
●第二次シュバインフルト爆撃
1943年10月14日早朝、イギリス東部の基地から、アメリカのB17爆撃機291機と搭乗員3、000人が次々に飛び立っていった。機内通信機からは、搭乗員達の祈りの声が響く。爆撃目標は前回と同じく、シュバインフルト及び、レーゲンスブルクである。乗員達が頼れるのは、自らの防護機銃と、僚機の援護であった。第8航空軍では爆撃隊の損害を少しでも減らすべく、戦闘隊形に工夫を凝らしていた。それが、コンバットボックス(箱型編隊)である。
↑コンバットボックス
上下左右に広がる立体的な密集編隊を組んで、防護機銃の死角を無くすと共に、突入してくる敵機に対して、多数の爆撃機による集中射撃が出来るようにしていた。コンバットボックスは15~18機で1編隊が構成され、更にこれを3つに集合させたのがコンバットウイングで、45機~54機で構成された。コンバットボックスの防御火力は確かに強力で、ドイツ戦闘機といえども迂闊に近寄る事は出来なかった。しかし、損傷を受けたり、攻撃を避けようとして、編隊から落伍した機体があれば、たちまちドイツ戦闘機によってなぶり殺しとなった。
爆撃隊が、ドイツの都市アーヘン(ベルギー、オランダと国境を接する)に差し掛かると、護衛のP47戦闘機は、航続距離の限界に達して、翼を振りつつ帰投していった。ここからは爆撃機の単独行になる。すると、その時を待っていたドイツ戦闘機隊が、すかさず波状攻撃を開始仕掛けてきた。まず、Fw190とBf109の単発戦闘機の第1陣が、編隊の正面から機関砲を撃ちかけながら襲来する。単発戦闘機のすぐ後ろには、第2陣のBf110などの双発戦闘機が控えており、主翼下の空対空ロケット弾を編隊に向けて発射した。このロケット弾は強力だが、無誘導で命中率は低かった。だが、時限信管が取り付けられており、上手く編隊の中で爆発させる事が出来れば、損傷を与えて、編隊を崩す効果があった。また、Ju87急降下爆撃機も、上空から時限爆弾を投下して、編隊を攻撃した。第2陣はロケット弾を撃ち放つと、続いて機関砲で爆撃機を攻撃した。
第2陣が攻撃中、先陣の単発戦闘機は着陸して、燃料弾薬を補給し、再び迎撃に舞い上がってゆく。そして、隊伍を整えた双発戦闘機も合わせて攻撃を開始する。ドイツ戦闘機隊は、爆撃機の1編隊に狙いを定めると、ロケット弾で編隊を崩し、損傷したり、落伍した爆撃機に銃撃を加えて、止めを刺していった。ドイツ軍は300機を超える各種迎撃機を差し向け、また、あらゆる戦法を用いて爆撃機の撃墜を図った。アメリカ爆撃隊の損害は記録的なものとなり、291機の出撃機の内、65機が撃墜された。その損失率は25%に達しており、搭乗員も1,000人以上が失われた。ドイツ軍は合計312機で迎撃し、その内、35機を失った。今回の犠牲をもって得た戦果は、ボールベアリングの一時的な減産であった。
当初、アメリカ空軍首脳は、自軍の爆撃機の性能を過信して、迎撃にやってくるドイツ戦闘機を逆に屠る事も出来ると見なしていた。実際、B17、B24の防御火力は強力で、優れた貫通力を誇る12・7mm機銃を10挺丁以上装備して、それらを機体の上下左右に配置して、死角を無くすようにしていた。機体構造も頑丈で少々の被弾はものともせず、アキレス腱となる燃料タンクも自動防漏式(被弾しても、ゴムの膨張によって燃料漏出を抑える)となっていた。特にB17の機体の頑丈さには定評があって、「空の要塞」の名に相応しい性能を誇っていた。アメリカ空軍首脳は、これら強力な爆撃機をもってすれば、味方戦闘機の護衛無しでも、ドイツ戦闘機を撃退し、戦略目標を爆撃可能だと見なしていた。しかし、実情は遥かに過酷であった。
アメリカ空軍の公式記録 、「1943年10月中旬、昼間爆撃作戦は危機に瀕していた。代償は危険なまでに高くなる一方で、戦果には疑問が付きまとっていた。従って、この作戦の前提となっていた事柄は再考すべきだった。第8航空軍はこの時期、ドイツ上空の制空権を失っていたのが事実だった。そして、確実な長距離援護を受けられなければ、制空権を取り戻す事は出来ない。明確に、戦闘機の航続距離を延ばす必要がある」
アメリカ空軍首脳にとって、一連の爆撃作戦の損失率は、許容できる範囲を超えていた。そして、ドイツ深部への爆撃攻勢は一時、控えられ、味方戦闘機の護衛の範囲内、ドイツ北部やフランス占領地などの短距離目標に切り替えられた。アメリカ航空軍司令官アーノルドも、「爆撃機と共に出撃して、共に帰投できる戦闘機を製造する事が、絶対的に必要である」と確信するに到り、爆撃機搭乗員も、全行程を援護してくれる戦闘機の登場を心底、願っていた。
これらの期待に応えられる唯一無二の存在が、新鋭の長距離戦闘機P51マスタングであった。P51は空力特性に優れた機体で、運動性に優れるばかりか、燃費も素晴らしく、戦闘機としては異例の大航続距離を誇った。機体タンクに693ℓ、機体後部タンクに1,018ℓ、更に409ℓの増槽を2つ装備すれば、戦闘半径は1,200kmを超えた。イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmであったので、優にドイツ深部まで進撃可能であった。また、増槽を大量生産する事によって、P47など、既存の戦闘機も航続距離を伸ばす処置が取られた。
