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里見家の興亡 前

2012.06.09 - 戦国史 其の三
戦国時代、関東の覇者として君臨したのが、小田原を本拠とする大大名、北条家であった。だが、その北条家を相手に、関東の覇を競い合った気概ある戦国大名がいた。その名を里見家と云う。里見家は、清和源氏新田氏の流れを汲み、室町時代に関東の何処から房総半島に移り住んで安房国に勢力を伸ばしていったとされる。その出自には不明な点が多いが、永正年間(1504~1520年)には安房国の支配者的な存在となっていたようである。この里見家を全盛期に導いたのが、里見義堯である。だが、その人生は浮き沈みの大きい、波乱に満ちたものであった。 
 
 
義堯は永正4年(1507年)に生まれ、天文2年(1533年)、27歳の時に父実堯が本家の里見義豊によって討たれると云う悲運に見舞われた。義堯は安房を逃れて西上総の百首城に立て篭もり、小田原の北条家や安房東部の正木家に援助を請うた。そして、天文3年(1534年)4月6日、義堯は北条や正木の援軍を得て反抗に転じ、義豊と決戦して、これを討ち滅ぼす事に成功した(犬掛合戦)。これで、義堯が晴れて安房一国の支配者となったのだが、その統一には北条氏綱の助力によるところが大であったので、しばらくはその旗下に属する事となった。天文4年(1535年)には北条氏綱の要請に応えて武蔵国に援軍を派遣したり、鎌倉の鶴岡八幡宮の造営にも協力している。だが、義堯には北条の属将のままで終わる気は無く、野望を胸に秘めて雄飛の機会を待った。 
 
 
その頃、上総の有力戦国大名、真里谷武田家では、信隆と信応(のぶまさ)の二派に分かれて跡目争いをしていた。北条氏綱は信隆方を応援したので、それに属する義堯も当初はこれを支援していたが、天文6年(1537年)10月になって、小弓公方の足利義明の要請を受けて、信応方に転じたのだった。そして、この内紛は、足利義明と里見義堯の有力な支援を受けた信応方優勢で和議が成立する。義堯はこの内紛に乗じて西上総に勢力を伸ばし、この頃に房総半島の中心に位置する場所に久留里城を築いて、そこを本拠にしたと見られる。義堯は、この内紛を機に足利義明に鞍替えする形となったが、それは同時に北条家との決裂も意味していた。北条と里見、両家の長い宿命の対決はここから始まる。 
 
 
天文7年(1538年)10月、足利義明は北条氏綱との決戦を目論んで、里見義堯や武田信応を始めとする房総半島の諸将を召集する。そして、1万人余の諸軍を率いて、武蔵との境目に当たる下総国府台まで進出した。一方、北条氏綱も2万人余の兵を率いて迎撃に向かい、両軍は江戸川を挟んで対峙した同年10月7日、北条軍は大胆にも、江戸川を敵前渡河して突撃を開始する。足利軍は絶好の攻撃機会をみすみす逃したが、緒戦は善戦して北条軍と互角に渡り合った。しかし、北条軍が陣容を整えて数に物を言わせて攻め寄せてくると、ついに足利軍は崩れ出し、総大将の義明も戦死するという惨敗を喫した(第一次国府台合戦)。この戦いで義堯は積極的には動かなかった模様で、軍勢を温存したまま撤退したようだ。そして、ほどなくして西上総に侵攻を開始し、その地を切り取っていった。房総半島の一大勢力であった足利義明の討死によって軍事的な空白が生じ、かえって義堯の勢力拡大に弾みがついたのだった。天文10年(1541年)、北条家では氏綱が死去して、その子、氏康が跡を継ぐ。その頃、義堯は自ら西上総の攻略に当たる一方で、里見家の盟友とも言える正木家に命じて東上総を切り取らせていった。 
 
