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明石城

明石城は、兵庫県明石市にある平山城である。


元和3年(1617年)、徳川氏の譜代家臣である小笠原忠真が、信州松本から播磨明石に転封され、この地に築城する。時の将軍、徳川秀忠は西国大名の監視の役割を小笠原氏に求めた事から、普請費用として銀1千貫目を援助し、さらに普請奉行3人を派遣して、築城の手助けをした。元和6年(1620年)、明石城は、壮麗な近世城郭として完成した。ただ、天主台の石垣は築かれたものの、天守閣は築かれず、代わりに本丸に御殿が建てられた。


その後、明石城の城主は、目まぐるしく入れ替わった。寛永9年(1632年)、小笠原氏転封→松平氏入封。寛永16年(1639年)、松平氏転封→大久保氏入封。慶安2年(1649年)、大久保氏転封→松平氏入封。延宝7年(1679年)、松平氏転封→本田氏入封。天和2年(1682年)、本田氏転封→松平氏入封。以後、松平氏のまま、明治の世を迎える。明治7年(1874年)、明治政府による廃城令により、明石城は廃城となった


 

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この明石城は、日本の桜の名所、百選にも選ばれている桜の名所であります。私が訪れた日にも、大勢の花見客で賑わっておりました。

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三国志 「淮南の三叛」 後

2010.03.20 - 三国志・中国史

諸葛誕は挙兵を決すると、直ちに諸将を招集した。そして、自ら陣頭指揮をとって揚州刺史、楽綝(がくちん)に襲い掛かって、血祭りに挙げる。続いて、淮南に駐屯していた10万余の官吏、兵士、及び揚州の新兵4万を支配下に収め、1年分の糧食を確保した上で寿春城に立て篭もった。諸葛誕は更に万全を期すべく、長史の呉綱を呉に派遣して、援軍を求めた。呉はこの求めに応じて、降将、文欽とその息子、文鴦、文虎、それに全懌(ぜんえき)全端(ぜんたん)唐咨(とうし)ら3万余の兵を送って、共に城を守らせた。これに対し、司馬昭は自ら26万余の兵を率いて討伐に向かった。



討伐軍は現地に到着すると、まず作戦会議を開いた。将軍達は即座に力攻めにしようと提案してきたが、司馬昭はこれを制し、「寿春城の守りは堅く、力攻めしても攻めあぐねるだろう。その間に呉が駆けつければ、挟撃を受けてしまう。ここは水も漏らさぬ陣を敷き、ゆっくりと敵の自滅を待つべきである」と述べ、長期包囲の作戦を取った。そして、司馬昭は寿春城を何重にも囲ませ、堀を巡らし、土塁を高く築いて鉄壁の包囲網を敷いた。その一方、州泰、石包らに命じて、精鋭を選抜した遊撃軍を編成させ、呉の更なる援軍に備えた。城内の文欽らは何度も打って出て、包囲網の突き崩しを図ったが、その度、手痛い反撃を受けて弾き返された。その頃、蜀の姜維もこの機に乗じて、魏への侵攻を図っていた。



呉は新たに援軍を派遣し、将軍、朱異率いる数万余が寿春城の救援に駆けつけた。だが、呉軍は、強力な魏の遊撃軍の攻撃を受けて、撃退されてしまう。朱異はその後も、幾度となく攻撃を加えたが、どうしてもぶ厚い包囲網を突破する事は出来なかった。呉の大将軍、孫綝(そんちん)はその結果に怒って、朱異を処刑した。こうして寿春城は、救援の望みを断たれてしまう。孤立無援の寿春城では、食料が欠乏し始め、将兵の結束も乱れ始める。諸葛誕の部将2人も見切りを付けて、司馬昭に投降してしまった。司馬昭はさらに切り崩しにかかり、間者を潜入させて、城内を疑心暗鬼の状態に陥れた。それによって呉の援将、全懌、全端ら数千人が城を出て降伏してしまい、この後も投降する者は絶えなかった。



258年正月、寿春城の包囲は、年を越えても続く。諸葛誕、文欽はこのままでは死を待つばかりと見て、総力を挙げて城から打って出る事を決した。そして、反乱軍は、城内で作った数台の攻撃車両を先頭に立てて、遮二無二に突撃する。しかし、高所に陣取った包囲軍も投石車を繰り出し、雨あられの様に投石と火矢を浴びせかける。車両は一台、また一台と破壊され、兵達も次々になぎ倒されていった。それでも反乱軍は攻撃を続行し、激闘は数日に渡って繰り広げられた。戦場にはおびただしいほどの戦死者が横たわり、寿春城の堀は戦死者の血で真っ赤に染まったと云う。多大な被害を受けた反乱軍は、むなしく城内に引き揚げる他なかった。城内の困窮はさらに進み、すでに投降者は数万人に達した。



