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ハンナ・ライチュが見た、ベルリンの最後 2

ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、ライチュが地下壕に滞在している間にも、その精神と肉体は衰えていく一方に映った。この時期、ヒトラーに接した多くの人間が、その衰えを目撃している。年齢よりも老けた見た目、猫背、白髪混じりの頭髪、病的なまでの蒼白な顔、どんよりした目、しゃがれ声、四肢の振るえ(特に左足と左腕)などであった。ヒトラーは去る4月22日に行われた戦況会議において、シュタイナーSS大将による北からのベルリン解放作戦が失敗に終わったとの情報に接すると、私は見捨てられたと金切り声を上げ、軍隊を罵倒し、裏切り者を呪い、居並ぶ幕僚を前に、もう終わりだと絶望を露わにしていた。それでもヒトラーは、ベルリンの南に存在するヴァルター・ヴェンク大将率いる第12軍の存在に希望を見出して、ベルリン解放作戦を練った。


ヴェンク第12軍は4月26日から、ベルリンに向けて進撃していたが、ソ連軍の厚い壁に阻まれ、ポツダム(ベルリン南西約30キロにある都市)に達するのが精一杯であった。12軍は包囲網に僅かな隙間を作り、そこからドイツ軍2万人余を脱出させたが、間もなくソ連軍によって押し返され、再び包囲網は閉じられた。 4月27日、親衛隊全国指導者ヒムラーの総統付き連絡将校である、フェーゲラインSS中将は逃亡を図って、官邸から無断退去した。ヒトラーは親衛隊を派遣して捜索させ、愛人宅で泥酔していたところを取り押さえた。フェーゲラインは、エヴァ・ブラウンの妹を妻に迎えていたので、極めてヒトラーに近しい人物であった。ヒトラーは弟分の行状にひどく落胆すると共に、彼に逃亡を促したのは、ヒムラーではないかと疑念を抱いた。


4月27日の深夜から28日にかけて、ソ連軍による砲撃は最高潮に達した。砲弾の雨が官邸に降り注いで、中庭の木々は全て薙ぎ払われ、激しい轟音と振動が地下壕に響き渡った。最早、何時、ソ連軍が侵入してきてもおかしくない状況であった。ヒトラーは第2回の自殺会議を招集し、遺体を完全に消却する方法について議論を持った。そして、ソ連軍が官邸の敷地に侵入した時点で、集団自殺を始める事を決定した。その時が来たなら、各々、毒薬を服用し、その後、親衛隊の手によって遺体を焼却し、痕跡を残さず消し去る運びとなった。 4月28日の間、ヒトラーは第12軍にまだ望みを抱いて、地下壕を歩き回っては、居合わせた人々の前で、自らの作戦計画を披露した。


そして、震えの止まらない手で、汗ばんだ道路地図を振りかざし、神経質な素早い足取りで部屋中を歩き回りつつ、地図上に存在している部隊に指示を飛ばすのであった。しかし、それらの部隊のほとんどは戦闘力を失って敗走中であるか、既に消滅していた。しかも、市と外部を結ぶ電話網は26日の時点で切断されており、無線通信もアンテナが破壊された事によって、不通となっていた。その後、国防軍司令部が上げた気球アンテナの短波通信によって、ようやく外部と連絡を繋いでいる状況であった。なので、ヒトラーの熱のこもった作戦指導はまったくの無意味であり、それは絶望、希望、妄想が入り混じった悲喜劇に映った。ライチュは、ヒトラーを理想の政治家として崇拝していたが、この最終段階になってそれが崩れてゆくのを感じた。それでも、彼に対する忠誠心だけは、まだ失っていなかった。


