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飯盛山城と三好氏

2014.07.14 - 戦国史 其の三

飯盛山城は、大阪府四条畷市と大東市の境目にある山城である。


飯盛山城の築城年代は定かではないが、南北朝時代の正平3年(1348年)1月5日、北朝の高師直と南朝の楠木正行が激突した四条畷の戦いにおいて、南朝方の砦として存在していた模様である。これを本格的な城郭に発展させたのは、戦国の武将、木沢長政(1493?~1542)であった。長政は、河内、山城の守護である畠山氏の家臣であったが、権謀術数を駆使して成り上がり、やがては主家、畠山氏の実権を握るまでになった。長政は河内と大和に勢力を伸ばして、戦国大名化しつつあったが、同じく下克上で台頭してきた三好長慶に敗れて、敗死した。


長政死後、畠山氏の家臣であった安見宗房が飯盛山城主として入るが、これも三好長慶に敗れて城を失った。勝利を収めた長慶は、永禄3年(1560年)、飯盛山城に入城する。長慶は四国の阿波出身の戦国武将で、管領細川氏の家臣であったが、非凡な能力をもって成り上がり、主家を上回る権威と勢力を有するようになっていた。畿内の覇者となりつつあった長慶は、飯盛山城に大改修を加えて、ここを本拠と定めた。大小70の郭(くるわ)を廻らせて山全体を城郭と化し、主要部には石垣も用いられて、日本有数の山城に変貌を遂げた。


永禄4年(1561年)5月、長慶は、多くの人々を飯盛山城に集めて、千句連歌会を開いた。その連歌会では、長慶の勢力の広大さを示すかの様に、五畿内の名所が詠まれている。しかし、長慶の著しい勢力増大は、周辺大名の警戒を招く事になる。同年、南近江の守護大名、六角義賢は、紀伊、河内の守護大名である畠山高政と組んで、南北から長慶を挟撃せんとした。以降、六角義賢は度々、京に攻め入って三好軍と対陣し、それに合わせて畠山高政も和泉国に攻め入って、北上せんとした。


長慶は、六角義賢に対しては嫡男の義興率いる摂津衆と重臣の松永久秀率いる大和衆を差し向けて対峙させ、畠山高政に対しては弟の三好義賢率いる河内、阿波、讃岐衆をもって対峙させた。しかし、永禄5年(1562年)3月5日、和泉国久米田で対陣していた三好義賢は、畠山高政に敗れて討死してしまう(久米田の戦い)。この敗報を受けて、京で六角軍と対陣していた義興と久秀の軍は、畠山軍にも備えるため、山崎まで撤兵せざるを得なくなる。この結果、京は六角義賢の手に落ちると共に、高政は反三好の大和衆の参陣を得るなどして、更に勢いを増した。


高政は南河内の三好方諸城を落としつつ北上を続け、同年4月5日には、長慶が在城する飯盛山城まで囲んだ。長慶は一大危機に陥ったが、四国衆は久米田の敗北を受けて逃げ散っており、頼みとなる義興と久秀の軍は山崎で六角軍に備えていて、駆けつける事は出来なかった。それを見越して高政は飯盛山城の包囲を狭めてゆき、二度の総攻撃を加えた。だが、飯盛山城は、さすがに三好家の本城なだけに防御は固く、畠山軍に付け入る隙を与えなかった。


城が早々に落ちる気配はなかったが、長慶は身動きが取れず、高政も決め手を欠いて、戦況は膠着状態となった。その間、山崎に在った義興は父を救わんとして諸軍の糾合に努め、高政も六角義賢に攻勢に出るよう、催促した。しかし、義賢の動きは鈍く、義興を中心とする三好軍の戦力結集と、その出撃を許してしまう。同年5月15日、援軍の接近を知った高政は包囲を解いて南下し、和泉国教興寺付近に陣取ってこれを迎撃せんとした。


飯盛山城の長慶と援軍の義興は無事、合流を果たすと、これも南下して、教興寺の畠山軍と対峙した。しかし、長慶は体調が優れなかったのか、飯盛山城から出ずに、義興に指揮を委ねている。両軍の正確な兵力数は不明だが、畠山軍は1万人5千人余、三好軍は2万人以上であったと思われる。兵力では三好軍優勢であったが、畠山軍には、多数の鉄砲を装備した雑賀、根来衆という切り札があった。だが、三好方もこの鉄砲衆を警戒して、雨の日まで攻勢は自重したらしい。


