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龍野城

龍野城は兵庫県たつの市龍野町にある平山城です。


日本の中世、播磨・美作・備前には赤松氏が勢力を振るっていた。明応8年(1499年)頃、龍野城はその赤松氏の支族、赤松村秀によって築かれたのが始まりとされている。城の主要部は、鶏籠山(けいろうざん)の山頂(標高約212メートル)に築かれた。その後、赤松氏の支配が続くが、天正5年(1577年)、代目城主、広英の時、織田家の部将、羽柴秀吉が2万余の軍勢で揖保川の対岸にまで侵攻してくる。その大軍を見た広英は、戦わずして開城し、織田家の軍門に降った。


開城後、秀吉が最も信頼する部将達、蜂須賀正勝・福島正則・木下勝俊・小出吉政が、入れ替わりながら城主を務めた。龍野城は、慶長3年(1598年)頃、山頂の城は取り壊され、麓に新たに城が築かれた。その後、城主は次々に変わり、江戸時代に入って城は一時、破却されるが、寛文12年(1672年)、脇坂安政が5万3千石で入封してきた時に再建される。


以後代々、龍野城は脇阪氏の居城となって、明治の世を迎える。明治4年(1871年)、龍野城は、明治政府が打ち出した廃藩置県によって競売にかけられ、建物は全て取り壊されてしまう。だが、1975年から、残された絵図を参考にして、城壁、多門櫓、埋門、本丸御殿などが再建されていった。建物は全て木造、土壁で復元されている。



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↑龍野城の全景

山麓に居館が築かれ、頂上には龍野古城があります。



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↑埋門


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↑隅櫓

絶好の写真撮影ポイントです。



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↑再建された本丸御殿

この御殿は政庁でもあり、脇坂氏の住まいでもありました。
本丸御殿の裏手の方に、龍野古城への登り口があります。結構な山道ですので、暑い季節には飲み物を持参したほうが良いでしょう。




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↑龍野古城の削平地

古城の両側は切り立った斜面になっており、城の堅固さを感じさせられます。



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↑龍野古城からの眺め

奥に流れている川は揖保川です。対岸に秀吉の大軍が押し寄せてきて、龍野城を威圧してきたのでしょう。



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↑龍野古城本丸跡

本丸御殿から本丸まで、歩いて30~40分くらいかかりました。龍野城は小振りですが、中世山城と近世城郭の二つを見ることが出来る、なかなか良い城です。
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信長のおもてなし

2009.04.24 - お笑い歴史街道

織田家臣、明智光秀・羽柴秀吉の2人が、信長の居城に呼び出された。両者とも織田家中で一、二を争う出世頭である。


信長 「今日は、織田家で最も働いている、主らの労をねぎらってやろうと思うて、呼び出したのじゃ」
(´ー`)y─┛~~





光秀・秀吉 「ハハーッ、何という有り難き仰せ、恐悦至極に存じまする」
m(_ _)m m(_ _)m





信長 「今日はわし自らが茶を点じて、主らをもてなしてやろうぞ」
( ´∀`)ヵヵヵ





光秀・秀吉 「何と、殿自らが我らをもてなしてくださるとは!我らはなんという果報者でござろうか!」
ヽ(´▽`)ノワーイ ヽ(´▽`)ノワーイ





信長 「この茶はわし特製での。南蛮人から手に入れた胡椒(こしょう)という珍しい舶来品をたっぷり入れてある。さらに主らに精を付けてもらおうと思うてニンニクをこれでもか!と言わんばかりに加えてあるのじゃ」

 

                       _ ノ
                ( (   (. )
     ~~       . -‐ ) ‐- .
               .´,.::::;;:... . . _  `.   ~~
              i ヾ<:;_   _,.ン |    プゥ~ン
     ~~         l      ̄...:;:彡!
     プゥ~ン        }  . . ...::::;:;;;;;彡{  
                  i   . . ...:::;;;;;彡!
              }   . .....:::;::;:;;;;彡{    ~~ 
                  !,    . .:.::;:;;;彡j:::::::::::::::.......
                 ト ,  . ..,:;:;:=:彳:::::::::::::::::::::::::::..
               ヽ、.. ....::::;;;ジ.::::::::::::::::::::::

