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柳川討滅戦

2009.03.15 - 戦国史 其の一
戦国時代、九州の戦国大名が覇を唱えんとすれば、何としても手に入れたい国があった。それが、九州北部に位置する、筑後国である。地図上の面積は小さいが、生産力は高く、太閤検地の石高によれば、約26万6千石あった。1万石に付き250人の動員が出来たとすれば、6650人の兵力が得られる計算になる。だが、なにより重要な点は、筑後国の位置である。やや北寄りであるが、九州の中央部にあって、東西南北の交通の要衝に位置しており、この国を抑えなければ、九州の覇権は握れなかった。


戦国時代中期、筑後15城(筑後の大身15家)を統括する大旗頭として君臨していたのが、蒲池鑑盛である。鑑盛は大友家の麾下にあって筑後国の内、12万石余を領し、柳川城を居城としていた。柳川城は平城であるが、水路が縦横に張り巡らされた難攻不落の堅城であった。
本来、これほどの実力があれば自立を考えるものであるが、鑑盛は、「義心は鉄のごとし」と云われるほど清廉な武将で、最後まで大友家に忠節を尽くさんとした。そして、助けを求める者には手を差し伸べる、仁愛の心も有していた。天文14年(1545年)龍造寺隆信の曽祖父に当たる家兼(剛忠)が馬場頼周の策謀によって所領を追われて筑後に逃れてくると、鑑盛はこれを快く受け入れ、その御家再興の力添えをした。


天文22年(1553年)龍造寺家の家督を継いだ隆信が、配下の土橋栄益の謀反によって所領を追われると、鑑盛はこれも庇護している。そして、2年後には兵300を護衛に付けてやって、佐賀復帰の力添えをした。この様に蒲池鑑盛は、龍造寺家にとって物心両面における恩人であった。天正6年(1578年)大友家が島津家と雌雄を決すべく日向に出征すると、鑑盛も家督を継いでいた次男、鎮漣(ちかなみ)と共に兵3千を率いて、参戦する。しかし、鎮漣は途中、病気と偽って兵2千を率いて柳川に引き返してしまう。鎮漣は父とは違って人並みの野心があり、大友家から離反独立する願望を持っていた。


11月、大友軍と島津軍は高城川を挟んで対峙し、やがて激突に至る。だが、大友軍は、島津軍の罠にはまって大苦戦に陥り、鑑盛も兵1千をもって必死に戦ったものの、壮烈な討死を遂げてしまう。
この耳川の戦い(高城川の戦い)の惨敗を受けて大友家の威信は失墜し、その衰退は明らかとなった。鎮漣はこれを機に佐賀の龍造寺隆信と結んで、戦国大名として自立せんと試みた。そして、隆信が筑後に侵攻を開始すると、鎮漣は叔父に当たる田尻鑑種と共に龍造寺方として働いた。しかし、隆信には九州中央部に進出せんとの野望があって、筑後を我が物としたかったのに対し、鎮漣も筑後の地で自立せんとの野心があったので、必然的に両者の関係に軋みが生じ始める。


天正8年(1580年)2月、ついに鎮漣は隆信に叛旗を翻し、柳川城に立て篭もった。これを受けて隆信も、嫡子、政家に1万3千余の軍勢を授けて、柳川城を包囲させた。その後、龍造寺軍は数を増すと、満を持して猛攻を加えたが、無類の堅城である柳川城はびくともしなかった。龍造寺軍はその後も度々、攻撃を加え、その包囲は300日余に渡ったが、それでも城が落ちる気配は無かった。攻めあぐねた隆信はいったん和議を結ぶ事を決し、田尻鑑種を柳川に遣わすと、鎮漣の方もさすがに長期の篭城で疲弊していたのか、この申し出に応じた。しかし、和議を結んだとは云え、両者に芽生えた不信感は拭えず、お互い警戒を怠らなかった。


