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安史の乱 2

2013.10.15 - 三国志・中国史
玄宗の治世の末期、皇帝の親族である李林甫(りりんぽ)が、宰相として国政を取り仕切っていた。李林甫は国家の安寧より、自らの地位の安寧を望む人物で、競争相手や反対者を次々に粛清し、例えそれが皇太子であろうとも容赦しない、恐るべき権勢家であった。唐の政界を事実上、牛耳っていたのがこの李林甫で、それに次ぐ権勢を誇ったのが、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠(ようこくちゅう)と、地方の大実力者となっていた安禄山であった。


安禄山は、楊国忠の方は小馬鹿にしていたが、李林甫には恐れを抱いていた。安禄山は機知に富んでいたが、それでも李林甫の狡猾さには敵わなかった。李林甫は、安禄山の 心底を見透かしていたので、彼と会見する度、冷や汗をかいたそうである。だが、その李林甫が、天宝11載(752年)に死去した事で、政界の勢力図は大きく塗り替えられた。すなわち、楊国忠が宰相の地位に付いて、国政を壟断するようになったのである。ところが、安禄山にも国政を独占したいという強い野心があった事から、両者は譲らず、急速に対立が深まっていった。


楊国忠は玄宗に密奉して、安禄山から兵権を取り上げんとしたが、玄宗はまだ、安禄山を信頼していた事から、受け合わなかった。
安禄山も楊国忠を倒すべき敵と定めたが、玄宗からは篤い寵愛を受けていたので、さすがに気が引けて、その死後に兵を挙げようと思っていたようだ。しかし、楊国忠からの挑発は激しさを増すばかりで、両者の対立は抜き差しならぬものとなる。楊国忠は安禄山を挙兵に追い込んで、最大の政敵を葬り去ろうと目論んだ。この様に事態は緊迫の度合いを深めていったが、国家の最高権力者たる玄宗はそれに目もくれず、楊貴妃との宴の日々を楽しむのみだった。


天宝13載(754年)1月、楊国忠が、「安禄山に謀反の企みあり」と盛んに訴えるので、玄宗もやむなく安禄山に入朝を促した。この時点で兵を挙げる気の無かった安禄山は直ちに入朝し、玄宗に謁見して変わりなき忠誠を誓ったので、その信頼はより篤いものとなった。玄宗は安禄山を同平章事(準宰相)に任命しようとしたが、楊国忠の、「軍功はあっても文字の読めない者に宰相は務まらない」との反対を受けて、取りやめた。安禄山はかねがね、宰相の地位に就きたいと願っていたが、その道は断たれる事となった。政治で楊国忠を倒す見込みがなくなったので、これで安禄山は武力による打倒、すなわち謀反の腹を固めたと云われている。



安禄山は、玄宗に群牧知総監事(国営牧場長官)になる事を願い出て許可を得た。そして、安禄山は部下を牧場に送り、軍用に耐えうる良馬数千頭を選び抜き、それを支配下に移して飼わせた。天宝14載(755年)、安禄山は自軍にいる漢人将軍は柔弱なので、子飼いの異民族の将32人に代えてもらえたいと玄宗に訴え、これも許可を得た。これで20万人余の大軍が、完全に安禄山の私兵と化した。同年4月、安禄山は挙兵を前に、背後の安全を確保せんとしてか、契丹と奚を攻め叩いた。この頃になると、安禄山の叛心も半ば露わとなり、朝廷からの使者が訪れても臣下の礼を取らず、武装兵を従えて謁見した。


一方、楊国忠も安禄山謀反の証拠を得ようとして、長安の安禄山邸を囲み、その賓客を捕らえて殺害した。同年6月、安禄山の長男、安慶宗と玄宗の娘である栄義群主との成婚式が開かれる事となり、安禄山も参列する様、促されたが、病と称して入朝しなかった。この頃になると安禄山への注意を促す注進が相次ぎ、玄宗もさすがに疑いを抱くようになっていたので、安禄山も挙兵計画を実行に移す事とした。
安禄山は20万人余の大兵を有していたが、それでも唐軍全体の三分の一に過ぎない。時間をかければ、唐は残り40万人余の兵力を結集させて、安禄山を押しつぶしにかかるだろう。事は、電撃的に進めねばならなかった。