1943末、待望のP51戦闘機隊がヨーロッパ戦線に到着し、同年12月13日のキール爆撃から護衛に付くようになった。当初は機数不足から目立った働きは無かったが、週ごとに数百機単位でアメリカから機材が送られてくると、急速に戦力を増していった。P51だけでなく、B17爆撃機の機体数増加にも、目を見張るものがあった。アメリカの工業力が、底力を発揮し出していた。だが、一方のドイツ軍も戦力増強に余念がなく、1944年1月、ドイツ防空戦闘機隊は、機材の量産と戦力の集中によって、これまでにない最大の規模に達していた。
ドイツ本土、オランダ、ベルギー、フランスなど西部戦線全体で、単発戦闘機870機、双発戦闘機780機、合計1,650機を配備したのである。搭乗員も選りすぐりの精鋭が揃っていた。それだけでなく、レーダー、高射砲、探照灯の増強も進められ、1944年には高射砲11,950門、探照灯7,520基が配備された。これらのレーダー、高射砲、探照灯、戦闘機隊を組み合わせた防空線(カムフーバーライン)をデンマークからフランスにまで巡らせて、連合軍機を待ち受けた。こうして、ヨーロッパ上空にて、史上最大規模の航空決戦が始まろうとしていた。
1944年初頭、満を持して、アメリカ第8航空軍によるドイツ本土爆撃が再開された。爆撃機の出撃機数は平均600~700機に達しており、これを、ほぼ同数の戦闘機が往復護衛した。ドイツ戦闘機隊はこれまで、護衛戦闘機が帰投するところを見計らって爆撃機を攻撃し、大きな戦果を挙げていた。しかし、アメリカ軍の新型長距離戦闘機の登場によって、この戦法は通用しなくなる。しかも、P51戦闘機隊は、敵戦闘機を積極的に攻撃するよう命じられており、敵機を見つければ近接支援を外れ、必要に応じて低空まで追撃を行った。これを受けて、ドイツ戦闘機隊が爆撃機を攻撃するには、まずP51戦闘機隊の護衛網を突破せねばならなくなり、これまでに無い苦しい戦いを強いられる事となった。
1944年3月6日、戦力を増した第8航空軍は、ついにドイツの首都、ベルリンに対する、大規模爆撃を敢行する。B17及びB24爆撃機の編隊672機と護衛戦闘機800機余の一大戦力が、ベルリン市と周辺の工業施設に爆弾の雨を降らせた。しかし、この日はさすがにドイツ空軍の迎撃も激しく、地上からの対空砲火も凄まじいものがあった。第8航空軍は大損害を被って、672機の爆撃機の内、69機が撃墜され、護衛戦闘機も11機が失われた。一方、ドイツ空軍も無傷では済まず、戦闘機106機を失った。その2日後にもベルリン爆撃は決行され、539機の爆撃機を891機もの戦闘機で護衛したため、ドイツ戦闘機隊が大きな損害を出した。その後も第8航空軍による、ドイツ本土爆撃は引き続いた。
1944年春、ドイツ上空にて、P51戦闘機隊とドイツ戦闘機隊による、血みどろの航空戦が繰り広げられた。この過程で両軍とも、多数の機材と搭乗員を失う。だが、アメリカ戦闘機隊は機材、搭乗員を滞る事なく補充して、戦力を維持したのに対し、ドイツ戦闘機隊は損失に補充が追いつかず、その戦力は減少する一方だった。ドイツ空軍はこの危機を凌ぐため、東部戦線や地中海戦線から次々に戦闘機隊を引き抜いて、本土防空に当てたが、それすら次々に失われていった。また、この措置の代償として、東部戦線及び地中海戦線では、連合軍が圧倒的な航空優勢に立って、ドイツ空軍は偵察飛行さえ、ままならなくなった。
1944年4月、東部戦線のドイツ空軍は、戦闘機、爆撃機など、各種航空機を合わせて500機のみであったが、対するソ連空軍は13,000機に達しており、制空権を完全に掌握していた。しかも、ドイツ空軍に所属する、対空砲1万門とその要員50万人もドイツ本国に回送された。対空砲は対戦車砲としても有効であったので、東部戦線のドイツ軍は、空陸共に戦力を大きく減少させる結果となった。これを受けて、1944年6月22日、ソ連軍はバグラチオン作戦を発動して、東部戦線のドイツ軍に壊滅的打撃を与えるのである。この様にドイツ本土航空戦は、多方面の戦線にも重大な影響を与えていた。
1944年1月から5月にかけて、ドイツ防空戦闘機隊は、月平均450人の搭乗員を失っていった。5月24日には、稼動可能な戦闘機数は240機に過ぎず、5月下旬までに2,262人の搭乗員が戦死していた。中でも、経験を積んだ熟練搭乗員を多数失ったのは致命的であった。
エゴン・マイヤー 102機撃墜 3月2日戦死
アントン・ハックル 192機撃墜 3月3日戦死
ゲルハルト・ロース 92機撃墜 3月6日戦死
エミール・ビッチェ 108機撃墜 3月15日戦死
ヴォルフ・ディートリヒ・ヴィルケ 162機撃墜 3月23日戦死
ヨーゼフ・ツヴェルネマン 126機撃墜 4月8日戦死
オットー・ヴェスリンク 83機撃墜 4月19日戦死