天正9年(1581年)2月、隆信は嫡子、政家に家督を譲り、佐賀城も委ねると、自身は隠居して須古城に移った。だが、実権は引き続き、隆信が握っていた。その頃、鎮漣が薩摩島津氏と通じて、再び叛心を抱いていると云う風聞が伝わり、それを裏付ける報告も隆信の耳に入り始める。鎮漣の叛心を知り、それを隆信に通報したのは田尻鑑種であった。鑑種は、隆信に鎮漣殺戮を勧めて、その所領を恩賞として賜る事を望んでいた。
鑑種の思惑がどうであれ、隆信とすれば蒲池家と島津家が結び付く事だけは、何としても避けねばならなかった。島津家は大友家を日向で破った後、矛先を肥後に転じて北上の気配を示しており、龍造寺家との激突は時間の問題となっていた。柳川城は、龍造寺家の本拠、佐賀から指呼の距離にあり、これが島津家の拠点となれば、龍造寺家の存亡にも関わってくる。隆信としても必死であり、今度こそ鎮漣を討滅せんとの決意を固める。


しかし、隆信は前回の柳川城攻めで、その堅城振りを身に染みており、今度は謀略を用いて蒲池氏を討滅せんと策した。5月中旬、隆信は、「昨年に結ばれた和平の答礼をしたいので、佐賀にお越し頂きたい。そして、須古城にて猿楽を興行するので、鎮漣殿は役者を連れて、お越しあるように」と丁重に申し入れた。鎮漣は猿楽の名手であったらしく、それに事寄せて誘き寄せようとしたのである。鎮漣は最初は疑って返事もしなかったが、使者は誠意をもって説き、母や伯父の鎮久もそれに賛同したので、鎮漣もついに佐賀に赴く決意を固めた。


ルイス・フロイスの記述によれば、天正8年(1580年)に隆信は、大村純忠と蒲池鎮漣の両者に和平締結のため、佐賀城に来るよう呼びかけたとある。
鎮漣は警戒して自重したが、大村純忠の方は佐賀に赴き、そこで盛大なもてなしを受けて、何事もなく帰国した。翌天正9年(1581年)、鎮漣は、純忠が無事に帰還したのを確認した上で、佐賀に赴いたとある。この純忠の招待劇は、鎮漣を油断させるために打った、隆信の謀略であるとフロイスは推測している。


5月25日鎮漣は万が一に備え、家中から選りすぐった武士を引き連れ、それに猿楽者を合わせた300人余で柳川を発った。その日の夕方、鎮漣一行は佐賀に到着すると、政家の案内で城内に招かれ、そこで盛大な酒宴が催されて心尽くしの饗応を受けた。鎮漣らはその夜、城北の本行寺に泊まり、翌26日も滞在する。何事もなく2日間を過ごし、鎮漣一行の警戒心も解きほぐされていった。明けて27日早朝
鎮漣一行は、今度は隆信の居城、須古城へと向かうべく、本行寺を出立した。しかし、鎮漣らが本行寺を出てまもなく、与賀の馬場に差し掛かった時、待ち伏せていた完全武装の龍造寺軍が一斉に姿を現して、鎮漣一行に襲い掛かった。


鎮漣は選りすぐった精鋭を連れて来ていたが、多勢に無勢、それに不意を突かれたこともあって、たちまち討たれていった。鎮漣に佐賀行きを勧めた伯父、鎮久は後悔しつつ、群がり寄せる龍造寺軍に斬りこんで討死を遂げた。鎮漣はもはや逃れられぬ身と悟ると、主従3人、刺し違えて自害した。「北肥戦誌」によると、ここで、鎮漣を始めとする、173人の蒲池勢が斬殺されたとある。事件後、無念の最後を遂げた鎮漣の亡霊が出ると噂されたので、鍋島直茂は六地蔵を立てて、浮かばれぬ魂を慰めたとされる。現在もその六地蔵は、佐賀市田布勢町に存在している模様である。


鎮漣謀殺の報を聞いて、蒲池氏の本拠、柳川城は上も下も騒然となった。隆信はこの機に乗じて柳川の地を征すべく、田尻鑑種に柳川討伐を命じた。柳川城内にいた鎮漣の弟、蒲池統春は、最早、柳川城は保てないと定め、城を明け渡すと、自身は支城の佐留垣城へと退いた。それとは別で、鎮漣の夫人(玉鶴姫)と6歳になる嫡子、統虎丸、それに主だった一族郎党500人余は柳川東南にある塩塚城へと移った。しかし、龍造寺方は攻撃の手を緩める事無く、塩塚城へと押し寄せた。


