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「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線 後

●東部戦線の負傷兵


負傷兵は、治療と移送に多くの人手を要し、乏しい食料や薬品も消費するので、兵站に負担を与える存在だった。そのため、衛生兵は、助かる見込みの無い患者を冷徹に選別する。「痛い!助けてくれ!」と叫ぶ瀕死の重傷者に対し、衛生兵は傷を見て手に負えないと判断すると、「こいつはもう助からん」とさじを投げ、ここからは神の仕事と、従軍牧師の祈りの手に委ねた。死に行く者は、運が良ければモルヒネ注射を打ってもらって、朦朧としたまま死を迎える事が出来たが、大半は苦痛に悶えながら1人寂しく死んでいった。



独ソ戦前半、ドイツ軍が進撃中であった時、死者は、鉄十字の墓標、もしくは木枠の十字架に姓名と生没年を刻まれて、埋葬されていった。しかし、独ソ戦後半、ソ連軍が反撃に転じると、ドイツ兵の墓は見つかり次第、戦車で踏み均(なら)されたり、ロシア兵に引き倒されるなどして、破壊されていった。そのため、ドイツ軍は、死者が出ると、樹下や草原に誰にも分からないように埋葬していった。それは、十字架や石碑も無く、弔う者さえいない墓であった。ただ、死者の安息だけが願われた。しかし、急な撤退戦においては、死者を埋葬する間もなく、そのまま打ち捨てられていった。



東部戦線では、先に書いた兵站の問題と、双方の深い憎しみから、動けない負傷兵が捕虜となった場合、大半はその場で殺される運命にあった。その時に拷問を受ける事も稀では無い。1944年4月2日、ソ連軍は強大な装甲兵力をもって、ドイツ軍戦線を突破した。第3山岳師団は包囲の危機に直面し、吹雪の中を撤退していった。兵達が所持しているのは小火器と手榴弾のみで、ソ連の機械化部隊に対抗しようがなく、移送用の車両も無かった。こうした切羽詰った撤退行動で、何時も悲惨な目に遭うのが負傷兵であった。まだ歩ける者は仲間の手を借り、ロシア兵による捕虜虐殺への恐怖を原動力に、最後の力を振り絞って前進した。



しかし、動けない負傷兵も大勢いた。彼らの多くは、ピストルを所望した。過酷な戦闘を助け合ってきた、かけがえのない仲間である。だが、どうする事も出来ない。別れの際、動ける者と動けない者、お互い深い悲しい目で見つめ合う。そして、家族への伝言を頼んだり、写真や普段の愛用品を遺品として、故郷に託す者もいた。最後の握手を交わした後、兵士達は歩き出し、負傷兵達の姿は吹雪の中に掻き消えていった。やがて、後ろからピストルの銃声が響いてきた。



●名誉の戦死


1944年4月6日、第3山岳師団はソ連軍の包囲を逃れるべく、撤退行動を続けていたが、ソ連の装甲部隊が先行して退路を断っていた。第3山岳師団を含む、5個師団がソ連軍の包囲網に捕われた。時を経れば包囲網は強化され、逃れる術は無くなる。この危機を逃れる唯一の方策は、現有戦力を結集して、迅速に突破する事であった。ドイツ軍は、撤退に次ぐ撤退で疲労しきっていたが、死力を振り絞って突破攻勢を行った。ゼップの所属する144連隊が殿(しんがり)を受け持って、戦いつつ撤退に入った。



その際、鉄道トンネルを抜けていったが、ソ連軍の追撃を食い止めるべく、工兵隊が爆破準備を進めていた。ゼップの上官、クロース大尉は、自部隊の工兵隊が後から続いてくるので、それを待ってから爆破するよう、爆破班に指示を出した。ところが、爆破班は、ソ連軍の追撃に怯えていたのか、それを待つ事なく爆破を実行してしまう。トンネルを通過中であった工兵隊は、爆発に巻き込まれ、先頭を歩いていた2名を残して全滅した。そうと知ったクロース大尉と兵士達は、怒り心頭になりながらも、先を進んだ。



部隊の集合場所に差し掛かると、軽機関銃を構えた警戒歩哨が、「止まれ、動くんじゃない、合言葉!」と叫んだ。兵士達は疲れ切って、苛立っている。先頭を行く兵士は、「合言葉ってなんだい!?」と、歩哨に毒を吐きかけながら、通過しようとした。すると、軽機関銃が発射され、その兵士の上半身は撃ち砕かれた。兵士達は、信じられないといった顔をして、すぐさま身を隠した。クロース大尉は匍匐前進しつつ、「武器をしまえ、ばか者!我々はクロース大隊である。すぐに上官を呼び出してこい」と呼びかけた。やがて、1人の中尉がやってきて、クロースと応対した。



中尉は事情を知ると、歩哨に軽機関銃を向け、「仲間を撃つとはどういう奴だ!」と怒鳴り散らした。歩哨は若い兵士で、恐怖に震えていた。しかし、中尉は益々、激高して自分を抑えられなくなり、叫びながら弾倉が空になるまで軽機関銃を撃ち尽くした。上官に射殺された歩哨、その歩哨に殺された兵士、いずれも公式には、「偉大なるドイツのために戦死」となった。真相は、遺族には明かされない。先に、味方によって爆殺された工兵隊も同じく、名誉の戦死か、行方不明扱いであった。



●狙撃兵の仕事


ゼップは狙撃兵として戦いながら、次の事を学んだ。確実に捉えた目標以外は撃たない、1つの潜伏地点から撃つのは1発のみとし、すぐに次の潜伏地点に移動する。同じ場所から何発も発射すれば、すぐさま狙撃や砲撃の的となるからだ。擬装はなるべく簡便に済ませ、その材料も、軽量かつ、身近な物で済ませる。絶えず流動する戦場において、全身擬装は時間と材料を食うばかりか、動きも悪くなるので役には立たなかった。ゼップは、骨組みにした折り畳み傘に、枝や草を織り込んで利用した。



1日の活動を始める前に、排便を済ませておく。狙撃兵は、何時間もその場に潜伏する場合があるからだ。位置を特定されて迫撃砲の攻撃を受けた場合、思い切って飛び出し、ジグザグに走って自軍陣地に駆け込む。未熟な狙撃兵は、砲撃を受けると恐怖に身をすくませ、そのまま砲撃の餌食となっていた。だが、時と場合によっては、ジッと身を潜め続ける必要もある。狙撃兵同士の対決となって、相手に所在地を悟られた場合、僅かなりとも動く事は許されず、夜の闇を迎えるまで身を潜める必要があった。また、1人で狙撃するより、専門の観測員と連携する方が効率が上がる事を知った。そのため、必要に応じて、経験豊富な兵士に観測員を頼むようにした。



戦線が小康状態の時、ゼップは朝晩、前線より前に出て、敵情視察と狙撃を行った。狙撃をする事によって、敵の活動を抑え込み、士気を喪失させる効果をもたらした。また、目にした敵情は、相手の動向を特定するのに役立った。ゼップは、指揮官など重点狙撃目標を認めた場合、相手を確実に仕留めるべく、炸裂弾を用いる事があった。炸裂弾は文字通り、炸裂して相手に深手を負わせる。例え助かったとしても、酷い大きな傷跡を残す。そのため、携帯火器に炸裂弾を用いる事は、ジュネーブ条約で禁じられていた。しかし、ソ連軍は戦争初期からこの弾を使っていたので、ドイツ軍も対抗上、用いるようになった。ゼップは、ソ連製狙撃銃を使用している間は、ソ連軍の遺棄兵器から炸裂弾を調達していたが、後にドイツ製狙撃銃を支給されると、炸裂弾もドイツ製を使用した。