文欽は、諸葛誕に「この際、食料を節約するためにも、北方の出身者を城から出して、信用できる者と呉の者だけで城を守ろう」と提案する。だが、諸葛誕はこの提案に耳を貸さなかった。そして、この一件を機に、2人の仲は険悪なものとなる。元々、この2人は嫌いあっていたのだが、司馬昭打倒という目的のため、否応無く協力していたに過ぎない。しかし、事態が深刻になるにつれ、亀裂も深まってきたのであった。そういったある日、文欽が作戦提案のため、諸葛誕の元へ赴いたところ、疑念に凝り固まっていた諸葛誕によって、その場で殺されてしまった。



この報を受け、文欽の子である、文鴦、文虎は城を脱出して司馬昭に投降する。司馬昭はこの2人を許し、魏の将軍に取り立てた。その上で、司馬昭はこの2人を寿春城に向けて、「我ら文欽の子でさえ、こうして許されたのだ。諸君らも安心して投降するが良い」と呼び掛けさせた。それを聞いた寿春城の将兵達は、安堵すると同時に戦意も失った。こうして諸葛誕は、益々追い詰められていった。司馬昭は頃合は良しと見て、城の四方から兵を進め始める。討伐軍は一斉に陣太鼓を打ち叩き、城壁を登っていった。しかし、城兵はすでに戦意喪失しており、あえて抵抗しようとする者はほとんどいなかった。



諸葛誕に従うのは、いまや僅かな私兵のみ、寿春城が討伐軍によって飲み込まれてゆく中、万に一つの可能性に賭けて敵陣突破を図った。だが、分厚い包囲陣を突破する事は適わず、殺到する敵兵によって諸葛誕は斬り倒され、あえなく戦場の露と消えた。主将の死を受けて生き残った将兵達も次々に投降し、呉将、唐咨と呉兵1万余も降伏した。その一方、諸葛誕に忠誠を誓っていた将兵数百人余は降伏を拒否し、「諸葛公のために死すならば、本望である!」と叫んで刑死していった。討伐軍の将達は、「淮南では幾度も反乱が企てられており、この際、全ての捕虜を生き埋めにしましょう」と提案した。これに対し、司馬昭は、「元凶さえ滅ぼせば、それで良いのだ」と言って、全員の命を保障した上、周辺地域に居住させた。



 司馬昭はその度量を示した一方、諸葛誕の一族は皆殺しとして禍根を断った。その頃、反乱に乗じて攻め込んできた蜀の姜維は、利あらずとして撤退していった。呉や蜀をも巻き込み、1年余に及んだ大反乱はここに終結した。王稜、毌丘倹、諸葛誕らによる一連の蜂起は、淮南の三叛と呼ばれた。いずれも、司馬一族の専横に対する反抗であったが、皮肉にも、これらの反対勢力が一掃された結果、司馬一族の権力は揺るぎないものとなった。諸葛誕の乱から7年後、265年、司馬昭は皇帝の一歩手前、晋王の位にまで上り詰める。だが、司馬昭は、帝位を目前にして急死した。司馬昭54歳。その跡を継いだ司馬炎は直ちに晋王の位を引き継ぐと、魏帝曹奐に迫って禅譲させ、皇帝の位へと上った。これで曹操が築き上げた魏は滅び、新たに司馬一族の王朝、晋が誕生する。



諸葛誕は、蜀に仕えた諸葛亮、呉に仕えた諸葛謹と比べられて、こう言われた。「呉は其の虎を得、蜀は其の龍を得、魏は其の狗(いぬ)を得た」と。天下を取った司馬一族の国家、晋から見れば、諸葛誕は反逆者に過ぎず、不当に評価が陥れられた可能性がある。確かに、諸葛亮や諸葛謹と比べると、諸葛誕の度量は狭く、猜疑心の深さゆえに身を滅ぼしたと言えよう。しかし、諸葛誕は人材豊富な魏にあって、要職を歴任したのみならず、最重要地の総司令官にまで上り詰めた人物であるから、決して無能な人物ではない。数百人余の兵が諸葛誕を慕って、共に最後を迎えている事からも、人望厚い人物であった事が窺える。享年は不明であるが、50代半ばには達していたと思われる



三国志 「淮南の三叛」 前

2010.03.20 - 三国志・中国史

三国時代後半、240年代、魏王朝では、稀代の策士、司馬懿が皇族である曹一族に代わって、国家の実権を握りつつあった。司馬懿は東西奔走して蜀や呉の北伐を防いできた、魏の大功臣である。しかし、司馬懿は忠臣を装いながらも、内心には大いなる野心を秘めていた。司馬懿は功績を打ち立てる度に昇進を重ね、ついには曹一族と並び立つ位置にまで立った。249年、司馬懿は、最大の政敵であった曹爽を葬り去って、魏の軍権と政権の二つを握った。これによって、魏王朝内で司馬懿に対抗できる者は存在しなくなり、魏の群臣は皆、司馬一族の権勢に慄き、跪(ひざまず)いた。だが、司馬一族の専横を快く思わない気骨ある人物も、幾人かいた。都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)であった王凌(おうりょう)もその一人で、司馬一族を取り除く決意を固める。



