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2020.06.01 - 
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飯盛山城と三好氏

2014.07.14 - 戦国史 其の三

飯盛山城は、大阪府四条畷市と大東市の境目にある山城である。


飯盛山城の築城年代は定かではないが、南北朝時代の正平3年(1348年)1月5日、北朝の高師直と南朝の楠木正行が激突した四条畷の戦いにおいて、南朝方の砦として存在していた模様である。これを本格的な城郭に発展させたのは、戦国の武将、木沢長政(1493?~1542)であった。長政は、河内、山城の守護である畠山氏の家臣であったが、権謀術数を駆使して成り上がり、やがては主家、畠山氏の実権を握るまでになった。長政は河内と大和に勢力を伸ばして、戦国大名化しつつあったが、同じく下克上で台頭してきた三好長慶に敗れて、敗死した。


長政死後、畠山氏の家臣であった安見宗房が飯盛山城主として入るが、これも三好長慶に敗れて城を失った。勝利を収めた長慶は、永禄3年(1560年)、飯盛山城に入城する。長慶は四国の阿波出身の戦国武将で、管領細川氏の家臣であったが、非凡な能力をもって成り上がり、主家を上回る権威と勢力を有するようになっていた。畿内の覇者となりつつあった長慶は、飯盛山城に大改修を加えて、ここを本拠と定めた。大小70の郭(くるわ)を廻らせて山全体を城郭と化し、主要部には石垣も用いられて、日本有数の山城に変貌を遂げた。


永禄4年(1561年)5月、長慶は、多くの人々を飯盛山城に集めて、千句連歌会を開いた。その連歌会では、長慶の勢力の広大さを示すかの様に、五畿内の名所が詠まれている。しかし、長慶の著しい勢力増大は、周辺大名の警戒を招く事になる。同年、南近江の守護大名、六角義賢は、紀伊、河内の守護大名である畠山高政と組んで、南北から長慶を挟撃せんとした。以降、六角義賢は度々、京に攻め入って三好軍と対陣し、それに合わせて畠山高政も和泉国に攻め入って、北上せんとした。


長慶は、六角義賢に対しては嫡男の義興率いる摂津衆と重臣の松永久秀率いる大和衆を差し向けて対峙させ、畠山高政に対しては弟の三好義賢率いる河内、阿波、讃岐衆をもって対峙させた。しかし、永禄5年(1562年)3月5日、和泉国久米田で対陣していた三好義賢は、畠山高政に敗れて討死してしまう(久米田の戦い)。この敗報を受けて、京で六角軍と対陣していた義興と久秀の軍は、畠山軍にも備えるため、山崎まで撤兵せざるを得なくなる。この結果、京は六角義賢の手に落ちると共に、高政は反三好の大和衆の参陣を得るなどして、更に勢いを増した。


高政は南河内の三好方諸城を落としつつ北上を続け、同年4月5日には、長慶が在城する飯盛山城まで囲んだ。長慶は一大危機に陥ったが、四国衆は久米田の敗北を受けて逃げ散っており、頼みとなる義興と久秀の軍は山崎で六角軍に備えていて、駆けつける事は出来なかった。それを見越して高政は飯盛山城の包囲を狭めてゆき、二度の総攻撃を加えた。だが、飯盛山城は、さすがに三好家の本城なだけに防御は固く、畠山軍に付け入る隙を与えなかった。


城が早々に落ちる気配はなかったが、長慶は身動きが取れず、高政も決め手を欠いて、戦況は膠着状態となった。その間、山崎に在った義興は父を救わんとして諸軍の糾合に努め、高政も六角義賢に攻勢に出るよう、催促した。しかし、義賢の動きは鈍く、義興を中心とする三好軍の戦力結集と、その出撃を許してしまう。同年5月15日、援軍の接近を知った高政は包囲を解いて南下し、和泉国教興寺付近に陣取ってこれを迎撃せんとした。


飯盛山城の長慶と援軍の義興は無事、合流を果たすと、これも南下して、教興寺の畠山軍と対峙した。しかし、長慶は体調が優れなかったのか、飯盛山城から出ずに、義興に指揮を委ねている。両軍の正確な兵力数は不明だが、畠山軍は1万人5千人余、三好軍は2万人以上であったと思われる。兵力では三好軍優勢であったが、畠山軍には、多数の鉄砲を装備した雑賀、根来衆という切り札があった。だが、三好方もこの鉄砲衆を警戒して、雨の日まで攻勢は自重したらしい。


同年5月19日、小雨が降る中、三好軍から攻勢を仕掛けたと云う。昼頃、畠山軍が総力を投入して迎撃に努め、激戦となるが、夕刻を迎える頃には余力を失って崩れだした。三好軍はそこを逃さず、大攻勢をかけて畠山軍を散々に討ち破った(教興寺の戦い)。敗れた高政は紀伊へと逃れたものの、河内国の支配権を失って、その勢力は著しく後退した。また、この敗報を受けて、京で滞陣していた六角義賢も撤兵して、長慶に和を請うた。一方、長慶は、この戦いの勝利をもって畿内の覇者の座を揺るぎないものとする。


永禄5年(1562年)時点での三好家の勢力範囲を、太閤検地(1582~1598年実施)の石高で表してみる。兵力は1万石に付き、250人動員できたと仮定する。

●三好家が大部分、支配していた国。

讃岐(12万6千石・動員力3,150人)

阿波(18万3千石・動員力4,575人)

淡路(6万2千石・動員力1,550人)

摂津(35万6千石・動員力8,900人)摂津には大坂本願寺領5万石余があるので、三好家の勢力範囲は(30万石・動員力7,500人)ぐらいか。

和泉(14万1千石・動員力3,525人)

河内(24万2千石・動員力6,050人)

丹波(26万3千石・動員力6,575)赤井直正が抵抗する氷上郡を除いて、ほぼ全域を支配していた模様なので、三好家の勢力範囲は(20万石・動員力5千人)ぐらいか

合計(125万4千石・動員力31,350人)


●三好家が一部、支配していた国

山城(22万5千石・動員力5,625人)京には室町幕府将軍、足利義輝とその奉公衆(ほうこうしゅう・武官)が存在しているので、山城の半分(10万石・2,500人)ぐらいか。  

大和(44万8千石・動員力11,200人)の北半分(22万石・動員力5,500人)ぐらいか。

播磨(35万8千石・動員力8,900人)の東端(5万石・動員力1,000人)ぐらいか。

伊予(33万6千石・動員力8,400人)の東端(5万石・動員力1,000人)ぐらいか。

合計(42万石・動員力10,500人)

三好家の石高、動員力の総計(石高167万4千石・動員力41,850人)