 

光秀・秀吉 ( うわーっ!これはきっつーーーっ!!! )
( TДT) ( TДT)





「こんな茶を飲めるのは天下広しと言えども主らだけであるぞ。心して味わうがよい!」
( ̄ー ̄)ニヤリッ





光秀・秀吉 「ハハーッ、有り難く頂きまする・・・」
(((゚Д゚)))ガタガタ  (((゚Д゚)))ガタガタ





信長 「まずは秀吉からじゃ、さあ、味わうがよい」
( *´∇`)_旦~~





秀吉 (ぐうぅぅわーーー!!!は、吐くんじゃない、わし頑張れ、飲み込むんじゃーっ!)


         メ _|\ _ ヾ、
       メ / u 。 `ー、___ ヽ
      / // ゚ 。 ⌒ 。 ゚ u  / つ
     / //u ゚ (●) u ゚`ヽ。i l わ
     l | | 。 ゚,r -(、_, )(●) / ! ぁぁ
     ヾ ! //「エェェ、 ) ゚ u/ ノ あぁ
     // rヽ ir- r 、//。゚/ く  ああ
   ノ メ/  ヽ`ニ' ィ―' ヽヽヾ  ぁあ





秀吉 「ご、ごんなヴまい茶、こりまでに飲んら事がありまぜぬ!さしが、どのにござりばする(鼻がツーンとして涙が止まらない。舌が痺れて上手く喋れない)」

      _____    
     / ノ' ^ヽ_\
  ゚ / 。;'⌒)  (⌒ヽ\° 
  / o'゚~(___人___)~o°\゜
.  |    ゚ |/⌒ヽ|  ゚    |
  \     ` ⌒ ´    /

 




信長 「ハッハッハ!こやつめ、嬉しさのあまり涙まで流しおって愛い奴じゃ」
( ´∀`)





信長 「さあ、次は光秀に点ぜようぞ」
( *´∇`)_旦~~





光秀 (ぬぐぅおおおお!!!だっ駄目じゃーっ、これは飲めぬー!)


    /\___/ヽ   ヽ
   /    ::::::::::::::::\ つ
  . |  ,,-‐‐   ‐‐-、 .:::| わ
  |  、_(o)_,:  _(o)_, :::|ぁぁ
.   |    ::<      .::|あぁ
   \  /( [三] )ヽ ::/ああ
   /`ー‐--‐‐―´\ぁあ





         ___
        /⌒  ⌒\         ━━┓┃┃
       /(  ̄)  (_)\         ┃   ━━━━━━━━
     /::::::⌒(__人__)⌒:::: \         ┃               ┃┃┃
    |    ゝ'゚     ≦ 三 ゚。 ゚                       ┛
    \   。≧       三 ==-
        -ァ,        ≧=- 。
          イレ,、       >三  。゚ ・ ゚
        ≦`Vヾ       ヾ ≧
        。゚ /。・イハ 、、    `ミ 。 ゚ 。

 



信長 「光秀ぇぇぇえ!!!うぬはわしが点じた茶を飲めんと申すかぁあああ!」

              ドゴッ!!!