天正9年(1581年)6月1日、田尻鑑種軍と目付けの鍋島軍合わせて数千人余は、塩塚城へと攻め寄せた。この塩塚城は一族の蒲池鎮貞が城主となっており、そこに男女500人余が篭っていた。午前6時から始まった戦いは熾烈なものとなり、午後12時頃、城は落城した。城攻めの主力、田尻軍には100人余の討死と数百の手負いを出し、城方は蒲池鎮貞を始めとする老若男女500人余が斬殺された。鎮漣夫人(玉鶴姫)は隆信の娘であったとされているが、父に降る事を良しとせず、蒲池一族に殉じた。後年、塩塚城には蒲池一族郎党を弔う慰霊碑が建てられた。


隆信は続いて、田尻鑑種に蒲池統春の篭る佐留垣城の攻略を命じる。6月3日、田尻軍の他、龍造寺の援兵も加わって、佐留垣城への攻撃が始まった。蒲池統春以下100人余が討ち取られて落城すると、斬獲された首は隆信の実検に供するため、二艘の船で佐賀に運ばれていったと云う。この柳川討滅戦で隆信は筑後国を得て、九州中央部への進出が可能となった。隆信はさらなる飛躍の土台を得たのであるが、同時に暗い影も落とすようになる。


蒲池鎮漣が油断ならない人物であったとはいえ、大恩ある蒲池家に対してとった隆信の容赦のない仕打ちは、いくら戦乱の世であったにせよ、決して評判の良いものではなかった。蒲池一族討滅後、田尻鑑種・黒木家永ら筑後の国人達は、次は自分かもしれないと云う疑心暗鬼に囚われたのか、ほどなくして龍造寺家から離反し、隆信の手を煩らわせるようになる。島津氏との対決が迫っていたので、隆信は強引な手段を用いざるを得なかったのであるが、この蒲池一族の討滅が人心の離反を招き、滅亡に繋がっていったと云われている。


隆信は 「分別も久しくすればねまる(名案も実行の機会を失えば、意味のないものとなる)」と云う言葉を残したとされている。機会が訪れるまでは隠忍自重に努めるが、その機会が訪れれば、間髪入れずに実行に移す武将であった。果断実行型の武将であり、それが龍造寺家を興隆に導いていったのであるが、目的の為ならば手段を選ばない非情な一面もあった。隆信は「恐れられているうちは、恐れさせておけ」と云う言葉も残している。


隆信は、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで惨敗し、56歳の生涯を閉じた。隆信は、沖田畷で不覚を取った事と、人間性が残忍であると流布されている事もあって、その評判は極めて悪い。しかし、隆信の戦死の際、付き従っていた部将の多くは、その最後に殉ずるかの様に、枕を並べて討死している。また隆信は、名将、鍋島直茂を深く信頼して、自分の代理としても活用している。冷酷な一面のみが強調されているが、度量が広く、人間的な魅力もあったのだろう。そうでなければ、九州三強と呼ばれるだけの勢力は築けない。蒲池家の討滅と、沖田畷の惨敗から、後付けで評価を著しく陥れられた武将である。




 
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鬼武蔵の覚悟 

2009.02.09 - 戦国史 其の一

永禄元年(1558年)、森長可は、織田家の重臣、森可成の次男として生まれた。弟には、かの有名な森乱丸がいる。元亀元年(1570年)4月25日、 兄、可隆(よしたか)は、越前手筒山城攻めの際、討死し、同年9月20日には、父、可成も近江坂本にて討死してしまう。そこで、まだ若干13歳であった長可が、家督と所領の美濃金山(兼山とも)城を受け継ぐ形となった。元亀4年(1573年)3月、伊勢長嶋の一向一揆攻めに加わって16歳で初陣を飾り、その後も長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参戦するなど、若くして武功を挙げた。戦場での勇ましい戦い振りに加え、度々見せる傍若無人な振る舞いから、人々から鬼武蔵と称された。 織田信長は、この暴れん坊の若武者をいたく気に入って、度々の重大な軍令違反にも目をつむった。おそらく信長は、自らの若かりし頃の面影を長可に見出したのであろうし、気質的にもうまが合ったのだろう。