安禄山は信を置く5人の重臣だけに胸中を明かし、周到に作戦を練った。そして、武器、糧食を整え、行軍路を事前調査し、作戦日程を立てた。唐朝では、安禄山謀反の噂は流れていたものの、さしたる対策はまったく取られていなかった。安禄山は挙兵するにあたって、ソグド人から莫大な経済援助を受けていたと考えられる。ソグド人はシルクロードの主要商人にして、騎馬を駆る強力な武装集団でもあった。ソグド人は、その経済力と軍事力をもって、当時のシルクロードを支配していたと考えられる存在である。


また、安禄山の本拠地である范陽にも、ソグド人らによる行(商業ギルド)が多数建ち並んでいた。安禄山自身にもソグド人の血が流れており、若い頃から彼らと密接な関係を持っていたので、その援助を受けるのは容易であったろう。
天宝14載(755年)11月9日、安禄山は、ついに范陽にて挙兵した。安禄山軍の中核を成すのは、敵として戦った契丹族を含む多種族混合の精鋭騎兵8千人で、それに范陽、平蘆、河東から募った歩騎兵、合わせて15万人余であった。これは全軍では無く、本拠の范陽を保持すべく、次男の安慶緒に数万人余の軍を授けて留守を守らせていた。


安禄山軍は様々な民族で構成された雑多な集団であったが、安禄山自身が異民族の育ちであった事から、彼らの心を掴んで、父子軍と称する程、その絆と統制を誇った。
安禄山は、「唐王朝を牛耳る楊国忠という奸人を取り除く」との大義名分を掲げ、怒涛の進撃を開始した。一方、副将の史思明は、安禄山の側背の安全を確保すべく、河北、河東方面の制圧を開始する。未曾有の規模となるこの乱は、安禄山とその盟友、史思明によって引き起こされたものなので、両者の一字を取って安史の乱と呼ばれる事になる。


安禄山は鉄の車に乗って指揮を執り、その大軍が巻き起こす土煙は千里に及んだと云う。同年
11月10日、安禄山挙兵の報が長安に届いたが、玄宗はまだそれを信じず、安禄山を憎む者が流した噂に過ぎないと思っていた。11月15日、次々に続報が入り、玄宗もようやく確報だと悟り、群臣を集めて討議を行った。この席で楊国忠は得意げに、「安禄山の首は10日を経ずして届けられるでしょう」と豪語したと云われている。11月16日、安西節度使の封常清が入朝したので、玄宗が方策を尋ねると、封常清は「勇猛な士卒を募って、蛮族の首を討ち取ってみせます」と大言壮語したので、玄宗は喜び、安禄山から范陽、平盧節度使を取り上げた上で、それを封常清に与えた。


封常清は直ちに洛陽に向かい、そこで6万人余を募兵して安禄山軍に備えた。常山太守の顔杲卿(がんこうけい)は、安禄山軍が迫ってくると自ら出迎えて降参した。安禄山は喜んで、顔杲卿をそのまま常山群太守とした。しかし、顔杲卿は心から服した訳ではなく、頃合を見計らって挙兵する事を決していた。11月21日、玄宗は、唐朝で預かっていた安禄山の長男、安慶宗を斬首し、その妻の栄義群主も自殺させた。11月22日、玄宗は西域で名を馳せた大将軍、高仙芝を召して、安禄山討伐を命じた。12月1日、高仙芝は官戸を開いて11万人余の兵を募り、それに周辺各地から集めた軍を糾合して、長安を進発した。


12月2日、安禄山軍は黄河を渡河し、12月5日には陳留城に達して、そこの太守と将兵を降伏に追い込んだ。だが、ここで安禄山は長男の安慶宗の死を知って激怒し、捕虜としていた太守と将兵1万人余を斬殺した。12月8日、安禄山軍の先鋒は洛陽防衛の重要拠点、武牢関(虎牢関)に達し、ここに陣取っていた封常清軍と干戈を交えて、これを苦も無く撃破した。封常清軍は市井の素人集団で構成されており、長年、契丹と激闘を交えて、戦い慣れした安禄山軍の敵ではなかった。


12月12日、封常清は残兵を率いて洛陽の城門を固めんとしたが、安禄山軍はこれも打ち破って洛陽を陥落せしめた。安禄山は挙兵から僅か1ヶ月余で、唐の副首都を手にした事になる。楊国忠は、安禄山を挙兵に追い込むまでは予定通りであったが、その力は大きく見誤っていた。洛陽から敗残した封常清は陝州(せんしゅう)まで撤退したところで、高仙芝率いる唐軍と合流した。封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、ここは潼関まで退くべきです」と進言し、これに高仙芝も同意したので、共に潼関を守る事となった。 