251年、王凌は、若年の魏帝、曹芳に代わって、年長の曹彪(そうひょう)を立てて司馬懿を討とうと考えた。しかし、同士を募っている過程で、計画は司馬懿に漏れ伝わってしまう。これに対する司馬懿の対処は素早く、王凌に手紙を送って罪を許すと油断させておいてから、自ら討伐軍を率いて、電光石火の速さで淮南に向かった。王凌は突如として現れた司馬懿の大軍に驚愕し、敗北を悟った。王凌は降伏し、司馬懿の陣を訪れたが、自らを助ける気がないと知ると、毒を煽って自害した。王凌の一族は皆殺しとなり、計画に加わった曹彪も自害を強要された。同251年、司馬懿は70代の老齢とは思えぬ頭の冴えと、迅速な行動力をもって王凌を滅ぼしたが、さすがに無理が祟ったのか、その年の内に病没してしまう。司馬懿仲達、73歳。



司馬懿が死去しても、司馬一族の権勢は衰えを知らず、その跡を継いだ司馬師の代になると、その基盤は益々、強固なものとなっていった。254年、魏王朝内で名声を博していた、夏候玄(曹操と共にその覇業を支えてきた、夏候惇、夏候淵ら夏候一族の一人)は現状を憂いていた。この夏候玄を高く買っていた魏の官吏、李豊は、彼を大将軍に任じて司馬師を取り除こうと考えた。この計画には魏帝、曹芳も賛同して、同士が募られた。しかし、この企てもほどなくして司馬師の耳に入り、夏候玄、李豊ら一味の者は皆殺しとなった。同年、司馬師は、計画に加わっていた曹芳を廃し、代わって曹髦(そうぼう)を擁立する。司馬一族にとって、皇族である曹一族など最早、飾り物の人形に過ぎず、首のすげ替えも意のままであった。



255年、この皇帝廃立に憤慨した、鎮東将軍、都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史、文欽(ぶんきん)は淮南で共に兵を挙げた。この時、毌丘倹、文欽らは、隣接する都督豫州諸軍事の諸葛誕にも誘いをかけたが、諸葛誕は文欽を嫌っていたので、この申し出を峻拒した。反乱の報を受け、司馬師は自ら討伐に向かう事を決意する。この時、司馬師は目に出来た悪性の腫瘍を取り除いたばかりであったが、それを押しての出兵であった。司馬師は10数万の兵を率いて淮南に向かい、それに対して毌丘倹らは寿春城を拠点とし、5、6万余の兵力で立ち向かった。毌丘倹は出城に篭り、文欽は遊軍となって城外に出た。 楽嘉(らくか)の地で、司馬師率いる討伐軍と、文欽率いる遊撃軍は激突した。文欽の子、文鴦(ぶんおう)は18歳の若者ながら、その武勇は全軍一であり、突撃して司馬師の本営にまで迫った。司馬師はこれに驚き、切開した傷跡から片目が飛び出してしまったと云う。司馬師は激痛に耐えながらも指揮を執り、何とか文欽を撃ち破る。



この敗報を受け、毌丘倹は逃れようとしたが途中で討ち取られ、その一族も皆殺しとなった。文欽の方は追っ手を振り切り、息子2人と共に呉へと逃れた。こうして淮南の役は司馬師の勝利に終わり、司馬一族の基盤は一段と強化された。ほどなく、司馬師は49歳で病没してしまうが、その絶大な権勢は、そのまま弟の司馬昭へと引き継がれた。尚、 今回の戦いで大きな役割を果たしたのが、諸葛誕であった。彼は、諸葛亮孔明の族弟にあたり、若い頃は魏帝、曹叡に疎まれて不遇であったが、曹叡死後は、友人である夏候玄によって引き立てられ、要職を歴任していた。毌丘倹、文欽らが挙兵した際には、加担を要請されるも、これをきっぱりと断っている。そして、反乱軍が敗走するや、司馬師の命を受けて直ちに寿春城を制圧した。



その直後、呉はこの機に乗じて寿春城を制圧せんと、孫峻、留賛らを派遣したが、既に寿春城は諸葛誕によって固く守られていた。呉軍は、利なしと見て撤退に取り掛かったところ、諸葛誕はこれを追撃して打ち破り、敵将、留賛の首を取った。これらの功績により、諸葛誕は征東大将軍を拝命し、都督揚州諸軍事となって、この方面の総司令官となった。 諸葛誕は反乱軍鎮定に功を挙げ、新しい実力者、司馬昭の信頼を勝ち取ったかに見えた。しかしながら、諸葛誕は司馬一族に対する、不安や不信を拭い去る事が出来ず、内心は揺れ動いていた。親しい間柄であった夏候玄は司馬師によって殺されており、同じく都督揚州諸軍事となっていた王凌、毌丘倹らも司馬一族によって皆殺しとなっている。次は自分ではないか、そう思い定めた諸葛誕は、自らの基盤を固めるべく動き始める。