 4月28日午後21時、ヒトラーは、これまでに無い最大の衝撃を受けた。ヒトラーの腹心で、親衛隊全国指導者であるヒムラーが裏切ったとの、電報がもたらされたのである。ヒトラーは常々、「忠臣ハインリヒ」と呼んで、ヒムラーを頼りにしていた。そのヒムラーが独断で、スウェーデンを通じて西側連合軍に講和交渉を持ちかけたのであった。地下壕にあった人々は皆、一大衝撃を受けて、男女問わずに泣いて、怒りに恐怖、絶望が入り混じった叫び声を挙げた。中でもヒトラーの怒り様は尋常ではなく、顔を真っ赤にして、狂ったように怒りの叫び声を上げ続けた。長い怒りの発作が終わると、ヒトラーは麻痺したように黙り込み、地下壕の人々も皆、沈黙した。そして、同日夜半、逮捕されていたフェーゲラインSS中将は、エヴァの助命嘆願も空しく、銃殺に処された。こうした間にも、ソ連軍は着実に接近しており、ライフルの発射音が間近に聞こえていた。地下壕に流入する外気も、火薬と煙に満ちていた。


4月28日深夜、、ヒトラーは蒼白な顔をして、グライムの部屋に入って来ると、「私達の唯一の希望はヴェンクだ。彼がやって来れるよう、空軍の全戦力を結集して、援護せねばならない。だから、君はレヒリン(ベルリン北方にある都市)に戻って、そこから飛行機を送り込む事を命じる。君の空軍の任務は、官邸に突入しようとしているソ連軍の陣地を叩く事だ。空軍の支援があればヴェンクはやって来れる。これが、君が地下壕を出なければならない第一の理由だ。第二の理由は、ヒムラーの行動を止める事だ」と告げた。ヒトラーは、ヒムラーに話が及ぶと怒りで自制心を失い始め、手と唇を震わせながら、「ヒムラーが本当に敵と交渉を始めたなら、見つけ次第、逮捕せよ」と厳命を下した。そして、「裏切り者には決して、総統たる私の跡は継がせない!君は、そんな事が起こらないようにするために、ここを出なければならないのだ」と言った。


 グライムとライチュはこれに激しく抗議し、今更そんな企てをしても無駄で、レヒリンに辿り着くのも不可能で、この地下壕で死にたいと述べた。だが、ヒトラーは、「帝国軍人としての君の義務は、あらゆる可能性を尽くす事だ。これは成功する唯一の機会なのだ。私と君の義務は、機会を生かす事なのだ」と重ねて命じた。ライチュは納得せず、更に食い下がったが、グライムは考え直して、「ハンナ、私達はここに残った人達の唯一の希望なのだ。機会がほとんど無きに等しいとしても、私達はそれを生かさねばならない」と諭した。グライムが準備を進めていた時、ライチュは1人でヒトラーのもとに行き、「我が総統、どうして、いったいどうしてあなたは、私達に残る事を許してくださらないのですか」と尋ねたが、ヒトラーはライチュを見つめて、「神の御加護がありますように」とだけ言った。


準備が整うと、空軍の連絡将校がグライムに対し、「あなたは脱出しなければならない。我が国民に真実を語り、空軍の名誉を救い、世界に対するドイツの威信を救う事が、あなたに託されている」と言った。  地下壕にいる人々は、それぞれ最後の短い手紙を書いて、ライチュ達に託した。マクダは、自らが付けていたダイヤの指輪をライチュに形見として渡した。しかし、ライチェらは、ゲッベルスとその夫人マクダの二通の手紙だけを除いて、全て破棄した。包囲網は刻一刻と狭まっており、ソ連軍は通りを挟んだ向かい側にある、カイザーホフホテルと宣伝省の建物まで制圧し、そこの屋根から官邸に向けて銃撃を始めていた。ライチュとグライムは、ヒトラーの警護を担っていた親衛隊の装甲車に乗り込んで、ブランデンブルク門へと向かった。この門はベルリンを象徴する歴史的建造物であったが、既に戦場の巷と化しており、次々に銃痕が刻まれていった。だが、ここは辛うじてドイツ軍が保持しており、門の近くには、2人乗りのアラド96練習機が隠されてあった。ライチュは、これがベルリンに現存する最後の航空機だと察した。