↑安禄山の侵攻図 (ウィキペディアより)


潼関は洛陽と長安の中間にあって、古来からの交通、軍事上の要衝であった。安禄山軍に洛陽を抜かれた今、更にこの潼関も抜かれれば、唐の首都たる長安も陥落の危機に瀕する。安禄山もその重要性は理解しており、直ちに軍を差し向けたものの、高仙芝らに守備を固められて、抜く事は叶わなかった。だが、ここで玄宗は、高仙芝と封常清に恨みを含む宦官の讒言を真に受けて、12月18日に、この優秀な指揮官2人を死罪とした。高仙芝と封常清の刑死後、潼関には哥舒翰(かじょかん)という将軍が増援を率いて入る事になったが、この時は病身の上、到着もまだ先であった。


これで潼関は一時的に指揮官不在となり、安禄山もこの隙に乗じて、自ら潼関を攻撃せんとした。だが、ここにきて背後で一大変事が起こって、安禄山は攻撃を断念せねばならなかった。12月21日、安禄山に従っているかに見えた、河北の常山群太守、顔杲卿(がんこうけい)が、反安禄山を掲げて挙兵したのである。しかも、顔杲卿の挙兵に合わせて河北の17群が一斉に唐に帰順し、安禄山に残されたのは本拠の范陽を始めとする6群のみとなる。これを放置すれば、安禄山軍の退路は断たれてしまう。そのため、何としても、背後の敵を鎮圧せねばならなかった。


そこで、安禄山の盟友、史思明が迅速に軍を取って返し、まだ防備の整っていない常山城に達すると、直ちに猛攻を加えた。顔杲卿は必死に防戦に努めたが、安禄山軍もまた必死であった。
天宝14載(755年)末の安禄山軍の全体状況は、主力は潼関の唐軍と対峙して動けず、別軍を率いる史思明は常山城を攻撃中であった。安禄山軍は背後に起こった反乱の平定に追われ、その戦線も伸びきって、当初の勢いは失われていた。それでも安禄山は唐の副都、洛陽をその手に収めて、広大な領域を支配するに至ったので、天宝15載(756年)1月1日、安禄山は皇帝の位に上がり、国名を大燕、年号を聖武と定めた。


安禄山は、奸人、楊国忠を取り除くという大義名分はかなぐり捨て、唐朝に取って代わる事を宣言したのである。安禄山の野望は極大に達した感があるが、この頃から安禄山の心身は変調を来たし始めていて、視力も日々失われていった。同年1月8日史思明は常山城を攻め落とし、顔杲卿とその一族を捕虜とした。顔杲卿とその一族は安禄山の前に引っ立てられて、公開処刑される事となった。顔杲卿は手足をノコギリで断ち切られながらも、安禄山に罵声を浴びせ続けて絶命したと云われている。史思明は常山を落とした後も、河北に転戦して諸群の平定を進めた。



2月16日、安禄山は唐の経済基盤である江南を攻め取らんとして、一軍を差し向けたが、県令の張巡が挙兵して雍丘に立て篭もり、激烈な抵抗を見せたので、そこから南に進む事は出来なかった。また、顔杲卿の従兄弟で、平原太守であった顔真卿(がんしんけい)が北海太守と合わせて挙兵し、安禄山を東から脅かした。更に、唐側の名将、郭子儀(かくしぎ)と李光弼(りこうひつ)が河北に攻め入って、4月11日5月29日と二度に渡って史思明を撃ち破り、安禄山を北から脅かした。この頃から唐軍の反抗は本格化して、巨大な包囲の輪が安禄山を徐々に締め付けつつあった。


安禄山が主力をこれらの方面に差し向けようにも、潼関には哥舒翰を指揮官とする18万人余の唐軍が篭もっていたので、これを動かす訳にはいかなかった。この様に、安禄山軍の主力が潼関に釘付けになっているのに乗じて、河北では郭子儀と李光弼が戦線を拡大して、安禄山の本拠、范陽に迫りつつあった。その動きに呼応してか、契丹、奚も范陽に攻め入って打撃を与えた。安禄山は八方塞がりの苦境に陥り、洛陽を放棄して范陽に引き返す事も検討した。だが、ここで、唐側から、わざわざ活路を開いてくれる事態が起こった。