諸葛誕は私財を傾けて人心の把握に努め、近親者や揚州の侠客数千人を手厚くもてなして、命知らずの部下とした。256年冬、呉が寿春城に対する攻撃の動きを見せると、諸葛誕は上奏して10万人の増援と、淮水を望む地に築城する許可を求めた。だが、司馬昭はこの上奏を退ける。司馬昭は、諸葛誕の軍だけで呉軍に十分、対処可能であると見ていたし、諸葛誕が反心を抱き、淮南の地を固めるために上奏文を送ってきた事も見抜いていた。257年春、司馬昭は諸葛誕を司空(三公と呼ばれる高位)に任命し、朝廷への召還を命じる。諸葛誕はこの措置を、自分から兵権を取り上げた上で謀殺するものと察した。恐怖に駆られた諸葛誕は、ついに兵を挙げる事を決する。

長篠合戦後の武田勝頼

2010.02.28 - 戦国史 其の二

天正3年(1575年)5月21日、遠江国、設楽原(したらがはら)の地で、武田軍1万5千人余と織田・徳川連合軍3万8千人余が激突する(武田軍1万余、織田・徳川軍2万人余であったとも)。史上名高い、この長篠の戦いで武田方は数千人余の討死を出し、さらに武田家を支えてきた名将、多数を失って惨敗した。この戦いの結果、武田家の威信は大いに失墜したが、逆に織田信長は著しく威信を高めて、自らの覇権確立を確信するに至った。更に、織田、徳川軍はこの勝利に乗じて戦果を拡大すべく、美濃岩村城や三河、遠江の武田方諸城を囲んだ。これらの諸城が落とされれば、連鎖的に武田領国が崩壊しかねない状況であった。



この領国の一大危機に対し、勝頼はまず、軍を立て直す事から始めねばならなかった。減少した戦闘員を急遽、補充すべく、戦死した武士の年少の子息や、僧侶、町人まで取り立てて、遮二無二に軍の再建に臨んだ。そして、3ヶ月後には何とか1万3千の軍を編成し、徳川軍に包囲されていた遠江小出城の後詰めへと向かった。 同年9月7日、武田の援軍が小出城に現れると、徳川方はこれほどの短期間で武田軍が立て直されるとは思っていなかったから、驚いて撤退していった。徳川方は勝頼の手腕を手放しで賞賛したが、武田軍の中には多くの百姓人夫が混じって、人数合わせをしているという点は見抜いていた。こうして勝頼は、小出城の後詰めには成功したが、織田の大軍に囲まれている美濃岩村城の方は、如何ともし難く、後回しにした。同年11月、勝頼は甲斐、信濃に再び動員をかけて、岩村城の後詰めに向かった。武田軍は夜討ちを仕掛けて、包囲網を討ち破らんとしたが、織田方の激しい反撃を受けて撃退され、救出は絶望的となった。



天正3年(1575年)11月21日、粘っていた岩村城もついに力尽き、織田軍によって、城兵は1人余さず皆殺しとなった。この凶報は、武田領国を震撼させる。 同年12月16日、勝頼はかつてない危機感を覚えて、領国各地より身分を問わず、15歳以上60歳以下の男子を20日間の期限付きで、総動員するよう布告する。それと平行して、勝頼は武田軍を近代化すべく、軍政改革を行う。まず信玄以来の軍法を改めて新たな軍法を制定し、かつ装備を改善するため、長柄槍を減らし、騎馬武者の増員と鉄砲装備の拡充を目指した。 こうした努力の結果、武田軍は兵力の回復には成功したものの、その反面、軍務に適さない者を大量に動員したため、以前と比べて質的には見劣りする軍となった。 また、連年の出兵による領内の疲弊に加え、武田の財政を支えてきた金山収入の減少もあって、装備の改善もままならなかったと思われる。



長篠の戦いでは、武田家の領国支配を分担し、意思決定にも加わっていた宿老達のほとんどが戦死していた。これら有能な人材を多数、失った事が武田家にとって最も大きな打撃であった。勝頼は、必然的に新たな人材の登用を迫られる。駿河・遠江方面は、山県昌景が駿河江尻城代としてこの地域を統括していたが、戦死後には穴山信君に代わった。この江尻城は、長篠合戦後、攻勢を強める徳川家に対応するための重要拠点だった。 西上野は、内藤昌秀(昌豊)が箕輪城代として統括していたが、戦死後しばらくは、城主は置かれず、天正6年(1578年)以降から、真田昌幸がこの地域を統括するようになる。そして、勝頼の側近として重く用いられるようになったのが、武田信豊、跡部勝資、長坂光堅らだった。特に信豊と勝資は、武田家の意思決定に深く関与する事になる。


