
2023.12.02 - 城跡・史跡訪問記 其の四
2023.09.02 - 城跡・史跡訪問記 其の四
山村代官屋敷は、長野県木曽郡木曽町にある代官屋敷跡である。江戸時代を通して、尾張徳川家の重臣、山村氏が代々、世襲していた。元々、山村氏「良候(よしとき)良勝父子」は、木曽氏の重臣であったが、木曽氏が改易されると一時、浪人となって逼塞した。だが、慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦の折、徳川家康によって山村良勝が招集されると、中山道を進む東軍の先導役を務め、更に木曽郡攻略に貢献した事から、山村父子には美濃国において5700石が与えられ、更に木曽郡の支配と、福島関所の守衛も合わせて委ねられた。以降、山村氏は山村代官屋敷を拠点に木曽郡支配を担い続けた。その屋敷は大小、30棟を数える壮大なものであった。しかし、明治維新を迎えると、山村氏による支配も終わりを迎え、明治3年(1870年)、屋敷の大部分は取り壊された。現在の屋敷は、往時の三分の一程度で、下屋敷のごく一部である。
山村代官屋敷では、史料の撮影は自由との事でした。代官屋敷とは言え、広大な敷地と豪華な所持品の数々から、山村氏が相当な格式と財力を有していた事が伝わって来ます。
2023.06.18 - 城跡・史跡訪問記 其の四
犬山城は2012年8月に訪問していますが、その時は外観のみで天守閣は拝見しませんでした。今回は天守閣とその眺めを中心に写真を載せていきます。
過去の犬山城訪問記

犬山城天守閣からの眺めは非常に良かったです。木曽川の畔にあって河川の流通を握り、旧尾張国と美濃国の両国に睨みを利かす立地だというのが視覚から伝わって来ます。
2023.05.20 - 城跡・史跡訪問記 其の四
八王子城は、東京都八王子市にある山城である。戦国関東の覇者、北条氏が築いた城で、その規模は関東屈指である。しかし、天下人、豊臣秀吉によって攻め落とされ、無数の死者を出した悲劇の城でもある。
八王子城は、天正6年(1578年)~天正10年(1582年)頃、北条家四代目当主、氏政の次弟、氏照によって築かれたと見られる。氏照は、北条家中では氏政、氏直父子に次ぐ格式と権力を誇る実力者であった。標高460mの城山には本丸と無数の曲輪が巡らされ、麓には氏照の住まう壮大な居館があり、その外には城下町が広がっていた。氏照は八王子城の更なる発展強化を構想していたが、天正18年(1590年)3月から始まった豊臣秀吉による小田原攻めによって、中断を余儀なくされる。この時、氏照は配下の数千人の兵を率いて小田原城に籠城したため、八王子城を守るのは氏照の重臣と僅かな侍衆に、招集した領民合わせて3千人余に過ぎなかった。
豊臣方の攻勢は凄まじく、北条方の支城は次々に落城してゆき、終には八王子城も、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら1万5千人に囲まれた。天正18年(1590年)6月23日深夜の早朝、豊臣軍は闇と霧に紛れて接近すると、城下町を一気に打ち破り、続いて山上の要害と、麓の居館を攻め立てた。豊臣軍は山上の要害は攻めあぐねたものの、麓の居館は打ち破って乱入した。そこに居た婦女子らは悲観して、御主殿の滝にて自刃していった。城方の領民達は持ち場から逃げ散っていったが、侍衆は最後まで戦わんとした。城方は中腹で必死に持ち堪えていたが、豊臣軍は数に物を言わせて背後からも攻め立てて、山頂部を乗っ取った。そして、上下から攻め立てられた城方は各曲輪で孤軍奮闘の末に全滅していった。落城は夜明け後の早朝であったようだ。