そうこうしている間にも砲弾が降り注いできて、彼らが乗ってきた装甲車も破損してしまう。ブランデンブルク門から続く400メートル余の舗装道路には砲弾の穴は無く、そこが滑走路代わりになるはずであった。 エンジンを始動し、プロペラの回転数を上げて、機体は銃砲弾が飛び交う只中を滑走していった。機体が屋根の高さまで上がると、無数の投光器に捉えられ、すぐさま対空砲火を浴びせられた。砲弾が炸裂する度、機体は大きく揺り動かされたが、幸い、小さな破片が幾つか命中しただけで済んだ。機体が高度6千メートルまで上げると、この世のものとは思えない光景が広がった。ベルリンは炎上し、どこまでも火の海が広がっていた。それは、想像を絶する規模の破壊であった。それから間もなく、この絶望の空の下、ヒトラーとエヴァ・ブラウンは地下壕の小会議室で結婚式を挙げ、2人は夫婦となった。しかし、これは死に行く者の儀式であった。


この式の前後、ヒトラーは隣室に入って、秘書のユンゲに遺言を口述筆記させている。式が終わると2人は自室へと戻り、お祝いの朝食を取った。それからヒトラー夫妻は自室に、ボルマンとゲッベルス夫妻、ユンゲとクリスティアンの2人の秘書を招いて、会談をもった。シャンパンを飲みつつ、古き良き時代、昔の友人、ゲッベルスの結婚式などについて語り合い、時に弱い笑い声も洩れたが、次にヒトラーが自殺について語りだすと、部屋には陰鬱な空気が漂った。  29日昼、ヒトラーは、官庁地区防衛司令官モーンケSS少将を呼んで、「後、どれくらい持ち堪えられるか」と尋ねた。モーンケは、「敵は至近では360メートルの距離に達しています。重火器、特に対戦車砲と十分な量の弾薬を与えられなければ、最大限持ち堪えて2、3日でしょう」と答えた。ヒトラーはただ頷いただけで自室へと戻り、ゲッベルスとボルマンは、「出来る限り、敵を食い止めてくれ」とモーンケに懇願した。


29日午後20時、ヒトラーは国防軍総司令部に宛てて、短い質問状を送った。①ヴェンクの先鋒はどこか?②その攻撃再開はいつか?③第9軍はどこか?④その突破方向は?⑤ホルステの第41装甲軍団の先鋒はどこか?それに対する、カイテル元帥からの返信は、①について、ヴェンクの先鋒はシュヴィロウ湖の南で停止。その東側面全体からソ連軍の猛攻撃を受けている。②について、先の理由から、第12軍がベルリンに向かう攻撃は、続行不可能。③④について、第9軍は敵の包囲下にある模様。1個師団が西に向けて突破したものの、その所在は不明。⑤について、ホルステ中将の第41軍団は、ブランデンブルク、レーテポン、クレメンで防御戦に立たされており、救出作戦への転用は不可能。


 29日午後22時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将が戦況報告に上がり、「パンツァーファウストの備蓄はもう底を付いています。破損した戦車の修理も不可能です。市内での戦闘は、24時間以内に終息する見込みです」と告げた。この日、ヒトラーに届けられた情報の全てが、救出作戦の失敗と、戦闘の終結を告げるものであった。ここに到って、ヒトラーは全ての望みが潰えたと悟り、自決を決意した。そして、自室に参謀総長クレープス大将、警備指揮官ラッテンフーバー中将、専属パイロットのバウア中将、副官ギュンシェ少佐などを集めて、「君達は、これまで誠実に仕えてくれた」と感謝の念を述べ、1人1人と握手を交わしていった。この夜、ヒトラーは医師のハーゼに命じて、愛犬ブロンディーを毒殺させ、青酸カリの効力を確かめた。