天正10年(1582年)2月6日、武田攻めが開始されると、長可は同僚の団忠正と共に織田軍の先陣を切って信濃に攻め入った。そして、信長の嫡男、信忠を大将とする高遠城攻めに参加して、これを攻め落とすのに重要な働きを示した。しかし、この時、長可は忠正と競い合って、上司の川尻秀隆に無断で前進して武田方を攻めるなどしたので、信長から書簡で注意を受けている。信長は長可の軽率な行動を戒めようとしたのだが、長可に改めた様子はなく、そのまま関東の上野国まで猛進する事になる。長可の働きを一言で表せば猪突猛進であったが、結果的には、この急進撃が武田家に立ち直る隙を与えず、早期崩壊に導く事になった。そして、同年3月11日、武田勝頼は天目山にて自刃し、これにて戦国の強豪、武田家は滅亡となった。 同年3月28日、長可は、その武田攻めの功をもって、信長より信濃北部、更級・高井・水内・埴科の四郡を加増され、20万石余の所領を宛てがわれた。



これで長可は、25歳にして大名身分となり、織田家中にて一目、置かれる存在となった。同年4月5日、長可は晴れて川中島の海津城に入城したが、すぐさま領主として大きな試練に立たされる事となった。平定間もない川中島は治安が不安定で、しかも隣接する越後の大名、上杉景勝が策動を仕掛けて、大規模な一揆が発生したのである。一揆軍は8千人余、大将は芋川親正で、上杉景勝と結び付いて、大倉の古城を修復して立て篭もった。同年4月7日、一揆軍が進撃してくると、長可は海津城から打って出て、兵3千余をもって一気呵成に攻め立て、一揆勢1,200人余を討ち取る大勝を得た。続いて大倉古城も攻め落とし、城内に残っていた女、子供1,000人余を容赦なく切り捨てた。この時の長可の弾圧は苛烈であったようで、後のこの地を支配した、上杉景勝は、「町人、村人達は無力である」と書状で述べている。




長可はこの一揆鎮圧の功をもって、信忠より感状を受けた。同年5月27日、 長可は領地経営に意を注ぐ間もなく、信長より越後進出を命ぜられ、兵5千を率いて北上する。同年6月初旬、越後に侵攻した長可が上杉景勝と対峙していた時、驚愕すべき知らせが届けられた。天正10年(1582年)6月2日、上方にて本能寺の変が起こり、そこで主君、信長と3人の弟が戦死したとの事であった。だが、長可にはそれを悲しむ余裕も、逡巡する時間もなかった。今、居るのは敵地のど真ん中であって、すぐさま兵をまとめて脱出せねば全滅する恐れがあった。長可は川中島へと舞い戻ったが、そこは既に敵地と化していた。川中島の国人達は長可を見限って、再び一揆を起こしたのである。 折角、手にした領土であったが、最早、維持するのは困難で、長可は旧領、金山への帰還を決意した。



長可は川中島4郡の諸氏から人質を取っていたので、これを盾にしつつ、信濃からの脱出を図った。しかし、それでも一揆勢が前に立ちはだかったので、長可は一戦交えてこれを撃ち破り、猿ヶ馬場峠に到着した時点で、一揆勢と関係のある人質を処刑した。長可は続いて木曽谷を抜けんとして、地元の領主、木曽義昌と交渉を持った。長可は、川中島4郡の人質を譲り渡すという条件で、木曽谷の通過を認められ、無事に美濃金山まで帰還する事が出来た。しかし、木曽義昌は、長可の殺害を計画していたと云う説もある。そうと知った長可は、予定を早めて夜間、木曽福島城に押し入り、義昌の嫡男、義利を捕らえて人質として、金山城への帰還を果たしたとされる。尚、義利は美濃国の大井宿(おおいじゅく)まで来たところで、解放されたと云う。



織田信長、信忠の死を受けて、美濃は無主の地となり、各地の国人達がそれぞれ勢力の伸張を図る、群雄割拠状態に陥った。そして、長可も金山帰還後、近隣の切り取りを開始した。天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老が集まって清洲会議が行われ、信長の三男、信孝が美濃の主となるが、長可はこれに叛いて尚も近隣の切り取りを続け、信孝の重臣、斎藤利堯が守る加治田城をも攻め落とした。これにより、東美濃の諸城の多くが長可に属する事となった。清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化し、戦に発展すると長可は秀吉方に付いて、柴田方となった信孝の諸城を攻め立てた。信孝は足元で起きている、東美濃での長可の働きや、西美濃の重鎮、稲葉一徹の離反を受けて岐阜城からまったく動く事が出来なかった。



