前であると確信していたため、ドイツ軍の戦力を集中的に市街に投入していった。薄くなったドイツ軍戦線の両側面は、貧弱な装備しか持たないルーマニア軍に委ねられた。ドイツ軍が市街戦に釘付けになっている間、ソ連軍は密かにスターリングラードの北西と南東に戦力を集中し始めていた。市の防衛に送られる戦力まで削減して、その増強に努めたため、スターリングラードの防衛が危機に陥るほどであった。


(11月中旬)、ヴォルガ河には浮氷が下り始め、本格的な冬が迫っていた。敵味方のどちらを見ても、最初から残っている戦闘員はほんの少数だった。ソ連古参兵いわく、「あれは、我々が8月に戦った連中とは違うドイツ兵だ。我々の方も違っていた」。ソ連兵の大量の死体は瓦礫の中に埋もれてゆき、市の郊外にはドイツ兵の墓標が広がり続けていた。この頃になると、ドイツ第六軍の健康状態は、深刻な状況にあった。ドイツ軍の間には、赤痢・チフス・パラチフスなどの感染症が広がり、病死する兵士の数が急増していた。軍医の推測によれば、食糧不足に加えて、累積するストレスで体の抵抗力は弱まった事が原因であるとされた。ソ連軍も病気になるドイツ兵の多さを知って驚き、それをドイツ病と呼んだ。


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(11月19日)、満を持したソ連軍の大反抗「ウラヌス作戦」が開始される。(11月22日)、ソ連軍は、まともな対戦車装備を持たないルーマニア軍の戦線を突破し、一大包囲網を完成させる。この結果、ドイツ軍・同盟軍・ヒーヴィ合わせて29万人余(数字には諸説あり)が包囲された。孤立地帯の食料、弾薬不足は深刻であった。空軍は空からの補給を約束したが、孤立地帯のドイツ軍が要求する物資の数分の一しか空輸できず、それすら悪天候によって途絶える事もしばしばであった。輸送機は積荷を降ろした後、傷病兵を満載して飛び立ったが、度々、過剰積載で墜落したり、ソ連軍の高射砲で撃ち落された。ただでさえ乏しい糧食は三分の一から二分の一に切り詰められた。ヒトラーは包囲されたドイツ軍をスターリングラード要塞軍と命名し、その絶対死守を命じた。


多くのドイツ兵達は、包囲以前に適切な防寒服を受け取っていなかったので、猛烈な寒気に苦しめられ、凍傷に罹る者が後を絶えなかった。さらにシラミにたかられ、それが運ぶ伝染病にも苦しめられた。このドイツ軍包囲の勝報は、スターリングラード市内で戦っているソ連兵にはなかなか伝わらなかった。そのため、士気の低いソ連兵多数が、包囲されているドイツ軍へ投降するという出来事もあった。無論、彼らは閉じ込められ、ドイツ軍と共に飢えに苦しむ事となった。


スターリングラード3に続く・・・
 プロフィール 
重家 
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重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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