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伏見城の攻防 鳥居元忠、覚悟の徹底抗戦

2012.07.01 - 戦国史 其の三
慶長3年(1598年)8月18日、天下人、豊臣秀吉が京都伏見城にて死去する。巨大な柱を失って、天下はにわかに揺れ始めた。豊臣政権は文治派と武断派に分かれて、深刻な対立状態に陥ったのである。その中で、諸大名中、最大の勢力を誇る徳川家康はこの対立を巧みに取り仕切って、急速に存在感を増しつつあった。専権を強めた家康は、慶長4年(1599年)10月、加賀の前田家を脅して屈服させ、翌慶長5年(1600年)5月には会津の上杉家を討伐すると宣言した。


その手法は強引そのものであったが、天下に家康に比肩するほどの実力と声望のある人物は存在せず、よって、多くの大名は黙ってその指示を受け入れた。しかし、反家康の機運も、急速に高まりつつあった。その中心となったのが、豊臣政権の重鎮であった石田三成である。三成は秀吉の懐刀として権勢を振るっていたが、その死後は、政権から追われた上、家康によって近江佐和山に蟄居させられていた。だが、三成はその屈辱をばねに、密かにかつ大々的な家康打倒の策略を練っていた。 家康もその内、三成が事を起こすだろうと見越していたが、よもや20万石程度の者が、天下を二分するほどの勢力を築くとまでは予想出来なかった。
 
 
慶長5年(1600年)6月16日、畿内に不穏な空気が漂い始める中、家康は会津征伐に向けて大坂城を発ち、その途上、伏見城に入った。家康は、この伏見城を畿内への抑えとして位置付け、信の置ける然るべき者に城を任せて、事態に対処せんとした。そして、譜代家臣である下総矢作(やはぎ)4万石の鳥居元忠を筆頭に、上総佐貫2万石の内藤家長、元長父子、武蔵忍1万石の松平家忠、上野三之倉5千石の松平近正ら四将を込めて、留守を委ねた。享保12年(1727年)成立の「落穂集」には、家康の伏見滞在中の逸話が載せられている。それによると、家康は上方に事変が生じる事を予期して、元忠に「天守閣の蔵には金銀の塊が納められている。変事が起きて弾丸が欠乏したら、これを鋳って補充せよ。また上方の情勢を報告する事を怠ってはならぬ」と言い含めた。翌6月17日の夜、元忠も考えるところがあって家康のもとを訪れる。
 
 
家康、「此度の城の留守役は、人数が少なくて余計に苦労をかけるのう」 
 
元忠、「恐れながら、私はそうは思いません。此度の会津への出陣は大事ですから、一人でも多くお連れになる方が良いと存じます。城将の家長や家忠もお連れになってください。当城の方は私が本丸を預かり、近正が外曲輪を守れば十分であります」 
 
家康、「事態がどの様に変わるかは分からず、城将は4人でも少ないと思うておるのに、それでも連れて行けというのは何ゆえか」 
 
元忠、「此度のお留守を預かるにつきまして、何事も起こらなければ、私と近正の2人で十分に足ります。それに、会津に向かわれた後、変事が起こり、敵が当城を囲みましたなら、近国からも敵兵が押し寄せて来ましょう。とても、我が方への援軍は得られますまい。そうなれば、今の人数の5倍、7倍という人数を残して置かれたとて、守り抜く事は出来ないでしょう。ですから、必要なだけの人数を当城に留め置かれようとのお考えは、無駄な様に思えるのです」 
 
