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変節の将、木曽義昌

2018.01.27 - 戦国史 其の三

天文9年(1540年)、木曽義昌は、木曾義康の嫡子として生まれる。木曽氏は、代々、信濃国筑摩郡の一部、木曽谷を支配する領主で、木曽義仲の子孫を自称した。地盤とする木曽谷は、大部分を急峻な山地が占めており、耕作地は木曽川沿いの僅かな範囲しかなかった。だが、ヒノキを始めとする豊富な木材資源を有しており、これが主要な財源となっていた。室町時代、木曽氏は、信濃守護小笠原氏の統制下に置かれたが、戦国時代に至ると、統制から離れて独立勢力となった。しかし、甲斐の戦国大名、武田信玄が信濃に勢力を伸ばして、隣接する下伊那郡まで制圧すると、天文22年(1554年)、父、義康は服属を申し入れた。信玄は、この申し入れを喜んで受け入れ、娘の真龍院(真理姫)、当時5歳と、木曽義昌、当時15歳との婚姻を定めた。義康も娘の岩姫を人質として、甲府に差し出した。



木曽氏は、武田氏に軍事的に従属する形となったが、統治面においては自立性を保った。永禄7年(1564年)、義昌が甲府に赴いて信玄に挨拶すると、その返礼として誰が木曽に赴くかが、問題となった。信玄は、出来れば自分自身が、それが出来なければ嫡男義信か、少なくとも4男勝頼が返礼に赴くべきところだと述べたが、出陣の準備で慌しいので、家臣の代参となった。それでも落ち着き次第、信玄自身が木曽領の洗馬(せば)を訪れる事にした。信玄が、木曽氏を重んじている様子が伝わってくる。木曽氏は、美濃国、飛騨国との境に位置する重要な国衆であったので、信玄は厚遇して、その心を繋ぎとめようとしていた。



義昌は、永禄8年(1565年)までには家督を相続し、木曽氏の当主となった。元亀4年(1573年)4月13日、信玄が死去して勝頼が跡を継ぎ、武田家も代替りとなった。勝頼もまた、木曽氏を重視して、美濃制圧後には1,000貫文の知行を与えると約束した。しかし、天正3年(1575年)、長篠の戦いで武田軍が惨敗すると、先の約束は空手形に終わる公算が高くなった。それどころか、隣接する美濃岩村城が、織田軍の攻撃を受けて全滅すると、にわかに木曽領が織田家に対する最前線となった。勝頼は、織田家の侵攻に備えて、義昌に指示を出し、伊那郡への援軍に位置付けると共に、木曽谷の防衛強化も申し渡した。勝頼は、木曽氏を国境防衛の要と位置付けたが、同時に寝返りも懸念して、目付けを派遣して動向を監視させた。



天正4年(1576年)、勝頼は更に念を押すように、木曽家臣に対して、勝頼、義昌の双方に忠誠を誓うという起請文を提出させた。その条文の最後には、「木曽義昌が勝頼に逆心を企てた場合は諫言し、それに従わなければ甲府に注進する」とあった。勝頼は、義昌を重視しつつ、警戒も怠らなかった。天正8年(1580年)10月、遠江にある武田家の要衝、高天神城が徳川軍によって包囲され、翌天正9年(1581年)3月25日、孤立無援のまま落城して、城兵が悉く討ち取られるという事態が起こる。この間、勝頼が援軍に駆け付ける事は一度も無く、高天神城の落城は、武田の劣勢を内外に広く知らしめるものとなった。義昌が、武田家離反を決めたのは、おそらくこの時だろう。そして、織田家に属する美濃苗木城主、遠山友忠からの誘いを受諾して、寝返りを決した。



江戸時代初期に成立した軍記「甲乱記」によれば、天正10年(1582年)1月27日、義昌の内通は、勝頼の知るところとなった。それを報告したのは、義昌の側近、千村右京進であったとされ、かねてからの勝頼の警戒策が当たった形となった。しかし、事態は深刻である。勝頼は木曽氏を討伐すべく、直ちに兵を催し、先遣隊として武田信豊を将とする3千人余の兵を木曽口に進ませ、同時に仁科盛信と2千人余の兵を伊那口へ進ませた。同年2月2日、勝頼は、人質としていた義昌の老母、嫡男の千太郎、義昌の娘を処刑すると、自らも1万5千の本隊を率いて新府城から出陣した。尚、義昌の妻は、信玄の娘、真龍院であったが、夫によって一族との絆を引き裂かれ、更に兄によって息子と娘を殺された事になる。この後、真龍院は城を出て、天保4年(1647年)、98歳で死去するまで木曽山中に隠棲したと云われている。