クルト・ウッベン 110機撃墜 4月27日戦死
レオポルト・メンステル 95機撃墜 5月8日戦死
ヴァルター・エーサウ 123機撃墜 5月11日戦死
フリードリヒ・カール・ミューラー 140機撃墜 5月29日戦死
1944年2月から5月にかけての空の消耗戦は、戦史においては目立たないが、戦争の行方を左右する重大な出来事であった。ドイツ空軍は打倒され、ドイツ上空ですら、連合軍の支配するところとなった。この圧倒的な制空権確保を受けて、1944年6月6日、アメリカ、イギリス連合軍はノルマンディー上陸作戦を成功させるのである。この時、連合軍総司令官アイゼンハワーは、兵士達にこう訓示している。「空に飛行機が見えたら、それは味方の飛行機だ」と。だが、ドイツ空軍は余力を振り絞って、反撃に出る。ためにノルマンディー戦線においても、果てしない空の消耗戦が続けられた。劣勢ながらドイツ空軍は善戦して、ほぼ同等の損害を与えていたが、連合軍の制空権を覆すまでには到らなかった。
このノルマンディー上陸作戦の前後、連合軍爆撃機は主にフランスで、地上軍の支援に回されたので、その間はドイツ本土爆撃が低調になった。だが、フランスにおける連合軍優位が確立されると、連合軍爆撃機は、圧倒的な戦力でドイツ本土爆撃を再開する。爆撃機の1回の出撃機数は、1,000機単位となっていて、これに、ほぼ同数の護衛戦闘機が付いた。 ドイツ本土とフランスにおける航空消耗戦で、疲弊仕切っていたドイツ空軍にこの爆撃を阻止する術は無かった。
1944年6月以降、連合軍爆撃機はとりわけ、石油精製工場、鉄道操車場、送電網に効果的な爆撃を加えた。ドイツの心臓たる重工業は、石炭を養分として動いていた。その養分を届ける血管の役割をしていたのが、ドイツの鉄道網である。連合軍はこれに目を付けて、鉄道網を中心とする、ドイツの輸送網全体の破壊を試みた。そして、連合軍爆撃機は、操車場、機関車庫、駅、橋梁、運河などに、大量の爆弾の雨を降らせた。その結果は如実に現れ、ドイツの石炭生産量は1944年9月以降、急速に低下する。そして、1945年2月には、ドイツの主要石炭生産地である、ルール地方からの石炭輸送量は10分の1に低下していた。ドイツ工業は養分の石炭を断たれて、次々に停止していった。輸送網が破壊された結果、兵士、武器弾薬、食糧の輸送にも困難を来たし、ドイツ国内ですら孤立地帯が生じつつあった。
ドイツの航空燃料生産は1944年3月には18万1千tあったが、5月下旬からの爆撃以降、生産量は激減する。6月は5万6千t、9月は1万7千t、1945年2月に到っては僅か1千tとなった。ドイツの航空機生産量は、1944年に最高潮に達し、3万9,800機もの機体を生み出したが、大戦末期になると、機体はあっても燃料が無いという状況になった。そして、燃料不足は搭乗員育成にも深刻な影響をもたらした。ドイツの新米搭乗員は、連合軍より遥かに短い訓練期間を経て、離着陸がやっという状態で戦闘機に乗り組み、圧倒的な数の連合軍戦闘機に挑まねばならなかった。1944年6月から10月までに、ドイツの搭乗員は1万3千人が戦死したとされる。これらのほとんどは未熟な搭乗員であって、子供殺しとまで呼ばれた。アメリカ軍搭乗員は、地表近くまで追い詰めたドイツ戦闘機が、鉄塔、木、建物を避けられずに激突するのを多数、目撃したと証言している。
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●爆撃目標シュバインフルト
時は1943年10月、第二次大戦最中。イギリスの空軍基地にて、アメリカの搭乗員達が緊張の面持ちで、出撃前のブリーフィングに集まっていた。彼らは、アメリカ第8航空軍に所属する搭乗員達で、ドイツ本土及び、ドイツの占領地(フランス、オランダ等)を爆撃する任務を負っていた。そして、指揮官の口から、「爆撃目標シュバインフルト」と告げられた時、搭乗員達は一様に顔面蒼白となり、自らの運命の終わりを悟った。シュバインフルト、それはドイツ本土南部にある、人口4万人の小さな工業都市である。ドイツの首都ベルリンと比べれば、人口は100分の1に過ぎない。だが、ここでは重要な戦略物資が作られていた。それが、ボールベアリング(玉軸受)である。
ボールベアリングとは真円の球体で、ありとあらゆる機械の稼動部分を担う。人間に例えれば関節、あるいは軟骨に当たる。この球体が無ければ、機械は動かないのである。シュバインフルトは、ボールベアリングの一大生産地であった。従って、この都市を破壊すれば、ドイツの産業自体を麻痺状態に追い込む事も可能と見られた。この小さな工業都市を爆撃する意味は、大いにあったのだ。だが、ドイツもまた、シュバインフルトの重要性をよく理解しており、周辺に強力な戦闘機隊を配置して待ち受けていた。それに加えて、多数の対空砲や煙幕発生装置まで配備していた。