 
この逸話が真実ならば、元忠自身は主君のために捨て石となる覚悟であるが、犠牲となる者は最小限に止めたいと考え、こう提案したのだろう。家康もその覚悟の程は察したが、あえて返答はせず、若かりし頃、共に苦労を重ねた思い出を語り合った。2人の主従関係は50年近い。話は尽きる事なく、やがて夜も更けてくると、元忠は、「明日は、さだめし早くお発ちになられましょう。短夜でもございますゆえ、早くお休みなされますよう」と暇乞いをした。そして、「先ほど申し上げました通り、お留守中、何事もありませんでしたら、また御目見え致します。しかし、万一の事が起こりましたなら、これが今生の御暇乞いでござります」と言って退出しようとした。しかし、元忠には足に古傷があった上、長らく座り込んでいたので、なかなか立ち上がる事が出来なかった。それを見かねた家康は、小姓に、「彦右衛門の手を引いてやれ」と命じた。小姓に支えられて退出していく元忠の後ろ姿を見送りながら、家康はしきりに袖で涙を拭っていたと云う。 
 
 
翌6月18日、家康は伏見を発って、東征に向かった。元忠はそれを見送った後、畿内の情勢を睨みつつ、篭城準備に入った。7月初旬、島津義弘率いる1千人余の兵が伏見城にやってきて入城を要請したが、元忠はこれを疑って入城を拒否した。その為、島津義弘は西軍に走って、伏見城攻めに加わる事となる。7月17日、三成の主導によって西国の諸大名が糾合され、毛利輝元を総大将とする西軍が結成された。その規模は、おそらく家康の予想をも超えていただろう。最早、上方に兵乱が生じるのは確実な情勢となり、伏見城はその最前線に立つ事となった。だが、元忠は既にこの事あるを予期して篭城準備を進めており、動揺は無かった。7月18日、毛利輝元の命を受けた使者が伏見城を訪れ、城を明け渡す様、求めてきた。元忠は諸将と相談した上でこれを拒否するが、城将の1人であった木下勝俊は城から退去してしまう。西軍方の増田長盛は、家康と親しかったので、別に使者を送って元忠の説得に当たったが、元忠は、「私は徳川家のためにこの城を守っているのだ。どうして他家の言を聞く事ができようか。二度ここへ来るなら斬って捨てるぞ」と峻拒した。そして、家康との約定通り、急使を関東に送った。 
 
 
「鳥居家中興譜」による元忠の報告文、「今度の会津征伐の隙を狙って、大坂方が蜂起しました。毛利輝元の命として伏見城を明け渡せと再三言ってきましたが、既に大軍を催して今にも当城に攻め寄せて来る気配です。先日、御前で申し上げました通り、私は命のある限り戦い防ぎ、守りきれなければ城を焼き払って討死する覚悟です。篭城の諸士も全員、その覚悟で守りましょう。いやしくも、私が守城の命を受けました事、肝に銘じるところです、全知全能を尽くして一日一刻でも長く逆徒共を食い止め、東国へ攻め下るのを引き伸ばす所存です。至急、御出立される事こそ、最も肝要と存じます。元忠の一生涯は、この戦いで終わりましょう。どのような大敵が来ようとも、恐れるものではありません」  
 
 
7月18日、徳川家臣、佐野綱正がやってきて、伏見篭城に加わった。綱正は大坂城西の丸の留守を預かっていたが、西軍挙兵を受けて窮地に陥り、西の丸明け渡しを条件に、家康側室の阿茶局、お勝の方、お万の方を連れ出す事を許可された。そして、大坂城を退去して淀まで避難すると、そこで知人に側室達を預け、自らは兵500を率いて伏見城へやってきたのだった。綱正からの報告を受けて、元忠は至急、諸将と篭城の算段を練る。そして、7月19日早朝、元忠は自ら城外を巡検して、防御上支障のある人家を焼き、諸将の配置を定めた。 
 
本丸・鳥居元忠 
 
西の丸・内藤家長、元長父子、佐野綱正 
 
三の丸・松平家忠、松平近正 
 
治部少輔丸・駒井直方 
 
名古屋丸・甲賀作左衛門、岩間光春 
 
松の丸・深尾清十郎 
 
太鼓丸・上林政重 
 
 
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↑伏見城の縄張り図 (ウィキペディアより)
 