天正5年(1577年)1月22日、織田、徳川家による軍事的圧迫は引き続いていた事から、勝頼は背後を固める目的で、関東の北条氏政の妹を娶った。この時、勝頼32歳、北条夫人14歳であった。典型的な政略結婚であったが、そのような事に関係なく、2人は深く愛し合ったようである。この婚姻によって両家の絆は深まったかに見えた。しかし、両家の蜜月は束の間であった。天正6年(1578年)3月、越後の雄、上杉謙信が死去し、その跡目を巡って2人の養嗣子、景勝、景虎による後継争い(御館の乱)が勃発すると、武田家と北条家は思惑が行き違って、溝を深めていく事になるのである。


北条氏政はこの機に乗じて、越後を北条家の影響下に置こうと考え、自身の弟である景虎の支援を開始する。しかし、北条家の主力は関東で佐竹氏らと対陣中で、すぐには動けなかったので、勝頼に軍事支援を仰いだ。勝頼はこの要請を受諾して、越後への進軍を開始し、その過程で信濃飯山城、越後越知城、越後不動山城、越後赤沢城を手に入れる(これらは乱終結後、正式に武田家に割譲される)。勝頼は、春日山城に達すると、軍事圧力を加えながら、景勝と景虎の双方に、和睦するよう呼びかけた。本来なら、ここで景虎を全力支援すべきであったのだが、勝頼は、景虎が勝利して、北条家の勢力が越後にまで伸びる事は避けたかった模様である。


それに、出兵の間にも攻勢を強める徳川家に、早急に対応せねばならない事情もあった。そして、景勝と景虎いずれも支援せず、両者が和睦するよう努力を傾けた。勝頼としては、武田・北条・上杉による三和が望ましかったようだ。 同年8月、勝頼は苦労して、景勝と景虎との和睦を取りまとめたが、徳川軍、駿河侵入の報を受けて、和睦継続を見守る間も無く、撤兵せざるを得なかった。そして、勝頼の撤兵後、和睦は脆くも崩れ去り、戦は再開された。そもそも両者は、越後で唯一の統治者たらんとして争っているのであって、話し合いで収まる訳などなかった。


結局、勝頼は、景虎になんらの支援も与えなかったので、北条氏政は不信感を抱きつつあった。それに、勝頼の部将、真田昌幸が、景虎方の上野沼田城攻撃の姿勢を見せたり(これは昌幸の独断で、北条家の抗議と、勝頼からの叱責を受けて取りやめた)、景勝が、しきりに勝頼の援軍到来を宣伝したので、北条方の不信感は増幅されていった。 天正7年(1579年)1月、武田・北条の関係は軋みながらも、まだ同盟は維持されており、年初の挨拶が交わされた。だが、同年3月24日、北条方の景虎が敗死し、御館の乱が景勝の勝利に終わると、北条家の態度は硬化する。


この御館の乱の間、勝頼が、景勝や景虎に直接的な軍事支援を行った事は一度もなかったが、乱の半ば以降からは、明らかに景勝寄りの姿勢を見せていた。氏政はこれに対して、景虎を支援しなかったのは約定違反であるとして怒り、武田家との亀裂は決定的なものとなる。そして、同年9月、両者は手切れして、戦争状態に入った。敵となった北条家は、織田家と結んで、武田を挟撃せんとした。「信長公記」の天正7年9月の記事によれば、北条家は、織田家に鷹を進上して音信を図ったとある。続いて、年10月の記事によれば、北条家は、織田家と好(よしみ)を通じて、武田攻撃のため、出陣したとある。


武田家にとって最大の味方であった北条家は、いまや直面する最大の脅威となった。天正7年(1579年)10月20日、勝頼は景勝との関係を深める必要に迫られ、妹を嫁がせて、上杉家と軍事同盟を結ぶ。さらに常陸の佐竹義重とも同盟を結んで、北条家を東西から挟撃せんとした。一方の北条家も、織田家、徳川家と同盟を結んで武田家を挟撃せんとした。 そして、同年10月25日には、徳川家と示し合わせて、数万の大軍をもって伊豆三島に陣取り、駿河侵攻を窺った。これに対応するため、勝頼も駿河に出陣して北条軍と対峙する。それから勝頼は徳川軍に向かい、軍事圧力を加えて追い返した。この対陣は、同年12月9日、勝頼が甲斐に帰還するまで続いた。


勝頼は東の北条家に全力を注ぐため、西の大敵、織田家との和解を試みる。織田家と武田家との間は、天正5年(1575年)に岩村城が落城した後からは、大きな戦闘は起こっていなかった。そこで、天正7年末から、佐竹義重の仲介で和解交渉が開始される。条件の隔たりから和解は難航するが、勝頼はこの後も粘り強く交渉を続けた。武田家はただでさえ、織田、徳川家に劣勢であったのに、ここで北条家まで敵に回したのは致命的であった。武田家は、西、南、東を戦国屈指の強豪大名によって囲まれたのである。北に唯一、味方として上杉家が存在しているものの、内乱の影響で弱体化しており、援軍は期待出来そうに無かった。北条家とは全面戦争に入ったため、武田家もこちらに全力を投入せねばならなかったが、その隙に、織田家に攻め入られれば最早、どうしようも無かった。