それに、イギリスの基地からシュバインフルトまでは、850kmの距離があって、この往路を護衛可能な連合軍戦闘機は、1943年10月時点において配備されていなかった。従って、爆撃隊は自らの防護機銃のみで敵戦闘機を撃ち払い、目標まで到達せねばならない。実に、前途多難な爆撃行であった。実際、2カ月前に行われたシュバインフルト爆撃において、爆撃隊は深刻な損害を被っていた。1943年8月17日、この日、376機のアメリカ軍爆撃機によって、第1次シュバインフルト爆撃が決行された。
空軍首脳は出撃するに当たって、爆撃隊の損害を少しでも抑えるべく、陽動作戦を行おうとした。まず、先行する別働隊が、シュバインフルトの東南180kmに位置するレーゲンスブルグを爆撃する。こうして、別働隊がドイツ戦闘機隊の注意を惹き付けている隙に、すかさず本隊がシュバインフルトを爆撃するのだ。レーゲンスブルグにはドイツの戦闘機生産工場があって、ここも重点爆撃目標と見なされていた。しかし、これは陽動であって、主目標はあくまでシュバインフルトである。8月17日午前8時、レーゲンスブルグを目標とする別働隊、B17爆撃機146機が次々に飛び立っていった。
続いて、シュバインフルトを目標とする本隊、B17及びB24爆撃機230機が飛び立たんとした時、異変が起こった。それは、かの有名なイギリスの霧である。観光客にとっては見物の1つであったが、航空機にとっては忌々しい白い悪魔であった。出撃予定の午前9時になっても霧は晴れず、午前11時になってようやく出撃可能となった。先行する別働隊とは、3時間の遅れが生じていた。これでは当初の陽動作戦の意味は薄れ、両爆撃隊がそれぞれ目標を強襲する形となる。司令部は判断に迷ったが、作戦続行を決めた。レーゲンスブルグ爆撃隊146機は、ドイツ国境までは味方戦闘機の護衛を受けていたが、ここまでが航続距離の限界で、彼らは翼を振りつつ反転していった。
すると、それを待っていたかのように、ドイツの戦闘機隊が襲い掛かって来る。ドイツ戦闘機隊400機余が代わる代わる攻撃を加えてきて、爆撃機15機が撃ち落され、10数機がエンジンや機体に損傷を受けた。損傷機は煙を吹きつつ、尚も飛行を続行し、爆撃隊はレーゲンスブルグ上空に達して、303トンの爆弾を投下した。爆撃隊はそこから南下してアフリカのアルジェリアを目指したが、エンジンに被弾した機体は地中海を越えられず、海上に落ちていった。それから3時間後、シュバインフルト爆撃隊230機もドイツ本土に侵入した。しかし、この間に、ドイツ戦闘機隊は給油と給弾を済ませ、伝えられる第2派の攻撃に備えていた。シュバインフルト爆撃隊は、その網の中に飛び込んだのだった。
ドイツ戦闘機隊は、爆撃編隊の隙間から切り込んでは、一撃離脱を繰り返した。ドイツ戦闘機隊300機余の迎撃と、地上からの高射砲の砲火を受けて、爆撃機は次々に撃ち落されていった。搭乗員達が落下傘を開いて次々に脱出していく。しかし、きりもみ状態になった機体からは脱出不可能で、そのまま地上に激突して爆炎を上げた。レーゲンスブルグ、シュバインフルト爆撃隊は合わせて376機が出撃したが、その内、60機が撃墜された。故障などで途中帰還した15機を除くと、その損失率は17%に達していた。
アメリカ空軍では1回の任務に付き、4%以上の損失が出るのは許容し難いとしていたので、上層部はこの結果に衝撃を受けた。基地に帰投した316機も、100機余が重大な損傷を受けて廃棄処分となり、撃墜機と合わせると、都合160機もの爆撃機が失われた。熟練搭乗員も一挙に600人が失われ、搭乗員の間には言い知れぬ恐怖感が広がって、士気は急速に低下した。この犠牲の成果で得たものは、シュバインフルトのボールベアリング生産量、34%の低下であった。しかし、それも半年後には旧に復したとされる。一方、ドイツ側も、この迎撃戦において47機の戦闘機を失っていた。
アメリカの主力爆撃機、B17及びB24は、エンジン4発の大型機で、それぞれ10人の搭乗員が乗り組んでいる。それに対して、ドイツの主力戦闘機、Bf109及びFw190は、エンジン単発で1人乗りであった。血の取引は、アメリカの方が明らかに分が悪かった。それに、ドイツ上空でアメリカ軍機が撃墜された場合、運良く搭乗員が脱出出来たとしても、成すすべ無く捕虜となって、戦線復帰は不可能となる。一方、ドイツ軍機は撃墜されたとしても、搭乗員が無事、脱出に成功すれば、すぐに戦線復帰が可能であった。
大損害を受けたアメリカ第8航空軍は、本国から新たな補充を受けつつ、戦力の再建を図った。そして、まだ傷も癒えないまま、1943年9月6日、ドイツ本土のシュツットガルトを目指して、262機の爆撃機が飛び立った。目標はシュツットガルト周辺に点在する、航空機工場であった。しかし、今回の爆撃行も苦難に満ちたものとなり、45機の爆撃機が撃墜され、損失率は前回と同様、17・2%に達していた。搭乗員達は目標、レーゲンスブルグ、シュヴァインフルト、シュツットガルトと告げられた際には、死刑宣告と同様に受け取った。搭乗員にとって何よりの衝撃は、すぐ前や横にいる僚機がみるみる炎に包まれて、分解しながら落ちていく光景だった。