同年5月19日、小雨が降る中、三好軍から攻勢を仕掛けたと云う。昼頃、畠山軍が総力を投入して迎撃に努め、激戦となるが、夕刻を迎える頃には余力を失って崩れだした。三好軍はそこを逃さず、大攻勢をかけて畠山軍を散々に討ち破った(教興寺の戦い)。敗れた高政は紀伊へと逃れたものの、河内国の支配権を失って、その勢力は著しく後退した。また、この敗報を受けて、京で滞陣していた六角義賢も撤兵して、長慶に和を請うた。一方、長慶は、この戦いの勝利をもって畿内の覇者の座を揺るぎないものとする。


永禄5年(1562年)時点での三好家の勢力範囲を、太閤検地(1582~1598年実施)の石高で表してみる。兵力は1万石に付き、250人動員できたと仮定する。

●三好家が大部分、支配していた国。

讃岐(12万6千石・動員力3,150人)

阿波(18万3千石・動員力4,575人)

淡路(6万2千石・動員力1,550人)

摂津(35万6千石・動員力8,900人)摂津には大坂本願寺領5万石余があるので、三好家の勢力範囲は(30万石・動員力7,500人)ぐらいか。

和泉(14万1千石・動員力3,525人)

河内(24万2千石・動員力6,050人)

丹波(26万3千石・動員力6,575)赤井直正が抵抗する氷上郡を除いて、ほぼ全域を支配していた模様なので、三好家の勢力範囲は(20万石・動員力5千人)ぐらいか

合計(125万4千石・動員力31,350人)


●三好家が一部、支配していた国

山城(22万5千石・動員力5,625人)京には室町幕府将軍、足利義輝とその奉公衆(ほうこうしゅう・武官)が存在しているので、山城の半分(10万石・2,500人)ぐらいか。  

大和(44万8千石・動員力11,200人)の北半分(22万石・動員力5,500人)ぐらいか。

播磨(35万8千石・動員力8,900人)の東端(5万石・動員力1,000人)ぐらいか。

伊予(33万6千石・動員力8,400人)の東端(5万石・動員力1,000人)ぐらいか。

合計(42万石・動員力10,500人)

三好家の石高、動員力の総計(石高167万4千石・動員力41,850人)

この時点での、織田信長の勢力範囲は、尾張一国(57万1千石・動員力14,275人)であった。これらはおおよその推測であって正確な数字ではないが、それでも三好家の勢力の強さは伝わってくると思う。


長慶に対抗し得る強大な外敵は存在しなかったが、その支配は内側より綻び始める。永禄6年(1563年)8月25日、先の教興寺の戦いで大いに活躍し、将来を嘱望された嫡男、義興が22歳の若さで病没する。長慶はこれ以前にも、永禄4年(1561年)に、弟で優れた勇将である十河一存を、永禄5年(1562年)には、弟で知勇に長けた三好義賢を失っており、政権にとっても、自身にとっても大きな打撃となっていた。また、長慶は、永禄5年(1562年)の教興寺の戦いの折から、既に体調を崩していたと思われる。


そのような折に嫡男の死を受けて、長慶の心身は著しく衰弱を来たし、病に伏せるようになった。失意の長慶は、十河一存の息子、義継を養子に迎えて、後釜に据えた。永禄7年(1564年)5月9日、長慶は、弟の安宅冬康を飯盛山城に呼び出して、18人の従者諸共、謀殺する。これは、後継者、義継の座を安泰にするために取った行動だと思われるが、長慶が最早、正常な判断力を失っていたと見る向きもある。いずれにせよ、三好政権はまたもや、有力かつ有能な一門を失う事となった。


三好家は柱を次々に失い、最後に残った大黒柱の長慶も、同年7月4日、飯盛山城にて息を引き取った。三好長慶、享年43。長慶亡き後、義継が当主となったが、若干16歳の少年が指導力を発揮できる訳もなく、重臣の松永久秀と、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が後見する形となった。それからしばらくは、久秀と三人衆は協力して三好家を主導し、永禄8年(1565年)5月19日には、三好家に敵対的であった室町幕府将軍、足利義輝を討ち取るなどした。しかし、この直後から、久秀と三人衆との間で家中の主導権を巡る対立が深まってゆき、同年11月にはついに戦端が開かれて、畿内を二分する内乱状態に陥った。


三人衆方には当主、義継を始めとする三好一門のほとんどが付いた事から、久秀方は終始押され気味であった。永禄10年(1567年)、義継が久秀方に回った事からやや勢力を盛り返したものの、それでも劣勢は否めず、久秀は尾張の戦国大名、織田信長に通じて上洛を促した。永禄11年(1568年)、その信長が足利義昭を擁して上洛すると、久秀と義継はこれに恭順の意思を示し、三好三人衆は信長に抵抗したものの、あえなく敗れて四国へと逃れ去った。 長慶のもと一枚岩であった頃の三好家ならば、信長とも互角に渡り合えたであろうが、分裂弱体化した三好家にはこれに抗する術も無く、畿内は、瞬く間に信長の勢力圏に塗り変えられた。