この時点での、織田信長の勢力範囲は、尾張一国(57万1千石・動員力14,275人)であった。これらはおおよその推測であって正確な数字ではないが、それでも三好家の勢力の強さは伝わってくると思う。


長慶に対抗し得る強大な外敵は存在しなかったが、その支配は内側より綻び始める。永禄6年(1563年)8月25日、先の教興寺の戦いで大いに活躍し、将来を嘱望された嫡男、義興が22歳の若さで病没する。長慶はこれ以前にも、永禄4年(1561年)に、弟で優れた勇将である十河一存を、永禄5年(1562年)には、弟で知勇に長けた三好義賢を失っており、政権にとっても、自身にとっても大きな打撃となっていた。また、長慶は、永禄5年(1562年)の教興寺の戦いの折から、既に体調を崩していたと思われる。


そのような折に嫡男の死を受けて、長慶の心身は著しく衰弱を来たし、病に伏せるようになった。失意の長慶は、十河一存の息子、義継を養子に迎えて、後釜に据えた。永禄7年(1564年)5月9日、長慶は、弟の安宅冬康を飯盛山城に呼び出して、18人の従者諸共、謀殺する。これは、後継者、義継の座を安泰にするために取った行動だと思われるが、長慶が最早、正常な判断力を失っていたと見る向きもある。いずれにせよ、三好政権はまたもや、有力かつ有能な一門を失う事となった。


三好家は柱を次々に失い、最後に残った大黒柱の長慶も、同年7月4日、飯盛山城にて息を引き取った。三好長慶、享年43。長慶亡き後、義継が当主となったが、若干16歳の少年が指導力を発揮できる訳もなく、重臣の松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が後見する形となった。それからしばらくは、久秀と三人衆は協力して三好家を主導し、永禄8年(1565年)5月19日には、三好家に敵対的であった室町幕府将軍、足利義輝を討ち取るなどした。しかし、この直後から、久秀と三人衆との間で家中の主導権を巡る対立が深まってゆき、同年11月にはついに戦端が開かれて、畿内を二分する内乱状態に陥った。


三人衆方には当主、義継を始めとする三好一門のほとんどが付いた事から、久秀方は終始押され気味であった。永禄10年(1567年)、義継が久秀方に回った事からやや勢力を盛り返したものの、それでも劣勢は否めず、久秀は尾張の戦国大名、織田信長に通じて上洛を促した。永禄11年(1568年)、その信長が足利義昭を擁して上洛すると、久秀と義継はこれに恭順の意思を示し、三好三人衆は信長に抵抗したものの、あえなく敗れて四国へと逃れ去った。 長慶のもと一枚岩であった頃の三好家ならば、信長とも互角に渡り合えたであろうが、分裂弱体化した三好家にはこれに抗する術も無く、畿内は、瞬く間に信長の勢力圏に塗り変えられた。


飯盛山城のある河内国も信長の勢力圏に入り、その意を受けた畠山昭高が北河内の守護に任じられて、飯盛山城に入った。天正元年(1573年)6月、畠山昭高は、家臣の遊佐信教によって殺害され、飯盛山城も信教の占拠する所となる。信教は三好一族の康長と組んで信長に敵対したが、天正2年(1574年)に織田軍の攻撃を受けて討死し、飯盛山城も攻め落とされた。それからしばらくは織田家が使用していたと思われるが、天正4年(1576年)頃には廃城となった。長慶が存命中の飯盛山城は、畿内の政治、軍事の中心地として多くの人々の注目する所であったが、その死と共に存在感を失い、人知れず歴史の表舞台から去っていった。畿内を失った三好家も同じく存在感を失って、四国の片隅を確保するだけの一地方勢力に転落する。


その後の三好家の顛末も載せておく。話は信長上洛後に遡る。


三好三人衆は四国に追われたが、その後も畿内回復に執念を燃やして、信長と戦い続けた。元亀元年(1570年)には朝倉、浅井、本願寺と結んで信長を挟撃し、摂津、河内、和泉に勢力を取り戻した。元亀3年(1572年)、三人衆は、仲違いしていた松永久秀、三好義継とも和解し、ようやく一族結託して、信長に当たる事となった。しかし、三好家は統一的な指導者を欠いていた上、勢力も以前ほどでは無かった。それでも、同年中に三好、朝倉、浅井、本願寺の反信長陣営に、武田信玄や足利義昭を加えて勢いを増し、信長を追い込んでいった。


しかし、元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が病没すると、信長は、武田軍に備えていた主力を畿内に振り向ける余裕が出来て、猛然と反撃に出た。同年7月には京から足利義昭が追放され、8月には三好三人衆の1人、岩成友通が討ち取られ、三人衆の残り、三好長逸や三好政康も行方知らずとなった。同月、越前の朝倉義景が滅亡し、続く9月には近江の浅井長政も滅亡し、11月には三好義継も討死して、三好宗家は断絶した。12月、この情勢を受けて松永久秀は再び、信長に臣従した。こうして畿内の帰趨は決したが、三好家の長老格である三好康長は、河内高屋城に篭もって、尚も信長に抵抗し続けた。


その、康長も、天正3年(1575年)、信長に攻め立てられて降伏した。これで三好家は畿内の所領を悉く失って、四国への逼塞を余儀なくされる。阿波は三好義賢の長男、三好長治が、讃岐は義賢の次男、十河存保が支配を受け継いでいたが、長治は強権を振るって領民や国人の支持を失い、天正5年(1577年)、長宗我部元親と結んだ、阿波守護、細川真之によって討たれた。兄の死を受けて、存保が阿波、讃岐の支配を継承したものの、その後、元親の侵攻を受けて勢力圏は縮小する一方となる。尚、同年10月には、三好家の旧臣、松永久秀が再度、信長に逆らって滅亡している。


天正8年(1580年)を迎える頃には、存保は阿波東部と讃岐東部を保つのみとなった。窮地に追い込まれた存保は、三好家の仇敵であるが、畿内を制した信長の力に頼る他、無かった。先に信長に降伏して、重用されていた三好康長が仲介したと思われる。しかし、信長は長宗我部征伐の暁には、自身の息子である信孝に讃岐を与え、康長に阿波を与える方針で、存保の処遇は不明であった。阿波を与えられる康長にしても、信孝を養子に迎えていたので、最終的には阿波、讃岐両国は織田家の所領となる。


