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里見家の興亡 後

2012.06.09 - 戦国史 其の三
永禄11年(1568年)末、関東情勢は激変して、里見家にとって非常に好都合な展開となる。武田信玄の駿河侵攻を契機に三国同盟が解消され、北条家と武田家が交戦状態になったのである。これによって北条家の主力は駿河方面に釘付けとなり、房総半島には手出し不能となった。義堯はこれを絶好の機会と捉えて、攻勢を強める。それとは反対に北条氏康は、上杉家や里見家に背後を脅かされて窮地に陥り、両家との和睦を心から望んだ。そして、永禄12年(1569年)1月、義堯の元に、氏康からの懇願に近い和平提案書が送られてきたが、義堯は頑としてこれを受け付けなかった。そして、同年2月には義弘率いる里見軍が下総に侵攻して、北条方の諸城を攻め始め、更に水軍をもって三浦半島も襲撃させた模様である。 
 
 
しかし、同年3月、反北条の盟主と見なされていた上杉謙信は、里見家を始めとする関東諸将からの猛反対を受けながらも、北条家と盟約を結んでしまう。これに憤慨した里見父子は、同年8月頃、甲斐の武田信玄と盟約を結んで、北条打倒を約し合った。だが、関東の情勢は目まぐるしく変転する。元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が死去し、氏政が当主となると上杉家との同盟は破棄され、翌元亀3年(1572年)1月に武田家と同盟を結び直したのだった。そして、同年2月、氏政は、信玄を通して里見家に和平を提案してきたが、義堯はあくまでこれを受け付けなかった。 
 
 
この元亀3年には、下総の半分は里見家の勢力範囲になっていたようだ。太閤検地によれば下総は37万石であり、この内の18万石が里見領国と言う事になる。それに上総38万石に安房4万5千石を加えると、里見家の版図は60万石にもなる。10万石に付き2500人の動員力が得られたと計算すると、里見家は1万5千人の動員力を有する、戦国有数の大大名に成長していた事になる。対する北条家は武蔵67万石、相模19万石、伊豆7万石の93万石に加えて、関東各地を切り取っていたので優に120万石はあって、3万人の動員力はあっただろう。まだまだ両家の力の差は大きかったが、里見家は今までこの大敵と戦って版図を拡大してきたのである。義堯の北条打倒の信念は、決して揺るがなかった。
 

天正元年(1573年)4月、武田信玄が死去すると、里見家と武田家の同盟は自然消滅となり、それから程なくして上杉謙信と里見家の同盟が復活した模様である。これで謙信と義堯は友誼を取り戻し、再び協力して北条家に当たる事となった。その北条家は天正年間から、下総の簗田晴助が守る関宿城攻略に全力を注ぎ始める。この関宿城は関東地方の中心に近く、しかも利根川水系の水運を一手に押さえる事も可能な戦略拠点だった。この城の存在が、北条家の膨張を抑える防波堤の様な役割を果たしていた。それが分かっている上杉謙信と反北条の関東諸将は、関宿城救援に力を注ぐのだが、北条氏政もまた一族の総力を上げて、攻略に執念を燃やすのだった。天正2年(1574年)6月、関宿城を巡る攻防が続く中、里見義堯は68歳でこの世を去った。国中の人々がその死を悲しみ、宿敵の北条方ですら、その人となりを讃えたと云う。


同年11月、関宿城は落城し、北条家を抑え込む堤防は決壊した。その怒涛は房総半島にも流れ込み、天正3年(1575年)8月、北条軍は陸上、海上の二方面から下総に攻め入って、力押しで里見軍を圧倒し始めた。義堯の跡を継いだ義弘も必死に防戦したものの、やはり、一対一の総力戦となれば戦力に劣る里見側が不利であった。天正4年(1576年)冬には、戦場は上総に移り、じわじわと里見家は追い詰められていった。この退勢を挽回するには、強力な外部勢力の助けが必要であった。そこで義弘は、天正5年(1577年)1月2月の2度に渡って上杉謙信に救援を求める書状を送った。しかし、この頃の謙信は北陸攻略に全力を投入していたので、関東を顧みる余裕は無かった。 
 
 
同年11月、孤立無援の義弘は、義堯以来の北条打倒の方針を改めざるを得なくなり、ついに氏政に和議を請うた。義弘は意地よりも、自家存続を優先したのだった。そして、氏政の娘が、義弘の弟、義頼に嫁ぐ形で講和は成立し、両家の数十年に渡る抗争はここに終結した。天正6年(1578年)3月13日、関東に大きな影響を及ぼしてきた上杉謙信が死去した事で、北条家の優勢がほぼ確立される。それから2ヵ月後の同年5月20日には、里見義弘も54歳でこの世を去った。義弘の代になって北条家に屈する形となったが、それでもこの義弘の存在無くして、里見家は存続し得なかっただろう。義弘は自分の死後には、上総は実子の梅王丸に、安房は養子としていた弟の義頼に相続させる予定であったと云う。だが、義弘死後の里見家は、梅王丸を支持する勢力と義頼を支持する勢力とに二分され、内乱状態に陥った。 
 