 
伏見篭城の人数は、総勢1800人余であった。 
 
元忠は将士を集めて、こう告げた。 
 
「私は使者を関東に出して、城をあくまで守り抜くと報告した。もし命が惜しいという者があれば、敵がこの城を取り囲む前に出て行くが良い。この城には僅か千人余の兵しかおらず、四方からの援軍も期待出来ない孤城である。これで、数倍の優勢な敵と戦うのだ。願わくば君恩に報いるため、志ある者は戦場に屍(しかばね)を晒し、天下の武士の鑑となるよう。それが武士としての本懐である」 
 
そして、元忠を始め、覚悟を定めた将士達は盛大な宴を開き、決別の杯を交わしたと云う。 
 
 
7月19日の薄暮、西軍の諸隊が次々にやってきて、伏見城に対する銃撃を開始する。城兵もこれに応戦したので、銃声が夜通し響き渡った。翌20日、21日も銃撃戦が交わされ、それに合わせて西軍は城際ににじり寄らんとした。22日、宇喜多秀家、小早川秀秋、鍋島勝茂の兵が加わって、銃撃戦は一段と激しくなった。23日、24日も変わらず銃撃戦は引き続いたが、城方の応戦は衰えず、城内に付け入る隙は無かった。25日、宇喜多秀家が伏見に着陣すると西軍諸将は軍義を開き、改めて部署を定めた。伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家で、副将は小早川秀秋、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂なども参加する総勢4万人余の大軍であった。これを城方から眺めると、西軍の人馬や旗がひしめき合って、麓を埋め尽くしている様に映った。だが、元忠はそれを横目に、悠々碁盤を囲んで談笑していたと云う。西軍の陣容は整い、いよいよ本格的な攻城が開始される。この日を境に伏見城に対する銃撃は一層、激しくなり、それに合わせて西軍は竹束を連ねてじりじりと濠際ににじり寄った。 
 
 
26日、西軍の毛利秀元、吉川広家らは伏見の持ち場を離れて、瀬田に転進する。27日、28日も終日銃撃戦が続き、翌29日には西軍の指導者たる石田三成自らが督戦にやって来て、諸将の奮起を促した。その頃、関東の下野小山にいた家康は、会津攻めの陣を引き払って西上せんと動き出していた。三成としては、これ以上、伏見城に手こずらされれば、家康迎撃の算段が狂ってくる。その為、何としても早期落城にもっていく必要があった。30日、三成の激を受け、西軍諸軍も力闘して四度の大攻勢を加えたが、城方は壕際を縦横に駆け巡って迎撃に努め、城内への侵入を決して許さなかった。この日、西軍は500人余が死傷し、城方も50人余が死傷したと云われている。西軍4万人余の総攻撃でも、城内への突入は敵わなかったのである。西軍は数日で伏見城を落とす算段を立てていたが、既に攻防10日を過ぎていた。西軍首脳の間には焦りが募り、ここで非情な謀略を用いる事にした。すなわち、松の丸を守備する甲賀の郷士に対して、内応せねば郷里の家族を殺害すると脅迫して、曲輪に火を放つよう迫ったのである。 
 
 
8月1日午前0時頃、内応に応じた甲賀者の手によって、松の丸にて火の手が上がり、その火勢は強まって名古屋丸にも燃え移った。これを見た西軍は大いに意気が上がり、喊声を上げて一斉に北門に攻めかかってきた。城方も槍衾を布いて必死にこれを防がんとしたが、城門にも火がかけられ、次々に攻め寄せてくる西軍に押し切られて、ついに突入を許してしまう。その勢いは止められず、松の丸と名古屋丸が制圧され、城の中枢部にまで食い込まれた。伏見城は王手をかけられた形となり、最早、篭城の見込みは無くなった。この情勢を見て小早川秀秋は休戦を命じ、使者を城内に送って開城を促した。元忠も代理を送ってこれと会見させたが、条件はまとまらなかった。元忠は、これも時間稼ぎの一つとしたのかもしれない。交渉は決裂して、西軍の攻撃は再開される。同日午前3時、治部少輔丸に西軍が侵入して来ると、松平家忠は自ら槍を振るって群がり寄る敵兵と渡り合ったが、やがて傷付き、一旦撃退した後、自刃して果てた。松平近正もこの時、戦死したと見られ、従っていた兵800人余も悉く討死して、治部少輔丸は落ちた。 
 