天正8年(1580年)を迎えた時点で、織田家の軍事力は、武田家の遥か上を行っており、これに自力で対抗するのは最早、不可能となっていた。それにこの頃から、織田家臣や地方大名も、信長の事を上様と尊称しており、戦国大名の枠を超えた、より上位の権力者であると認識していた。なので勝頼は、織田家への服属も視野に入れて交渉していたと思われる。それは、後の江戸幕府と外様大名との関係の様に、信長の覇権を認める一方、甲信の地に地方大名として存続する方向であったろう。しかし、信長は、武田家に激しい敵意を抱いていたので、交渉は難航を極めた。勝頼としては、可能な限り現状を維持しての服属を模索しただろうが、苛烈な性格の持ち主である信長は、せいぜい甲斐一国の安堵しか認めなかったろう。この条件では、さすがに勝頼も承服しかねただろう。



勝頼は、服属を視野に置いた和解交渉を進める一方、北条家を討ち滅ぼし、関東を併呑する事も考えていたと思われる。北条領を編入する事に成功したなら、武田家は250万石を超える一大勢力となって、織田家と言えども容易には手が出せなくなる。そうなれば、和解交渉も有利に運んでいただろう。交渉ごとは、古今東西、力の大きい方の言い分がまかり通る。力無き者が、交渉を有利に進めんとすれば、相手との力の差を埋める他は無い。それに何より、関東を制すれば、徳川家を圧倒し、織田家への自力の対抗も見えて来る。勝頼は、織田家との和解交渉を継続しつつも、上野国への大攻勢を開始する。上野国の内、西部は武田家が領有していたが、東部は上杉家と北条家の領有する所であった。だが、御館の乱後、上杉家は東上野から手を引いたので、武田、北条家はこの地を巡って激しい争奪戦を繰り広げる事となる。


天正8年(1580年)、武田家と佐竹家は、共同して上野へ出兵した。勝頼は軍事圧力を加えて、東上野の諸領主を次々に服属させて行き、上野での戦いは武田家優勢で進んだ。しかし、遠江、駿河方面では、武田家が劣勢に立たされており、同年3月からは徳川軍による遠江、高天神城攻撃が始まる。高天神城の将兵達は、勝頼の来援を期待して篭城戦に入った。だが、勝頼は西は守って、東に攻勢をかける方針で、主力を上野や伊豆に振り向ける事はあっても、高天神城の援軍に駆け付ける事は最後までなかった。徳川家に主力を振り向ければ、必然的に織田家も援軍を出して来るだろう。そうして再び、織田家と武田家が激突する事態になれば、最早、和解交渉など不可能となる。また、衝突を切っ掛けに、織田家の大攻勢が始まるかもしれない。北条家に全力を傾けていた勝頼にとって、それだけは避けねばならない事態だった。勝頼は、織田家との和解が成立するまで、高天神城が持ちこたえてくれる事を望んだ。


尚、同年3月、武田を取り巻く情勢が大きく変わる、2つの出来事が起こっている。1つは、北条家が織田家傘下の大名となった事である。信長公記によれば、北条家は、織田家に進物を送り届けて、関八州を上げて織田の分国となりたいと口上し、縁組も要請したとある。北条氏政は、上野での武田家の攻勢を深刻な脅威と捉えて、弟の氏邦に、「このままでは当方滅亡」とまで打ち明けていた。この危機を乗り切るには、織田家の関係を深めて、支援を仰ぐ必要があった。そして、今回の織田家への申し出をもって、北条家は、その傘下の大名とみなされる形となった。この北条家を攻撃している武田家は、当然、討伐の対象と見なされる。もう一つは、この3月をもって、石山本願寺と織田家との間で講和が成立し、同年8月には、石山の地が明け渡された事である。織田家はこれまで、本願寺包囲に3~4万人余の大軍を貼り付けていたが、任務が解消された事で手隙となった。この軍事力がどこに向かうかは、信長次第であった。 武田を取り巻く情勢は悪化の一途を辿っていたが、北条家と全力で戦っていた勝頼には如何ともし難かった。


それでも、上野での戦いは武田優勢で進んでおり、その原動力となっていたのが、真田昌幸である。昌幸は北条方の城を調略をもって次々に落として行き、天正8年(1580年)秋には、北条方最大の拠点、沼田城をも落としている。そして、同年8月からは、仕上げとして勝頼自らが出陣して、残る北条方の諸城を攻め取った。 これによって上野一国は、由良国繁領を除いて、武田家がほぼ領有する所となった。太閤検地によれば、上野国は49,6万石で12,400人が動員可能な大国である。 勝頼は更なる版図拡大を狙い、佐竹、里見などの反北条勢力を結集させて、武蔵国への一大攻勢を企図した。太閤検地によれば、武蔵国は66,7万石あって北条家の力の源泉となっている。ここを奪えば、北条家の命脈は断ったも同然であるが、武田家に残された時間は少なかった。