ロシア兵による集団攻撃が成された場合、敵は次から次にやってくるので、一発撃って、また次の地点に移動するといった悠長な真似は出来ず、射界が取れて体を隠せる潜伏地点から、出来る限り射撃を繰り返した。そして、敵の攻撃が正確さを増してきたり、戦況が変化してくると、予め定めておいた次の潜伏地点に移動した。300メートルまでの距離なら、出来るだけ胴体を狙い撃って、生きたまま戦闘力を奪うようにした。そうすると、重傷者が苦痛の叫びを上げて、敵の士気と勢いを削ぐ効果があった。50メートル以内に入ろうとした場合、即座に戦闘力を奪うべく、頭部または心臓を狙い撃った。だが、30メートル以内まで接近を許した場合、最早、狙撃銃は役には立たず、MP40短機関銃に取り替えて応射した。こうした陣地を巡る戦闘では、ゼップの殺害数は跳ね上がるが、狙撃の数には入らない。


1945年4月20日、ゼップは、ドイツ国防軍最高の叙勲の1つである、騎士十字賞を受賞する。公認狙撃数は、257人(実数は遥かに多い)に達していた。しかし、戦争は敗北に終わり、5月8日、ドイツは降伏する。ゼップの所属する第3山岳師団は、この報をチェコスロバキアで聞いた。翌5月9日、第3山岳師団は解散し、兵士達は少数に別れて、それぞれ西側を目指して歩き出した。ソ連の捕虜になる事だけは、避けたかった。しかし、チェコスロバキアの住民達は武装蜂起していたので、極力、人目を避けて横断せねばならなかった。ゼップは昼間は身を潜め、夜間に行動する事にした。



隠密の逃避行となるので、持っていくのは護身用の短機関銃のみでよく、狙撃銃はもう必要無かった。それに、捕まって狙撃兵と分かれば惨殺されるため、ゼップは辛い気持ちを堪えて、狙撃銃を処分した。この逃避行では、尚も大勢の戦友が命を失った。1945年6月5日、ゼップは、250キロの距離を走破して、無事、オーストリアの故郷、ザルツブルクに帰り着く事が出来た。ゼップは、常に戦場の渦中に身を置き続けたが、類まれな幸運に恵まれて、幾度かの軽傷だけで済んだ。だが、心には決して消える事の無い傷を負い、それからの人生において、夜な夜な悪夢となって蘇ってくるのだった。2010年3月2日、オーストリアのヴァルス・ズィーツェンハイムにて死去。ヨーゼフ・アラーベルガー、85歳。



主要参考文献、アルブレヒト・ヴァッカー著、「最強の狙撃手」



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「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線  前

ドイツ軍狙撃兵、ヨーゼフ・アラーベルガーの凄絶な体験談。愛称はゼップ。


1924年12月24日、オーストリアのザルツブルクに生まれる。1943年、ドイツ国防軍に入隊し、6ヶ月の訓練を受けた後、東部戦線に運ばれ、第3山岳師団の軽機関銃手となった。1943年7月18日、初めて戦場に立ち、そこから無我夢中で戦ったが、すぐに軽機関銃手が決死隊に近い存在であると悟った。そして、自らも7月22日に軽傷を負う。軽機関銃は歩兵戦において重要な位置を占めるが、その分、敵からも狙われやすく、死傷率は飛び抜けて高かった。そのため、ゼップは生き残りを図って、狙撃兵への転向を申し出る。


当時、ドイツ軍は、自軍の狙撃兵不足を痛感していた事から、この転向はすんなり受け入れられた。いかにも俄仕込みであったが、ゼップは天性の射撃の才能を発揮して、たちまちドイツ軍屈指の狙撃兵へと成長してゆく。彼が手にしたのは、ソ連製狙撃銃モシン・ナガン91/30であった。銃と弾薬は、ソ連軍から鹵獲(ろかく)したものを使用した。狙撃兵は歩兵戦のエースであるが、敵からすれば憎悪の対象であり、捕まれば拷問と惨殺は免れなかった。尚、狙撃を証明するには、結果をノートに記して、それを下士官、士官に説明し、署名をしてもらう必要があった。また、陣地を巡る、両軍入り乱れての攻防における狙撃は、数には入らないとされた。


●避けられない道

1943年8月初旬、新米狙撃兵ゼップは早速、仕事を頼まれる。ゼップの所属する中隊は、数日前からソ連の狙撃兵によって付け狙われており、その排除を要請されたのだった。ゼップは、塹壕の隙間から様子を窺う。相手は射撃の腕は良かったが、一箇所に身を止めて射撃を繰り返していたので、すぐに居場所を特定する事が出来た。これは、狙撃兵として致命的な誤りであった。そして、ゼップは照準スコープの中に相手の体を捉える。軽機関銃手であった時は、ただ、無我夢中で撃ち続けていただけだが、今回は意識的に殺害せねばならない。初めての恐るべき任務を前にして、躊躇いが走り、動悸が高まって、体が震え出す。一度、狙いを外して大きく息を吸い、心を落ち着かせようとした。そして、再び照準を定めるが、また逡巡する。しかし、そんな最中にも、相手は獲物を探し求めている。


ゼップが狙われずにすんだのは、ただ、運が良かったからに過ぎない。もどかしく思った友軍兵士からは、「さっさと一発ぶっ放せ」との声が上がった。ゼップは体の力を抜き、夢の中にいるような心地で息を止め、思い切って引き金を引いた。銃声が轟き、兵士から、「やったぜ大当たり、お陀仏だ!」との声が上がった。これを合図にドイツ軍の攻撃が始まり、ソ連軍を追い出して、相手の塹壕を乗っ取る事に成功した。戦闘終了後、ゼップと仲間の兵士達は、首尾を確認するため、ソ連軍狙撃兵の死体を探し求めた。隠れ場所から死体を引き摺り出すと、弾丸は右目から入って、後頭部に抜け、そこに大穴を空けていた。相手は初々しさの残る、16歳ぐらいの少年兵だった。ゼップは、晴れがましさに恐ろしさ、それに良心の呵責とがない交ぜになって、倒れた相手を見つめていた。突然、吐き気が込み上げてきて、嘔吐せずにはいられなかった。そして、兵士達の目の前で、胃の中の物を全て吐き出した。


ゼップは醜態を晒したと思ったが、兵士達は平然とした顔で、理解を示してくれた。そして、年長の伍長が、「恥じる事はない。ここにいる誰もが通ってきた道だ。どうしたってくぐり抜けるしかない。ちびってズボンを汚すより、吐いてすっきりした方が良いさ」と言うと、火酒を取り出して、一杯飲むよう勧めた。ゼップはそれを手に取り、一杯ぐいっと飲み干した。これで新米兵士は、東部戦線の冷徹な戦士となった。この一件で、「戦争は殺すか、殺されるかである。敵への同情は自殺行為に等しく、迷った次の瞬間に敵が自分を殺すだろう。敵に対して兵士としての行動を徹底し、冷徹になればなるほど、生存の機会は増す」と悟った。そこからの14日間で、ゼップは合計27人の狙撃に成功する。もう、躊躇う事も吐く事も無かった。しかし、若者らしい純真さも、急速に失われていくのだった。