夕方を迎えると、搭乗員の多くは、昂ぶった神経を抑えるためウイスキーに手を伸ばした。酒の手を借りて眠りについても、機銃掃射を受けて機体を穴だらけにされ、戦友が重傷を負ってもがき苦しみ、エンジンが火を噴くといった悪夢にうなされた。多くの者が戦闘神経症に罹り、突然の震えや金縛りに遭い、中には一時的に失明する者もいた。どれも、極端に危険な状態に置かれ続けた事による、ストレス反応であった。爆撃機の損失は、ドイツ軍によるものだけでは無い。霧が濃い時は、空中衝突が頻発したし、帰還途中で衝突事故に到る例も多かった。また、爆撃中、上空の味方が落とした爆弾に当たって、爆散する機体もあった。
飛行任務中の苦労も絶えない。高空の凍えるような寒風は、胴体両側面の銃座を固める銃手にとって、大変きつかった。外気に直接、接しているので、全身がかじかんでくるのだ。電熱式の長靴、手袋、つなぎ服で固める者もいたが、動作が不安定で、任務中、それらがずっと機能し続けるのは稀だった。銃塔に篭もる乗員は、敵地の上空にいる数時間、狭い空間から出られないため、尿意を催した場合、ズボンの中に垂れ流す他、無かった。飛行中、重傷を負った者は、基地にたどり着く前に低体温症で命を落とす公算が高かった。25回の爆撃任務を終えると、本国に帰還して、休暇を得られる約束が成されていたが、そんなものは遠い夢物語に思えた。
搭乗員達は、心身共に衰弱していた。しかし、そんな彼らを奈落に突き落とすかの様に、再びシュバインフルト爆撃が告げられた。冒頭、第2次シュバインフルト爆撃の開始である。
↑B17G
全長:22.66m
全幅:31.62m
全備重量:29,700kg
出力:1,200hp×4
最大速度:462km/h
航続距離:5,800km
武装 :12.7mm機銃×13
爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg
乗員:10名
総生産機数:12,731機
原型機となる、モデル299の初飛行は1935年であったが、発展余裕があった事から、その後の大改良と重量増加をよく受け付けた。大抵の航空機は何らかの欠点や癖があるが、飛行性能は安定しており、構造も頑丈であったので、並の軍用機なら墜落するような損害にもよく耐えた。アメリカ空軍による、対ドイツ爆撃の主力を担った。
↑B24J
全長:20.60m
全幅:33.50m
全備重量:29,500kg
出力:1,200hp×4
最大速度:488km/h
航続距離:5,900km
武装 :12.7mm機銃×10
爆弾搭載量:近距離任務時、3,600kg
乗員:10名
総生産機数:18,431機
B17と並ぶアメリカ空軍の主力爆撃機であった。飛行性能自体は、B17を上回っていたが、被弾に脆い事から、乗員はB17の方を好んだ。航続距離に優れる事から、太平洋戦線や地中海戦線では活躍した。また、哨戒機型は大西洋戦線で活躍し、Uボートの封じ込めに大いに貢献している。

↑Bf109G
全長:8.95m
全幅:9.92m
全備重量:3,400kg
出力:1,475hp
最大速度:640km/h
航続距離:650km
武装 :20mm機関砲×1 、13mm機銃×2
爆弾搭載量: 250kg
乗員:1名
総生産機数:33,000機
1939年開戦時からのドイツ空軍の主力戦闘機で、登場時は世界の最先端を行く機体であった。戦争後半には英米の新型機に見劣りするようになったが、それでも改良を重ねて一線級の性能を維持した。軽量で運動性に優れていたが、航続距離と武装が不足気味であった。
↑Fw190A8
全長:9.00m
全幅:10.50m
全備重量:4,900kg
出力:1,700hp
最大速度:656km/h
航続距離:800km
武装 :20mm機関砲×2、13mm機銃×2
爆弾搭載量:500kg
乗員:1名
総生産機数:2万機以上
Bf109と並ぶドイツの主力戦闘機で、高高度性能以外ではBf109を上回る性能を示した。機体構造が頑丈で、戦闘爆撃機としても用いられた。発展余裕にも優れ、後期型のFw190Dは、アメリカが誇るP51マスタングに匹敵する性能を示した。
2018.05.20 - 城跡・史跡訪問記 其の三
越前大野城は、福井県大野市にある平山城である。
大野城は、天正4年(1576年)、織田家の部将、金森長近によって築かれたのが、最初となる。城は、標高249メートルの亀山の山頂に築かれ、野面積みの石垣の上に、2層3階の天守閣が置かれた。その後、城主は次々に入れ替わるが、天和2年(1682年)、大老、土井利勝の子、利房が入ってからは、以後代々、土井氏が城主を務めた。安永4年(1775年)、野口村から出火した火災が、城下1,400軒を焼く大火となって、大野城にも飛び火、天守閣を含む本丸を焼失した。寛政7年(1795年)、本丸は再建されたが、明治6年(1873年)、明治政府による廃城令によって、建物は取り壊された。昭和43年(1968年)、鉄筋コンクリート製の天守閣が復元されて、現在に到る。
↑麓から見た、大野城