そして、天正11年(1583年)4月20日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れ、北ノ庄で滅亡すると、孤立した信孝は岐阜城を開け渡し、まもなく切腹を命ぜられた。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が対立を深め、「小牧・長久手の戦い」へと発展すると、長可は舅の池田恒興と共に秀吉方で参戦する。同年3月13日、恒興が織田信雄の支城、犬山城を奪取すると、これに歩調を合わせる形で、3月16日、長可も3千人余を率いて尾張羽黒へと進軍し、小牧山城の奪取を狙った。しかし、この動きは家康に読まれており、3月17日早朝、長可は家康家臣の酒井忠次、榊原康政ら5千人余の奇襲を受けて、300人余を討ち取られる敗北を喫した(羽黒の戦い) 。長可は、この敗北に深い恥辱を覚える。この後、家康は小牧山城に入り、周囲に砦や土塁を築いて秀吉の来襲に備えた。



3月28日、秀吉は大軍を率いて楽田に着陣し、家康と向かい合うが、小牧山を中心とした徳川方の防備が堅いのを見て、楽田を中心に城砦群を築く。こうして厳重に守りを固めた両軍は、迂闊に手を出せなくなり、戦線は膠着状態に陥った。秀吉は兵力では勝っているので、別働隊を編成して、徳川方の陣地帯を迂回しつつ、三河方面に侵攻する計画を立てた。別働隊の編成は、本隊の羽柴秀次が8千、三番隊の堀秀政が3千、二番隊の森長可が3千、先鋒の池田恒興、元助父子が6千で、合計2万人余の大軍団であった。長可はこの作戦に参加するにあたり、羽黒での敗退を挽回すべく心に期するものがあった。そして、自筆の遺言状を、秀吉の近臣である尾藤甚右衛門に宛てて送った。



4月6日夜、秀次別働隊は三河に向けて出陣するが、練達の家康はすぐさま、その動きと意図を読んで動き出した。そして、榊原康政ら4,500を先鋒として出立させると、自らも織田信雄と共に先鋒に続いて、秀次別働隊の追跡を開始する。4月9日、秀次別働隊は行軍中、岩崎城近辺を通過するが、ここで岩崎城兵の妨害を受けたので、池田隊が応戦し、これに森隊も加わって攻城戦が開始された。城方は圧倒的な寄せ手相手に善戦したものの、衆寡敵せず、16歳の丹羽氏重以下200人余の城兵が全滅して、岩崎城は落ちた。城を落としたものの池田隊の疲労は大きく、休憩を兼ねて配下の論功行賞を始めた。そのため秀次本隊も停止して、敵地で別働隊全体の動きが止まった。しかし、その間に徳川軍は背後に忍び寄り、最後尾の秀次隊に狙いを定めると、一斉に襲い掛かった。



不意を突かれた秀次隊は壊乱し、総大将の秀次はからくも長久手方面に逃れた。 三番隊の堀秀政は沈着冷静で、後方の銃声ですぐさま徳川軍の追撃と判断し、隊を返して秀次を収容し、備えを固めて徳川軍を待ち受けた。家康先鋒隊は勢いよく堀隊に攻めかかったが、待ちかまえていた堀隊に鉄砲の一斉射撃を受けて冷や水を浴びせられた挙句、槍隊の逆襲を受けてたまらず崩れたった。先鋒の敗走を知った家康は直ちに救援に向かい、御旗山(長久手にある丘陵)に上って、頂上に自らの所在を示す金扇の馬印を打ち立てた。秀政はこの金扇を見て、難敵、家康の着陣を悟る。しかし、堀隊は井伊直政隊の攻撃を受けて打撃を受けた事に加え、主将の秀次を無事逃す必要もあって、秀政は家康の着陣を先鋒の池田、森隊に通報してから、戦場を離脱した。



一方、恒興と長可は秀次隊の敗報を受けて、すぐさま引き返しにかかったが、その途上で、御旗山に陣取る徳川、織田連合軍と遭遇した。森隊、池田隊は合わせて9千人余で、徳川軍は織田信雄隊を含む1万人余であった。森隊、池田隊は家康に帰路を塞がれて、戦って押し通るしか方策は無かった。両軍、しばしの睨み合いの後、4月9日午前10時頃、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。双方、戦歴を積んだ武将同士で、人数もほぼ互角とあって、両軍入り乱れての激闘が続き、どちらに軍配が上がるかわからない状況であった。そして、長可も前線に立って、鬼武蔵の名に相応しい猛戦を続ける。 だが、激戦の最中、一発の銃弾が長可の眉間を撃ち抜いた。長可は馬上から崩れ落ち、その首は徳川方によって掻き切られた。森長可、享年27。この長可の討死を切っ掛けとして、池田隊も崩れ始め、恒興も勇戦空しく、嫡男、元助と共に討ち取られる。