潼関の哥舒翰が打って出て、安禄山軍に決戦を挑んできたのである。
実は、哥舒翰と対立していた楊国忠が、玄宗にたきつけて出撃する様、仕向けた結果であった。これより前、哥舒翰は、「河北で転戦中の郭子儀と李光弼が安禄山の本拠地、范陽を落とすまで潼関を堅守すべし」と反論し、これに郭子儀と李光弼も賛意を表明していた。しかし、楊国忠は、哥舒翰が大軍ごと反旗を翻すのではないかと危惧して、あくまで出撃を主張し、玄宗もこれを支持して勅令を下したので、哥舒翰は出撃せざるを得なくなった。


同年6月8日、哥舒翰は18万余の兵をもって攻めかかったが、安禄山軍の将、崔乾祐(さいけんゆう)は伏兵と火計をもって、これを大いに打ち破った。18万余の軍勢の大半は殺戮され、生き残ったのは8千人余と云う惨敗であった。哥舒翰は投降し、潼関は安禄山軍の手に落ちた。安禄山は唐の反撃を受けて苦境に陥っていたが、この勝利によって一挙に展望が開かれた。唐軍主力惨敗の報を受け、河北で優勢を誇っていた郭子儀、李光弼の軍も後退せざるを得なくなる。


6月11日潼関陥落の凶報が長安に届くと、玄宗も庶民も顔面蒼白となった。それは、安禄山軍を止める手段が失われ、間もなく長安が蹂躙される事を意味していたからだ。長安の人々は上も下も恐慌状態となり、取るものも取りあえず都から脱出せんとした。 
6月13日、楊国忠の進言を受けて、玄宗も長安を脱出し、蜀(四川省)に向かわんとした。しかし、蜀へと通じる道は非常に険阻な上、食料も乏しかったので、従軍の将兵は飢えと疲労に苛まされた。6月14日、将兵達は不満を爆発させてこれ以上の前進を拒否し、怨嗟の的となっていた楊国忠に襲い掛かって、これを滅多切りにした。


楊国忠の妻子や一族も皆殺しとなったが、将兵の怒りはそれでも収まらず、今度は玄宗の宿舎を囲んで楊貴妃の死を迫った。これを受け、73歳の玄宗は泣く泣く、楊貴妃に死を賜るしかなかった。楊貴妃の享年は38であったが、今だ妖艶な美しさを保っていた。
玄宗は蜀に難を逃れたが、その皇太子、李亨(りこう)は長安の西北部にある霊武に逃れた。安禄山は潼関の勝利を受けても、体調が思わしくなかったのか洛陽に留まり、代わって部下を派遣して長安を占領せしめた。そして、挙兵時に処刑された長男、安慶宗の報復のため、捕らえた皇族を皆殺しにさせた。


安禄山軍は長安で略奪、暴行の限りを尽くし、方々に火を放ったので、花の都は無残な廃墟に変わり果てた。中国史上最高とされる詩人、杜甫も長安で捕らえられ、軟禁中にかの有名な五言律詩を作った。


国破山河在   国破れて山河在り 
城春草木深   城春にして草木深し 
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 
烽火連三月   烽火(ほうか) 三月に連なり 
家書抵万金   家書 万金に抵(あた)る 
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く 
渾欲不勝簪   渾(すべ)て簪(かんざし)に勝えざらんと欲す 
  

国は滅んでしまったが山や河は昔のままであり、 
都城には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている。 
世の無常を感じて花を観ても涙が流れ、 
別れた家族を思って鳥の声を聞いても心が痛む 
戦の火は3ヵ月経っても燃え続けている。 
家族からの便りは万金にも勝る。 
白髪だらけの頭を掻けば、更に短くなり 
簪を挿すのも無理なようだ。 
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安史の乱 1

2013.10.15 - 三国志・中国史
(618年)、中国では一大王朝、隋が倒れ、代わって鮮卑系の李氏が唐王朝を打ち立てた。唐は、旧来の制度を刷新して国力を強化すると共に、外征を繰り返しては強大化していった。また、唐朝を立てた李氏は遊牧民の鮮卑系出身である事から、異民族への偏見がなく、才能さえあれば取り立てていった。従って唐朝では、政治、軍事、経済の様々な分野で異民族が活躍し、その首都たる長安も国際色豊かなものとなった。日本人の阿倍仲麻呂(698~770年)も留学生から、唐の高官にまで取り立てられている。(712年)、玄宗皇帝が即位した時、唐朝は最盛期を迎え、その勢力範囲は、西は中央アジアのアラル海、北はシベリア、東は朝鮮半島、南はベトナムにまで至り、隋を上回る一大帝国となった。 




