
2023.06.18 - 城跡・史跡訪問記 其の四
2023.05.20 - 城跡・史跡訪問記 其の四
八王子城は、東京都八王子市にある山城である。戦国関東の覇者、北条氏が築いた城で、その規模は関東屈指である。しかし、天下人、豊臣秀吉によって攻め落とされ、無数の死者を出した悲劇の城でもある。
八王子城は、天正6年(1578年)~天正10年(1582年)頃、北条家四代目当主、氏政の次弟、氏照によって築かれたと見られる。氏照は、北条家中では氏政、氏直父子に次ぐ格式と権力を誇る実力者であった。標高460mの城山には本丸と無数の曲輪が巡らされ、麓には氏照の住まう壮大な居館があり、その外には城下町が広がっていた。氏照は八王子城の更なる発展強化を構想していたが、天正18年(1590年)3月から始まった豊臣秀吉による小田原攻めによって、中断を余儀なくされる。この時、氏照は配下の数千人の兵を率いて小田原城に籠城したため、八王子城を守るのは氏照の重臣と僅かな侍衆に、招集した領民合わせて3千人余に過ぎなかった。
豊臣方の攻勢は凄まじく、北条方の支城は次々に落城してゆき、終には八王子城も、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら1万5千人に囲まれた。天正18年(1590年)6月23日深夜の早朝、豊臣軍は闇と霧に紛れて接近すると、城下町を一気に打ち破り、続いて山上の要害と、麓の居館を攻め立てた。豊臣軍は山上の要害は攻めあぐねたものの、麓の居館は打ち破って乱入した。そこに居た婦女子らは悲観して、御主殿の滝にて自刃していった。城方の領民達は持ち場から逃げ散っていったが、侍衆は最後まで戦わんとした。城方は中腹で必死に持ち堪えていたが、豊臣軍は数に物を言わせて背後からも攻め立てて、山頂部を乗っ取った。そして、上下から攻め立てられた城方は各曲輪で孤軍奮闘の末に全滅していった。落城は夜明け後の早朝であったようだ。
戦後、相即寺の賛誉牛秀(さんよぎゅうしゅう)上人は、死者を供養すべく城内を巡ったところ、豊臣軍、北条軍の遺体合わせて1283体を見つけたと云う。実際にはこれ以上の死者と、数倍の負傷者がいた事だろう。豊臣軍は、城内で捕らえた婦女子らを小田原城まで連行して北条方に見せつけ、また、討ち取った侍衆の首を晒したとも、城内に届けたとも云われる。小田原城の諸氏は意気消沈し、降伏開城したのはそれから間もなくの7月5日の事であった。関東には、北条家に代わって徳川家康が入ったが、八王子城は使われる事なく廃城となった。
↑八王子城遠景
↑登山口
↑金子丸
金子三郎左衛門が守っていたと伝わります。
↑柵門跡
↑城の斜面
急峻さが伝わって来ます。
↑高丸
↑展望台から東南を望む
↑本丸跡
八王子神社が鎮座しています。往時には横地監物吉信が守っていたと伝わります。
↑本丸跡
この石碑は、八王子神社の更に上にあります。
↑本丸付近の石垣
↑大手門跡
八王子城の麓にあります。この先を進むと城主の居館、御主殿に至ります。
↑大手門跡
↑曳橋(ひきはし)
往時には簡単な木橋が架けられていて、御主殿への通路となっていました。緊急時には木橋を壊し、侵入を妨げました。
↑御主殿の石垣
八王子城主、北条氏照の権威を知らしめるかの様な、見事な石垣です。
↑主殿
北条氏照はここで政務を執ったり、使者と引見したりしていたのでしょう。食事と起居は、別の建物であったかもしれません。
↑庭園
↑会所
庭園を眺めつつ、宴が催された場所だと考えられています。
↑八王子城ガイダンス施設
バス停や駐車場もあります。この施設では、映像やパネルで八王子城の歴史の説明が見れます。また、出土品の数々も展示されています。