 
天守閣にも火がかけられ、落城は目の前に迫った。元忠の家来は主に自害を勧めたが、元忠はこれを拒否して、あくまで戦い抜く決意を示した。 
 
「この戦いでは、既に死は覚悟の上である。それでも防戦に努めるのは、なにも名誉の為だけでは無い。一刻でも長く、関東へ災禍が及ぶのを遅らせんとの願いからだ。だから足軽の手にかかって死ぬ事も苦では無い。わしの足は元亀3年の三方原の戦いで傷付き、歩くには不便だが、今日の西軍をなんで恐れようか」 
 
元忠は更に、「味方の戦死を顧みるな。敵兵ならば貴賎を問うてはならぬ。出会った者は殺すだけだ。将と見れば刺し違えてでも殺せ」と命じ、生き残りの数百人の兵を率いて本丸門から打って出た。そして、死兵と化した城兵は西軍と斬り結んでは押し返し、多数を殺傷した。西軍も決死の敵と斬り結んでは犠牲が増えるばかりと見て、城兵が突出する度に横合いから攻撃を加えて徐々に討ち減らしていった。既に外郭は全て破られ、残るは内藤家長の篭もる西の丸と、元忠が篭もる本丸のみとなる。 
 
 
内藤家長も西の丸で奮闘を続けていたが、やがてここも追い詰められる。家長は、部将の安藤定次に自害するまでの時間稼ぎを頼むと、鐘楼に登って薪を積み、家来の原田某に、「お前は囲みを抜けて関東へ行き、落城の模様を家康公、秀忠様、それに我が長子の政長に報告してほしい」と言い付けると、自害して果てた。原田某はその命に従い、鐘楼に火を放ってから、城から脱出した。16歳になる元長は父の側で死なんと駆け付けたが、既に火勢が強くて近づけなかった。そこで、腹を切った上、火中に身を投じて思いを遂げた。内藤家の部将、安藤定次も討死し、西の丸の守将の1人、佐野綱正も乱戦の中で命を失った。この他、駒井直方は敵に紛れて去り、深尾清十郎は捕らえられて斬られた。上林政重や岩間光春も戦死して、甲賀作左衛門は生死不明となった。 
 
 
元忠は本丸手前で尚も西軍と渡り合っていたが、多数の傷を負い、残す兵も僅か10人余となっていた。辺りは火災と硝煙の煙が立ち込めて夕闇の様に薄暗く、その下には敵味方の死体が累々と横たわっていた。元忠は1人、火炎渦巻く本丸内へと入って行き、傷付き疲れ果てた身を石段に寄りかけて休めた。そこへ、西軍方の将、雑賀重次がその姿を認めて近寄って来た。元忠もそれを認めると、「我こそが伏見城の主将、鳥居元忠である」と名乗り、おもむろに薙刀を取って立ち上がった。すると、重次は跪いて、「火は既に全城に及び、大事は終わりました。どうかお静かに自害なされますよう。私は謹んで貴方の首級を賜り、後世の誉れと致します」と言った。元忠も最早、十分役目は果たしたと思い直したのか、これを受け入れ、兜を脱いで静かに腹を切った。そして、重次はうやうやしくその首級を受け取った。8月1日、午後15時頃の事であった。鳥居元忠、享年62。主命を帯びた僅かな脱出者を除いて、城兵1,800人余は悉く討死した。攻めての西軍も、3千人以上の死傷者を出したと云われる激闘であった。 
 