戦後、相即寺の賛誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)上人は、死者を供養すべく城内を巡ったところ、豊臣軍、北条軍の遺体合わせて1283体を見つけたと云う。実際にはこれ以上の死者と、数倍の負傷者がいた事だろう。豊臣軍は、城内で捕らえた婦女子らを小田原城まで連行して北条方に見せつけ、また、討ち取った侍衆の首を晒したとも、城内に届けたとも云われる。小田原城の諸氏は意気消沈し、降伏開城したのはそれから間もなくの7月5日の事であった。関東には、北条家に代わって徳川家康が入ったが、八王子城は使われる事なく廃城となった。
↑八王子城遠景
↑登山口
↑金子丸
金子三郎左衛門が守っていたと伝わります。
↑柵門跡
↑城の斜面
急峻さが伝わって来ます。
↑高丸
↑展望台から東南を望む
↑本丸跡
八王子神社が鎮座しています。往時には横地監物吉信が守っていたと伝わります。
↑本丸跡
この石碑は、八王子神社の更に上にあります。
↑本丸付近の石垣
↑大手門跡
八王子城の麓にあります。この先を進むと城主の居館、御主殿に至ります。
↑大手門跡
↑曳橋(ひきはし)
往時には簡単な木橋が架けられていて、御主殿への通路となっていました。緊急時には木橋を壊し、侵入を妨げました。
↑御主殿の石垣
八王子城主、北条氏照の権威を知らしめるかの様な、見事な石垣です。
↑主殿
北条氏照はここで政務を執ったり、使者と引見したりしていたのでしょう。食事と起居は、別の建物であったかもしれません。
↑庭園
↑会所
庭園を眺めつつ、宴が催された場所だと考えられています。
↑八王子城ガイダンス施設
バス停や駐車場もあります。この施設では、映像やパネルで八王子城の歴史の説明が見れます。また、出土品の数々も展示されています。
↑八王子城の模型
↑出土品の数々
青磁碗、天目碗、風炉、香炉、炭化米などが展示されています。
↑ベネチア産のレースガラス器
戦国時代の城からは、八王子城でしか見つかっていないとの事です。
↑土玉と鉄砲弾
土玉は突起を付けて、まきびしとして使用されたと考えられています。
↑中国産の青磁皿
↑在地産の皿と壺の欠片
八王子城は巨大で、限られた時間で全てを見て回る事は出来ませんでした。けれども、城の規模と豪華な出土品の数々から、北条氏照の権力と財力の程は十分伝わって来ます。これは大大名級の城であって、5~6千人の籠城は可能であったと思われます。もし小田原攻めの際、北条氏照が配下の精鋭共々、籠城していれば、そう簡単には落城しなかったでしょう。
2023.05.14 - 城跡・史跡訪問記 其の四
靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。明治2年(1869年)、明治天皇の御意向、国家の為に尽くし、命を捧げた人々の御霊を慰め、その事績を後世に永く伝えるべく、創建された。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、日中戦争、第二次大戦での戦没者の御霊、246万6千柱が祀られている。
↑第一鳥居
↑大村益次郎銅像
日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力した人物です。
↑第二鳥居
↑神門
↑拝殿
↑神池庭園
拝殿で参拝を済ませて、境内を一通り散策した後、遊就館へと向かいました。この遊就館は日本古来からの武具甲冑に加えて、第二次大戦時の兵器類が多数、陳列されている一大博物館です。また、日本の為に命を捧げた人々の遺品、遺影、遺書の数々が展示されている慰霊の施設でもあります。
↑九九式二十mm一号固定機銃
日本海軍を代表する戦闘機、零戦に搭載されていた機銃です。零戦二十二型に搭載されていたと説明にあります。航空機銃としては破壊力は高いものの、銃身が短い事から弾道直進性と命中率は低く、至近距離から射撃する必要がありました。後期型の長砲身の二号銃は、上記の問題が解決されています。
↑零戦の座席
軽量化のため、丸穴が開けられています。
↑零戦五二型
日本海軍の主力戦闘機である、零戦の後期型です。前期型より航続距離は短くなったものの、速力、火力は向上しています。
↑零戦五二型