↑八王子城の模型
↑出土品の数々
青磁碗、天目碗、風炉、香炉、炭化米などが展示されています。
↑ベネチア産のレースガラス器
戦国時代の城からは、八王子城でしか見つかっていないとの事です。
↑土玉と鉄砲弾
土玉は突起を付けて、まきびしとして使用されたと考えられています。
↑中国産の青磁皿
↑在地産の皿と壺の欠片
八王子城は巨大で、限られた時間で全てを見て回る事は出来ませんでした。けれども、城の規模と豪華な出土品の数々から、北条氏照の権力と財力の程は十分伝わって来ます。これは大大名級の城であって、5~6千人の籠城は可能であったと思われます。もし小田原攻めの際、北条氏照が配下の精鋭共々、籠城していれば、そう簡単には落城しなかったでしょう。
2023.05.14 - 城跡・史跡訪問記 其の四
靖国神社は、東京都千代田区にある神社である。明治2年(1869年)、明治天皇の御意向、国家の為に尽くし、命を捧げた人々の御霊を慰め、その事績を後世に永く伝えるべく、創建された。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、日中戦争、第二次大戦での戦没者の御霊、246万6千柱が祀られている。
↑第一鳥居
↑大村益次郎銅像
日本陸軍の創設者で、靖国神社の創建に尽力した人物です。
↑第二鳥居
↑神門
↑拝殿
↑神池庭園
拝殿で参拝を済ませて、境内を一通り散策した後、遊就館へと向かいました。この遊就館は日本古来からの武具甲冑に加えて、第二次大戦時の兵器類が多数、陳列されている一大博物館です。また、日本の為に命を捧げた人々の遺品、遺影、遺書の数々が展示されている慰霊の施設でもあります。
↑九九式二十mm一号固定機銃
日本海軍を代表する戦闘機、零戦に搭載されていた機銃です。零戦二十二型に搭載されていたと説明にあります。航空機銃としては破壊力は高いものの、銃身が短い事から弾道直進性と命中率は低く、至近距離から射撃する必要がありました。後期型の長砲身の二号銃は、上記の問題が解決されています。
↑零戦の座席
軽量化のため、丸穴が開けられています。
↑零戦五二型
日本海軍の主力戦闘機である、零戦の後期型です。前期型より航続距離は短くなったものの、速力、火力は向上しています。
↑零戦五二型
↑零戦五二型
零戦の空冷エンジン、栄の構造の一端が窺えます。当時のレシプロ戦闘機のエンジンは空冷式と液冷式の二種類があって、日本では扱いやすい空冷エンジンが主流でした。空冷エンジンは直径が大きく空気抵抗も大きいという欠点がありましたが、構造が簡単で軽量という利点もありました。
↑C56型機関車
この蒸気機関車は、昭和11年(1936年)に製造され、タイに建設された泰緬鉄道の開通式で使用されています。
↑C56型機関車
↑九六式十五cm榴弾砲
本砲は、野戦重砲兵第一連隊第四中隊に所属して沖縄戦にて奮戦したものの、昭和20年(1945年)6月23日、糸満市真壁にて全弾撃ち尽くした後、中隊は全滅しました。
↑九六式十五cm榴弾砲
↑八十九式十五cmカノン
本砲は、独立重砲兵第百大隊に所属して沖縄戦に参戦しましたが、大隊は全滅し、戦後、洞窟内から発掘されました。砲身には無数の弾痕が穿(うが)かれています。
↑八十九式十五cmカノン
↑芝辻砲
慶長十六年(1611年)、徳川家康が堺の職人、芝辻理右衛門に命じて造らせた鍛造の大砲で、大阪冬の陣にて使用されたとあります。
↑仏郎機砲(ふらんきほう)
16世紀、インドのゴアにて鋳造されたと見られ、豊後の戦国大名、大友宗麟がポルトガルより購入して、国崩しと名付けられました。青銅製で後装式の砲です。