●東部戦線の衛生状態

東部戦線のドイツ兵のほとんどは、下痢を患っていた。勿論、不衛生な環境から来るものである。前線に張り付いている兵士達の悩みの1つが、その便の始末であった。塹壕の狭い空間に便を排出すれば、臭いはおろか、伝染病が広がる恐れもあるので、それは避けねばならない。そのため、兵士達は缶詰の空き缶を取り置いておいて、それに大小を放出すると、塹壕の外に投げ捨てるようにしていた。しかし、経験の浅い者は、便が自分に降りかからないよう、大きく体を乗り出すので、狙撃兵に撃たれる例が絶えなかった。戦闘中に便意を催せば、もうズボンの中に垂れ流す他無かった。戦闘が小康状態になった時、近くに川があれば、ズボンにこびり付いた便をこそぎ取った。また、兵士達は絶えず、虱(しらみ)にたかられており、暇さえあれば体や衣類を隅々まで調べ上げて、一心不乱に取った。補給も安定せず、数日間、食うや食わずの状態に置かれるのも日常茶飯事であった。飲料水不足になると、兵士達は度々、小川や水溜りの水を飲んだので、赤痢や黄疸に罹る者が絶えなかった。


●砲撃の恐怖

1943年9月26日午前8時、ソ連軍は戦線突破を図って、第3山岳師団に猛攻を加えてきた。手始めに、何百門もの火砲や、カチューシャロケットが火を噴いて、ドイツ軍陣地に砲弾の雨を浴びせかける。ソ連軍の砲撃の凄まじさは有名で、ドイツ兵の誰もが、恐怖を覚えている。うなりを上げた砲弾が次から次に着弾して、耐え難い轟音を轟かせ、破片と土埃をそこら中に撒き散らす。兵士達は少しでも深く塹壕に潜り込まんとして、身を屈め、必死に祈りの言葉をつぶやく。気が動転した兵士が、塹壕から飛び出さんとして、それを仲間が必死になって抑え込む。ゼップもまた、幼児のように怯えて穴の壁にしがみ付き、「神よ、ここから救い出してください、助けてください、天にまします我らの神よ!」と叫んだ。すぐ近くで爆発が起こったかと思うと、黒い物体が目の前に転がり落ちてきた。ゼップは思わず、恐怖に身がすくんだ。それは、隣の穴にいた戦友の血まみれの胴体だった。手足は千切れ、ずたずたになった頭部と胸だけを残していた。


それなのに言葉を発し、「どうなったんだ、何が起こったんだ。なぜ急に暗くなったんだ、どうして体の感覚がなくなったんだ」と呻き出した。続いて、「目が見えない、ああ、目が見えない、ああ、手はどこだ、ああ!」と叫んで、泥の中を転がり出した。この世のものとは思えない光景を目の当たりにして、ゼップは気が変になりそうだった。そして、体を震わせながら、「ああ神様、この男を死なせてください、ひどすぎます、どうか死なせてやってください!」と悲鳴を上げた。血まみれの戦友は、最後に断末魔の悲鳴を上げて、ようやく事切れた。その間は、恐るべき砲撃音さえ、耳に入らなかった。30分ほどしてソ連軍の砲撃は終わり、続いて戦車や歩兵による接近戦が始まると、ゼップはむしろ、ほっとした。戦闘の興奮に身を投じる事で、心の内に芽生えかけた狂気を発散する事が出来たからだ。


●将校の存在

東部戦線のドイツ軍は、消耗に補給、補充が追い付かず、その戦力は衰える一方だった。しかし、ソ連軍は、アメリカ、イギリスから莫大な援助を受け取ると共に、懐の深い国土から絶えず人員と兵器をおくり込んで、その戦力は増す一方だった。第3山岳師団も絶え間ない防御戦闘によって、師団としての戦闘力を失いつつあった。止む事のない戦闘と、日増しに募る不安感から、残存兵の間に動揺が広がり始めていた。1人や2人だけで塹壕陣地を守るのも珍しくなく、そうした孤立状況に置かれた兵士達は、取り残された様な孤立感や不安感を覚える。そして、仲間の顔を見たい、後方の安全地帯に逃れたいという、強い欲求に駆られるのだった。もし、部隊全体がそんな恐慌状態に陥ったなら、抵抗はおろか、前線の維持すら不可能となって、容易に敵の蹂躙を許す事になる。そうなれば、部隊の壊滅は免れない。


1943年12月30日、ゼップが所属する144連隊において、ソ連軍の重圧に耐えられず、戦区の一部が恐慌の兆しを見せ始めた。この危機を鎮めるべく、連隊本部付きの大尉が前線に赴いた。兵士達を激励すべく、バイクと足を使って前線を駆け巡っている最中、大尉は、後方に向かって走り出した兵士5人の姿を認めた。大尉はすぐさまMP40短機関銃を構えると、その頭上に向かって威嚇射撃した。兵士達は驚いて立ち止まり、目を大きく見開いて大尉を凝視した。しかし、動転していた1人は、大尉目掛けてライフルを発射する。弾は危うく逸れたが、大尉は毅然としたまま、その兵士に照準を定め、「銃を下ろして陣地へ戻るんだ、ばか者め!」と諭した。正気を取り戻した兵士達は、大尉に引き連れられて、元の陣地へと戻っていった。


砲弾が降り注ぐ中、大尉は匍匐前進をして、ゼップの元にも立ち寄り、激励の言葉をかけ、チョコレート缶を1つ置いていくと、また次の陣地へと向かっていった。この大尉の勇気ある行動によって、連隊に再び秩序と信頼がもたらされた。最前線で兵士と共に戦う将校は、士気に大きな影響を及ぼすのだった。逆にそんな将校を失った場合、兵士達に動揺と混乱が現れ、戦意を喪失させる効果をもたらした。なので、独ソの狙撃兵達は、こぞって指揮官を狙い撃ちにした。尚、戦争末期のドイツ軍将校の損失は目を覆うばかりで、ゼップの所属連隊でも、1944年11月の時点で、通常は中尉か大尉が200人前後の中隊を率いるところを、軍曹が率い、通常は少佐か中佐が1,000人前後の大隊を率いるところを、大尉が率い、通常は大佐が3,000人前後の連隊を率いるところを、少佐が率いていた。兵員も定数を大きく割り込んでおり、おおむね3分の1以下だった。


●捕虜となる恐怖

1944年3月6日、ドイツ軍の前線が突破され、第3山岳師団も包囲の危機に直面した。味方戦線との繋がりは断ち切られる寸前で、幅1キロほどの回廊状の防衛地帯が唯一、逃れる道だった。ゼップが所属する144連隊も戦いつつ、この回廊を撤退していった。その際、ソ連軍に蹂躙された師団の中央救護所から、憔悴しきった衛生兵4名が逃れてきた。しかし、彼らは強い精神的ショックを受けており、明らかに言動がおかしかった。そこで、食事と酒を与えて落ち着かせると、自らが体験した恐るべき出来事を話し始めた。中央救護所には、軍医1人と衛生兵7人、それに動けない重傷者多数が残されていた。非武装である事を示すため、白旗と赤十字の旗を掲げ、良く見える場所に武器もまとめ置いていた。そこに、ソ連のモンゴル人部隊が現れた。