↑唐とその周辺国

回鶻(かいこつ)はウイグルで、吐蕃(とばん)はチベット、契丹(きったん)はキタイの事である。


唐が最盛期を迎えんとしていた(705年頃)、中国東北部、営州柳城にて1人の男子が生まれた。その男子はイラン系のソグド人の父と、トルコ系の突厥(とっけつ)を母とし、長じて安禄山と名乗った。漢人は、この様な異民族の血が混ざり合った人間を、卑しみを込めて雑胡と呼んでいた。この雑胡の子、安禄山は突厥(とっけつ)の下で少年時代を過ごしたが、やがて突厥内で乱が生じたので、唐朝の支配化にある幽州に逃れた。この頃、同郷、同年生まれで、同じソグド系の史思明(ししめい)と知り合い、意気投合して生涯の盟友となる。


安禄山は多くの民族が行き交う幽州の地で逞しく成長し、やがて6ヶ国から9ヶ国もの民族言語を覚え、さらに騎馬と弓射に長じた偉丈夫となった。盟友の史思明も、安禄山に劣らない才の持ち主で、数カ国の民族言語を解し、人並みはずれた武勇を誇った。2人は漢族と諸民族とが交易する市場で、書蕃互市牙朗(貿易仲介人)として働き、ここで多種多様な商人相手に縦横の駆け引きをした。この時の経験が、安禄山を機知に富んだ人物に成長させる事となる。 
そして、開元20年(732年)頃、安禄山は范陽(はんよう)節度使(中国東北部の守備司令官)の張守珪に見出されて、捉生将(捕縛隊長)になった。


この張守珪との運命的な出会いが、安禄山が世に出る切っ掛けとなる。安禄山は史思明と連れ立って戦場に赴き、幾度となく数十人の契丹人を捕らえて帰った。安禄山はその功績と機知をもって、張守珪にいたく気に入られ、養子に迎え入れられた。そして、開元24年(736年)を迎える頃には、安禄山は左驍衛将軍になって、一軍を率いるまでになっていたが、ここにきて大きな失態を冒す。安禄山は張守珪から兵を授けられて、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)の討伐に向かったのだが、安禄山は勇に頼んで軽々しく前進し、その結果、大敗を喫したのである。


安禄山は、張守珪の前に引っ立てられ、死罪を告げられる。安禄山はここで、「張大夫は、契丹、奚を滅ぼしたいと思わないのですか!何故、壮士を無駄に殺してしまうのですか!」と叫んで、助命を請うた。張守珪は安禄山の類い稀な武勇を惜しいと思ったので、長安に送り届けて玄宗の判断に委ねる事とした。玄宗も安禄山の武勇を惜しんで、免官にするだけで済まそうとしたが、ここで唐の名臣と謳われる張九齢が意見して、「安禄山は軍法に照らし合わせて、死罪にすべきです。それに彼は反骨の面相をしているので、今、処刑しなければ、必ず災禍を招くでしょう」と述べた。それでも玄宗は安禄山を許して、范陽に戻した。 



一時、免官となった安禄山であるが、その後も張守珪に重用され、節度使に次ぐ節度副使にまで取り立てられた。だが、安禄山はその地位に満足せず、朝廷の使者が訪れる度に多額の賄賂を渡し、その甲斐あって天宝元年(742年)には平盧節度使に任命された。これで安禄山は一地方の支配者に栄達した訳であるが、更なる高みを望んで、今度は唐の中央政界に目を向け始める。時の皇帝玄宗は、初期においては政治に意欲を燃やし、賢臣の補佐も得てその治世は安定していた。しかし、麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣り、絶世の美女、楊貴妃に心奪われて、政治への関心も失われていった。