↑彗星十一型
日本海軍の艦上爆撃機で、航空母艦用に開発されました。本機の特徴は、液冷エンジンのアツタを搭載した事で、これによって爆撃機らしからぬ高速を発揮しています。このアツタは、ドイツのダイムラーベンツ製の液冷エンジンをライセンス生産したもので、エンジンが細長い事から、これを搭載した航空機は空気抵抗の少ない洗練された形状にする事が出来ます。ただし、液冷エンジンは重く、構造が複雑という欠点もあります。
↑彗星のアツタ発動機
重々しく複雑な構造であるのが、外見からも伝わって来ます。この液冷エンジンは彗星に高性能を与えたものの、生産、整備の点では手に余り、後に空冷エンジンに切り替えられています。
↑彗星十一型
↑彗星十一型
↑回天四型
特攻兵器、回天の内部です。1人乗りの人間魚雷です。
↑50口径三式十四cm砲
戦艦陸奥の副砲です。陸奥は長門型戦艦の2番艦で、大和型に次ぐ主力艦でしたが、昭和18年(1943年)6月8日、広島県柱島付近にて、不慮の大爆発を起こして爆沈しました。この砲は戦後、海底から引き揚げられたものです。
↑青銅製戦艦武蔵
後ろには、戦艦武蔵の46cm主砲弾が展示されています。
↑九十七式中戦車
昭和13年(1938年)から昭和19年(1944年)にかけて2123両生産された、日本陸軍の主力戦車です。登場時は世界標準の性能だったものの、太平洋戦争開戦時には既に旧式となっていました。それでも後継車両の開発が難航した事から、数的には最後まで主力の座を担いました。
↑九十七式中戦車
側面には砲弾が貫通した孔が空いています。
↑九十七式中戦車
↑九十六式二十五mm連装機銃
日本海軍の主力対空機銃です。フランスのホチキス製25mm機関砲をライセンス生産したもので、日本海軍のほとんど全ての艦船に搭載されていました。兵器としての信頼性は高かったものの、重防御のアメリカ軍機には威力不足でした。
↑九六式二十五mm機銃
↑日本軍の遺品
沖縄にて収集された、日本軍の遺品の数々です。銃弾が貫通した鉄兜、往時には当人が付けていたであろう眼鏡や懐中時計の数々が展示されています。生々しさに息を飲んでしまいます。合掌。
遊就館では他にも、古来から伝わる刀や甲冑の数々に加えて、戊辰戦争から太平洋戦争に至る貴重な歴史遺物の数々が展示されています。また、太平洋戦争で散華された英霊達の遺影や遺書の数々も見れます。これらは撮影不可かつ膨大な資料数のため、言葉で説明していくのは無理です。その目でじっくり時間をかけて見て頂きたいです。
2023.04.15 - 城跡・史跡訪問記 其の四
中道子山(ちゅうどうしさん)城は、兵庫県加古川市志方町にある山城である。標高271mの城山の山上にあって、標高は低いものの、周辺の平野は勿論、東に加古川、南は遠く瀬戸内海まで見渡せる見晴らしの良い城である。
中道子山城は、享徳年間(1452~1454年)に、播磨の豪族、赤松氏の支族である、孝橋繁広によって築かれたと見られる。享禄3年(1530年)、中道子山城は浦上氏によって激しく攻め立てられたらしく、この時のものと思われる焼土層が見つかっている。この教訓を受けて、以降、櫓台、土塁、堀切などを廻らせた大規模な改修が施されたと考えられている。天文18年(1549年)、孝橋氏は中道子山城から浅瀬山城(兵庫県佐用郡上月町)に居城を移し、それ以降の城主は不明となる。天正8年(1580年)頃、織田家部将、羽柴秀吉による播磨平定戦の折に落城したと云われるが、詳細は不明で、廃城の時期も定かではない。発掘調査では、15世紀後半から16世紀前半に使われたと見られる陶磁器や鉄製品が見つかっており、文献に残る孝橋氏の活動と一致している(中道子山城跡発掘調査報告書2)