        / ̄ ̄\        // // ////
       /ノ(  ゝ 、_,ノヽ      ___,--、
      | ⌒(( ○)(○)      ( ) ) ) ) )
.      |     (__人__) /⌒l   |    ⌒`i   
       |     ` ⌒´ノ |`'''|  |     '、  |
      / ⌒ヽ       }  |  |  /    /   
     / へ  \    }__/ /  /      |    
   / /  |          ノ ._/       |
   ( _ ノ    |   .   ⌒ヽ_/          }   
         |        _____\    ノ   
         i     / ̄       `ー-''  _
         \_/ /     _/⌒  ⌒\_
          _ノ   /    /:●))(__人__)((● \ グエア!
         (   /    |     |r┬-|      |

 




信長 「わしの好意を無にしおって、この金柑頭めぇぇーーっ!!!」

     / ̄ ̄\   
    /ノ( _ノ  \
    | ⌒(( ●)(●)    
    .|     (__人__) /⌒l
     |     ` ⌒´ノ |`'''|        ドガッ!!!!
    / ⌒ヽ     }  |  |              
   /  へ  \   }__/ /             / ̄ ̄\
 / / |      ノ   ノ           / ●)) ((●\’, ・
( _ ノ    |      \´       _    (   (_人_)’∴ ),  ’
       |       \_,, -‐ ''"   ̄ ゙̄''―---└'´ ̄`ヽ   て
       .|                  ______ ノ    (
       ヽ           _,, -‐ ''"  ノ       ヽ   r'" ̄
         \       , '´        し/.. >>@ | J
          \     (           /      |
            \    \         し-  '^`-J

 




茶会後・・・


秀吉 「光秀殿、お気の毒に。プーックックックッ」

                
  ____
                /_ノ  ヽ、_\
         ,. -- 、,  o゚((●)) ((●))゚o 
     ,―<,__    ヽ::::⌒(__人__)⌒::::: \
    /          ヽ  |r┬-|     |   wwwwwww
   __|           }.  | |  |     |  wwwwwww
  / ヽ,       / {   | |  |     |  wwwwwww
  {    Y----‐┬´   、  | |  |     |  wwwwww
 /'、  ヽ    |ー´    ヽ | |  |     |
.{  ヽ  ヽ     lヽ_!´    ヽ`ー'ォ    /
 ',  ヽ  ヽ    ,/     }
  ヽ  ヽ  、,__./    __/
   \  ヽ__/,'  _ /
     \__.'! 〈  _, '
           ̄





光秀 「これは拷問じゃ・・・この屈辱、忘れぬぞ・・・」

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            /      \_
           / /   \( ;:;:;)
         /( ;:;:;:;:;ノ   (=)  \   
        (;:;:;:;;;:;  (__人__)   .:::::)  
        / ||    ` ⌒|||   ,/  
        / / |\/ /  /l |  ̄   
        / /__|  \/ / | |   
       ヽ、//////) /  | |      
        /  ̄ ̄ /   | | 
     ____,/  )--- ヽ   ヽ つ  
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こんな出来事があったかも・・・

愛宕神社

愛宕神社は愛宕山京都市右京区にある神社で、全国に900社ある愛宕神社の本社でもある。その建立は古く、大宝年間(701年頃)に修験道の租であり、白山の開祖でもある泰澄(たいちょう)が愛宕山に神廟を築いたのが始まりとされている。天正10年(1582年)5月28日には、明智光秀も愛宕神社を訪れており、ここで戦勝祈願のくじを引き、連歌会を催してかの有名な発句、「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」を残し、謀反の決意を固めたとされている場所である。


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↑愛宕神社の石段

この神社を訪れるには標高924メートルの愛宕山を登らなければならず、ほとんど登山と変わりがありません。登山ルートは幾つかありまして、一般的には嵐山方面の清滝から登るルートでしょうが、私は裏手の越畑という所から登りました。 急な傾斜もあり結構、足にきましたが、1時間半程で神社までたどり着きました。


 
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↑愛宕神社の社殿

かつての愛宕神社はもっと規模が大きかったそうですが、現在ではこじんまりした小さな社でした。 光秀はここでくじを引き、歴史を変える重大な決意を固めたと云われています。

 
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↑愛宕山から見下ろす京都市街

かつて光秀も眺めた光景であり、ここから見下ろす京都を見て何を思ったのでしょう。


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↑愛宕山から見下ろす亀岡市街

光秀はこの亀岡から、明智越えと呼ばれる尾根伝いのルートを使って愛宕山に参拝したとされています。本能寺の変の際には、明智軍の別働隊がこのルートを使用して京都に向かったと云われています。