 
この後、伏見城の主将達、鳥居元忠、松平近正、松平家忠の首は大坂に送られて、京橋口にて晒された。だが、西軍方もその烈々たる忠誠心は認めて、敬意を込めてその首を公卿台に載せたと云われている。慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利を収め、晴れて天下人となった。そして、戦後、鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら伏見篭城四将を評して、その子息達に加増して功に報いた。元忠の子、忠政は下総矢作4万石から陸奥磐城(むついわき)10万石に加増転封し、更に元和8年(1622年)には出羽山形22万石に加増転封した。内藤家長の長子、政長は上総佐貫2万石に1万石が加増され、元和8年(1622年)には、陸奥磐城平7万石に加増転封された。松平家忠の嫡男、忠利は武蔵忍1万石から、念願であった三河深溝1万石に旧領復帰し、慶長17年(1612年)には三河吉田3万石に加増転封された。松平近正の嫡男、一生は上野三之倉5千石に5千石を加増され、大名身分となった。元和7年(1621年)、一生の子、成重の代の時には、更に丹波亀山2万2千石に加増転封される。 
 
 
しかし、大坂城西の丸で家康側室の護衛役を担っていた佐野綱正は、その任を全うせずに伏見に篭城したので、家康は、「肥後守綱正を死なせたのは惜しいが、あれは本当の道を知らなんだ。主命を重んじてどこまでも預かった者供を守り、その時に応じて苦心すべきであったのだ。それなのに、預かった者を人手に渡して、自分は伏見で討死するとは、忠義の道が違う」と言ったそうである。佐野綱正は近江と上総に3千石の禄高を与えられていたが、その嫡男でまだ幼少の吉綱には近江国野洲の800石のみとされ、小姓として取り立てられた。同じ、枕を並べて討死した将士であっても、評価の明暗は分かれたのである。それと、西軍に囲まれる前に伏見城から退去した木下勝俊は、若狭小浜6万2千石を没収された。また、伏見城で内通した者18人は、関ヶ原戦後の10月1日に京都栗田口にて磔に処された。 
 
 
これまで挙げてきた伏見城を巡る元忠らの会話や、やり取りが実際にあったのかどうかは確証しかねるし、多分に講談が含まれているだろう。だが、鳥居元忠らの忠節と奮闘は本物であったに違いない。もし、伏見城が数日で落ちていれば、西軍は勢力圏を更に広めて、史実以上に家康を苦戦させていただろう。そうなれば、歴史の流れすら変わっていたかもしれない。元忠らは見事な働きをもって時間を稼ぎ、西軍の展開を妨げたのだった。この伏見篭城は、老境にあった元忠にとって、武士の死に花を咲かせる晴れの舞台でもあった。そして、三河武士の鑑と讃えられて、歴史に美名を刻む事になる。だが、無骨な忠魂の士、元忠にとって、何よりの願いは、己の生涯を捧げて仕えてきた主君、家康の勝利であったろう。それを、草葉の陰から見届けた時、元忠の魂は微笑みながら天に昇っていったであろう。 


Torii_Mototada.jpg













↑鳥居元忠(1539~1600) ウィキペディアより

 
主要参考文献 「旧参謀本部編纂 関ヶ原の役」


 
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Comment

無題 - EMIKA

2012.09.09 Sun 22:20 URL [ EDIT ]


昨日は鳥居さん命日でしたね。

三河武士最高に素敵です更に世に伝わるといいですねえ

記事にして頂き有り難うございました(^^)/

Re:無題 - 管理者からの返答

2012.09.12 Sun 18:50

>EMIKAさん

返信が遅くなりました。コメントどうもありがとうございます。

伏見篭城戦では老将、鳥居元忠の裂帛の気迫が末端の将兵にまで伝わって、あの頑強な抵抗となったのでしょう。鳥居元忠の知名度は世間一般では低いですが、あの忠節心と将器はもっと評価されても良いと思います。しかし、徳川家康も元忠の奮闘と忠節には感謝すると共に、その壮絶な最後を知って人知れず涙した事でしょう。

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