衛生兵の1人が、たどたどしいロシア語で、「我々は武器を持っていない。ここにいるのは怪我人だけだ。我々は投降する」と伝えた。しかし、モンゴル人達に寛容の心は無かった。 1人のモンゴル兵が近寄ってきたかと思うと、その衛生兵を銃床で殴りつけ、蹴飛ばした挙句、短機関銃を撃ち放って、止めを刺した。続いて、モンゴル兵達は、重傷者達が横たわっているテントに押し入ると、突然、1人の胸にナイフを突き立てた。それを見た衛生兵達は戦慄して、次に起きる事態を予感した。衛生兵達は併設するテントに押しやられ、見張りを1人付けられた。横たわる重傷者達を前にして、モンゴル兵の軍曹は、「母なるロシアに攻め込んで女子供を殺したら、どうなるか思い知らせてやる!」と叫び、部下達に、「羊と同じ要領で、こいつらの首を切れ」と命じた。それを受けて、モンゴル人達は手馴れた手つきで、次々に重傷者の首を掻き切っていった。


軍医は、現場の余りの凄惨さにへたりこんでしまったところ、モンゴル兵に、「臆病者!」と罵られ、銃床で殴り殺された。重傷者の処刑を終えるとモンゴル兵達は、救護所の略奪に取り掛かった。それが済めば、6人の衛生兵が殺されるのは明白だった。6人は意を決して、脱出を図る。そして、1人の衛生兵が見張りの背後から近づくと、引きずり倒して腎臓に短剣を突き刺した。それを合図に全員が走り出したが、騒動に気付いたモンゴル兵達は銃火を浴びせかけてきた。短剣を突き立てた最後尾の衛生兵と、その前を行く兵が撃たれて死んだ。残った4人は銃弾がかすめる中、必死に走ってその場を逃れた。そして、2日間走り通して、ようやく味方と合流したのだった。彼らの話を聞いたゼップらは、ロシアの捕虜になった場合を想像して、怖気を振るった。ゼップ自身も以前、ドイツ兵捕虜が首を切り裂かれた状態で殺されていたのを目撃しており、今回の件も合わせて、生きてロシアの捕虜にはなるまいと心に誓うのだった。





ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 終

ここから日にちを、4月29日に戻す。グライムとライチュは、ベルリンを飛び立ってから50分ほどして、レヒリンに到着した。だが、そこもソ連軍機の攻撃を受けており、着陸はそれを掻い潜ってのものとなった。到着すると、グライムはすぐさま、ヒトラーの第一の命令を果たすべく、現存する航空機の全てを、ベルリン救援のために向かわせた。これらの航空機はベルリンの包囲網内に補給物資を投下し、現地のドイツ軍はパンツァーファウスト十発余、砲弾十数発、医薬品を少々、受け取った。しかし、ソ連軍数十万人に対しては、何の意味も無かった。



それから、グライムとライチュは、ヒトラーの第二の命令、ヒムラーの逮捕を果たすべく、プレーン(ドイツ北部の都市)に向かった。5月1日、プレーンにて、海軍元帥カール・デーニッツを首班とする新政府が発足する。そして、同日夜半、グライムとライチュは、ヒトラーが自殺した事を知った。5月2日、グライムは新政府の会議に参列し、ライチュはその外で、ヒムラーの来着を待った。ヒムラーは遅れて姿を現し、ライチュもその姿を認めて、彼を告発すべく質問を投げかけた。



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたが連合軍と接触して、ヒトラーの指示無しに講和を申し入れたと言うのは本当ですか?」


ヒムラー、「勿論ですとも」


ライチュ、「あなたは最も困難な時に、祖国と国民を裏切ったのです。これは国家的な裏切りです、全国指導者閣下。あなたがそれをするのは、地下壕で総統と共にいなければならない時だったはずです」



ヒムラー、「国家的裏切りだって?それは違う!歴史が違う評価を付ける事が、あなたにも分かる事でしょう。ヒトラーは戦争を続けようとしていた。彼は誇りと名誉に憑かれて、気が変になっていた。彼はまだ、ドイツの血を流そうとしていたが、もう血など残っていなかったのだ。ヒトラーは気が変になっていた。こんな事はずっと以前に終わりにするべきだったのだ」



ライチュ、「気が変になっていたですって?私が彼の所から出てきて、まだ36時間も経っていないのですよ。彼は自分が信じる事業のために死んだのです。彼は、あなたの言う名誉に包まれて勇敢に死にました。ところがあなたやゲーリングなどは、裏切り者、臆病者のレッテルを張られて生きていかねばならないのです」



ヒムラー、「私は自分に出来る事をした。ドイツの血を救うために。私達の国にまだ残っているものを救うために」



ライチュ、「全国指導者閣下、あなたはドイツの血と言っているのですか?あなたは今、それを言うのですか?あなたがそれを考えねばならなかったのは、何年も前の事です。あなたがこれだけの量の無益な流血を我が身のものと感じるよりも、前の事なのです」



突然の空襲によって、会話は中断された。ヒムラーは親衛隊の全国指導者にして、全ドイツ警察長官であり、今だ隠然たる勢力を保持していた。デーニッツのもとにも、ヒムラー逮捕命令が届いていたが、彼の力を警戒して、州の行政長官の地位を授けるに到っていた。なので、ライチュに出来るのは、ここまでであった。当時のライチュは知らなかったようだが、ヒムラーは、ユダヤ人虐殺の実行責任者であって、数百万もの人々を死に至らしめていた。そんな男が連合軍に和平交渉を持ちかけたのは、同胞の流血には心を痛めていたのか、それとも単に保身のためにしたのか、それは人々の判断に委ねられる。



5月7日、グライムとライチュは、政府の命を受けてオーストリアの都市ツェル・アム・ゼーに飛んだ。そこにいるアルベルト・ケッセルリンク空軍元帥に、政府の指示を伝えるためであった。しかし、5月8日、ドイツは降伏し、ヨーロッパの戦争は終わった。5月9日、グライムとライチュは米軍に出頭し、捕虜として拘禁された。2人の戦争も、これで終わった。だが、グライムはソ連軍に引き渡されると知って絶望し、5月24日、ヒトラーから受け取っていた毒薬を仰いで自決した。ローベルト・リッター・フォン・グライム、52歳。



ヒムラーは5月22日、イギリス軍の捕虜となったが、翌23日、粗略な扱いに耐えかねて、毒薬を仰いで自決した。ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー、44歳。ゲーリングは5月7日に米軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判にかけられて絞首刑を宣告されたが、この処刑方法に納得せず、1946年10月15日、青酸カリを飲んで自決した。ヘルマン・ヴィルヘルム・ゲーリング、53歳。ライチュは15ヶ月間の勾留の後に、釈放された。しかし、故郷ヒルシュベルクにいたライチュの父、母、妹、妹の子供達は、ヒルシュベルクのポーランド編入に伴うドイツ人追放を前にして、一家心中を果たしていた。ライチュもまた自殺を考えたが、自らが見てきた真実を語るため、生きる事を決した。戦後、ナチスが隠してきた犯罪行為の数々が暴かれると、それを受けてか、ライチュも、「ヒトラーは、全世界に対する犯罪者として命を断った」と語った。



しかし、すぐにこうも付け加えた。

「彼は、最初はそうでは無かった。初め、彼が考えていたのは、いかにドイツを立ち直らせるか、いかに自国民が経済的不自由なく、しっかりとした社会保障を受けて暮らせるか、ということだけであった。そのために彼は、様々なゲームを行った。最初の危険な賭けに成功すると、賭博者の誰もが犯す間違いに陥った。すなわち、より大きな危険を冒し、それに勝つと、更に大きな賭けに出るのだった。成功する度、民衆の熱狂は高まり、その支持を背景に彼は次の一歩へと進んだ。やがて誇大妄想に憑かれて、ヒトラー自身が変わってしまい、理想主義者、庇護者から、貪欲で腹黒い独裁者に変貌して、自らもその犠牲となった。世界史において、これほどの権力を1人の人間が獲得する事をもう許すべきではない」と語った。