↑城門
↑お福池
↑西を望む
↑東を望む
↑南を望む
↑北を望む
↑天守台の石垣
↑天守閣
越前大野城は、雲海に浮かぶ天空の城として知られており、福井県の名所ともなっています。しかし、個人的にはやはり、鉄筋コンクリート製の天守閣は頂けず、いずれは木製で復元してもらいたいです。
↑朝倉義景の墓所
大野城から歩いて、15分ほどの所にあります。 朝倉義景とは、かつて、越前国を支配していた戦国大名で、周辺国にも大きな影響を及ぼすほどの大大名でした。しかし、天正元年(1573年)、織田信長に大敗を喫した事から、本拠の一乗谷も危うくなり、一族の朝倉景鏡を頼って、越前大野の賢松寺へと逃れます。ところが、ここで景鏡の裏切りを受けて、賢松寺は200騎の武士に取り囲まれ、その中で無念の自刃となりました。賢松寺はその後、廃寺となりましたが、義景の墓所は現代でも、市街地の一角にひっそりと佇んでいます。
2018.04.14 - 城跡・史跡訪問記 其の三
友ヶ島とは、和歌山県和歌山市の沖に浮かぶ無人島である。かつて、ここには大日本帝国の要塞が築かれていた。
由良要塞とは、明治政府が外国からの侵攻に備えて建設した要塞の1つで、紀伊半島と淡路島の間にある、紀淡海峡周辺に築かれたものである。淡路島の由良地区・和歌山県の友ヶ島地区・和歌山県の加太、深山地区・鳴戸海峡防備を担う鳴戸地区(淡路島門崎に置かれた砲台)の4地区を合わせて、由良要塞と称された。由良要塞は、大阪湾への敵艦侵入に備え、第二次大戦まで臨戦態勢にあったが、終戦を受けて撤去された。
↑20,3cm砲弾
↑第二砲台跡
終戦による爆破を受けて、半壊しています。
↑展望台からの眺め
向こうに見える島は、淡路島です。あちら側にも要塞が築かれていて、この紀淡海峡の防備にあたりました。
↑第三砲台跡
友ヶ島各所にある砲台跡の中で、最も見応えのある遺構です。トンネル内を散策する事も出来ます。内部は薄暗いので、懐中電灯か携帯のライトを使用した方が良いです。私もペンライトを片手に、内部を見学してきました。
↑砲台内
トンネル左奥に、中に入っていく通路があって、そこも見学してきました。観光客は結構、大勢いたので、賑やかでしたが、それでも不気味さは否めなかったです。
↑第三砲台跡
中央、奥に見えるトンネルに入って行きます
↑トンネル内
前に見えるのは、この世の人です。
↑第三砲台跡
この辺りの遺構が、最も廃墟っぽくて、趣きがありました。
↑第三砲台内部
ここは弾薬庫だったのでしょう。
↑将校宿舎跡
内部は朽ちています。
友ヶ島は小さな無人島ですが、実際に歩き回って見ると、思いの他、広く感じました。飲み物は桟橋付近に売っていましたが、夏に散策する場合は、島に渡る前に大きなペットボトルを買っておいた方が良いでしょう。トイレは所々にありました。この島に渡るには、船を使う他ありませんが、時刻と便数が限られているので、よく確認してから渡りましょう。第三砲台の廃墟の雰囲気と、展望台からの眺めはとても良かったです。
天文9年(1540年)、木曽義昌は、木曾義康の嫡子として生まれる。木曽氏は、代々、信濃国筑摩郡の一部、木曽谷を支配する領主で、木曽義仲の子孫を自称した。地盤とする木曽谷は、大部分を急峻な山地が占めており、耕作地は木曽川沿いの僅かな範囲しかなかった。だが、ヒノキを始めとする豊富な木材資源を有しており、これが主要な財源となっていた。室町時代、木曽氏は、信濃守護小笠原氏の統制下に置かれたが、戦国時代に至ると、統制から離れて独立勢力となった。しかし、甲斐の戦国大名、武田信玄が信濃に勢力を伸ばして、隣接する下伊那郡まで制圧すると、天文22年(1554年)、父、義康は服属を申し入れた。信玄は、この申し入れを喜んで受け入れ、娘の真龍院(真理姫)、当時5歳と、木曽義昌、当時15歳との婚姻を定めた。義康も娘の岩姫を人質として、甲府に差し出した。
木曽氏は、武田氏に軍事的に従属する形となったが、統治面においては自立性を保った。永禄7年(1564年)、義昌が甲府に赴いて信玄に挨拶すると、その返礼として誰が木曽に赴くかが、問題となった。信玄は、出来れば自分自身が、それが出来なければ嫡男義信か、少なくとも4男勝頼が返礼に赴くべきところだと述べたが、出陣の準備で慌しいので、家臣の代参となった。それでも落ち着き次第、信玄自身が木曽領の洗馬(せば)を訪れる事にした。信玄が、木曽氏を重んじている様子が伝わってくる。木曽氏は、美濃国、飛騨国との境に位置する重要な国衆であったので、信玄は厚遇して、その心を繋ぎとめようとしていた。
義昌は、永禄8年(1565年)までには家督を相続し、木曽氏の当主となった。元亀4年(1573年)4月13日、信玄が死去して勝頼が跡を継ぎ、武田家も代替りとなった。勝頼もまた、木曽氏を重視して、美濃制圧後には1,000貫文の知行を与えると約束した。しかし、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が惨敗すると、先の約束は空手形に終わる公算が高くなった。それどころか、隣接する美濃岩村城が、織田軍の攻撃を受けて全滅すると、にわかに木曽領が織田家に対する最前線となった。勝頼は、織田家の侵攻に備えて、義昌に指示を出し、伊那郡への援軍に位置付けると共に、木曽谷の防衛強化も申し渡した。勝頼は、木曽氏を国境防衛の要と位置付けたが、同時に寝返りも懸念して、目付けを派遣して動向を監視させた。