天正10年(1582年)6月、信長は征討軍を編成して四国に送り込まんとしたが、その矢先の6月2日、本能寺の変にて倒れ、計画は立ち消えとなった。これを受けて元親の侵攻は激しさを増し、同年中に存保は阿波の大部分を失い、天正12年(1584年)には讃岐も失って、豊臣秀吉のもとへと逃れた。信長の勢力圏を受け継ぎ、天下人になりつつあった秀吉は、天正13年(1585年)6月、四国に征討軍を送って長宗我部元親を降伏に追い込んだ。秀吉軍に属していた存保は、讃岐に3万石の所領を与えられて、大名の座に返り咲く事が出来た。


しかし、天正14年(1586年)、存保の運命は再び暗転する。同年9月、秀吉が九州の島津征討を開始すると、存保は先遣隊として派遣されたが、同年12月、戸次川の合戦に敗れて、存保は討死してしまう。存保には幼年の嫡子がいたが、秀吉は所領相続を認めず、讃岐の領国は取り上げられてしまった。これで、大名としての三好氏は、完全に命脈を閉ざされる形となった。かつて畿内を制した覇者の哀れな末路であった。

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近江長浜城の歴史

2013.02.22 - 戦国史 其の三
天正元年(1573年)9月1日、織田信長は、近江北部の戦国大名、浅井長政を攻め滅ぼす。そして、信長は、この戦いで最も活躍した羽柴秀吉に対し、浅井の旧領12万石余を与えてその功に報いた。これで秀吉は晴れて大名身分となり、自他供に認める織田家の重鎮となった。そして、秀吉は浅井氏の本拠であった小谷城に入り、ここから北近江の統治を開始する。この小谷城は要害堅固な山城で、北国脇往還を扼する要地にあるが、その反面、居住は不便で、領内統治、城下の発展面でも不都合があった。そこで秀吉は、平地にあって発展の余地が大きく、琵琶湖の水運も活用できる、今浜の地に新城を築き始める。それに伴って、秀吉は信長から長の一文字を拝領し、今浜から長浜に改名する。これが湖北最大の都市、長浜の始まりである。


だが、秀吉の長浜築城は、信長の指示を受けての事だろう。何故なら、信長は後に自らの居城、安土城を中心として、近江北東に羽柴秀吉の長浜城、近江南西に明智光秀の坂本城、近江北西に織田信澄の大溝城を配する体制を取っているからだ。しかも長浜城、坂本城、大溝城は皆、琵琶湖に浮かぶ水城として作られている。安土城だけは平山城であるが、これも西の湖を通じて琵琶湖と繋がっていた。信長は湖上水運の要地に城を築かせて、その地を掌握すると共に、水運をもって相互支援する体制を取ろうとしたのだろう。それに、これらの城に配された部将は皆、信長も認める力量の持ち主で、その信頼も篤かった。長浜城は、信長の遠大な構想に則って、築城されたと考えられる。


長浜城の正確な築城年月日は不明であるが、天正2年(1574年)夏には建設は始まっており、その際、
浅井長政が竹生島に隠匿していた木材と小谷城の資材が転用されている。天正3年(1575年)秋頃には城は大方、完成した模様で、秀吉は小谷城から長浜城に移っている。完成なった長浜城は、湖水に浮かぶ白鳥の様な壮麗さであった。城の規模は南北に1.2キロメートル、東西に0.7キロメートルあったと推測され、琵琶湖の水を引き込んだ外堀と内堀を廻らせて、その中心に浮島の様な本丸があった。城全体に石垣が取り入れられ、天守閣も備わっていたと思われる。まさに新時代を感じさせる城であり、その出来には秀吉も大いに満足した事だろう。


そして、秀吉は各地を転戦しつつ、合間を縫って、統治の強化と長浜の発展に努めた。しかし、秀吉はその過程で、自らの与力で山本山城主の阿閉貞征が有する竹生島の権益を強圧的に取り上げて、阿閉氏から信長の側近に訴えられる事件も起こしている。この裁判の顛末は不明だが、遺恨を覚えた阿閉氏は秀吉の与力から外れ、信長の旗本に転じている。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が倒れると、果たして山本山城の阿閉貞征は明智光秀方となって、長浜城を襲った。この時、秀吉は中国戦線に在って不在であり、長浜城は無防備と言っても良い状態だった。阿閉氏の襲撃を受けて、秀吉の母なか、妻のおねは取るものも取りあえず、命からがら伊吹山中に逃れた。だが、秀吉は驚異的な中国大返しをもって光秀を討ち破り、上方を掌握すると、阿閉貞征を一族諸共、皆殺しとした。


同年7月26日、信長の跡継ぎと遺領配分を話し合うべく、織田家の宿老が集って清洲会議が開かれ、その結果、長浜城は柴田勝家に割譲される事となった。しかし、秀吉と勝家は対立を深め、その激突は必至となる。同年12月、勝家の本拠、越前が雪によって閉ざされると、秀吉は先手を打って長浜城を囲み、城主の柴田勝豊を降伏に追い込んだ。続いて、翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳にて秀吉と勝家が決戦した際には、長浜城は後方拠点として機能した。勝家を倒し、ほぼ天下を手中に収めた秀吉は大坂城を築き、そこを新たな本拠と定める。そして、長浜城には、天正13年(1585年)、秀吉の部将、山内一豊が近江長浜2万石の領主として入封する。しかし、天正18年(1590年)に一豊が遠江掛川5万1千石で転封されると、長浜城は次第に荒廃していったと云う。


秀吉が死去し、徳川家康の天下となった慶長11年(1606年)には、家康の異母弟、内藤信成が長浜城主として入り、それに伴って大修築が行われた。元和元年(1615年)、内藤氏が摂津高槻に転封されると、長浜城は廃城となり、その資材は彦根城の築城に転用された。この時に長浜城は跡形も無くなり、残された僅かな痕跡も近代の開発によって埋もれていった。だが、昭和58年(1983年)、秀吉の長浜城を再現したいとの地元市民の要望を受けて、城跡に鉄筋コンクリート製の天守閣が再建された。その近代的な建物は、長浜城歴史博物館として使われている。秀吉時代の長浜城は忘却の彼方に消え去ったが、ここには確かに壮麗な水城があった。それは秀吉初の居城であり、立身出世の一つの到達点であった。しかし、秀吉はそれだけで満足せず、眼下に広がる琵琶湖を眺めつつ、更なる大望を抱いた事だろう。

宇佐山城の攻防

2013.01.09 - 戦国史 其の三

永禄11年(1568年)9月、尾張、美濃を領有する有力戦国大名に成長していた織田信長は、更なる飛躍を目指して、足利義昭を奉じて上洛戦を開始した。そして、見事、義昭を将軍の座に据える事に成功し、当時の日本の中心たる畿内も抑えた信長は、誰もが瞠目する一大権力者となった。しかし、その支配はまだ完全ではなく、信長の台頭を快く思わない勢力も内外に多数、存在していた。その中でも、信長に非協力的で、京にも程近い越前の大勢力、朝倉義景の存在は不気味であった。そこで、信長は義景打倒を念頭に置きつつ、朝倉軍の京都進出にも備えて、近江南部の志賀の地に築城する事を決定した。