 
義堯は少しずつであるが確実に北上を押し進め、天文21年(1552年)を迎える頃には上総の大部分が里見家の勢力範囲となり、同年中には下総にも進出して、北条方の有吉城を攻撃したと云う。だが、北条氏康もこの情勢を黙って見過ごす訳はなく、勢力を増しつつある里見家を陥れるべく、強烈な謀略を仕掛けた。天文22年(1553年)、里見支配下にあった上総、安房の土豪達をそそのかして、一斉に叛旗を翻させたのである。これらの土豪達は半独立的な存在で、里見家の支配は彼らの頭を押さえて、戦時の際に兵員を供出させるに留まっていた。しかし、里見家の勢力が増大するに従い、これらの土豪達は独立性と既得権益が侵されるとの危機感を覚えたようだ。北条家はそこを突いて彼らの知行を安堵したり、物資を援助して、反乱をそそのかしたのだった。
 
 
この反乱によって安房、上総国内は未曾有の混乱に陥り、各地の城や寺が焼けていった。しかも、そうした状況を見越して北条家は直接、里見領に攻め入らんとした。天文23年(1554年)春、北条氏康は武田晴信、今川義元と三国同盟を結んで背後の憂いを取り去り、関東制覇に全力を傾ける事が可能となっていた。義堯も越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)と結んでこれに対抗せんとしたが、当面は自力で北条家の鋭鋒を退けねばならなかった。軍記の「関八州古戦録」によれば、天文23年(1554年)11月10日、北条氏の勇将、北条綱成率いる1万2千の兵が義堯の本拠、久留里城を囲み、翌11日に一斉攻撃を加えてきたが、里見軍4千人は激闘の後にこれを退けたと云う。また、弘治元年(1555年)3月1日にも、北条方の将、藤沢播磨守率いる2千人余の兵が押し寄せてきたが、里見軍はこれも撃退し、藤沢播磨守の首を討ち取ったと云う。 
 
 
弘治2年(1556年)を迎えた頃には、義堯は度重なる北条軍の襲来を退け、国内の反乱もようやく鎮める事に成功したようだ。「関八州古戦録」によれば、同年10月、義堯は子息義弘を総大将とする水軍を三浦半島に送り込んで、北条家に逆襲を試みたようである。そして、北条水軍と船軍(ふないくさ)となったが、戦いは里見水軍優勢で運び、一時的に三浦半島は里見家の勢力範囲になったようである。里見軍が房総半島に引き返すと、三浦半島は再び北条家の支配に戻ったが、これ以降も里見水軍は頻繁に襲撃を加えて来るため、三浦半島の住民達は困り果てて、年貢の半分は里見氏に献上して、攻撃を控えてもらうようにした。北条家はこれを苦々しく思ったが、里見水軍に東京湾の制海権を握られている現状では、これを認めざるを得なかった。こうした里見水軍の優勢は、天正年間(1573年)を迎える頃まで続いたようである。だが、北条水軍も隙を突いては、房総半島の沿岸に度々、襲撃を加えたので、里見方も沿岸の防備を固めざるを得なくなった。このような東京湾を挟んでの両水軍の戦いは、里見、北条の対立が続く限り、止む事は無かった。 
 
 
永禄3年(1560年)8月上旬、北条氏康は大軍を催して、義堯の本拠、久留里城を囲んだ。窮地に立たされた義堯は、越後に急使を派遣して上杉謙信(この頃は長尾景虎)の来援を請う。同年9月、謙信はこの要請に応えて越山し、関東へと攻め入った。これを受けて氏康は久留里城の囲みを解いたので、義堯は危機を脱した。義堯は、謙信に書状を送って深謝すると共に、共に北条家を打倒する事を申し合わせた。そして、永禄4年(1561年)3月に謙信が北条家の本拠、小田原城を囲んだ際には、里見家からも義弘が海を渡って参陣した。その間に義堯は下総に手を伸ばし、重臣の正木家に命じて小弓、臼井の城を攻め取らせた。謙信率いる関東諸勢は一ヶ月に渡って小田原城を攻め立てたものの、無類の堅城が落ちる気配は無く、謙信は攻城を諦めて越後に帰っていった。 
 