こうして、秀次別働隊は前後共とも壊滅した。この小牧・長久手の戦いで秀吉方は2,500人余り、家康方は550人余りの戦死者を出したとされている。長可の討死後、遺言状の内容は尾藤甚右衛門を通じて、秀吉や長可の家族に伝えられた。 長可討死の13日前に書かれた遺言状の内容はこうである。


「宇治にある名物の沢姫の茶壷と、山城の仏陀寺にある台天目茶碗、いずれも秀吉様に進上する。もしも自分が討死したならば、母上は秀吉様から生活費を頂いて京都に住んでもらいたい。末弟の千丸は今のまま秀吉様に奉公せよ。自分の後継者をたてることはくれぐれもいやである。しかしこの金山城は要地であるから、しっかりとした人物を秀吉様から置いてもらえ。女達は急ぎ大垣の池田家に帰らせよ。粗末な茶道具や刀や脇差、仏陀寺にある物の他はみな千丸に与える。ついで、京都の本阿弥家に預けてある秘蔵の脇差二つも千丸にやる。おこうは京都の町人か医者に嫁がせよ。母上は必ず必ず京都にいていただきたい。千丸にこの金山城を継がせるのはいやだ。けれども万が一総負けになったなら、皆々火をかけて死んでほしい」



長可の兄、可隆は元亀元年(1570年)に越前敦賀・手筒山城を攻めた際に討死しており、同年には父、可成も近江坂本合戦で討死している。更に、天正10年(1582年)、本能寺の変の折には森乱丸・坊丸・力丸の弟3人を一挙に失った。長可は戦場に於いては命知らずの猛者であるが、戦国の世の苛烈さは身をもって味わっており、自分が討死した際には、残された遺族はもう戦乱に巻き込きこまれないでほしいと願っていた。 それでも、戦乱に巻き込まれたなら、せめて武家らしい最後を遂げてもらいたいと言っている。長可の遺書を読んで、妙向尼(長可の母)は嘆き悲しんだ事であろう。夫と4人の息子を失い、今また長可を失ったのである。 その後、女達(おそらく妻とその侍女達)は妻の生家である池田家に帰り、おこう(おそらく長可の娘)は遺言通りに商人に嫁いだものと思われる。



だが、金山城は、千丸こと忠政が継ぐ事になった。長可は忠政に城を継いでもらいたくはなく、秀吉の近習として仕えてもらいたいと望んでいた。しかし、この措置は森家を存続させてやりたいという秀吉なりの配慮であったのか、それとも、大勢の家臣を抱える大名としての森家の責務であったのか。その後、忠政は関ヶ原の戦いの折には家康方に付き、加増を受けて森家を存続させることに成功する。そして、森家は紆余曲折はあったものの、大名として明治までその名を残す事となる。 戦国時代、大勢力を誇る一族であっても、一敗地にまみえれば、族滅する事も日常茶飯事であった。その中で、多くの犠牲を払いながらも大名として存続できた森家は、まだこれでも幸運な方であったのかもしれない。

戦場に消えた織田家有力部将 

2009.01.15 - 戦国史 其の一
塙(原田)直政(ばん なおまさ ?~1576年)


直政の生年は不明であるが、尾張の出身で、早くから織田家に仕えた。織田信長の馬廻(主君の護衛、側近、小部隊指揮官)として長く仕え、その後、信長の親衛隊とも言える赤母衣衆に抜擢されている。しかし、一軍を率いる部将になるまでには到らず、身上は小さいままであった。だが、直政には優れた実務能力があったらしく、
永禄11年(1568年)、信長が京を掌握すると、その能力を見込まれて吏僚(行政官)に抜擢され、明智光秀・羽柴秀吉・島田秀満・村井貞勝ら織田家を代表する部将や吏僚と、肩を並べて京都の行政を担う様になった。


天正2年(1574年)5月、直政は、これまでの実績を買われて大抜擢され、山城国の守護に任ぜられる。山城国は当時の日本の首都である京を擁しており、直政はその枢要な地の軍事指揮権と統治権を委ねられたのである。更に天正3年(1575年)3月には、大和守護も兼任するようになった。この他、河内国でも直政は所領安堵、課役免除などの行政に携わっていたので、この地の支配権も委ねられていたらしい。直政は僅か数年で、小部隊指揮官である馬廻から一躍、数ヶ国を束ねる織田家の大部将に出世したのである。