これが宇佐山城の始まりであるが、朝倉軍の南下阻止だけでなく、近隣の大寺社勢力、比叡山延暦寺を押さえ込む目的もあった。 正確な築城年月日は不明であるが、多聞院日記(奈良興福寺の僧侶の日記)の元亀元年(1570年)3月20日の記事によれば、信長の部将、森可成が新城を築いて、その麓に道を通す工事をしているとあるので、道路はともかく城自体はこの時点で完成していた模様である。宇佐山城は険阻な山上にあって規模こそ小さいが、いち早く石垣を取り入れており、土塁だけのこれまでの山城よりも堅固な構えとなった。


そして、信長はその完成を待っていたかの如く、元亀元年(1570年)4月25日、大軍をもって朝倉討伐に乗り出した。信長軍は越前国境を打ち破り、義景を追い詰めたが、土壇場になって、同盟者と見なしていた浅井長政に裏切られ、信長は命からがら京に舞い戻る羽目となった。 復仇を誓った信長は、同年6月28日、姉川にて朝倉、浅井軍を打ち破ったが、決定的な打撃には至らず、その後も朝倉、浅井軍は信長を脅かす程の戦力を有していた。しかし、信長の敵は朝倉、浅井だけでは無かった。同年8月20日、四国と畿内に勢力を有する三好氏が、摂津の野田、福島に拠って挙兵した為、信長は軍を率いて摂津へと向かわねばならなかった。


同年9月14日、信長は優勢に戦いを進めていたものの、今度は一大寺社勢力、石山本願寺が反信長を掲げて挙兵したため、信長は大苦戦に陥った。こうして信長が摂津戦線に釘付けになっていた頃、間髪おかずに朝倉、浅井軍も南下を開始した。これら一連の反信長攻勢は、事前に申し合わせての事であろう。信長は桶狭間の様な、あるいはそれ以上の危機に陥った。 朝倉、浅井軍3万余は京を制圧し、信長の背後を襲わんとして、湖西を南下して行く。現時点でそれを阻止し得るのは、宇佐山城とその城将、森可成率いる3千人余の将兵のみであった。


同年9月16日、朝倉軍の先鋒が坂本口に迫ると、可成は城から打って出て、なんとしても南下を阻止せんとした。そして、森勢は坂本の町外れで朝倉軍を迎撃して、少々の首を取って勝利を収めた。しかし、これは前哨戦であり、9月19日、朝倉軍が陣容を整えて攻勢を開始すると、森勢はたちまち苦戦に陥った。それでも森勢は坂本の町を通らせまいと防戦に努めたが、ついに木戸を破られ、町中への侵入を許した。森勢は重囲に落ちたが、主将の森可成、信長の弟、織田信治を始めとする将兵達は最後まで抵抗の構えを崩さず、奮戦の末に討死していった。


この後、朝倉、浅井軍は余勢を駆って宇佐山城へと攻めかかり、主将を失った城の運命は風前の灯と思われたが、残置していた可成の家臣達がここで殊勲の奮闘を見せ、なんとか城を守り抜く事に成功した。しかし、宇佐山城の戦力が大きく減少した事も確かであり、大軍相手に長く持ち堪える見込みは立たなかった。翌9月20日、朝倉、浅井軍は一軍を割いて大津付近を放火せしめ、更に翌9月21日には醍醐、山科まで焼き払わせた。朝倉、浅井軍としてはこのまま全軍をもって京を制圧し、信長の背後を襲いたいところであったが、その為には宇佐山城を落として、背後の安全を確保しておく必要があった。それゆえ、朝倉、浅井軍は日を通して宇佐山城に猛攻を加えるのだった。


宇佐山城は主将を失いながらもしぶとく持ちこたえていたが、援軍が来なければ、落城は時間の問題であった。摂津中島の陣所にあった信長が、朝倉、浅井軍が京に迫りつつあるとの凶報を聞きつけたのは9月22日の事であった。もし、朝倉、浅井軍がこのまま京の制圧に成功すれば、信長の権威が失墜するどころか、摂津の三好軍や、本願寺軍の挟撃を受けて滅亡しかねない。最早、一刻の猶予もならなかった。信長は即座に京へ取って返す事を決断し、翌9月23日、柴田勝家や和田維政らを殿軍として摂津に残すと、強攻軍でその日の夜の内に京へと入ったのだった。


9月24日、信長本隊が京に入ったと知ると、朝倉、浅井軍は宇佐山城の囲みを解き、比叡山へと退いていった。この後、両軍は比叡山を挟んでの対峙状態となり、信長にとってまだまだ余談の許さない状況が続くが、少なくとも京が制圧されると云う最悪の事態だけは避けられた。 信長の機敏な行動と、前もって宇佐山城を築いておいた先見の明、それに宇佐山城の将兵達の奮戦もあって、被害は最小限に抑えられたと言って良いだろう。それから約3ヶ月後の、12月14日、比叡山を挟んだ両軍の対峙は、和議によってようやく解消され、信長、朝倉義景、浅井長政らはそれぞれの本拠へと引き返していった。


両陣営ともよく粘ったが、さすがに行動の限界がきており、ここらで手を打ったと言うところだろう。だが、信長や義景にしても、これが一時の和議である事は理解しており、事実、年が明けて両者は再び干戈を交える事となる。翌元亀2年(1571年)9月12日、宇佐山城は再び、歴史の表舞台に立つ事となった。宇佐山城の眼前に広がる大寺院、比叡山延暦寺を焼き討ちする為の拠点となったのである。延暦寺は前年、朝倉、浅井軍に味方して陣所を提供した事から、信長の激しい怒りを買っていた。 そして、織田軍は手当たり次第に火を放ち、逃げ惑う人々を殺戮していった。


信長は宇佐山城から指揮を執り、眼前に広がる阿鼻叫喚を眺めていたと思われる。比叡山から上がった炎は、京都からも望見できたと云う。この焼き討ちにおいて最も功を上げたのが、明智光秀であった。光秀は事前に地侍を懐柔するなど、周到な計画を練っていた。信長もその功を評価して、比叡山を含む志賀郡の統治を光秀に委ねている。それから程なくして光秀は坂本城の築城を開始し、ここを統治の拠点と定めた。これを受けて宇佐山城は廃城になったと思われ、歴史の表舞台から去っていった。現在、宇佐山城の跡にはアンテナ塔が建てられており、往時の姿を思い起こす事は難しい。だが、この宇佐山城が、信長の最大の危機を支え、その歴史の焦点となった事には変わりはない。