 
天正7年(1579年)、年長で経験もあった義頼は、戦いを優勢に進めて上総の諸城を落としていき、天正8年(1580年)4月には梅王丸を捕らえて出家させ、領国の再統一を果たした。同年7月5日、義頼は更なる支配強化を図り、不穏な動きを見せたとして、重臣の正木憲時討伐に取り掛かった。正木憲時は里見家の重臣であるが、安房東部から上総東部にかけての地域を支配する、半独立的な有力国人でもあった。義頼はこれを切り崩して、直接支配しようと試みたのである。だが、憲時を始めとする正木一族は、上総大多喜城を中心に一宮、勝浦城、吉宇城、興津城、浜荻城、金山城、山乃城などの支城を持っており、小戦国大名と言って良いほどの基盤を有していた。この内、勝浦城の正木一族は義頼方に付いたものの、それでも容易に倒せる相手では無かった。義頼は支城を一つ一つ攻めつぶしながら、徐々に大多喜城に迫っていった。こうした攻防戦の最中、甲斐の武田勝頼や、越後の上杉景勝の使者が訪れて共に北条氏を打倒しようと提案してきたが、この時の義頼にそんな余裕は無かった。 
 
 
天正9年(1581年)9月29日、正木憲時は内応した家臣によって殺され、大多喜城は落城する。義頼は、義弘死後から始まる内乱と、正木憲時の討滅に3年もの歳月を費やしたが、反対派は全て滅ぼしたので、その権力は揺るぎないものとなった。北条家との関係は、天正7年3月に両家の鎹(かすがい)である、義頼の妻(氏政の娘)が死去した事から、次第に冷却化していった模様である。両家の間で戦いが再燃したのかどうかは定かではないが、下総、上総では不穏な状況が続いた。天正15年(1587年)10月23日、里見義頼は45歳で死去し、若干15歳の義康がその跡を継いだ。その頃、中央では豊臣秀吉による天下制覇が進み、翻って関東では北条家による覇権が確立されつつあった。この様な重大な局面で、したたかな外交手腕を持っていた義頼を失った事は、里見家にとって不幸であった。 
 
 
天正16年(1588年)10月、里見義康は、豊臣秀吉に使者を送って太刀一振りと黄金10両を献上し、上総南半分、安房一国を現状のまま保持する事を認めてもらった。天正18年(1590年)春、豊臣秀吉による小田原攻めが始まると義康も参戦し、同年4月には三浦半島に攻め入った。秀吉からは早急に小田原に参陣するよう求められていたが、義康はしばらく三浦半島に留まり、滅亡した小弓公方の再興のために便宜を図ろうとしたり、本来、秀吉が出すべきであった禁制を三浦半島で独自に発給したりした。義康が何時、小田原の秀吉の下に参陣したのかは不明だが、その勝手な行動を咎められて、しばらく面会は許されなかったと云う。そして、義康による小弓公方再興運動と独自の禁制発給は惣無事令違反に当たるとして、上総国の召し上げを通告されたのだった。これは義康のみならず、その家臣にとっても晴天の霹靂の様な衝撃であった。里見家の領国は上総半国だけでも19万石あったが、それが安房一国4万5千石に押し込められる形となったからである。里見家臣はこの後、召し放たれたり、知行が三分の一以下になる事を覚悟せねばならなかった。 
 
 
義康は失意のどん底にあったが、それでも大名として生き残るため、妻子を人質として上方に送り、困難な知行の再配分も成し遂げた。そして、豊臣大名の1人として、二度に渡る朝鮮出兵の際には数百人の兵を率いて九州名護屋まで出向いた。慶長2年(1597年)、豊臣政権による再検地が行われて、安房国は9万1千石に改められる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、義康は徳川方に参加して宇都宮に在陣する。そして、関ヶ原本戦が東軍の勝利で終わると、常陸国に3万石を加増され、里見家は合わせて12万石となった。しかし、慶長8年(1603年)11月16日、里見義康は31歳の若さで病死し、10歳の梅鶴丸が跡を継ぐ。大きな挫折を味わったものの、家運がやや盛り返しつつあった矢先の死であった。慶長11年(1606年)11月、梅鶴丸は将軍、徳川秀忠の前で元服し、その一字を賜って忠義と名乗り、慶長16年(1611年)には幕府の老中、大久保忠隣の孫娘を妻として迎えた。忠義は幕府との関係を密にし、順調に近世大名としての地歩を固めつつあった。 
 
 
しかし、慶長19年(1614年)9月、幕府内部に権力闘争が起こって大久保忠隣が失脚し、それに連座したとして忠義も改易を通告される。忠義には辛うじて伯耆国倉吉に4千石が与えられたものの、これまで先祖代々慣れ親しんだ房総半島の地から遠く離れた、山陰の寒村に移り住む事となった。だが、元和3年(1617年)6月、因幡、伯耆の新領主として赴任してきた池田光政によって、その4千石も召し上げられ、忠義は、倉吉田中村に100人扶持のみを与えられる身となった。悲運に悲運を重ね、しかも慣れない山陰の気候で体を壊したのか、元和8年(1622年)6月19日、忠義は29歳の若さでこの世を去った。忠義には側室に子がいたとされるが、嗣子無しと見なされて里見家はここに断絶する。同年9月19日、忠義の死から3ヵ月後、安房以来の家臣8人が主君の命日に合わせて殉死した。彼らには最早、どこにも身の置き所がなく、生きる望みを失っていたのだった。戦国時代から幾多の存亡の危機を乗り越えてきた武門の家、里見家はこうして、哀れなる最後を迎えた。


主要参考文献 「房総里見一族」



 
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