安禄山は楊貴妃に目を付け、世辞を並べ、しきりに贈り物をしてその歓心を買った。事は安禄山の思惑通りに運び、楊貴妃を通じて玄宗の知己を得る事に成功し、たちまちお気に入りの人物となった。玄宗の寵愛を得た安禄山は、天宝3載(744年)には、平盧節度使を兼ねたまま、范陽の節度使に任ぜられた。平盧節度使と范陽節度使には、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)を抑え込む役割が期待されており、安禄山も度々、兵を率いて北方に攻め入る事になる。そして、天宝4載(745年)3月、安禄山は軍を率いて契丹、奚を攻撃して、これを打ち破る事に成功した。また、安禄山は契丹、奚の酋長を度々、宴席に招いては毒酒を飲ませ、謀殺していった。


しかし、これらをもっても契丹、奚の覆滅には程遠く、その後も両部族との戦いは引き続く事になる。 
安禄山は節度使としての仕事をこなしながらも、中央からは決して目を逸らさず、合間を見ては長安に赴いて玄宗の寵愛と歓心を買わんとした。
安禄山は大兵肥満の巨漢で体重は200キロあったと云うが、俊敏な動作を必要とする胡旋舞を舞っては、玄宗や楊貴妃の目を楽しませたと云う。胡旋舞とは旋舞と付く通り、高速で回転しつつ、両手に持った細長い帯を泳がせる華麗な舞踊である。安禄山は大きな体を揺らしながら、これを舞ったというのである。


安禄山は自分を低く見せて、相手を持ち上げるのが巧みであった。ひょうきん者の様に振舞い、愚者を装っては人々を笑わせた。ある時、玄宗から、「その大きな腹には何が入っているのか?」と訪ねられると、「ただただ、陛下への赤心(忠誠心)のみが入っております」と答えて、玄宗から益々気に入られるのだった。その甲斐あってか、天宝十載(751年)には河東の節度使職も委ねられた。これで安禄山は三つの節度使を兼ねる事となり、唐朝随一の軍事力を帯びる事となる。安禄山は玄宗の前では愛嬌ある人物を演じていたが、内面には満々たる野心を宿していた。
 

ここで節度使と呼ばれる、職の説明をしておきたい。 
唐の皇帝、玄宗は辺境防備と異民族対策のため、節度使と呼ばれる軍事指揮官と行政官を兼ねた職を創設した。節度使は、地方においては皇帝に等しい権力を振るったと云う。 

  
「安西節度使・拠点亀茲」
兵力2万4千・軍馬5千5百  


「北庭節度使・拠点庭州」
兵力2万・軍馬5千 


「河西節度使・拠点涼州」
兵力7万3千・軍馬7千9百 


「朔方(さくほう)節度使・拠点霊州」
兵力6万4千7百・軍馬1万3千3百 


●「河東節度使・拠点太原」
兵力5万5千・軍馬1万4千 


●「范陽(はんよう)節度使・拠点幽州」
兵力9万1千4百・軍馬6千5百 


●「平盧節度使・拠点営州」
兵力3万7千5百・軍馬5千5百 


「隴右(ろうゆう)節度使・拠点鄯州(ぜんしゅう)」
兵力7万5千・軍馬1万 


「剣南節度使・拠点成都」
兵力3万9百・軍馬2千 


「嶺南五府節度使・拠点広州」
兵力1万5千4百 



●で示したのが、安禄山が兼務した節度使 


この10節度使の兵力を合計すると約49万人、軍馬は8万頭余となる。この他に首都、皇帝防衛軍として長安に駐屯する、右左羽林軍10万人があった。これらの総計、60万人余が唐軍の全兵力となる。この中で、安禄山は河東・范陽・平盧の3節度使を兼ねていた事から、その兵力は18万3千9百人(この内、騎兵が2万6千9百人)に達しており、唐軍全体の三分の一を占めていた。


安禄山軍は数が多いだけでなく、契丹族と激闘を重ねている事から実戦経験も豊富な精鋭軍団であった。それに比べて、首都防衛軍たる右左羽林軍は金持ちの子弟で占められており、ろくに訓練も施されていなかった。唐の軍事力の大半は北方と西北の辺境にあって、内地は手薄な状況にあった。これでもし、野心のある節度使が唐に反旗を翻したなら、ただではすまない事になる。 



天宝十載(751年)、安禄山は6万人余の兵を動員して、長躯、契丹の本拠地へと攻め入った。しかし、慣れぬ土地で軍は困窮し、そこに契丹と奚の挟み撃ちを受けて軍は壊滅、安禄山も命からがら逃げ帰ると云う惨敗を喫した。この戦いには敗れたものの、安禄山は投降してきた契丹族の騎兵をも取り込んで、更に軍事力を拡充させてゆく。天宝11載(752年)3月、安禄山は昨年の雪辱を晴らさんとして、20万人余を大動員して契丹と奚を叩かんとしたが、味方節度使の協力を得られず、攻撃を断念した。