ライチュはこう述べているが、1925年にヒトラーが執筆した、「我が闘争」では、既に反ユダヤ主義と東方進出が述べられている。ヒトラーが政権を握るのは1933年であるが、それ以前から、その侵略的性向は露わとなっていた。ライチュも大勢のドイツ国民と同様、ヒトラーの本質を見抜けず、強烈な個性に魅せられ、その弁舌によって踊らされた一人と言えよう。しかしながら、第一次世界大戦後のドイツ国民は、懲罰的なヴェルサイユ条約や世界恐慌によって苦しめられており、現状を打破せんとするヒトラーに、大いなる期待を抱いたのも無理は無かった。救世主と見なした男が破滅をもたらすなど、極少数の人間を除いて、予想出来なかった。



ライチュは、1912年にドイツ領ヒルシュベルク(現ポーランド領、ドルヌィ・シロンスク県)に生まれ、学生の頃より空を飛ぶ事に憧れを抱き、1932年、グライダーによる初飛行を果たした。1937年、ドイツ空軍の飛行学校に女性として初めて入校し、テストパイロットとなった。1938年には、女性としては初となる、ヘリコプター飛行を行う。1941年3月28日、それまでの飛行試験の功績を讃えられて、ヒトラーより2級鉄十字章を授与された。同年には、ロケット戦闘機Me163の飛行試験を行うが、5回目の飛行試験中、意識不明になるほどの重傷を負い、5カ月間の入院を余儀なくされた。この時、瀕死の身でありながらメモを取っており、尋常ではない意志の強さを見せている。しかしながら、テストパイロットに必要な分析的知性には欠けており、彼女の報告はあまり役立たなかったという声もある。



ナチスはライチュの話題性を買って、大いに宣伝材料とした。そして、ドイツ空軍のあらゆる航空機を操縦する、特別許可を与えた。ライチュもナチスに傾倒したが、党員にはならず、反ユダヤ主義には反対の立場をとっていた。熱烈な愛国心の持ち主で、国家やヒトラーに対して、死をも辞さない忠誠心を持っていた。1944年2月28日には、女性唯一となる1級鉄十字章を授与される。この鉄十字章を、ライチュは生涯、持ち続けた。戦後も空への憧れと挑戦心を持ち続け、1955年にはグライダードイツチャンピオンとなった。1970年代、老年となっても活発に飛行し、女性による飛行滞在時間、飛行距離、飛行高度などの世界記録を次々に塗り替えていった。1979年8月24日、ドイツフランクフルトにて、心筋梗塞で死去。ハンナ・ライチュ、67歳。生涯、独身だった。






↑1941年3月、ヒトラーより2級鉄十字章を授与されるライチュ。中央はゲーリング




↑戦後、1947年に撮影された、総統官邸



主要参考文献、「KGB㊙調書・ヒトラー最後の真実」


ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 2

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ライチュが地下壕に滞在している間にも、その精神と肉体は衰えていく一方に映った。この時期、ヒトラーに接した多くの人間が、その衰えを目撃している。年齢よりも老けた見た目、猫背、白髪混じりの頭髪、病的なまでの蒼白な顔、どんよりした目、しゃがれ声、四肢の振るえ(特に左足と左腕)などであった。ヒトラーは去る4月22日に行われた戦況会議において、シュタイナーSS大将による北からのベルリン解放作戦が失敗に終わったとの情報に接すると、私は見捨てられたと金切り声を上げ、軍隊を罵倒し、裏切り者を呪い、居並ぶ幕僚を前に、もう終わりだと絶望を露わにしていた。それでもヒトラーは、ベルリンの南に存在するヴァルター・ヴェンク大将率いる第12軍の存在に希望を見出して、ベルリン解放作戦を練った。


ヴェンク第12軍は4月26日から、ベルリンに向けて進撃していたが、ソ連軍の厚い壁に阻まれ、ポツダム(ベルリン南西約30キロにある都市)に達するのが精一杯であった。12軍は包囲網に僅かな隙間を作り、そこからドイツ軍2万人余を脱出させたが、間もなくソ連軍によって押し返され、再び包囲網は閉じられた。 4月27日、親衛隊全国指導者ヒムラーの総統付き連絡将校である、フェーゲラインSS中将は逃亡を図って、官邸から無断退去した。ヒトラーは親衛隊を派遣して捜索させ、愛人宅で泥酔していたところを取り押さえた。フェーゲラインは、エヴァ・ブラウンの妹を妻に迎えていたので、極めてヒトラーに近しい人物であった。ヒトラーは弟分の行状にひどく落胆すると共に、彼に逃亡を促したのは、ヒムラーではないかと疑念を抱いた。


4月27日の深夜から28日にかけて、ソ連軍による砲撃は最高潮に達した。砲弾の雨が官邸に降り注いで、中庭の木々は全て薙ぎ払われ、激しい轟音と振動が地下壕に響き渡った。最早、何時、ソ連軍が侵入してきてもおかしくない状況であった。ヒトラーは第2回の自殺会議を招集し、遺体を完全に消却する方法について議論を持った。そして、ソ連軍が官邸の敷地に侵入した時点で、集団自殺を始める事を決定した。その時が来たなら、各々、毒薬を服用し、その後、親衛隊の手によって遺体を焼却し、痕跡を残さず消し去る運びとなった。 4月28日の間、ヒトラーは第12軍にまだ望みを抱いて、地下壕を歩き回っては、居合わせた人々の前で、自らの作戦計画を披露した。


そして、震えの止まらない手で、汗ばんだ道路地図を振りかざし、神経質な素早い足取りで部屋中を歩き回りつつ、地図上に存在している部隊に指示を飛ばすのであった。しかし、それらの部隊のほとんどは戦闘力を失って敗走中であるか、既に消滅していた。しかも、市と外部を結ぶ電話網は26日の時点で切断されており、無線通信もアンテナが破壊された事によって、不通となっていた。その後、国防軍司令部が上げた気球アンテナの短波通信によって、ようやく外部と連絡を繋いでいる状況であった。なので、ヒトラーの熱のこもった作戦指導はまったくの無意味であり、それは絶望、希望、妄想が入り混じった悲喜劇に映った。ライチュは、ヒトラーを理想の政治家として崇拝していたが、この最終段階になってそれが崩れてゆくのを感じた。それでも、彼に対する忠誠心だけは、まだ失っていなかった。


 4月28日午後21時、ヒトラーは、これまでに無い最大の衝撃を受けた。ヒトラーの腹心で、親衛隊全国指導者であるヒムラーが裏切ったとの、電報がもたらされたのである。ヒトラーは常々、「忠臣ハインリヒ」と呼んで、ヒムラーを頼りにしていた。そのヒムラーが独断で、スウェーデンを通じて西側連合軍に講和交渉を持ちかけたのであった。地下壕にあった人々は皆、一大衝撃を受けて、男女問わずに泣いて、怒りに恐怖、絶望が入り混じった叫び声を挙げた。中でもヒトラーの怒り様は尋常ではなく、顔を真っ赤にして、狂ったように怒りの叫び声を上げ続けた。長い怒りの発作が終わると、ヒトラーは麻痺したように黙り込み、地下壕の人々も皆、沈黙した。そして、同日夜半、逮捕されていたフェーゲラインSS中将は、エヴァの助命嘆願も空しく、銃殺に処された。こうした間にも、ソ連軍は着実に接近しており、ライフルの発射音が間近に聞こえていた。地下壕に流入する外気も、火薬と煙に満ちていた。