関東での武田優勢の一方で、徳川軍によって包囲され、孤立無援状態であった高天神城の篭城は限界に達していた。天正9年(1581年)初旬、城内では餓死者が続出する事態となり、同年1月20日頃、主将の岡部元信は徳川方に開城を申し出る。家康は、信長に使者を送ってその指示を仰いだ。すると信長は、城方の申し出は却下する方が良いと、意見した。信長は天下への見せしめとするため、高天神城を血祭りに上げる事を望んでいた。勝頼が味方の城を見殺しにしたと宣伝して、その権威を失墜させ、臣民の動揺を誘おうと考えていたのである。家康は、この意見に従った。そして、同年3月22日、徳川軍の攻撃により、岡部元信以下700人余が討死して、高天神城は落城した。 信長の思惑通り、世の人々は、勝頼は城を見殺しにして天下の面目を失ったと噂した。こうして、武田の軍事的劣勢は、内外に広く知れ渡る事となった。


この頃、勝頼は武田家の捕虜となっていた信長の子息、信房を返還している。勝頼は信房を返還して、織田家との和平の切っ掛けを掴もうとしていた。しかし、これに対して信長は、使者に会おうともせず、目下宛ての尊大な書式で信房の返還に礼を述べただけであったと云う。 上杉家は、武田家と織田家が和睦したとの風聞を聞き付けて、それを問い質す書状を送っている。 それに対して、勝頼の側近、跡部勝資が弁明しているので、それを略して載せたい。

「織田家との和睦は、佐竹義重に仲介を依頼しているが、まったく進展していない。交渉が進展すれば、報告すると何度も約束しているが、和睦がまとまらないのだから報告する内容が無い。信長の子、信房を返還したのは、佐竹義重の強い要望によるもので、交渉の進展とは無関係である。もし和平が成立したなら、上杉家も含めた三和の形を取りたいと言う約束は、織田家には伝えてある」

これ以降も勝頼は、信長との和解交渉を続けたが、暖簾に腕押しであった。畿内に覇権を確立しつつあった信長にとって、武田家など最早、脅威でもなんでもなく、いつ滅ぼすかの問題でしかなかった。そして、信長は、天正9年(1581年)より、武田攻めの為の兵糧備蓄を開始する。武田家が存続するには、甲斐以外の国を全て差し出して、織田家へ従属を申し出る他、無かったろう。もっとも、信長は武田信玄、勝頼父子を激しく憎んでいたので、この条件すら許さなかったかもしれない。だが、勝頼にしても、石高が5分の1以下になる条件は、受け入れ難かったろう。


この時期、武田家は、北条家とは互角に渡り合っていたが、徳川家には劣勢で、その背後に位置する織田家の強大な圧力に晒されていた。上杉、佐竹と言った味方はいるものの、織田家相手には戦力不足で、総体的に見れば、武田の不利は明らかだった。 天正9年(1581年)の時点で、織田家は生産力豊かな畿内各国を全て支配していたので、石高は600万石余、動員力は15万人余であった。更に、徳川家や北条家の軍事力も、これに加わる。それに対して、武田家は甲斐22,7万石、信濃40,8万石、駿河15万石、上野49,6万石、越後の一部(3万石余?)を支配下に治めて石高は130万石余、動員力は3万2千人といったところであった。戦国の世の人々は、力関係の変化に敏感である。相手の力を見誤れば、自身が滅亡する事になる。なので常日頃から嗅覚を研ぎ澄ませ、力ある者の下に付こうと心掛けていた。世の人々は、武田の劣勢を見抜いていたであろう。そう感じていたのは武田家臣とて同じであり、内心は不安を隠せなかったに違いない。


天正9年(1581年)、勝頼は織田、徳川の攻勢に備えるべく、新たなる居城、新府城の築城を開始する。ただ、この新府城は防御のためだけに作られた城ではない。新府城は広大な武田領国の中心に位置しており、防御も含め、戦略、統治上の広い観点に立っての築城であった。 しかしながら、城の築城には多大な費用、労力が必要であり、それが大名の居城ともなれば尚更である。その負担は当然、家臣や領民に課せられる事になる。これまでも、連年の出兵によって家臣や領民は疲弊していた事から、勝頼に対する不満、不信は増幅されていった。天正9年(1581年)12月、信長は、翌年春に武田家を総攻撃すると家臣に通告する。そして、攻撃準備と平行して、武田家臣に対する調略を開始した。織田家との和解交渉も、あるいは関東を併呑した上で織田、徳川に反抗をとの戦略も、時間切れとなった。12月後半、織田家侵攻が噂される中、勝頼は新府城を突貫工事で完成させて、この城に移る。高天神城の落城から、武田家臣の間に動揺が広がり始め、織田家による侵攻の噂がそれに輪をかけた。武田の滅亡は間近に迫っていた。