武田軍は2万人余の兵力をもって、木曽谷に押し寄せんとしていた。存亡の危機に立った義昌は、弟の上松義豊を差し出して、織田家に援軍を要請する。それに応じて、遠山友忠の軍が木曽谷に急行した。同年2月3日、織田信長はこの機に乗じて武田家を討滅すべく、家中の大半を動員し、更に徳川、北条の諸大名にも呼びかけて、ここに大掛かりな甲州征伐が始まった。同年2月16日、武田方の部将、今福昌和率いる3千人余が木曽領に侵攻すべく、鳥居峠に押し寄せて来る。義昌は織田家の援軍と共同して、午前10時から午後16時まで激戦を繰り広げ、兵卒数百人と武者40人余を討ち取って、これを撃退した。累々と横たわる武田方の戦死者は近くの沢に埋葬され、そこは葬沢と呼ばれた。同年2月25日、今度は武田の親類衆、穴山信君も離反して、2月29日には、駿河江尻城を徳川家康に明け渡した。勝頼にとって、義昌の離反は最悪の事態であったが、まだ想定の範囲内であった。しかし、穴山信君の離反は想定外であったに違いない。



信君の離反は、駿河が無傷で徳川軍の手に渡り、更に本拠地、甲斐に踏み込まれる事を意味していた。勝頼は信濃で織田軍を迎え撃つ心積もりであったが、背後にも敵を迎えて、甲斐に引き返さざるを得なかった。そして、この報を聞いた兵達は戦意喪失して、たちまちの内に逃げ去った。武田家は内部崩壊を起こして、3月2日の高遠城の戦いを除いて、まともな抗戦も出来なかった。勝頼は最後の頼みとした小山田信茂にも離反され、天正10年(1582年)3月11日、天目山にて無念の自害を遂げた。武田滅亡後、信長は信濃に進駐して、仕置きを行った。そして、同年3月20日、義昌は、上諏訪に在陣していた信長に出仕し、馬2頭を献じた。信長は、義昌の功を褒めて、後藤源四郎作の見事な刀剣と、黄金100枚を下賜した。



更にこの場で、本領の木曽谷の安堵に加えて、信濃国の内、安曇(あづみ)、筑摩の2郡の加増を申し渡し、退出の際には、信長自ら屋形の縁まで見送った。破格の待遇を受けた義昌は、これで木曽の一国衆から一転、10万石余の大名身分となった。同じく離反した穴山信君は、遅めであったので現状維持で、土壇場で離反した小山田信茂は、斬首となっていた。報復攻撃をものともせず、人質の処刑も顧みず、真っ先に内応した義昌を、信長は最も高く評価したのだった。義昌は、深志城に城代を置いて、新領経営の拠点とした。しかし、それから3ヵ月後、天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が横死すると、信濃国は大混乱に陥り、義昌の身辺も激変する。



北信濃(川中島4郡)の領主であった森長可は変報を受けると、所領を放棄して、木曽谷を通って美濃金山の本領に帰還せんとした。長可は、川中島4郡から集めた人質を伴って来ており、それを義昌に引き渡すという条件で、木曽谷の通過を認められた。続いて、織田家の重臣、滝川一益が、本拠の伊勢長島に帰還すべく、木曽谷の通行許可を求めてきた。だが、義昌はこれを拒否する。そこで一益は、「通してくれれば、佐久郡、小県郡の人質を進上する」との条件を持ちかけた。一益は、上野国及び信濃国の佐久郡、小県郡の領主であった。義昌はこれを了承して、人質を受け取った上で、通過を認めた。義昌はこれらの人質を利用して、信濃全土に支配を及ぼそうと目論んだ。


しかし、義昌の目論見は崩れ去る。越後の戦国大名、上杉景勝が、旧信濃守護、小笠原長時の弟、洞雪斎を擁立して、義昌の所領、安曇郡、筑摩郡に侵攻して来たからである。上杉軍の後援と旧小笠原家臣の協力を受けた洞雪斎の勢いは強く、同年6月下旬頃、重要拠点である深志城を攻め落とされ、安曇郡と、木曽谷を除く筑摩郡の放棄を余儀なくされた。これで義昌は、多くの犠牲を払って手にした新領を失い、元の木阿弥となった。その後、信濃には北条家、徳川家も侵攻して来て、三つ巴の争いとなると、義昌は当初、徳川家と交渉して帰属する姿勢を見せた。しかし、北条家の勢いが増してくると、密かに帰属を打診して、両属の構えを取った。義昌は、徳川家、北条家を天秤にかけて、様子見を決め込んだ。


