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丹波金山城

丹波金山城(きんざんじょう)は、兵庫県篠山市にある山城である。この城は標高540メートルの金山山頂にあって、明智光秀の丹波侵攻時に築かれた。


天正3年(1575年)10月、織田信長の命を受け、明智光秀は丹波攻略に着手する。光秀は若狭、丹後を経由して丹波の北から攻め入ると、丹波第一の勢力を誇る赤井(荻野)直正の居城、黒井城を囲んだ。しかし、翌天正4年(1576年)1月、光秀に従っていた丹波の有力国人、波多野秀治が突如として反旗を翻すと、黒井城包囲中の明智軍の背後を襲わんとした。これを受けて、明智軍は総崩れとなり、第一次侵攻は無残な失敗に終わった。だが、天正5年(1577年)3月、丹波の赤鬼とも謳われた傑物、赤井直正が病死すると、これを好機と見てか、同年5月、光秀は丹波に再侵攻を開始する。光秀は前回の失敗に懲りて、今回はじわじわと地歩を進めていく堅実な作戦を取った。そして、翌天正6年(1578年)9月頃、丹波の二大勢力である八上城の波多野氏と黒井城の赤井氏との連携を断つべく、その中間地点に位置する金山に築城を開始した。その上で、同年10月頃から八上城の包囲を開始する。


公家で吉田社の神官である吉田兼見は、金山城築城中の光秀を訪ねている。兼見が書いた日記「兼見卿記」によれば、天正6年10月、光秀は丹波氷上郡柏原で新城を普請中であるとの記事があるので、それが金山城の事だろう。この時、兼見は、光秀を陣中見舞いして小袖を送り、夕食を共にしている。翌朝、兼見は忙しい光秀の身を気遣ってか、暇乞いを告げぬまま京に戻ろうとすると、光秀は使者を送って引き留めてきた。そして、光秀はわざわざ城から下りてきて兼見と会い、しばし親しく語り合ってから、2人は別れた。光秀と兼見の親密振りが窺える話である。丹波攻略に難渋していた光秀にとって、親しい友との語らいは心安らぐ一時であったのだろう。一方、八上城の波多野勢と、それを包囲する明智軍の間では絶え間なく、小競り合いが続いていた。天正7年(1579年)1月には、八上城の北1キロにある明智軍の陣所に波多野勢が攻め寄せてきて、激しい合戦となった。この時、明智軍の前線指揮官、小畠越前守が討死するが、何とか波多野勢を撃退する事に成功している。


これを受けて封鎖は一層強化され、以降、八上城では餓死者が続出する事態となる。まだ包囲を受けていない赤井氏の黒井城では、八上城を救わんとしてあらゆる方策を練ったはずであるが、その支援は金山城によって遮られたのだろう。同年6月、八上城の篭城は限界に達し、城兵の忠誠や結束も揺らぎ始めていた。光秀は城兵の不満に付け込んで調略を仕掛けると、案の定、八上城では内紛が生じて、ついに波多野秀治を捕縛する事に成功する。そして、安土に送られた波多野秀治は、6月4日に磔に処された。赤井直正亡き後、波多野秀治が丹波の反織田勢力の精神的支柱となっていたが、その滅亡を受けて動揺が広がる。光秀は間髪置かずに兵を進め、同年8月には赤井氏の黒井城も落とした。これにて難航を極めた丹波の平定は完了し、光秀は天下に面目を施す事となった。これで金山城も役割を終える形となったが、光秀は城代を置いてしばらくは管理していたようだ。しかし、天正10年(1582年)6月13日、光秀が滅亡すると、金山城はまったく不要の存在となり、朽ち果てるに任された。現在でも、
本丸跡には苔むした石垣が残されており、それだけが当時の張り詰めた緊張を伝えている。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑大乗寺


金山城の南麓にある、小さな寺です。この寺からやや下った所に、金山城への登り口があります。この他に東麓にある、追入神社の横から登るルートもあります。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑園林寺跡


かつて、ここには園林寺と言う寺があって、石垣はその名残です。寺院跡には朽ち果てた材木が散乱していて、不気味な無常観を漂わせていました。それと、この寺院跡の前は広々とした削平地となっていたので、金山城健在時には、ここに曲輪が設けられていたのでしょう。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑馬場跡


長大な空間が広がっていますが、山上にあって実際に馬場として用いられたかどうかは疑問です。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


光秀はここで築城の指揮を執って、滞在した事もあったはずです。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸南側にある石垣



この石垣は、築城当時のものでしょう。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑本丸北から、黒井城を望む


残念ながら霞がかっていて、どれが黒井城かは判別出来ませんでした。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

本丸南東から八上城を望む。


奥に広がっているのは、篠山市街です。しかし、こちらも霞がかっていて、どれが八上城なのかは判別出来ませんでした。それでも、両城の中間地点に楔を打ち込み、赤井氏と波多野氏の連携を断つという戦略意図は実際にその場に立って理解できました。


丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋


金山城の北東には、鬼の架け橋と呼ばれる景勝地があって、江戸時代の浮世絵師、安藤広重の「六十余州名所図会・鐘坂」にも描かれています。明智光秀が友の吉田兼見を金山城に迎えた際にも、この鬼の架け橋を案内して、談笑しつつ、岩場から覗いたりしたのではないでしょうか。



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑鬼の架け橋上からの眺め



丹波金山城
丹波金山城 posted by (C)重家

↑麓から眺める金山城


山深い地にあって、統治には向いていない城です。丹波が戦乱状態にあってこそ、価値のある城だったのでしょう。





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