本能寺の変、前夜 近畿の状況

2009.04.20 - 戦国史 其の二
●近畿

(織田信長、石高806万石、兵力200、000人)

織田家の領土は面積にするとまだ本州の半分程だが、その経済力と軍事力は他を圧倒しており、これに対抗できる勢力は存在しない。実質的には既に天下人である。上杉、毛利、長宗我部といった敵対勢力を除くほとんどの大名が既に信長と誼を通じており、この三家を滅ぼせば、残りの勢力は悉く信長の下にひれ伏したと思われる。


天正10年(1582年)5月29日、織田信長は安土を発って上洛、2、30人の小姓衆を連れて本能寺に滞在する。 この信長の上洛は中国地方へ自ら出馬するためであった。 この信長の出馬は四国、中国地方を切り従えて、一気に九州まで平定する壮大な構想であったといわれており、この遠征が成功した暁には、信長の天下統一はほぼ成ったと思われる。


遠征後、信長は北条・島津など、まだ残った大大名を取り潰すか、所領を削封したであろう。そして、日本の要所要所に一族を配し、織田家の支配を磐石のものとする。更に家臣団の再編成と再配置を済ませた後、海外へ乗り出して行ったのではないかと・・・


(明智光秀、石高42万石(近江坂本5万石・丹波26万石・山城北半分11万石?) 兵力10,500人)

天正10年(1582年)5月14日、信長から坂本への帰国を命じられる。光秀はそれまで翌15日に安土に到着する徳川家康を饗応するための準備に追われていた。

5月15日
、光秀は大宝寺で徳川家康を饗応し、3日間、落ち度なく勤め上げる。

5月17日、信長から中国出陣を命じられ、坂本城に入り出陣準備を整える。

5月26日
、坂本を発ち、丹波亀山城に入る。

5月27日
、亀山城から愛宕山へ参詣する。

5月28日
、愛宕五坊の一つである西坊威徳院で、里村紹巴らと連歌会を催し、光秀は「ときは今 あめが下しる 五月哉」と発句、そして戦勝祈願をする。

6月1日夜、亀山城内にて光秀は重臣5人を集め、信長を討ち、天下を我が手に治めるとの決意を打ち上げその同意を得る。織田家の有力部将達は遠方にあって敵対勢力と対峙中であり、信長を倒し、天下を手中にするには、この敵対勢力が存在する間に成さねばならなかった。


この時、信長とその嫡子、信忠は共に京都に滞在中で、天下人2人を同時に倒しうる状況だった。しかも信長、信忠には2千人余りの馬廻り集しか護衛に付いておらず、夜の明けきらない未明の内に襲えば、この2人を倒す成算は十分にあった。光秀は配下に「信長様に閲兵するため入京する」と宣言して、亀山から出陣する。そして、光秀軍は老いの坂を越え、山城に入る。


天正10年(1582年)6月2日、信長と諸将の動向。


信長は本能寺で150前後の人数で宿泊しており、門も開いていたという。6月4日には京を出て淡路に渡り、信孝の四国遠征を見届けてから中国地方へと向かう予定だった。 嫡男、信忠は5月21日から妙覚寺に滞在していた。

徳川家康は5月29日に堺に赴き町衆の饗応を受けていた。
この日、少人数で堺から京都へと向かう予定だった。

北陸方面軍、柴田勝家は越中にあって、上杉家の拠点、魚津城を包囲していた。

関東方面軍、滝川一益は上野、厩橋城にあって、関東と奥羽の大名の取次ぎを行っていた。

四国方面軍、織田信孝はこの日に、大阪住吉から四国へ渡海する予定だった。

中国方面軍、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして、毛利軍と対峙中だった。


この時、近畿では大阪の地に織田信孝軍14,000人が存在しているが、この軍は各地から集められた混成軍で、まだ準備中であり、統一された軍ではなかった。光秀の13、000の軍は統一された軍事行動が可能であり、当時、畿内に於いて光秀に対抗できる軍事力を持つ者は、主君、信長を含めて存在しなかった。