岐阜城の歴史

2012.08.29 - 戦国史 其の三
岐阜城は戦国史上において、最も名高い山城の一つである。建仁元年(1201年)、鎌倉幕府の政所執事であった、二階堂行政が砦を築いたのがその始まりとされる。岐阜城は、低いながらも険しい金華山の山頂にあって、山麓には長良川が流れる天然の要害である。それを麓から眺めたなら、平野にそそり立つ難攻不落の城に映った。しかし、山上の地積が狭いのと、ここを普段の住居とするには険しすぎるのが欠点であった。室町時代には美濃守護、土岐氏の最有力家臣で美濃守護代を務めた、斉藤氏の居城となり、天文2年(1533年)には、下克上の道を駆け上りつつあった斉藤道三(この頃の名は長井新九朗規秀)が城主となった。道三の時代、岐阜城は稲葉山城の名で呼ばれており、道三はここを拠点に美濃第一の実力者となりつつあった。だが、織田信長の父で尾張の実力者である、織田信禿が美濃攻略に乗り出すと、一時、支城の大垣城を奪われるなど苦戦に陥った。


天文13年(1544年)9月22日には織田信秀軍に稲葉山城下まで攻め入られるも、道三は夕刻を迎えて引き揚げる織田軍の一瞬の隙を突いて逆襲を加え、1千人余を討ち取る大勝利を収めた(加奈口の戦い)。この戦いで戦死した織田将兵を弔うために建てられた塚は織田塚と呼ばれ、現在でも金華山の麓に存在している。天文20年(1551年)頃、道三は、美濃守護で主筋に当たる土岐頼芸を放逐して美濃国主となり、下克上を極めた。そして、天文23年(1554年)、子息の義龍に家督と稲葉山城を譲って、自身は近隣の鷺山(さぎやま)城に隠居したとされる。しかし、道三と義龍の仲は次第に険悪なものとなり、弘治2年(1556年)4月18日には両者は軍勢を催して、長良川を挟んで対峙する事態となった。人数は道三軍が3千人未満であったのに対し、義龍軍は1万人以上であったと云う。4月20日には合戦となったが、衆寡敵せず、道三は鼻を削がれたうえで、首を上げられた。道三の娘婿となっていた織田信長は、援軍を率いて美濃に向かっていたが、道三討死の報を聞いて空しく引き揚げていった。


血塗られた道を経て美濃の支配者となった義龍はなかなかの実力者で、度々の信長の侵攻を撃退して国内に踏み込ませなかったが、永禄4年(1561年)、35歳の若さで急死した。義龍の跡を継いだ龍興はまだ14歳の若年であり、信長はそれを当て込んで度々、美濃に攻め入った。それでも美濃勢は当初は若い当主を支えて、信長の侵攻を食い止めんとした。しかし、信長の圧力は強まる一方であるのに対し、今だ年少の龍興に指導力は期待出来ず、次第に美濃勢の結束は揺らいでいった。そして、永禄7年(1564年)には、家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就が背いて、稲葉山城を急襲、占拠する事件が起こった。城はすぐに返還されたものの、この事件は斉藤龍興の権威を失墜させ、信長の侵攻を加速させる契機となった。永禄10年(1567年)9月頃、ついに稲葉山城は落ちて、龍興は長良川を下って伊勢長島へと逃れた。この落城の際、火災が生じたらしく、麓にはその時のものと思われる焼土層が残っている。信長はこれにて念願の美濃攻略を果たし、100万石級の大大名となって、一躍、天下人への道が開かれた。


信長は稲葉山城を新たな本拠に定めると、その麓に4階の豪勢な居館を築いてそこを平時の住まいとした。そして、信長は、稲葉山城とその城下の井ノ口を岐阜と改名し、ここから天下布武の大号令を下したのだった。永禄12年(1569年)に岐阜城の信長の下を訪れたルイス・フロイスによれば、その居館は驚くほど壮麗で、欧州でもこれに比肩するものは無かったと云う。居館の外には4つから5つの庭園があり、形の良い石や白砂が撒かれて池には美しい魚が泳いでいた。1階には20余の部屋があって、それぞれに絵画と塗金が施された屏風が飾られてあった。2階は更に美麗な装飾が施された婦人部屋があり、その前の廊下は中国製の金襴(きんらん)の幕で覆われていた。3階は一転、静寂優雅な佇まいで、ここには茶室が設けられていた。4階からの展望は素晴らしく、美しい庭園や、岐阜の町並みを一望する事が出来た。信長の独創的な発想は岐阜居館の作りにも存分に反映され、それは後に幻の名城、安土城へと繋がってゆく。だが、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前に控えた信長は、突如として本能寺に消えた。


その衝撃は美濃にも波及して、織田信忠の家臣の斉藤利堯なる者が岐阜城を乗っ取る事件も起こった。斉藤利堯はしばらく岐阜城から天下の動静を覗っていたが、羽柴秀吉が明智光秀を破って上方を掌握すると、岐阜城を明け渡した。この後、岐阜城は信長の三男信孝の居城となるが、信孝は秀吉との対立を深めてゆき、天正10年(1582年)12月には秀吉の大軍に攻められた。信孝は一旦、人質を差し出して降伏するが、翌天正11年(1583年)3月、柴田勝家が越前から出陣すると、再び挙兵して岐阜城に立て篭もった。しかし、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで滅亡すると岐阜城は孤立無援となり、信孝は再び秀吉に降伏して、城を明け渡した。だが、信孝は許されずに切腹となり、岐阜城には池田恒興の嫡男、元助が入った。天正12年(1584年)4月、小牧、長久手の戦いで池田恒興、元助父子が討死すると、次男の輝政が岐阜城主となった。天正19年(1591年)4月、池田輝政は三河に転封され、代わって秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となった。


文禄元年(1592年)9月、秀勝が病没すると、信長の孫に当たる織田秀信が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀信は西軍側で参戦し、西上する東軍を岐阜城で迎え撃たんとした。そして、同年8月22日、秀信軍6千人余は岐阜城から出撃して木曽川の線で東軍1万8千余を撃退せんとした。だが、兵力不足から強攻渡河を許し、そのまま数に勝る東軍に押し切られて岐阜城へと退いた。8月23日、勢いに乗った東軍は金華山を駆け上がり、岐阜城を激しく攻め立てた。岐阜城の見た目は堅固そのものであるが、山上部の地積が狭い事から、ここまで攻め入られれば、長くは持ち堪えられなかった。それでも秀信軍は激しく抵抗し、上格子門や二の丸門を巡る戦闘では双方多数の死傷者を出したと云う。だが、岐阜城の抵抗もここまでで、秀信軍は千人余が討ち取られ、同23日に秀信は降伏した。壮麗を極めた信長居館も、この時の戦災で焼失したのであろう。