↑麓の駐車場
麓には平時に使う、館があったのかもしれません。この先、舗装道を右折して上がって行きます。
↑登山口
舗装道の途中に登山道があります。
↑大手門
↑櫓台
↑二の丸
↑二の丸から西を望む
↑二の丸から西南を望む
↑天上見晴台前の土塁
↑天上見晴台前の土塁
↑天上見晴台
↑米蔵跡
↑本丸
↑本丸から南を望む
↑本丸から南東を望む
↑空堀
↑三の丸
中道子山城は、土塁、空堀が残る典型的な中世山城です。遺構は良好で、眺めもなかなか良いです。
2023.04.09 - 城跡・史跡訪問記 其の四
備前砥石城は、岡山県瀬戸内市にある山城である。備前の戦国大名にして、梟雄とされる宇喜多直家ゆかりの城として知られている。
砥石城は、文明12年(1480年)頃、備前の守護代、浦上氏によって築かれたとみられる。標高約100mの砥石山の山上部にあって、眼下に広がる千町平野と商都、福岡の町を押さえる要衝であった。砥石山の西南約200mにある尾根上にも、出丸と呼ばれる小城が築かれており、砥石城は本城と出丸とを一体として用いていた。当時は、瓦葺きの建物や板塀が建てられていたようだ。
文明17年(1485年)、浦上則国なる武将が、福岡の地を巡って山名俊豊や松田元成と戦い、砥石城にて討死している。備前記や備陽記によれば、宇喜多直家の祖父に当たる宇喜多能家(うきた よしいえ)が在城したと伝えられる。天文3年(1531年)頃、能家は死去(討死とも病死とも)し、嫡男の興家(おきいえ)が家督を継ぐも、天文5年(1534年)頃に死去(不慮の殺害とも病死とも)し、能家の弟であった国定が家督を継いだ。
直家は興家の子として、砥石城で誕生したと伝えられる。相続の道から外され没落の身となった直家は実力を蓄えつつ、国定打倒の機会を窺った。そして、弘治2年(1556年)、直家は砥石城を攻め立てて、国定を討ち取った。以後、直家の弟、春家が在城したとされるが定かではない。だが、宇喜多家の家督を相続した直家は、ここから下剋上の階段を上り始めるのは確かである。廃城の時期は不明である。
↑登山口
近くにキャンプ場があるので、そこに車を停めてこの登山口まで歩いて行きました。
↑登山道
短くも急な登りです。砥石と名乗るだけの事はあります。
↑本丸を望む
↑本丸
↑石垣
城の石垣ではなく、江戸時代まで存在していた神社の石垣だそうです。
↑本丸から東を望む
麓を流れるのは千町川で、これが天然の堀だったのでしょう。
↑本丸から北を望む
千町平野が広がっています。北方には備前屈指の商都、福岡がありました。しかし、宇喜多直家が岡山城を築城した際、商家は移転させられ、かつての活気は失われたそうです。
↑本丸から西を望む
西方には、西大寺と呼ばれる大寺院と門前町がありました。砥石城は福岡と西大寺、この二つの商都を押さえる位置にある事が分かります。
↑本丸直下の曲輪
ほとんど藪に埋もれて、概要は定かでは無かったです。
↑本丸
↑縄張り図
砥石城は位置的には要所を占めていますが、城の構造は単純かつ小規模で、500人以上の籠城は難しいでしょう。
↑宇喜多直家生誕之地
あくまで伝承で、直家が実際にこの地で生まれたのかどうかは分かりません。直家は中国地方屈指の梟雄とされていて、実際に多くの人物を謀殺していますが、毛利元就ほどでは無いです。元就は標的とした人物のみならず、その一族まで殺害する事がままありますが、直家は標的とした人物だけです。当時は、どの戦国大名も大なり小なり謀殺を行っていて、さほど珍しい事ではありません。