↑零戦五二型
零戦の空冷エンジン、栄の構造の一端が窺えます。当時のレシプロ戦闘機のエンジンは空冷式と液冷式の二種類があって、日本では扱いやすい空冷エンジンが主流でした。空冷エンジンは直径が大きく空気抵抗も大きいという欠点がありましたが、構造が簡単で軽量という利点もありました。
↑C56型機関車
この蒸気機関車は、昭和11年(1936年)に製造され、タイに建設された泰緬鉄道の開通式で使用されています。
↑C56型機関車
↑九六式十五cm榴弾砲
本砲は、野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属して沖縄戦にて奮戦したものの、昭和20年(1945年)6月23日、糸満市真壁にて全弾撃ち尽くした後、中隊は全滅しました。
↑九六式十五cm榴弾砲
↑八十九式十五cmカノン
本砲は、独立重砲兵第百大隊に所属して沖縄戦に参戦しましたが、大隊は全滅し、戦後、洞窟内から発掘されました。砲身には無数の弾痕が穿(うが)かれています。
↑八十九式十五cmカノン
↑芝辻砲
慶長十六年(1611年)、徳川家康が堺の職人、芝辻理右衛門に命じて造らせた鍛造の大砲で、大阪冬の陣にて使用されたとあります。
↑仏郎機砲(ふらんきほう)
16世紀、インドのゴアにて鋳造されたと見られ、豊後の戦国大名、大友宗麟がポルトガルより購入して、国崩しと名付けられました。青銅製で後装式の砲です。
↑彗星十一型
日本海軍の艦上爆撃機で、航空母艦用に開発されました。本機の特徴は、液冷エンジンのアツタを搭載した事で、これによって爆撃機らしからぬ高速を発揮しています。このアツタは、ドイツのダイムラーベンツ製の液冷エンジンをライセンス生産したもので、エンジンが細長い事から、これを搭載した航空機は空気抵抗の少ない洗練された形状にする事が出来ます。ただし、液冷エンジンは重く、構造が複雑という欠点もあります。
↑彗星のアツタ発動機
重々しく複雑な構造であるのが、外見からも伝わって来ます。この液冷エンジンは彗星に高性能を与えたものの、生産、整備の点では手に余り、後に空冷エンジンに切り替えられています。
↑彗星十一型
↑彗星十一型
↑回天四型
特攻兵器、回天の内部です。1人乗りの人間魚雷です。
↑50口径三式十四cm砲
戦艦陸奥の副砲です。陸奥は長門型戦艦の2番艦で、大和型に次ぐ主力艦でしたが、昭和18年(1943年)6月8日、広島県柱島付近にて、不慮の大爆発を起こして爆沈しました。この砲は戦後、海底から引き揚げられたものです。
↑青銅製戦艦武蔵
後ろには、戦艦武蔵の46cm主砲弾が展示されています。
↑九十七式中戦車
昭和13年(1938年)から昭和19年(1944年)にかけて2123両生産された、日本陸軍の主力戦車です。登場時は世界標準の性能だったものの、太平洋戦争開戦時には既に旧式となっていました。それでも後継車両の開発が難航した事から、数的には最後まで主力の座を担いました。
↑九十七式中戦車
側面には砲弾が貫通した孔が空いています。
↑九十七式中戦車
↑九十六式二十五mm連装機銃
日本海軍の主力対空機銃です。フランスのホチキス製25mm機関砲をライセンス生産したもので、日本海軍のほとんど全ての艦船に搭載されていました。兵器としての信頼性は高かったものの、重防御のアメリカ軍機には威力不足でした。
↑九六式二十五mm機銃
↑日本軍の遺品
沖縄にて収集された、日本軍の遺品の数々です。銃弾が貫通した鉄兜、往時には当人が付けていたであろう眼鏡や懐中時計の数々が展示されています。生々しさに息を飲んでしまいます。合掌。
遊就館では他にも、古来から伝わる刀や甲冑の数々に加えて、戊辰戦争から太平洋戦争に至る貴重な歴史遺物の数々が展示されています。また、太平洋戦争で散華された英霊達の遺影や遺書の数々も見れます。これらは撮影不可かつ膨大な資料数のため、言葉で説明していくのは無理です。その目でじっくり時間をかけて見て頂きたいです。