6月2日早朝、明智軍13,000人は桂川を渡った。全軍が渡河後、光秀は士卒に触れを出し、敵は信長、信忠であり、これを倒し、自らが天下人と成ると宣言する。本隊は本能寺へ向かい、明智次右門の率いる別働隊は信忠が宿泊する妙覚寺を目指す。

この日、歴史が大きく変わり、日本中の人々の運命が激変しようとしていた。


本能寺の変、前夜 全国の状況

2009.04.20 - 戦国史 其の二
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こる寸前の、おおよその全国の戦国大名の状況を示す。(石高、兵力は歴史街道参照)


戦国大名は、1万石につき、250人の兵力を動員できたと言われている。しかし、これはおおよその目安であり、実際の動員力は様々な要因で大きく増減する。 戦国大名は、臨時の際には領民に緊急動員をかけたり、浪人を大量に雇い入れる事もあり、一時的に兵力は大きく増強される事があった。例えば、慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の場合、豊臣家は65万石であり、この計算なら1万6千人の動員だが、実際には10万余の兵を集めている。しかし、災害や戦乱を受けて国力が低下している状態、また、敵対勢力に包囲されている様な状況では、動員力は低下したであろう。戦国大名の軍隊は、知行地を与えられた直属の武士に、臨時雇用の庸兵、それに農村から集めた農兵によって成り立っていたと考えられる。


●東北

(伊達輝宗、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)5月、相馬家との戦いで嫡男、政宗は15歳で初陣を飾る。 1582年には既に信長と誼を通じており、輝宗は次世代の飛躍に向けて地盤を固めている。 30万石は直轄地であって、その勢力範囲は70~80万石であったとも。いずれにせよ、東北随一の大名であった事は間違いない。


(芦名盛隆、石高30万石、兵力7,500人 )

天正9年(1581年)8月、盛隆は、信長のもとに使者を送り、三浦介に任ぜられている。芦名、伊達家は共に、織田家と誼を通じていた。この奥州を代表する二家が織田家に服属すれば、残りの奥州の中小大名は悉く信長に平伏する形になったと思われる。


●北陸

(上杉景勝、石高58万石、兵力14、500人 )

この時、上杉家は、織田家とそれに通じる勢力に囲まれ、絶望的な状況だった。越中からは柴田勝家を長とする北陸方面軍2万人余が、上杉家の拠点、魚津城を囲み、落城寸前に追い込んでた。信濃からは、森長可が5千人余の兵を率いて越後に侵入し、上野からも、滝川一益が越後侵入を窺っていた。隣国、芦名家も織田家と結んで、越後を窺っていた。

さらに越後国内では、天正9年(1581年)6月に新発田重家が織田家と結んで謀反を起こしていた。この重家の謀反で上杉家の領土は分断され、越後北部の兵は手元に呼べなかった。このような状況であったので、景勝は魚津城救援に向かった際、3千~5千人余しか動員出来なかった。したがって、景勝の手元の兵力は5千人余だったと思われる。もはや景勝になすすべはなく、後は天下の堅城、春日山城に篭り、武門の意地を貫く最後の戦いをするか、信長に降伏して、捨扶持を期待するしかない状況だった。


●関東

(北条氏政、石高152万石、兵力38、000人 )

武田家に対抗するために、以前から織田家と同盟を結んでいた。 織田家を除くと、全国の大名の中で最強の勢力を誇っている。しかし、北条家は、長年苦戦していた武田家を、瞬く間に攻め滅ぼした織田家の実力には瞠目しており、信長に戦勝の使者を送るなどして、従属の姿勢を見せている。 氏政はしきりに進物を届けて、ご機嫌伺いをしているが、北条家のような大勢力が関東に君臨するのを、信長は良しとしなかったのではないか。