天正4年(1576年)、勝頼は更に念を押すように、木曽家臣に対して、勝頼、義昌の双方に忠誠を誓うという起請文を提出させた。その条文の最後には、「木曽義昌が勝頼に逆心を企てた場合は諫言し、それに従わなければ甲府に注進する」とあった。勝頼は、義昌を重視しつつ、警戒も怠らなかった。天正8年(1580年)10月、遠江にある武田家の要衝、高天神城が徳川軍によって包囲され、翌天正9年(1581年)3月25日、孤立無援のまま落城して、城兵が悉く討ち取られるという事態が起こる。この間、勝頼が援軍に駆け付ける事は一度も無く、高天神城の落城は、武田の劣勢を内外に広く知らしめるものとなった。義昌が、武田家離反を決めたのは、おそらくこの時だろう。そして、織田家に属する美濃苗木城主、遠山友忠からの誘いを受諾して、寝返りを決した。
江戸時代初期に成立した軍記「甲乱記」によれば、天正10年(1582年)1月27日、義昌の内通は、勝頼の知るところとなった。それを報告したのは、義昌の側近、千村右京進であったとされ、かねてからの勝頼の警戒策が当たった形となった。しかし、事態は深刻である。勝頼は木曽氏を討伐すべく、直ちに兵を催し、先遣隊として武田信豊を将とする3千人余の兵を木曽口に進ませ、同時に仁科盛信と2千人余の兵を伊那口へ進ませた。同年2月2日、勝頼は、人質としていた義昌の老母、嫡男の千太郎、義昌の娘を処刑すると、自らも1万5千の本隊を率いて新府城から出陣した。尚、義昌の妻は、信玄の娘、真龍院であったが、夫によって一族との絆を引き裂かれ、更に兄によって息子と娘を殺された事になる。この後、真龍院は城を出て、天保4年(1647年)、98歳で死去するまで木曽山中に隠棲したと云われている。
武田軍は2万人余の兵力をもって、木曽谷に押し寄せんとしていた。存亡の危機に立った義昌は、弟の上松義豊を差し出して、織田家に援軍を要請する。それに応じて、遠山友忠の軍が木曽谷に急行した。同年2月3日、織田信長はこの機に乗じて武田家を討滅すべく、家中の大半を動員し、更に徳川、北条の諸大名にも呼びかけて、ここに大掛かりな甲州征伐が始まった。同年2月16日、武田方の部将、今福昌和率いる3千人余が木曽領に侵攻すべく、鳥居峠に押し寄せて来る。義昌は織田家の援軍と共同して、午前10時から午後16時まで激戦を繰り広げ、兵卒数百人と武者40人余を討ち取って、これを撃退した。累々と横たわる武田方の戦死者は近くの沢に埋葬され、そこは葬沢と呼ばれた。同年2月25日、今度は武田の親類衆、穴山信君も離反して、2月29日には、駿河江尻城を徳川家康に明け渡した。勝頼にとって、義昌の離反は最悪の事態であったが、まだ想定の範囲内であった。しかし、穴山信君の離反は想定外であったに違いない。
信君の離反は、駿河が無傷で徳川軍の手に渡り、更に本拠地、甲斐に踏み込まれる事を意味していた。勝頼は信濃で織田軍を迎え撃つ心積もりであったが、背後にも敵を迎えて、甲斐に引き返さざるを得なかった。そして、この報を聞いた兵達は戦意喪失して、たちまちの内に逃げ去った。武田家は内部崩壊を起こして、3月2日の高遠城の戦いを除いて、まともな抗戦も出来なかった。勝頼は最後の頼みとした小山田信茂にも離反され、天正10年(1582年)3月11日、天目山にて無念の自害を遂げた。武田滅亡後、信長は信濃に進駐して、仕置きを行った。そして、同年3月20日、義昌は、上諏訪に在陣していた信長に出仕し、馬2頭を献じた。信長は、義昌の功を褒めて、後藤源四郎作の見事な刀剣と、黄金100枚を下賜した。
更にこの場で、本領の木曽谷の安堵に加えて、信濃国の内、安曇(あづみ)、筑摩の2郡の加増を申し渡し、退出の際には、信長自ら屋形の縁まで見送った。破格の待遇を受けた義昌は、これで木曽の一国衆から一転、10万石余の大名身分となった。同じく離反した穴山信君は、遅めであったので現状維持で、土壇場で離反した小山田信茂は、斬首となっていた。報復攻撃をものともせず、人質の処刑も顧みず、真っ先に内応した義昌を、信長は最も高く評価したのだった。義昌は、深志城に城代を置いて、新領経営の拠点とした。しかし、それから3ヵ月後、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、信濃国は大混乱に陥り、義昌の身辺も激変する。