4月28日深夜、、ヒトラーは蒼白な顔をして、グライムの部屋に入って来ると、「私達の唯一の希望はヴェンクだ。彼がやって来れるよう、空軍の全戦力を結集して、援護せねばならない。だから、君はレヒリン(ベルリン北方にある都市)に戻って、そこから飛行機を送り込む事を命じる。君の空軍の任務は、官邸に突入しようとしているソ連軍の陣地を叩く事だ。空軍の支援があればヴェンクはやって来れる。これが、君が地下壕を出なければならない第一の理由だ。第二の理由は、ヒムラーの行動を止める事だ」と告げた。ヒトラーは、ヒムラーに話が及ぶと怒りで自制心を失い始め、手と唇を震わせながら、「ヒムラーが本当に敵と交渉を始めたなら、見つけ次第、逮捕せよ」と厳命を下した。そして、「裏切り者には決して、総統たる私の跡は継がせない!君は、そんな事が起こらないようにするために、ここを出なければならないのだ」と言った。


 グライムとライチュはこれに激しく抗議し、今更そんな企てをしても無駄で、レヒリンに辿り着くのも不可能で、この地下壕で死にたいと述べた。だが、ヒトラーは、「帝国軍人としての君の義務は、あらゆる可能性を尽くす事だ。これは成功する唯一の機会なのだ。私と君の義務は、機会を生かす事なのだ」と重ねて命じた。ライチュは納得せず、更に食い下がったが、グライムは考え直して、「ハンナ、私達はここに残った人達の唯一の希望なのだ。機会がほとんど無きに等しいとしても、私達はそれを生かさねばならない」と諭した。グライムが準備を進めていた時、ライチュは1人でヒトラーのもとに行き、「我が総統、どうして、いったいどうしてあなたは、私達に残る事を許してくださらないのですか」と尋ねたが、ヒトラーはライチュを見つめて、「神の御加護がありますように」とだけ言った。


準備が整うと、空軍の連絡将校がグライムに対し、「あなたは脱出しなければならない。我が国民に真実を語り、空軍の名誉を救い、世界に対するドイツの威信を救う事が、あなたに託されている」と言った。  地下壕にいる人々は、それぞれ最後の短い手紙を書いて、ライチュ達に託した。マクダは、自らが付けていたダイヤの指輪をライチュに形見として渡した。しかし、ライチェらは、ゲッベルスとその夫人マクダの二通の手紙だけを除いて、全て破棄した。包囲網は刻一刻と狭まっており、ソ連軍は通りを挟んだ向かい側にある、カイザーホフホテルと宣伝省の建物まで制圧し、そこの屋根から官邸に向けて銃撃を始めていた。ライチュとグライムは、ヒトラーの警護を担っていた親衛隊の装甲車に乗り込んで、ブランデンブルク門へと向かった。この門はベルリンを象徴する歴史的建造物であったが、既に戦場の巷と化しており、次々に銃痕が刻まれていった。だが、ここは辛うじてドイツ軍が保持しており、門の近くには、2人乗りのアラド96練習機が隠されてあった。ライチュは、これがベルリンに現存する最後の航空機だと察した。


そうこうしている間にも砲弾が降り注いできて、彼らが乗ってきた装甲車も破損してしまう。ブランデンブルク門から続く400メートル余の舗装道路には砲弾の穴は無く、そこが滑走路代わりになるはずであった。 エンジンを始動し、プロペラの回転数を上げて、機体は銃砲弾が飛び交う只中を滑走していった。機体が屋根の高さまで上がると、無数の投光器に捉えられ、すぐさま対空砲火を浴びせられた。砲弾が炸裂する度、機体は大きく揺り動かされたが、幸い、小さな破片が幾つか命中しただけで済んだ。機体が高度6千メートルまで上げると、この世のものとは思えない光景が広がった。ベルリンは炎上し、どこまでも火の海が広がっていた。それは、想像を絶する規模の破壊であった。それから間もなく、この絶望の空の下、ヒトラーとエヴァ・ブラウンは地下壕の小会議室で結婚式を挙げ、2人は夫婦となった。しかし、これは死に行く者の儀式であった。


この式の前後、ヒトラーは隣室に入って、秘書のユンゲに遺言を口述筆記させている。式が終わると2人は自室へと戻り、お祝いの朝食を取った。それからヒトラー夫妻は自室に、ボルマンとゲッベルス夫妻、ユンゲとクリスティアンの2人の秘書を招いて、会談をもった。シャンパンを飲みつつ、古き良き時代、昔の友人、ゲッベルスの結婚式などについて語り合い、時に弱い笑い声も洩れたが、次にヒトラーが自殺について語りだすと、部屋には陰鬱な空気が漂った。  29日昼、ヒトラーは、官庁地区防衛司令官モーンケSS少将を呼んで、「後、どれくらい持ち堪えられるか」と尋ねた。モーンケは、「敵は至近では360メートルの距離に達しています。重火器、特に対戦車砲と十分な量の弾薬を与えられなければ、最大限持ち堪えて2、3日でしょう」と答えた。ヒトラーはただ頷いただけで自室へと戻り、ゲッベルスとボルマンは、「出来る限り、敵を食い止めてくれ」とモーンケに懇願した。


29日午後20時、ヒトラーは国防軍総司令部に宛てて、短い質問状を送った。①ヴェンクの先鋒はどこか?②その攻撃再開はいつか?③第9軍はどこか?④その突破方向は?⑤ホルステの第41装甲軍団の先鋒はどこか?それに対する、カイテル元帥からの返信は、①について、ヴェンクの先鋒はシュヴィロウ湖の南で停止。その東側面全体からソ連軍の猛攻撃を受けている。②について、先の理由から、第12軍がベルリンに向かう攻撃は、続行不可能。③④について、第9軍は敵の包囲下にある模様。1個師団が西に向けて突破したものの、その所在は不明。⑤について、ホルステ中将の第41軍団は、ブランデンブルク、レーテポン、クレメンで防御戦に立たされており、救出作戦への転用は不可能。


 29日午後22時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将が戦況報告に上がり、「パンツァーファウストの備蓄はもう底を付いています。破損した戦車の修理も不可能です。市内での戦闘は、24時間以内に終息する見込みです」と告げた。この日、ヒトラーに届けられた情報の全てが、救出作戦の失敗と、戦闘の終結を告げるものであった。ここに到って、ヒトラーは全ての望みが潰えたと悟り、自決を決意した。そして、自室に参謀総長クレープス大将、警備指揮官ラッテンフーバー中将、専属パイロットのバウア中将、副官ギュンシェ少佐などを集めて、「君達は、これまで誠実に仕えてくれた」と感謝の念を述べ、1人1人と握手を交わしていった。この夜、ヒトラーは医師のハーゼに命じて、愛犬ブロンディーを毒殺させ、青酸カリの効力を確かめた。