飯盛山城のある河内国も信長の勢力圏に入り、その意を受けた畠山昭高が北河内の守護に任じられて、飯盛山城に入った。天正元年(1573年)6月、畠山昭高は、家臣の遊佐信教によって殺害され、飯盛山城も信教の占拠する所となる。信教は三好一族の康長と組んで信長に敵対したが、天正2年(1574年)に織田軍の攻撃を受けて討死し、飯盛山城も攻め落とされた。それからしばらくは織田家が使用していたと思われるが、天正4年(1576年)頃には廃城となった。長慶が存命中の飯盛山城は、畿内の政治、軍事の中心地として多くの人々の注目する所であったが、その死と共に存在感を失い、人知れず歴史の表舞台から去っていった。畿内を失った三好家も同じく存在感を失って、四国の片隅を確保するだけの一地方勢力に転落する。


その後の三好家の顛末も載せておく。話は信長上洛後に遡る。


三好三人衆は四国に追われたが、その後も畿内回復に執念を燃やして、信長と戦い続けた。元亀元年(1570年)には朝倉、浅井、本願寺と結んで信長を挟撃し、摂津、河内、和泉に勢力を取り戻した。元亀3年(1572年)、三人衆は、仲違いしていた松永久秀、三好義継とも和解し、ようやく一族結託して、信長に当たる事となった。しかし、三好家は統一的な指導者を欠いていた上、勢力も以前ほどでは無かった。それでも、同年中に三好、朝倉、浅井、本願寺の反信長陣営に、武田信玄や足利義昭を加えて勢いを増し、信長を追い込んでいった。


しかし、元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が病没すると、信長は、武田軍に備えていた主力を畿内に振り向ける余裕が出来て、猛然と反撃に出た。同年7月には京から足利義昭が追放され、8月には三好三人衆の1人、岩成友通が討ち取られ、三人衆の残り、三好長逸や三好政康も行方知らずとなった。同月、越前の朝倉義景が滅亡し、続く9月には近江の浅井長政も滅亡し、11月には三好義継も討死して、三好宗家は断絶した。12月、この情勢を受けて松永久秀は再び、信長に臣従した。こうして畿内の帰趨は決したが、三好家の長老格である三好康長は、河内高屋城に篭もって、尚も信長に抵抗し続けた。


その、康長も、天正3年(1575年)、信長に攻め立てられて降伏した。これで三好家は畿内の所領を悉く失って、四国への逼塞を余儀なくされる。阿波は三好義賢の長男、三好長治が、讃岐は義賢の次男、十河存保が支配を受け継いでいたが、長治は強権を振るって領民や国人の支持を失い、天正5年(1577年)、長宗我部元親と結んだ、阿波守護、細川真之によって討たれた。兄の死を受けて、存保が阿波、讃岐の支配を継承したものの、その後、元親の侵攻を受けて勢力圏は縮小する一方となる。尚、同年10月には、三好家の旧臣、松永久秀が再度、信長に逆らって滅亡している。


天正8年(1580年)を迎える頃には、存保は阿波東部と讃岐東部を保つのみとなった。窮地に追い込まれた存保は、三好家の仇敵であるが、畿内を制した信長の力に頼る他、無かった。先に信長に降伏して、重用されていた三好康長が仲介したと思われる。しかし、信長は長宗我部征伐の暁には、自身の息子である信孝に讃岐を与え、康長に阿波を与える方針で、存保の処遇は不明であった。阿波を与えられる康長にしても、信孝を養子に迎えていたので、最終的には阿波、讃岐両国は織田家の所領となる。


天正10年(1582年)6月、信長は征討軍を編成して四国に送り込まんとしたが、その矢先の6月2日、本能寺の変にて倒れ、計画は立ち消えとなった。これを受けて元親の侵攻は激しさを増し、同年中に存保は阿波の大部分を失い、天正12年(1584年)には讃岐も失って、豊臣秀吉のもとへと逃れた。信長の勢力圏を受け継ぎ、天下人になりつつあった秀吉は、天正13年(1585年)6月、四国に征討軍を送って長宗我部元親を降伏に追い込んだ。秀吉軍に属していた存保は、讃岐に3万石の所領を与えられて、大名の座に返り咲く事が出来た。


しかし、天正14年(1586年)、存保の運命は再び暗転する。同年9月、秀吉が九州の島津征討を開始すると、存保は先遣隊として派遣されたが、同年12月、戸次川の合戦に敗れて、存保は討死してしまう。存保には幼年の嫡子がいたが、秀吉は所領相続を認めず、讃岐の領国は取り上げられてしまった。これで、大名としての三好氏は、完全に命脈を閉ざされる形となった。かつて畿内を制した覇者の哀れな末路であった。

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