●東海道

(徳川家康、石高70万石、兵力17、500人)

家康は、信長の古くからの盟友であったが、実質的には織田家の東海道方面軍、司令官である。この時には、駿河、遠江、三河の3ヶ国を領有する戦国有数の大名に成長しているが、それでも織田家との実力は隔絶しており、家康は信長に臣属していく他なかった。だが、信長の信頼は篤かったので、その後は安定して領国を保障されたと思われる。天正10年(1582年)5月15日、信長から駿河を賜った礼を述べるため安土に赴き、光秀の饗応を受ける。


●四国

(長宗我部元親、石高48万石、兵力12、000人)

信長は、毛利家との対抗上、長宗我部元親と同盟を結んでいた。そして、元親に四国切取り自由のお墨付きを与えていたとされる。元親はこれに基いて四国制覇を押し進め、土佐一国、讃岐西半部、阿波の大部分、伊予の一部を領有するに至った。

しかし、毛利家が脅威で無くなり、織田家の勢威が増すと、信長は四国政策を変更して、お墨付きを反故にする。そして、元親に対し、土佐一国と阿波南半分以外は放棄するよう迫った。元親はこれに反発して、両者は敵対関係となる。天正10年(1582年)6月には、織田信孝を長とする14,000人の兵が、大阪住吉から四国へ渡海せんと準備中であり、両者の激突は避けられない状況にあった。元親は滅亡を避けるため、土佐一国と阿波の2城以外は全て明け渡すとの、降伏条件を差し出しつつあった。


●中国地方

(毛利輝元、石高132万石、兵力33、000人)

毛利軍は、高松城を包囲する羽柴秀吉軍と対峙中であった。 両川と呼ばれる名将、吉川元春、小早川隆景に、当主の毛利輝元が揃って、4万ともいわれる大軍を率いて高松城救援に赴いている。 秀吉軍3万と互角に渡り合える兵力を持ちながら戦意に乏しく、信長の親征を前にして織田家との和平の機会を窺っていた。信長の本隊が高松に到着したなら、秀吉軍と合わせて8万ほどになったであろう。そして、一戦に敗れれば、武田家の様に一挙に崩壊したかもしれない。例え許されたとしても、領土の大半は割譲しなければならなかった。


●九州

(大友宗麟、石高77万石、兵力19、250人)

天正6年(1578年)11月、耳川の戦い(高城川の戦い)で島津家に致命的な敗北を喫し、勢力は大きく後退する。勢力圏から国人離反が相次ぐと供に、侵攻してくる龍造寺、島津家への対処に苦慮する。そこで、中央勢力である織田家と関係を深めて、勢力の挽回を図った。そして、織田家と誼を結んで、毛利家を西から牽制し、やがて来るであろう信長の来援に期待した。


(島津義久、石高66万石、兵力16,500人)

耳川の戦いで大友家を撃破後、威勢は大いに上がる。矛先を日向から肥後に向け、さらなる版図拡大を狙って、九州を北上しつつある状況であった。 織田家とは、不穏な関係であった模様である。 織田家の勢力が九州まで伸びてきたなら、その征伐を受けるか、減封を申し渡されたのではないか。


(龍造寺隆信、石高92万石、兵力23、000人)

島津家と大友家の激突で、最も利益を得たのは龍造寺隆信であった。大友家の衰退に付け込んでその領域に侵攻し、島津家以上の勢力圏獲得に成功する。そして、島津家との緊張が徐々に高まりつつあった。 尚、配下の鍋島直茂は、水面下で、織田家部将、羽柴秀吉と接触していた模様である。 龍造寺家は長年、毛利家と同盟関係にあったので、表立って織田家と交渉する訳にはいかず、裏で交渉していたのだろうか?畿内から遠い九州の大名と言えども、中央の政局、特に織田家の実力からは、決して目を離す訳にはいかなかった。


 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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