 
だが、謙信(この頃は上杉政虎)がいなくなると、北条氏康はすぐさま奪われた諸城を取り戻していくのだった。これ以降の関東では、こうした上杉家と北条家の攻めぎあいが延々と繰り返される事になる。永禄6年(1563年)12月、謙信は越山して上野国へと入り、里見義堯、義弘父子にも出兵を促した。翌永禄7年(1564年)1月、義弘は要請に応えて安房、上総の兵を率いて出陣し、岩槻の大田資正の軍勢と合流して、下総の国府台に陣取った。北条氏康は上杉軍に背後を襲われる前に決着をつけるべく、里見軍に向かって急行した。「関八州古戦録」によれば、北条家は一族郎党の総力を結集した2万人余の兵力であったのに対し、義弘率いる里見勢は6千人で、大田資正率いる2千人を合わせても8千人でしかなかった。里見軍は半分以下の劣勢であったが、台地上の地の利を生かして、攻めかかってくる北条勢の先鋒を斬り崩し、遠山直景や富永政家などの名のある侍多数を討ち取って、緒戦を勝利で飾った。 
 
 
しかし、この日の夜、勝利に気を良くした里見軍は酒を飲み交わし、ゆったりと休息をとった。北条氏康は密偵からの報告を受けて、里見軍が油断しきっていると知ると、軍を二手に分けて明朝払暁をもって奇襲する事を決した。そして、1月8日の夜明けをもって北条軍が一斉に国府台に攻め上がって来ると、里見軍は大混乱に陥り、大将の義弘自ら太刀を手に取って、囲みを切り抜けねばならないほど、無残な敗北を喫した。北条軍は敗走する里見軍を追撃して、その先鋒は上総に入ったが、背後に謙信がいたので深追いは避けて兵を返した。だが、同年4月に謙信が帰国すると、北条軍は大挙して上総に攻め入り、その勢いを恐れた上総の諸城の多くは北条家に降っていった。同年10月には久留里城も落城し、義堯は安房へと退いた。同年末、落ち目の里見家に追い討ちをかけるように、片腕と頼んでいた勝浦城主の正木時忠まで北条家に寝返ってしまう。 
 
 
上総国では大多喜城の正木憲時と、土気(とけ)城主の酒井胤治だけが里見方として残ったものの、里見家はほぼ安房一国に押し込められる形となった。義堯が半生を費やして築いてきたものは、音を立てて崩れ去ったのだった。上杉謙信もこの情勢を憂いて、里見父子を慰める書状を送っている。永禄8年(1565年)11月、謙信が越山して関東に入ると、里見義弘はこれに呼応すべく、安房国中に重い棟別銭を課して出陣準備を整えた。そして、翌永禄9年(1566年)3月、上杉軍が下総に攻め入ると、義弘も参陣して共に北条方の城を攻め立てた。同年5月、謙信は越後に帰っていったが、その関東遠征の余慶を受けて、里見家は上総南部を奪回する事に成功したようだ。だが、永禄10年(1567年)8月、北条氏政は、里見家が再び息を吹き返しつつあるのを見て、今度こそ引導を渡さんとして大軍を率いて上総へと攻め入った。 
 
 
北条氏政率いる本隊は、里見義弘の居城、佐貫城を望む要所、三船山に陣取り、三浦方面からは北条綱成が水軍を率いて安房侵入を図った。この時、北条軍は3万人余で、これを迎え撃つ里見軍は8千人余であったと云う。里見家は、これまでに無い存亡の危機に立った。だが、義弘率いる里見軍は知略と死力を振り絞って、北条軍に乾坤一擲の決戦を仕掛ける。そして、ものの見事に、北条軍を打ち負かす事に成功したのだった。この頃、北条綱成率いる水軍も里見水軍に阻まれて、上陸を阻止された模様である。北条軍は、殿を務めた岩槻城主の大田氏資が戦死するなど、多数の戦死者を出した(三船山合戦)。戦後、北条氏政は戦死した家臣の相続問題に心を配らねばならなくなり、それとは反対に里見義堯、義弘父子は意気揚々たる戦勝報告書を、安房にいる義頼(義堯の子息)に送った。 この勝利によって、里見家は滅亡の淵から一転、飛躍の時を迎える。上総の大部分が里見家の版図に戻り、下総侵攻にも着手した。この過程で、先に反逆した正木時忠も里見家に帰参した。

 
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