4月30日午前2時半、ヒトラーは、別れを告げたいと言って、秘書、料理人、事務官20~25人を廊下に集めた。ヒトラーはボルマンを従えて現れ、これまで仕えてくれた事に感謝の念を述べ、黙ったまま握手をして回った。同日午後14時半、ヒトラーはエヴァを伴って、2度目の別れの儀式を行った。ヒトラーは、ボルマン、ゲッベルス夫妻を始めとする近臣、侍従12人に、ほとんど聞き取れない2,3の言葉をかけながら握手を交わしていった。  突然、マクダがひざまずいて、「どうか決心を翻してください」と懇願したが、ヒトラーは、「他に解決の道は無い」と言って押しのけ、それからゲッベルスに向かって、「君の責任において、我々の死体を直ちに焼却してほしい」と言い付けた。そして、エヴァと腕を組みながら、自室へと戻っていった。これが、生きている2人が目撃された最後となる。 4月30日午後15時半、ヒトラーは拳銃を口に向け、青酸カリを噛むと同時に引き金を引いた。アドルフ・ヒトラー、56歳。エヴァは、青酸カリを飲んで自決した。エヴァ・ブラウン改め、エヴァ・ヒトラー、33歳。2人の遺体は、地下壕の非常口から数歩の所で焼却され、その後、近くの砲弾の穴に埋められた。


5月1日午後20時40分、マクダは医師の手を借りて子供達に麻酔注射を打ち、10分ほどして子供達が寝入ってから、青酸カリのカプセルを口に含ませ、噛み砕かせていった。マクダとゲッベルスは子供達の処置を終えると、総統官邸と宣伝省の間にあるヴィルヘルム広場に出ていった。そして、ゲッベルスは青酸カリを噛んでから拳銃で頭を撃ち抜き、マクダはおそらく青酸カリを飲んで死んだ。 ヨーゼフ・ゲッベルス、47歳。マクダ・ゲッベルス、44歳。長女ヘルガ、13歳。次女ヒルデ、11歳。長男ヘルムート、9歳。3女ヘッダ、8歳。4女ホルデ、7歳。5女ハイデ、4歳。ゲッベルスとマクダの遺体は焼却されたが、埋葬する間も無かったのか、そのまま放置され、子供達の遺体も地下壕の寝台に残された。


同日21時半、官庁地区司令官モーンケを始めとする5百人余は脱出を図り、線路沿いに北に向かったが、ソ連軍の分厚い包囲網を突破できず、モンハウザーアレー駅近くのビール醸造所に立て篭もらざるを得なかった。だが、そこも間もなく包囲され、5月2日18時、ソ連軍に降伏した。ボルマンもベルリンからの脱出を図ったが、5月2日、総統官邸から数キロ北にある、ヴァイデンダム橋まで来た所で、自決したと見られる。マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン、44歳。5月2日午前5時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将は、ソ連軍に降伏を申し入れた。停戦時刻は午後13時とされたが、実際に市街の戦闘が終結したのは午後17時頃であった。激しかった戦闘音も散発的に響くだけとなり、やがてそれも途絶えた。そして、崩れ落ちたベルリン市街に、押し黙る様な静寂が訪れた。


 ベルリン市街戦においては、ヒトラーを始めとする高官達の死だけに目が行きがちであるが、その影で、市民の犠牲は計り知れなかった。ベルリン市民は10万人余が死亡し、ドイツ兵は2万人余が戦死したと見られている。だが、国家と首都の崩壊という混沌の中に埋もれ、正確な数字が分かる事は永遠に無いだろう。ソ連軍の方は、前哨戦となるゼーロウ高地の戦いとベルリンの市街戦を含めて、8万1千人の戦死、行方不明者を出したとされている。未曾有の大戦を引き起こした独裁者は、最後の瞬間まで大勢の人間を巻き添えにしたのだった。戦闘終了後、ソ連軍はドイツ人女性を少なくとも10万人以上強姦し、その内、1万人余が自殺したと推測されている。また、ソ連軍による略奪、殺人も、市内各所で繰り広げられた。マクダの言っていた、敗北の後に襲ってくるであろう災厄との言葉もあながち、的を外れてはいなかった。だが、ドイツもまた、ロシアの地において、限りない略奪と虐殺を繰り広げてきており、その報復が成されたのだった。これが戦争だった。




 

↑少年兵を閲兵するヒトラー ベルリン戦の一こま


 
 
↑ブランデンブルク門 ベルリン戦の一こま


 

↑戦後間もなく撮影された、ブランデンブルク門


 

ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 1

1945年4月26日、第二次大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、圧倒的なソ連の大軍によって包囲され、破滅の時を迎えようとしていた。市街を守るのは、損耗しきった国防軍と武装SSの残存部隊4万5千人余に、陸に上がった水兵、警察官、ヒトラーユーゲントの少年兵、婦人や老人を含む国民突撃隊4~5万人余であった。それに対して、ソ連軍は150万人余の兵力でベルリンを包囲し、その内45万人余を市街戦に投入した。市民は、4月上旬の時点で300万人余がベルリンに残っており、その相当数が包囲網に捕われた。そんな中へ、ソ連軍は凄まじいばかりの砲爆撃を加える。建物は次々に崩壊し、市民は吹き飛ばされ、街はたちまち瓦礫と死体によって埋め尽くされていった。


兵士や市民達は心身共に疲弊しきっており、最早、敗北は免れないと悟っていたが、それでも戦う姿勢を見せねばならなかった。何故なら、移動軍法会議のSS将校が、脱走兵や、臆病者と見なした市民を捕らえては、街灯や並木に吊るして次々に処刑していったからだ。これらの死体には、「私は卑怯者でした」との札がかけられ、見せしめとして市内の到る所に吊るされた。ベルリンは、この様な惨状をきたしていたが、ドイツの総統ヒトラーはまだ健在だった。だが、彼の直接支配する土地は、最早、市街の中心部を占めるに過ぎず、そこにもソ連軍が激しい銃砲火を浴びせつつ、着実に接近していた。そんな市街戦の真っ只中に、一機のドイツ軍航空機が現れた。その機体はシュトルヒと呼ばれる小柄な偵察連絡機で、2人の搭乗者が乗り組んでいた。1人は、リッター・フォン・グライム空軍大将、もう1人は女性飛行士ハンナ・ライチュであった。


操縦者であるグライム大将は、ブランデンブルク門上空から着陸の機会を窺っていたが、無数の対空砲火を受けて機体の底面をはがされ、右足に重傷を受けた。グライムは意識を失って操縦不能となり、機体は墜落するばかりとなったが、後席のライチュは肩越しに操縦桿を握り、必死に操縦してじりじりと高度を下げ、東西幹線道路に何とか機体を着陸させる事に成功した。そこにもすぐ様、銃砲火が降り注いできたが、ライチュは意識の無いグライムを背負って退避する。そして、ブランデンブルク門を抜けたところで、通りがかった軍の車に拾い上げられ、窮地を脱する事が出来た。車は2人を乗せて、ヒトラーのいる地下壕に向かった。4月26日19時前後、2人は地下壕に到着し、そこでゲッベルス(ドイツの宣伝相)夫人マクダの出迎えを受けた。マクダは、ヒトラーを見捨てる者が多く出ているこの状況で、命懸けで会いに来た2人の勇気と誠実さに、感嘆の意を表した。