これ以降も、安禄山と契丹は勝ったり負けたりの攻防が続き、両者は不倶戴天の間柄となった。余談となるが、この契丹族は10世紀に契丹(遼)という大国家を建設する事になる。安禄山は契丹対策に悩まされ続けるが、逆に見れば安禄山の武力が、この強力な騎馬民族の国家創設を押さえ込んでいたとも云える。 

松本城再訪

松本城の記事は以前にも書いているので、説明文は簡略化します。ただ、その時は写真が少なかったので、今回は写真を多めに載せてみます。


松本城は、永正元年(1504年)に小笠原氏の支城の一つとして築かれたのが始まりで、天正18年(1590年)~慶長18年(1613年)の石川氏の統治時代に大規模な近世城郭に作りかえられ、現在にその姿が伝えられています。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑在りし日の壮大な松本城

松本城
松本城 posted by (C)重家

↑太鼓門


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿跡


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣下層


天守閣内部は、火縄銃が豊富に展示されていました。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣最上部


天井に祭られているのは、松本城の守護神、二十六夜神です。


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城
松本城 posted by (C)重家



松本城
松本城 posted by (C)重家


松本城を訪問するのは今回で二度目ですが、何度見ても、その質実剛健な姿には感嘆します。特に漆黒の天守閣は渋く、これぞ武士の城という感じがします。

虎御前山砦

虎御前山は滋賀県長浜市にある標高230メートルの山である。戦国時代には織田信長によって砦が築かれ、すぐ側にある小谷城の攻略に用いられた。


元亀3年(1572年)7月19日、織田信長は浅井長政を討滅せんと近江に出兵し、同年7月21日に小谷城に至って、その目と鼻の先にある虎御前山を占領する。そして、7月27日より織田軍は虎御前山に砦の建設を始め、8月中には完成させる。山の
木々は取り払われて、そこに切岸(人工的な断崖)、土塁、空堀が何重にも巡らされ、最高所には信長の陣所が設けられた。それは驚くべき土木工事量であり、何の変哲もない丘陵上に、突如として堅固な城が現出したかの様であった。この砦の完成によって浅井長政は小谷城に封じ込められ、手も足も出せなくなる。そして、天正元年(1573年)9月1日に小谷城が落ちるまで、虎御前山砦は前線基地として大きな役割を果たす事となる。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑柴田勝家の陣所跡


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁と堀切


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑土塁


この奥にある土塁が、羽柴秀吉の陣所跡です。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑木下秀吉の陣所跡


元亀元年(1570年)6月28日に行われた織田徳川軍と対浅井朝倉軍との激突、姉川の戦いで、織田軍は横山城を手に入れます。信長はここに木下秀吉を入れて、対浅井の最前線を任せました。ここから秀吉は2年に渡って浅井軍と対峙し、幾度となくその攻撃を撃退します。元亀3年(1572年)8月に虎御前山砦が築かれると、引き続き秀吉が城将となり、小谷城と浅井長政を押さえ込みます。そして、天正元年(1573年)8月27日夜半、秀吉は虎御前山砦より出陣すると、山麓を駆け上って小谷城の京極丸を乗っ取り、見事、落城に追い込みました。戦後、信長は、小谷城攻略の最大の功労者は秀吉であるとして、浅井の旧領、北近江三群をそっくり委ねます。これで、大名身分となった秀吉は、木下から羽柴に改名し、自他供に認める織田家の重鎮となりました。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑織田信長の陣所跡


虎御前山の最高所にあります。現在は木々が生い茂って見晴らしが利きませんが、往時には木々が取り払われて、四方に視界が広がっていたはずです。そして、信長はここから幾度となく、小谷城を睨みつけた事でしょう。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山から小谷城を望む



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑信長陣所近くの切岸


掘平されて段丘状になっています。


虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑滝川一益の陣所跡


今回は、虎御前山の北から柴田勝家、木下秀吉、織田信長、堀秀政、滝川一益の順番で陣所を訪ねてきましたが、山中にはこの他にも、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂屋頼隆らの陣所もあるそうです。これらの言い伝えが本当ならば、織田家を代表する実に錚々たる顔ぶれが、この一山に出揃っていた事になります。