戦後、秀信は高野山に追放され、代わって岐阜の地には徳川家康の家臣、奥平信昌が入った。だが、家康は岐阜城の廃城を決定し、信昌に加納城を築かせて、そこを統治の拠点とさせたので、岐阜城を巡る激動の歴史はここに終わった。それから4百年近い時を経た、昭和31年(1956年)、岐阜城跡に、鉄筋コンクリート製の3層4階建ての天守閣が復元された。決して風情を感じる建物ではないが、そこからの眺望だけは素晴らしいものがある。それはかつて、斉藤道三や、織田信長が大望を抱きながら眺めた光景と一緒である。また、金華山の麓にあるロープウェー駅のすぐ側には、壮麗を極めたと云う信長の居館跡が存在する。安土城の前身とも言えるこの居館跡を発掘調査した結果、かつては居館を中心に広大な庭園が巡らされていたようだ。現在は山の一角と化し、訪れる人も少ないが、ここには確かに信長の息吹が残っている。

伏見城の攻防 鳥居元忠、覚悟の徹底抗戦

2012.07.01 - 戦国史 其の三
慶長3年(1598年)8月18日、天下人、豊臣秀吉が京都伏見城にて死去する。巨大な柱を失って、天下はにわかに揺れ始めた。豊臣政権は文治派と武断派に分かれて、深刻な対立状態に陥ったのである。その中で、諸大名中、最大の勢力を誇る徳川家康はこの対立を巧みに取り仕切って、急速に存在感を増しつつあった。専権を強めた家康は、慶長4年(1599年)10月、加賀の前田家を脅して屈服させ、翌慶長5年(1600年)5月には会津の上杉家を討伐すると宣言した。


その手法は強引そのものであったが、天下に家康に比肩するほどの実力と声望のある人物は存在せず、よって、多くの大名は黙ってその指示を受け入れた。しかし、反家康の機運も、急速に高まりつつあった。その中心となったのが、豊臣政権の重鎮であった石田三成である。三成は秀吉の懐刀として権勢を振るっていたが、その死後は、政権から追われた上、家康によって近江佐和山に蟄居させられていた。だが、三成はその屈辱をばねに、密かにかつ大々的な家康打倒の策略を練っていた。 家康もその内、三成が事を起こすだろうと見越していたが、よもや20万石程度の者が、天下を二分するほどの勢力を築くとまでは予想出来なかった。
 
 
慶長5年(1600年)6月16日、畿内に不穏な空気が漂い始める中、家康は会津征伐に向けて大坂城を発ち、その途上、伏見城に入った。家康は、この伏見城を畿内への抑えとして位置付け、信の置ける然るべき者に城を任せて、事態に対処せんとした。そして、譜代家臣である下総矢作(やはぎ)4万石の鳥居元忠を筆頭に、上総佐貫2万石の内藤家長、元長父子、武蔵忍1万石の松平家忠、上野三之倉5千石の松平近正ら四将を込めて、留守を委ねた。享保12年(1727年)成立の「落穂集」には、家康の伏見滞在中の逸話が載せられている。それによると、家康は上方に事変が生じる事を予期して、元忠に「天守閣の蔵には金銀の塊が納められている。変事が起きて弾丸が欠乏したら、これを鋳って補充せよ。また上方の情勢を報告する事を怠ってはならぬ」と言い含めた。翌6月17日の夜、元忠も考えるところがあって家康のもとを訪れる。
 
 
家康、「此度の城の留守役は、人数が少なくて余計に苦労をかけるのう」 
 
元忠、「恐れながら、私はそうは思いません。此度の会津への出陣は大事ですから、一人でも多くお連れになる方が良いと存じます。城将の家長や家忠もお連れになってください。当城の方は私が本丸を預かり、近正が外曲輪を守れば十分であります」 
 
家康、「事態がどの様に変わるかは分からず、城将は4人でも少ないと思うておるのに、それでも連れて行けというのは何ゆえか」 
 
元忠、「此度のお留守を預かるにつきまして、何事も起こらなければ、私と近正の2人で十分に足ります。それに、会津に向かわれた後、変事が起こり、敵が当城を囲みましたなら、近国からも敵兵が押し寄せて来ましょう。とても、我が方への援軍は得られますまい。そうなれば、今の人数の5倍、7倍という人数を残して置かれたとて、守り抜く事は出来ないでしょう。ですから、必要なだけの人数を当城に留め置かれようとのお考えは、無駄な様に思えるのです」 
 
 
この逸話が真実ならば、元忠自身は主君のために捨て石となる覚悟であるが、犠牲となる者は最小限に止めたいと考え、こう提案したのだろう。家康もその覚悟の程は察したが、あえて返答はせず、若かりし頃、共に苦労を重ねた思い出を語り合った。2人の主従関係は50年近い。話は尽きる事なく、やがて夜も更けてくると、元忠は、「明日は、さだめし早くお発ちになられましょう。短夜でもございますゆえ、早くお休みなされますよう」と暇乞いをした。そして、「先ほど申し上げました通り、お留守中、何事もありませんでしたら、また御目見え致します。しかし、万一の事が起こりましたなら、これが今生の御暇乞いでござります」と言って退出しようとした。しかし、元忠には足に古傷があった上、長らく座り込んでいたので、なかなか立ち上がる事が出来なかった。それを見かねた家康は、小姓に、「彦右衛門の手を引いてやれ」と命じた。小姓に支えられて退出していく元忠の後ろ姿を見送りながら、家康はしきりに袖で涙を拭っていたと云う。 
 
 
翌6月18日、家康は伏見を発って、東征に向かった。元忠はそれを見送った後、畿内の情勢を睨みつつ、篭城準備に入った。7月初旬、島津義弘率いる1千人余の兵が伏見城にやってきて入城を要請したが、元忠はこれを疑って入城を拒否した。その為、島津義弘は西軍に走って、伏見城攻めに加わる事となる。7月17日、三成の主導によって西国の諸大名が糾合され、毛利輝元を総大将とする西軍が結成された。その規模は、おそらく家康の予想をも超えていただろう。最早、上方に兵乱が生じるのは確実な情勢となり、伏見城はその最前線に立つ事となった。だが、元忠は既にこの事あるを予期して篭城準備を進めており、動揺は無かった。7月18日、毛利輝元の命を受けた使者が伏見城を訪れ、城を明け渡す様、求めてきた。元忠は諸将と相談した上でこれを拒否するが、城将の1人であった木下勝俊は城から退去してしまう。西軍方の増田長盛は、家康と親しかったので、別に使者を送って元忠の説得に当たったが、元忠は、「私は徳川家のためにこの城を守っているのだ。どうして他家の言を聞く事ができようか。二度ここへ来るなら斬って捨てるぞ」と峻拒した。そして、家康との約定通り、急使を関東に送った。 
 