この信濃の大混乱を見て、旧信濃守護、小笠原長時の3男、小笠原貞慶は旧臣を糾合して、旧領復帰を目指した。そして、同年7月16日、徳川家の後援を受けつつ、上杉方の深志城を落した。そうと知った義昌は、深志城を奪還すべく、侵攻を開始する。7月19日頃、木曽軍と小笠原軍は激突するも、木曽軍は大敗し、本拠へと敗走する。小笠原軍はそれを追って、木曽領まで逆侵攻したが、ここで義昌による伏兵攻撃を受け、今度は小笠原軍が大敗して、敗走する羽目となった。この後、小笠原貞慶は徳川家から離反して、北条家に帰属した。北条家を後ろ盾とした、小笠原家に対し、義昌は織田家を後ろ盾とすべく、信孝(信長の3男)に支援を要請した。しかし、織田家の支援を得るには、その同盟者である徳川家に協力する必要が生じ、ここで義昌は本格的に徳川家に帰属する事を決した。そして、家康から、安曇郡、筑摩郡を義昌に安堵すると言う約定を得た上で、信濃衆の人質を譲り渡した。



天正10年(1582年)10月29日、徳川家と北条家との間で和睦が成立し、旧武田領(信濃、甲斐、駿河、上野)を巡る大戦は終息した。義昌は、家康から安曇郡、筑摩郡を安堵するとの約定をもらっていたが、それが果たされる見込みはまったく立たなかった。そして、天正12年(1584年)、豊臣秀吉と徳川家康の対立が激化して、小牧、長久手の戦いに発展すると、義昌は、豊臣方に寝返った。義昌は、かつて武田家を滅亡に導いたように、再び豊臣家の軍勢を呼び込もうとした。一方、家康からすれば、自らの勢力圏内に豊臣家の楔(くさび)を打ち込まれた形となって、事態は深刻であった。同年5月、家康は、小笠原貞慶に命じて木曽攻めをさせたが、義昌は鳥居峠を固めて、これを撃退した。同年8月、家康は再び、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠らを派遣して、義昌の支城、妻籠城を攻撃させた。徳川軍は数千人余、妻後城の城兵は300人余であったが、城将の山村良勝は良く守って、これを撃退した。



義昌は、豊臣家の大攻勢を願っていたであろうが、事態は思わぬ方向に進んでしまう。天正14年(1586年)、豊臣家と徳川家の間で講和が成立し、しかも、義昌を始めとする信濃の諸将は、家康の傘下に組み込まれてしまったのである。義昌からすれば居心地が悪く、苦虫を噛み潰す思いであったろう。そして、天正18年(1590年)、家康が関東に転封されると義昌もこれに従い、木曽谷から、下総阿知戸1万石に転封された。先祖代々住み慣れた土地から引き離されるのは、不本意であったろう。それでも義昌は、町作りを推し進めるなどして、阿知戸の発展に努めた。そして、文禄4年(1595年)~文禄5年(1596年)の間に死去した。享年は56、もしくは57。嫡男の義利が跡を継いだが、叔父の上松義豊を殺害するなど、粗暴の振る舞いが多かったとされ、慶長5年(1600年)、家康によって改易された。大名としての木曽氏は、ここに滅亡する。



木曽義昌は、時流を見る目に長け、大勢力相手にも粘り強い戦いを見せる、一角の人物であった。そして、武田家滅亡の足掛かりを作った事で、一時の栄転を預かる。しかし、その後は運が振るわず、転落の道を辿っていった。武田という大勢力を滅亡に導いた事で、義昌の名は知られるようになったが、同時に警戒される存在にもなったであろう。秀吉も家康も、義昌に利用価値はあっても信は置けないとして、重用しようとはしなかった。その一方、秀吉は、九州大友家の一家臣、立花宗茂を見込んで、大名にまで引き立てている。宗茂はその父、紹運と共に斜陽の大友家に尽くし、赫々たる武勲も上げて、秀吉に激賞されている。戦国の世は、裏切りが日常茶飯事であったとは言え、信義にもとる者はやはり軽視され、家運が栄える事は無かった。





↑木曽義昌像(ウィキより)





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