4月30日午前2時半、ヒトラーは、別れを告げたいと言って、秘書、料理人、事務官20~25人を廊下に集めた。ヒトラーはボルマンを従えて現れ、これまで仕えてくれた事に感謝の念を述べ、黙ったまま握手をして回った。同日午後14時半、ヒトラーはエヴァを伴って、2度目の別れの儀式を行った。ヒトラーは、ボルマン、ゲッベルス夫妻を始めとする近臣、侍従12人に、ほとんど聞き取れない2,3の言葉をかけながら握手を交わしていった。  突然、マクダがひざまずいて、「どうか決心を翻してください」と懇願したが、ヒトラーは、「他に解決の道は無い」と言って押しのけ、それからゲッベルスに向かって、「君の責任において、我々の死体を直ちに焼却してほしい」と言い付けた。そして、エヴァと腕を組みながら、自室へと戻っていった。これが、生きている2人が目撃された最後となる。 4月30日午後15時半、ヒトラーは拳銃を口に向け、青酸カリを噛むと同時に引き金を引いた。アドルフ・ヒトラー、56歳。エヴァは、青酸カリを飲んで自決した。エヴァ・ブラウン改め、エヴァ・ヒトラー、33歳。2人の遺体は、地下壕の非常口から数歩の所で焼却され、その後、近くの砲弾の穴に埋められた。


5月1日午後20時40分、マクダは医師の手を借りて子供達に麻酔注射を打ち、10分ほどして子供達が寝入ってから、青酸カリのカプセルを口に含ませ、噛み砕かせていった。マクダとゲッベルスは子供達の処置を終えると、総統官邸と宣伝省の間にあるヴィルヘルム広場に出ていった。そして、ゲッベルスは青酸カリを噛んでから拳銃で頭を撃ち抜き、マクダはおそらく青酸カリを飲んで死んだ。 ヨーゼフ・ゲッベルス、47歳。マクダ・ゲッベルス、44歳。長女ヘルガ、13歳。次女ヒルデ、11歳。長男ヘルムート、9歳。3女ヘッダ、8歳。4女ホルデ、7歳。5女ハイデ、4歳。ゲッベルスとマクダの遺体は焼却されたが、埋葬する間も無かったのか、そのまま放置され、子供達の遺体も地下壕の寝台に残された。


同日21時半、官庁地区司令官モーンケを始めとする5百人余は脱出を図り、線路沿いに北に向かったが、ソ連軍の分厚い包囲網を突破できず、モンハウザーアレー駅近くのビール醸造所に立て篭もらざるを得なかった。だが、そこも間もなく包囲され、5月2日18時、ソ連軍に降伏した。ボルマンもベルリンからの脱出を図ったが、5月2日、総統官邸から数キロ北にある、ヴァイデンダム橋まで来た所で、自決したと見られる。マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン、44歳。5月2日午前5時、ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング大将は、ソ連軍に降伏を申し入れた。停戦時刻は午後13時とされたが、実際に市街の戦闘が終結したのは午後17時頃であった。激しかった戦闘音も散発的に響くだけとなり、やがてそれも途絶えた。そして、崩れ落ちたベルリン市街に、押し黙る様な静寂が訪れた。


 ベルリン市街戦においては、ヒトラーを始めとする高官達の死だけに目が行きがちであるが、その影で、市民の犠牲は計り知れなかった。ベルリン市民は10万人余が死亡し、ドイツ兵は2万人余が戦死したと見られている。だが、国家と首都の崩壊という混沌の中に埋もれ、正確な数字が分かる事は永遠に無いだろう。ソ連軍の方は、前哨戦となるゼーロウ高地の戦いとベルリンの市街戦を含めて、8万1千人の戦死、行方不明者を出したとされている。未曾有の大戦を引き起こした独裁者は、最後の瞬間まで大勢の人間を巻き添えにしたのだった。戦闘終了後、ソ連軍はドイツ人女性を少なくとも10万人以上強姦し、その内、1万人余が自殺したと推測されている。また、ソ連軍による略奪、殺人も、市内各所で繰り広げられた。マクダの言っていた、敗北の後に襲ってくるであろう災厄との言葉もあながち、的を外れてはいなかった。だが、ドイツもまた、ロシアの地において、限りない略奪と虐殺を繰り広げてきており、その報復が成されたのだった。これが戦争だった。




 

↑少年兵を閲兵するヒトラー ベルリン戦の一こま


 
 
↑ブランデンブルク門 ベルリン戦の一こま


 

↑戦後間もなく撮影された、ブランデンブルク門


 

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