 
「鳥居家中興譜」による元忠の報告文、「今度の会津征伐の隙を狙って、大坂方が蜂起しました。毛利輝元の命として伏見城を明け渡せと再三言ってきましたが、既に大軍を催して今にも当城に攻め寄せて来る気配です。先日、御前で申し上げました通り、私は命のある限り戦い防ぎ、守りきれなければ城を焼き払って討死する覚悟です。篭城の諸士も全員、その覚悟で守りましょう。いやしくも、私が守城の命を受けました事、肝に銘じるところです、全知全能を尽くして一日一刻でも長く逆徒共を食い止め、東国へ攻め下るのを引き伸ばす所存です。至急、御出立される事こそ、最も肝要と存じます。元忠の一生涯は、この戦いで終わりましょう。どのような大敵が来ようとも、恐れるものではありません」  
 
 
7月18日、徳川家臣、佐野綱正がやってきて、伏見篭城に加わった。綱正は大坂城西の丸の留守を預かっていたが、西軍挙兵を受けて窮地に陥り、西の丸明け渡しを条件に、家康側室の阿茶局、お勝の方、お万の方を連れ出す事を許可された。そして、大坂城を退去して淀まで避難すると、そこで知人に側室達を預け、自らは兵500を率いて伏見城へやってきたのだった。綱正からの報告を受けて、元忠は至急、諸将と篭城の算段を練る。そして、7月19日早朝、元忠は自ら城外を巡検して、防御上支障のある人家を焼き、諸将の配置を定めた。 
 
本丸・鳥居元忠 
 
西の丸・内藤家長、元長父子、佐野綱正 
 
三の丸・松平家忠、松平近正 
 
治部少輔丸・駒井直方 
 
名古屋丸・甲賀作左衛門、岩間光春 
 
松の丸・深尾清十郎 
 
太鼓丸・上林政重 
 
 
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↑伏見城の縄張り図 (ウィキペディアより)
 
 
伏見篭城の人数は、総勢1800人余であった。 
 
元忠は将士を集めて、こう告げた。 
 
「私は使者を関東に出して、城をあくまで守り抜くと報告した。もし命が惜しいという者があれば、敵がこの城を取り囲む前に出て行くが良い。この城には僅か千人余の兵しかおらず、四方からの援軍も期待出来ない孤城である。これで、数倍の優勢な敵と戦うのだ。願わくば君恩に報いるため、志ある者は戦場に屍(しかばね)を晒し、天下の武士の鑑となるよう。それが武士としての本懐である」 
 
そして、元忠を始め、覚悟を定めた将士達は盛大な宴を開き、決別の杯を交わしたと云う。 
 
 
7月19日の薄暮、西軍の諸隊が次々にやってきて、伏見城に対する銃撃を開始する。城兵もこれに応戦したので、銃声が夜通し響き渡った。翌20日、21日も銃撃戦が交わされ、それに合わせて西軍は城際ににじり寄らんとした。22日、宇喜多秀家、小早川秀秋、鍋島勝茂の兵が加わって、銃撃戦は一段と激しくなった。23日、24日も変わらず銃撃戦は引き続いたが、城方の応戦は衰えず、城内に付け入る隙は無かった。25日、宇喜多秀家が伏見に着陣すると西軍諸将は軍義を開き、改めて部署を定めた。伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家で、副将は小早川秀秋、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂なども参加する総勢4万人余の大軍であった。これを城方から眺めると、西軍の人馬や旗がひしめき合って、麓を埋め尽くしている様に映った。だが、元忠はそれを横目に、悠々碁盤を囲んで談笑していたと云う。西軍の陣容は整い、いよいよ本格的な攻城が開始される。この日を境に伏見城に対する銃撃は一層、激しくなり、それに合わせて西軍は竹束を連ねてじりじりと濠際ににじり寄った。 
 
 
26日、西軍の毛利秀元、吉川広家らは伏見の持ち場を離れて、瀬田に転進する。27日、28日も終日銃撃戦が続き、翌29日には西軍の指導者たる石田三成自らが督戦にやって来て、諸将の奮起を促した。その頃、関東の下野小山にいた家康は、会津攻めの陣を引き払って西上せんと動き出していた。三成としては、これ以上、伏見城に手こずらされれば、家康迎撃の算段が狂ってくる。その為、何としても早期落城にもっていく必要があった。30日、三成の激を受け、西軍諸軍も力闘して四度の大攻勢を加えたが、城方は壕際を縦横に駆け巡って迎撃に努め、城内への侵入を決して許さなかった。この日、西軍は500人余が死傷し、城方も50人余が死傷したと云われている。西軍4万人余の総攻撃でも、城内への突入は敵わなかったのである。西軍は数日で伏見城を落とす算段を立てていたが、既に攻防10日を過ぎていた。西軍首脳の間には焦りが募り、ここで非情な謀略を用いる事にした。すなわち、松の丸を守備する甲賀の郷士に対して、内応せねば郷里の家族を殺害すると脅迫して、曲輪に火を放つよう迫ったのである。 
 
 
8月1日午前0時頃、内応に応じた甲賀者の手によって、松の丸にて火の手が上がり、その火勢は強まって名古屋丸にも燃え移った。これを見た西軍は大いに意気が上がり、喊声を上げて一斉に北門に攻めかかってきた。城方も槍衾を布いて必死にこれを防がんとしたが、城門にも火がかけられ、次々に攻め寄せてくる西軍に押し切られて、ついに突入を許してしまう。その勢いは止められず、松の丸と名古屋丸が制圧され、城の中枢部にまで食い込まれた。伏見城は王手をかけられた形となり、最早、篭城の見込みは無くなった。この情勢を見て小早川秀秋は休戦を命じ、使者を城内に送って開城を促した。元忠も代理を送ってこれと会見させたが、条件はまとまらなかった。元忠は、これも時間稼ぎの一つとしたのかもしれない。交渉は決裂して、西軍の攻撃は再開される。同日午前3時、治部少輔丸に西軍が侵入して来ると、松平家忠は自ら槍を振るって群がり寄る敵兵と渡り合ったが、やがて傷付き、一旦撃退した後、自刃して果てた。松平近正もこの時、戦死したと見られ、従っていた兵800人余も悉く討死して、治部少輔丸は落ちた。 
 