信州上田城

上田城は、長野県上田市にある平城である。



天正11年(1583年)頃、上田城は、信濃北部の領主である、真田昌幸によって築かれた。昌幸は、かの有名な真田信繁(幸村)の父として知られている。昌幸は、大国の狭間に置かれた弱小な真田家を統率して、なりふり構わぬ生き残り策をめぐらして戦乱を乗り切ってきた、したたかな武将である。そして、この上田城は、昌幸が徳川の大軍をものともせず、二度に渡って退けた城として有名である。


天正13年(1585年)8月、真田家は徳川家に臣従していたが、家康から上州沼田領を北条家に明け渡すよう、申し渡される。当時、家康は秀吉と対峙中であり、背後の北条家との関係を深める必要あっての事であった。しかし、昌幸は豊臣家と上杉家に誼を通じた上で、これを峻拒する。当然、家康は激怒し、昌幸を討つべく、徳川家の部将、大久保忠世、忠教らに諸勢7千余を預けて、上田に送り込んだ。この時、昌幸には2千余の兵しかなく、上田城もまだ未完成であった。だが、昌幸は上杉家に援軍を依頼した上で、秘策をめぐらせてこれを迎え撃つ。


8月2日、上田城正面で両軍はぶつかったが、徳川軍は城内深く引き込まれ、その上で伏兵の反撃を食らって大混乱に陥ってしまう。徳川軍がたまらず退却していくのを昌幸は逃さず追撃し、城外東の神川まで追い詰めて、徳川方多数を討ち取った。この時の徳川軍の死者は、350~1300人余に上った。その後も徳川軍は攻略を諦めず、再び大きな衝突もあったが、11月になって徳川軍は引き揚げていった。


慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの折、真田昌幸は石田三成と通じて、再び徳川方と激突する。家康は上方の三成を目指し、軍を二分して西進する。家康自らは東軍諸将を率いて東海道を通り、子息の秀忠には中山道を進ませた。9月2日、秀忠軍は小諸城まで来ると、上田城に降伏勧告を呼び掛けた。秀忠軍は3万を越える大軍であり、これに対する真田軍は2千人余でしかなかった。昌幸が降伏するのは、当然と思われた。


昌幸はこれに応ずる気配を見せつつも、何かと言い訳をして城の明け渡しを拒んだ。9月6日、昌幸に欺かれたと知った秀忠は激怒し、一挙に城を踏み潰すべく、全軍総攻撃の断を下す。これを迎え撃つ真田軍は、第一次上田合戦同様、小競り合いをしつつ徳川軍を城内に引き付けると、その上で鉄砲、伏兵による痛撃を加えたので、徳川軍は手痛い打撃を被った。


徳川方は上田攻略を諦め、小諸城へと引き返した。9月11日、上方情勢が風雲急を告げる中、秀忠軍は遅まきながら西進を再開した。しかし、9月15日、秀忠軍が妻籠までたどり着いた時に、関ヶ原の戦いは終わった。戦後、家康は、秀忠の遅滞に怒ってしばらく面会を許さなかったと伝わる。


関ヶ原合戦後、昌幸と信繁は、長男信之の取り成しで死一等は免ぜられたが、九度山への配流が決定する。昌幸の改易後、上田領には信之が封ぜられたが、上田城は徹底的に破却される事となった。その後、信之は松代城に転封され、次に入ってきた仙石氏によって上田城は復興される。宝永3年(1706年)、仙石氏が但馬出石城に転封されると、代わって松平氏が上田城に入り、そのまま明治の世を迎えた。



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↑大手門



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↑南櫓



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↑真田神社


真田氏、仙石氏、松平氏といった歴代藩主が祀られているとの事です。私も有名になって、神社を作ってもらいたいものです。



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↑本丸土塁と堀


天正13年(1585年)8月、徳川軍との一度目の対戦の折には、昌幸は400人余の兵で、この本丸まで徳川軍を引き付けたそうです。第一次上田合戦当時の上田城はまだ土塁の城で、その時の名残が今でも残っています。



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↑上田城からの眺め


往時には、城周辺を徳川軍がびっしりと囲んでいたのでしょう。



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↑真田井戸


ここから、城北の太郎山に抜ける事が出来るのだとか。
( ´,_ゝ`) ふ~ん 戦国版どこでもドアってとこでしょうか。



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↑真田石


慶長5年(1600年)9月、第二次上田合戦当時の上田城は、要所、要所に櫓が築かれ、城下町を取り込んだ惣構えも有する、堅固な近世城郭に発展していました。仙石氏復興時よりも、昌幸時代の上田城の方が厳重な守りであったと考えられています。
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