虎御前山砦
虎御前山砦 posted by (C)重家

↑虎御前山砦の推定復元図


相当、しっかりした作りだったのが伝わってきます。この虎御前山砦が完成した時、小谷城側からは、突如として、巨大な山城が現れた様に映ったのではないでしょうか。浅井長政とその将兵達は強い圧迫感を感じて、信長の力を否が応にも認めざるを得なかったでしょう。虎御前山砦はその存在だけで、小谷城の将兵の士気を下げる効果があったに違いないです。現場の当事者であった秀吉はこれに学んで、後年の小田原攻めで応用し、石垣山城を築いて北条氏の士気を挫き、降伏に追い込んだのでしょう。

小谷城 2

小谷城訪問の続きです。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑小丸跡


天正元年(1573年)8月27日夜半、織田家の部将、木下秀吉は清水谷から駆け上って京極丸を急襲、奪取します。秀吉は続いて京極丸の一段上にある小丸に攻撃を集中し、浅井長政の父、久政を自刃に追い込みました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑京極丸跡


大広間に次ぐ広さがあり、近江守護の京極氏を迎えるために用意した屋敷があったと伝えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑中丸跡


本丸と京極丸の中間に設けられており、本丸とは巨大な大堀切で隔てられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大堀切


天正元年(1573年)8月28日、信長は京極丸まで上がると、自ら本丸攻撃の指揮を執らんとします。同日夜半、落城が目前に迫ると浅井長政は、妻、お市と、茶々、初、江の3人の娘を織田陣営に送り届けました。この時ばかりは両陣営も矛を収めて、静まり返っていたそうです。そして、翌8月29日、大堀切を挟んで、両軍最後の攻防が始まります。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑本丸跡


長政は本丸一つに押し込められながらも、抗戦意欲は衰えず、尚も数日間持ちこたます。それは己の最後を飾り立てんとする、武将の意地でした。9月1日、この日も長政は黒金門から打って出て、織田軍と激しく渡り合いますが、その後方ではついに織田軍が大堀切を乗り越えて本丸に殺到してきます。長政も異変を察して本丸に戻らんとしましたが、既に本丸周辺は織田軍で充満しており、入るに入れなくなりました。長政は本丸で自刃する心積りだったのでしょうが、それは適わなくなり、本丸直下にある赤尾屋敷へと向かいました。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑大広間跡


小谷城で最も広い平坦部で、かつては御殿が建っていたと推測されます。ここでは酒器が多く発掘された事から、城主と家臣が集って、軍儀や宴会を開いていたのでしょう。そして、浅井長政とお市も、ここで酒宴を楽しんだ事でしょう。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑首据石


天文2年(1533年)、初代、浅井亮政の時代、敵方の六角氏に通じた今井秀信の首を、この石の上に晒したとあります。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑虎御前山


小谷城とは、目と鼻の先にあります。織田信長は虎御前山を奪取すると、堅固な砦を築いて、小谷城攻略の前線基地としました。往時には樹木が切り払われ、簡単な小屋や塀が建てられて、旗指物が建ち並んでいた事でしょう。そして、この砦で最も見晴らしの良い場所から、一際立派な身なりをした1人の武将が腕を組んで小谷城を睨め付けていたはずです。それこそ織田信長であり、その姿を小谷城の浅井長政も見とめたかもしれません。



小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑馬洗池


この馬洗池は、文字通りの馬を洗う池ではなく、水堀の遺構だと考えられています。


小谷城
小谷城 posted by (C)重家

↑浅井長政自刃の地


浅井家重臣、赤尾清綱の屋敷跡で、本丸の東下にあります。浅井家重臣の屋敷はほとんど清水谷に置かれていたのに、この赤尾清綱だけ本丸直下にあるので、浅井家中において相当地位が高く、信頼の置ける人物であった事が窺えます。

天正元年(1573年)9月1日、本丸も落ち、追い詰められた浅井長政は赤尾屋敷に入り、ここで割腹して29歳の生涯を閉じました。自らと浅井家の滅亡を招く事になった信長離反の判断はともかく、長政が果敢な勇将であった事は間違いないでしょう。そして、長政が小谷城で見せた奮闘と潔い最期は人々の記憶に残り、お市との悲恋も絡めて、後々まで語り継がれる事になります。
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重家 
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