 
天守閣にも火がかけられ、落城は目の前に迫った。元忠の家来は主に自害を勧めたが、元忠はこれを拒否して、あくまで戦い抜く決意を示した。 
 
「この戦いでは、既に死は覚悟の上である。それでも防戦に努めるのは、なにも名誉の為だけでは無い。一刻でも長く、関東へ災禍が及ぶのを遅らせんとの願いからだ。だから足軽の手にかかって死ぬ事も苦では無い。わしの足は元亀3年の三方原の戦いで傷付き、歩くには不便だが、今日の西軍をなんで恐れようか」 
 
元忠は更に、「味方の戦死を顧みるな。敵兵ならば貴賎を問うてはならぬ。出会った者は殺すだけだ。将と見れば刺し違えてでも殺せ」と命じ、生き残りの数百人の兵を率いて本丸門から打って出た。そして、死兵と化した城兵は西軍と斬り結んでは押し返し、多数を殺傷した。西軍も決死の敵と斬り結んでは犠牲が増えるばかりと見て、城兵が突出する度に横合いから攻撃を加えて徐々に討ち減らしていった。既に外郭は全て破られ、残るは内藤家長の篭もる西の丸と、元忠が篭もる本丸のみとなる。 
 
 
内藤家長も西の丸で奮闘を続けていたが、やがてここも追い詰められる。家長は、部将の安藤定次に自害するまでの時間稼ぎを頼むと、鐘楼に登って薪を積み、家来の原田某に、「お前は囲みを抜けて関東へ行き、落城の模様を家康公、秀忠様、それに我が長子の政長に報告してほしい」と言い付けると、自害して果てた。原田某はその命に従い、鐘楼に火を放ってから、城から脱出した。16歳になる元長は父の側で死なんと駆け付けたが、既に火勢が強くて近づけなかった。そこで、腹を切った上、火中に身を投じて思いを遂げた。内藤家の部将、安藤定次も討死し、西の丸の守将の1人、佐野綱正も乱戦の中で命を失った。この他、駒井直方は敵に紛れて去り、深尾清十郎は捕らえられて斬られた。上林政重や岩間光春も戦死して、甲賀作左衛門は生死不明となった。 
 
 
元忠は本丸手前で尚も西軍と渡り合っていたが、多数の傷を負い、残す兵も僅か10人余となっていた。辺りは火災と硝煙の煙が立ち込めて夕闇の様に薄暗く、その下には敵味方の死体が累々と横たわっていた。元忠は1人、火炎渦巻く本丸内へと入って行き、傷付き疲れ果てた身を石段に寄りかけて休めた。そこへ、西軍方の将、雑賀重次がその姿を認めて近寄って来た。元忠もそれを認めると、「我こそが伏見城の主将、鳥居元忠である」と名乗り、おもむろに薙刀を取って立ち上がった。すると、重次は跪いて、「火は既に全城に及び、大事は終わりました。どうかお静かに自害なされますよう。私は謹んで貴方の首級を賜り、後世の誉れと致します」と言った。元忠も最早、十分役目は果たしたと思い直したのか、これを受け入れ、兜を脱いで静かに腹を切った。そして、重次はうやうやしくその首級を受け取った。8月1日、午後15時頃の事であった。鳥居元忠、享年62。主命を帯びた僅かな脱出者を除いて、城兵1,800人余は悉く討死した。攻めての西軍も、3千人以上の死傷者を出したと云われる激闘であった。 
 
 
この後、伏見城の主将達、鳥居元忠、松平近正、松平家忠の首は大坂に送られて、京橋口にて晒された。だが、西軍方もその烈々たる忠誠心は認めて、敬意を込めてその首を公卿台に載せたと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利を収め、晴れて天下人となった。そして、戦後、鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら伏見篭城四将を評して、その子息達に加増して功に報いた。元忠の子、忠政は下総矢作4万石から陸奥磐城(むついわき)10万石に加増転封し、更に元和8年(1622年)には出羽山形22万石に加増転封した。内藤家長の長子、政長は上総佐貫2万石に1万石が加増され、元和8年(1622年)には、陸奥磐城平7万石に加増転封された。松平家忠の嫡男、忠利は武蔵忍1万石から、念願であった三河深溝1万石に旧領復帰し、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増転封された。松平近正の嫡男、一生は上野三之倉5千石に5千石を加増され、大名身分となった。元和7年(1621年)、一生の子、成重の代の時には、更に丹波亀山2万2千石に加増転封される。 
 
 
しかし、大坂城西の丸で家康側室の護衛役を担っていた佐野綱正は、その任を全うせずに伏見に篭城したので、家康は、「肥後守綱正を死なせたのは惜しいが、あれは本当の道を知らなんだ。主命を重んじてどこまでも預かった者供を守り、その時に応じて苦心すべきであったのだ。それなのに、預かった者を人手に渡して、自分は伏見で討死するとは、忠義の道が違う」と言ったそうである。佐野綱正は近江と上総に3千石の禄高を与えられていたが、その嫡男でまだ幼少の吉綱には近江国野洲の800石のみとされ、小姓として取り立てられた。同じ、枕を並べて討死した将士であっても、評価の明暗は分かれたのである。それと、西軍に囲まれる前に伏見城から退去した木下勝俊は、若狭小浜6万2千石を没収された。また、伏見城で内通した者18人は、関ヶ原戦後の10月1日に京都栗田口にて磔に処された。 
 
 
これまで挙げてきた伏見城を巡る元忠らの会話や、やり取りが実際にあったのかどうかは確証しかねるし、多分に講談が含まれているだろう。だが、鳥居元忠らの忠節と奮闘は本物であったに違いない。もし、伏見城が数日で落ちていれば、西軍は勢力圏を更に広めて、史実以上に家康を苦戦させていただろう。そうなれば、歴史の流れすら変わっていたかもしれない。元忠らは見事な働きをもって時間を稼ぎ、西軍の展開を妨げたのだった。この伏見篭城は、老境にあった元忠にとって、武士の死に花を咲かせる晴れの舞台でもあった。そして、三河武士の鑑と讃えられて、歴史に美名を刻む事になる。だが、無骨な忠魂の士、元忠にとって、何よりの願いは、己の生涯を捧げて仕えてきた主君、家康の勝利であったろう。それを、草葉の陰から見届けた時、元忠の魂は微笑みながら天に昇っていったであろう。 


Torii_Mototada.jpg













↑鳥居元忠(1539~1600) ウィキペディアより

 
主要参考文献 「旧参謀本部編纂 関ヶ原の役」


 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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