グライムはすぐ様、手術室に運ばれ、ヒトラーの侍医の手当てを受けた。そこへヒトラー本人が現れ、グライムに深い感謝を述べると共に、何故、グライムを呼んだのかを説明し始めた。そして、ヒトラーは目に涙を浮かべながら、腹心である、ゲーリングが自らの指示に反して逃亡し、勝手に連合軍と接触を図ったのだと語った。ライチュによれば、この場面は感動的かつ、劇的であったようだ。ヒトラーは、「最後通牒だ!厳しい最後通牒だよ!もう何も残っていない。私は何からも逃れようが無い。忠実な者などいなくなり、いかなる名誉も残っていない。私に降り掛かってきたこんな絶望は、誰も味わった事が無い!」と叫んだ。ヒトラーはしばらく自分を取り戻せず、言葉も発せなかったが、やがて、細い声で、「帝国を裏切ったかどで、ゲーリングをすぐさま逮捕してやる。私は彼の全ての称号を剥奪し、あらゆる職務を解任した。だから君を呼んだのだ。私は、君をゲーリングの真の後継者とし、空軍総司令官に任ずる。ドイツ国民の名において、私は君の手を握ろう」と告げた。


グライムとライチュは、ゲーリングの裏切りという情報にひどく驚かされたものの、ヒトラーの手を握って、「地下壕に残って、ゲーリングによってもたらされた、総統やドイツ国民、空軍に対する大きな災厄を自分達の命をもって償いたい」と申し出た。それによって、飛行士達の名誉、空軍の名誉、国家の名誉が守られると見なしたからである。ヒトラーはその決意に満足し、「君達は残っても良い。君達の決意は空軍史上、決して忘れ去られる事は無いであろう」と言った。この夜、ヒトラーはライチュを自室に呼んで、「ハンナ、君は私と共に死にたいと望む者の1人だ。私達はそれぞれ、こういう毒の小瓶を持っている」と言って、ライチュとグライムのための小瓶を手渡した。そして、「私達の内の誰かが、ロシア人の手に落ちるなど考えたく無いし、彼らによって、私達の遺体が発見される事も望まない。それぞれが、身元を特定される物を残さないように、自分の遺体の処分に責任を持つ。自分で方法を考えてくれ。それをフォン・グライムにも伝えてくれるね」と言った。


ライチュは、ヒトラーが敗北を悟っている様子に衝撃を受け、涙を流して椅子に腰を落とした。そして、ヒトラーにドイツと国民のため、生きてベルリンを逃れ出るよう懇願したが、ヒトラーは最後までベルリンに留まるとの決意を変えなかった。4月26日から、27日にかけての深夜、総統官邸に向けて、初めて大規模な集中砲火が浴びせられた。重砲弾の炸裂音が地下壕の真上で響き渡り、誰もが極度に緊張して、顔を引きつらせた。ライチュは地下壕で過ごしていた時、グライムの看病に追われていたので、他の人々と付き合う暇はほとんど無かった。だが、ゲッベルスの部屋は隣でドアも開け放しであったので、彼の様子は否応なく観察する事が出来た。ゲッベルスの部屋は狭いが豪華な造りで、彼はそこを大股で歩き回っては、ゲーリングに激しい非難の言葉を浴びせかけていた。


次には、演壇に立っているかのように熱弁を振るい始めた。「私達は、己の名誉のためにどのように死んでいくかを世界に知らしめよう。そして、私達の死は、全てのドイツ人にとって、また、友人達にとっても敵達にとっても同じように、永遠の模範となるだろう。私達の行動が正しかった事、自分の命を賭けて世界をボリシェヴィキから守ろうとした事は、何時の日か全世界が認めるであろう。何時の日かそれは、永遠に歴史に刻まれる事になろう」。ゲッベルスの話はいつも、「名誉」、「いかに死に」、「いかに総統に忠実であるべきか」、「歴史の項の上に、聖なるものとして末永く光り輝く模範」についてであった。ライチュが見たところ、ゲッベルスの演説はいかにも芝居がかっていて、中身の無い軽薄なものに聞こえた。昼夜違わず、隣から聞こえてくるこの演説を聞くたび、ライチュとグライムは、「あれが、我が国を指導していた人達なのか」と悲しげに首を振るのだった。


ゲッベルス夫人マクダは、時にさめざめと泣き出す事はあったが、ほとんどの場合、自制心を失う事は無かった。彼女がいつも心配していたのは、13歳から4歳までの6人の子供達の事であった。マクダは子供達の前では常に優しく、陽気に振舞っていた。しかし、彼女は、滅び行く第三帝国に殉ずる事を決意しており、帝国が存在し得ないならば、子供達も連れていく心積もりであった。それが、敗北の後に襲ってくるであろう、災厄からの救済の道だと考えていた。マクダは、その時が来て決心が鈍ったなら、ライチュに力添えをしてくれるよう頼んだ。ゲッベルスの6人の子供達は、薄暗く、絶望的な雰囲気が漂う地下壕において、唯一の明るい光であった。地下壕に住む皆が、子供達に気をかけ、彼女らがなるべく快適に過ごせるよう努力していた。ライチュも子供達の前で、飛行機についての話や、自分が訪れて来た場所や外国の国々についての話を聞かせた。マクダは、そんなライチュに感謝していた。


ヒトラーの愛人、エヴァ・ブラウンは美しい女性であったが、知的水準はあまり高くないように感じた。それでもヒトラーにあくまで忠実で、献身的であった。柔和で政治に口出しせず、相手に合わせる事の出来るエヴァは、ヒトラーに安息を与える存在だった。4月15日、エヴァは、ヒトラーと運命を分かち合うために、ベルリンにやってきた。ヒトラーからは立ち去るよう命令されたが、エヴァはこれを拒否して居残った。彼女は、自身の時間のほとんどを、爪を磨いたり、服を着替えたり、髪を整えたりして、女としての身繕いに当てていた。ヒトラーがいる所ではいつも魅力的で、彼がくつろげるよう最大限、気を使っていた。


しかし、ヒトラーがいない所では、彼を見捨てた恩知らず共をみんな殺すべきだと語った。エヴァによれば、唯一良いドイツ人とは、今この瞬間、地下壕にいる人々だけで、その他の人々は、総統と共に死ぬためにここにいないと言うだけで皆、裏切り者なのであった。ライチュによれば、彼女の言う事は何もかも子供じみているように感じた。そして、エヴァは常々、「可哀想な、可哀想なアドルフ。皆が彼を見捨てて、皆が彼を裏切った。彼が失われるくらいなら、他の何万人が死んだ方が、ずっとドイツの為になるわ」と口にしていた。


ヒトラーの側近で、その取次ぎ役として権勢を振るっていたボルマンは、地下壕ではほとんど動く事なく、いつも自分の机に向かっていた。そして、今この瞬間の出来事を、未来の世代のために記録すべく、一つ一つの発言、行動を日記に記していった。ヒトラーと接見した人物があれば、人々のもとを訪れ、その会話の正確な内容を尋ねた。そして、地下壕で起こった出来事を細大漏らさず、記録にしていった。ボルマンによれば、その記録によって、ドイツ史の最も偉大な各章の間に、己の場所を占める事が出来るからであった。(ボルマンは非常に権力欲旺盛な人物で、ドイツが末期的状態にあっても、尚も権力の独占を目論んでいた。去る4月23日、ゲーリングが、「総統の行動の自由が奪われたなら、私が指揮権を引き継ぐ事を了承してくださいますか?」とベルリンに電報を送ったところ、ボルマンは彼を陥れるべく、反逆を企てているとヒトラーに吹き込んだ。これをヒトラーが信じた結果、ゲーリングは解任されたのだった。 )





↑ソ連軍によって包囲されるベルリン





↑パンツァーファウストの訓練を受ける婦人 ベルリン戦の一こま




↑国民突撃隊 ベルリン戦の一こま

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重家 
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