北信濃(川中島4郡)の領主であった森長可は変報を受けると、所領を放棄して、木曽谷を通って美濃金山の本領に帰還せんとした。長可は、川中島4郡から集めた人質を伴って来ており、それを義昌に引き渡すという条件で、木曽谷の通過を認められた。続いて、織田家の重臣、滝川一益が、本拠の伊勢長島に帰還すべく、木曽谷の通行許可を求めてきた。だが、義昌はこれを拒否する。そこで一益は、「通してくれれば、佐久郡、小県郡の人質を進上する」との条件を持ちかけた。一益は、上野国及び信濃国の佐久郡、小県郡の領主であった。義昌はこれを了承して、人質を受け取った上で、通過を認めた。義昌はこれらの人質を利用して、信濃全土に支配を及ぼそうと目論んだ。
しかし、義昌の目論見は崩れ去る。越後の戦国大名、上杉景勝が、旧信濃守護、小笠原長時の弟、洞雪斎を擁立して、義昌の所領、安曇郡、筑摩郡に侵攻して来たからである。上杉軍の後援と旧小笠原家臣の協力を受けた洞雪斎の勢いは強く、同年6月下旬頃、重要拠点である深志城を攻め落とされ、安曇郡と、木曽谷を除く筑摩郡の放棄を余儀なくされた。これで義昌は、多くの犠牲を払って手にした新領を失い、元の木阿弥となった。その後、信濃には北条家、徳川家も侵攻して来て、三つ巴の争いとなると、義昌は当初、徳川家と交渉して帰属する姿勢を見せた。しかし、北条家の勢いが増してくると、密かに帰属を打診して、両属の構えを取った。義昌は、徳川家、北条家を天秤にかけて、様子見を決め込んだ。
この信濃の大混乱を見て、旧信濃守護、小笠原長時の3男、小笠原貞慶は旧臣を糾合して、旧領復帰を目指した。そして、同年7月16日、徳川家の後援を受けつつ、上杉方の深志城を落した。そうと知った義昌は、深志城を奪還すべく、侵攻を開始する。7月19日頃、木曽軍と小笠原軍は激突するも、木曽軍は大敗し、本拠へと敗走する。小笠原軍はそれを追って、木曽領まで逆侵攻したが、ここで義昌による伏兵攻撃を受け、今度は小笠原軍が大敗して、敗走する羽目となった。この後、小笠原貞慶は徳川家から離反して、北条家に帰属した。北条家を後ろ盾とした、小笠原家に対し、義昌は織田家を後ろ盾とすべく、信孝(信長の3男)に支援を要請した。しかし、織田家の支援を得るには、その同盟者である徳川家に協力する必要が生じ、ここで義昌は本格的に徳川家に帰属する事を決した。そして、家康から、安曇郡、筑摩郡を義昌に安堵すると言う約定を得た上で、信濃衆の人質を譲り渡した。
天正10年(1582年)10月29日、徳川家と北条家との間で和睦が成立し、旧武田領(信濃、甲斐、駿河、上野)を巡る大戦は終息した。義昌は、家康から安曇郡、筑摩郡を安堵するとの約定をもらっていたが、それが果たされる見込みはまったく立たなかった。そして、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の対立が激化して、小牧、長久手の戦いに発展すると、義昌は、豊臣方に寝返った。義昌は、かつて武田家を滅亡に導いたように、再び豊臣家の軍勢を呼び込もうとした。一方、家康からすれば、自らの勢力圏内に豊臣家の楔(くさび)を打ち込まれた形となって、事態は深刻であった。同年5月、家康は、小笠原貞慶に命じて木曽攻めをさせたが、義昌は鳥居峠を固めて、これを撃退した。同年8月、家康は再び、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを派遣して、義昌の支城、妻籠城を攻撃させた。徳川軍は数千人余、妻後城の城兵は300人余であったが、城将の山村良勝は良く守って、これを撃退した。
義昌は、豊臣家の大攻勢を願っていたであろうが、事態は思わぬ方向に進んでしまう。天正14年(1586年)、豊臣家と徳川家の間で講和が成立し、しかも、義昌を始めとする信濃の諸将は、家康の傘下に組み込まれてしまったのである。義昌からすれば居心地が悪く、苦虫を噛み潰す思いであったろう。そして、天正18年(1590年)、家康が関東に転封されると義昌もこれに従い、木曽谷から、下総阿知戸1万石に転封された。先祖代々住み慣れた土地から引き離されるのは、不本意であったろう。それでも義昌は、町作りを推し進めるなどして、阿知戸の発展に努めた。そして、文禄4年(1595年)~文禄5年(1596年)の間に死去した。享年は56、もしくは57。嫡男の義利が跡を継いだが、叔父の上松義豊を殺害するなど、粗暴の振る舞いが多かったとされ、慶長5年(1600年)、家康によって改易された。大名としての木曽氏は、ここに滅亡する。
木曽義昌は、時流を見る目に長け、大勢力相手にも粘り強い戦いを見せる、一角の人物であった。そして、武田家滅亡の足掛かりを作った事で、一時の栄転を預かる。しかし、その後は運が振るわず、転落の道を辿っていった。武田という大勢力を滅亡に導いた事で、義昌の名は知られるようになったが、同時に警戒される存在にもなったであろう。秀吉も家康も、義昌に利用価値はあっても信は置けないとして、重用しようとはしなかった。その一方、秀吉は、九州大友家の一家臣、立花宗茂を見込んで、大名にまで引き立てている。宗茂はその父、紹運と共に斜陽の大友家に尽くし、赫々たる武勲も上げて、秀吉に激賞されている。戦国の世は、裏切りが日常茶飯事であったとは言え、信義にもとる者はやはり軽視され、家運が栄える事は無かった。
↑木曽義昌像(ウィキより)