信長は、来たるべき石山本願寺攻めに備えて、南山城と大和の国衆を束ねる役割を直政に期待していた。その内、大和国は、室町時代を通して大寺院の興福寺が、1国の支配権を握っていた特殊な地域であった。しかし、戦国時代に入ると、興福寺の支配力は衰え、傘下にあった寺社勢力や国人達は自らの勢力伸張を図って、群雄割拠状態となった。大和国の国人、寺社は互いに争いながらも、外部からの支配者は跳ね付けんとするので、なんとも統治し難い国となっていた。
直政は、その大和の諸勢力を束ねるために赴任してきたのだが、無論、その命に服する者はほとんどいなかった、直政はまず山城の槙島に本拠を置き、そこから頻繁に大和に赴いては、反抗する国人を攻めつぶしたり、説得して懐柔していった。直政の働きは精力的で、織田家の支配を大和のみならず南山城にも浸透させていった。直政の働きはこれらの国だけに止まらず、一軍を率いて、織田家の命運を左右する重大な戦役にも参戦するようになる。


天正3年(1575年)5月21日、武田家と織田家の間で行われた史上有名な「長篠の戦い」では、直政は佐々成政・前田利家らと共に鉄砲奉行を務めて、その勝利に貢献した。同年7月3日には原田備中守に任官され、これをもって原田直政とも称される様になる。任官を受けた織田家臣は極少数であり、これは織田家の重鎮として認められた証であった。同年8月、織田軍による越前一向一揆討伐戦にも直政は参戦して、一揆勢数多を斬り捨てた。この時、越前に赴いていた奈良興福寺大乗院の僧、尋憲(じんけん)は、織田軍が行っていた凄まじい弾圧の一部始終を目撃して、それを記録に残している。尋憲は、用があって直政の陣を訪れると、そこに一揆勢と目された農民200人余が連行されてきた。そして、目の前で次々に首を刎ねられ始めたので、尋憲は肝をつぶして驚き、直ちに農民達の助命を直政に願い出た。直政はこれを受け入れ、残った農民は助けられたとか。このように直政は一軍を率いて信長の統一戦に加わるようになり、行政面だけで無く、武略の面でも存在が増すようになる。


天正4年(1576年)2月21日、直政は、大和の有力者である筒井順慶と松永久通を両脇に従えて、興福寺で薪能(たきぎのう)を見学した。これは大和の第一の実力者が、直政であると云う事を視覚的に示している。この瞬間こそ、直政の絶頂期であったあろう。これから先の直政には、石山本願寺と云う大敵が立ちはだかる事となる。同年4月、本願寺と信長の間で結ばれていた講和が破れると、信長は、明智光秀・細川藤孝・荒木村重・塙直政の4将に本願寺攻撃を命じた。そして、織田軍は三手に分かれて、本願寺攻略に取り掛かった。光秀・藤孝軍は東南の守口・森河内に砦を築き、村重軍は海上から攻め寄せて北方の野田に砦を築き、直政軍は南方から進んで天王寺に砦を築いた。


まずは各軍、砦を築いて本願寺を包囲する態勢を取った。 しかし、これだけで、本願寺を封じ込めるには不十分であった。本願寺は大阪湾の岸沿いに幾つもの砦を構えて、毛利、雑賀水軍からの支援を何時でも受けられる体制を取っていたからである。信長としては早々に決着を付けたかったであろうが、天険の要害に大兵力で篭もっている相手に、すぐさま強攻を加えるのはさすがに無理があった。そこで信長は、本願寺を支援する城砦群から潰していって補給路を断ち切り、孤立無援に追い込もうと考えた。そして、石山本願寺から程近く、海沿いにある三津寺砦に目を付けて、その奪取を直政に命じたのだった。


直政は勇躍、天王寺砦から出陣し、それに代わって明智光秀、佐久間信栄らが天王寺砦の留守を預かった。直政の軍は大和、山城、和泉の3カ国から召集した1万人余の兵力で、信長はこの直政の軍を本願寺攻めの主力と見なしていたようである。そして、5月3日早朝、直政軍は三好康長を先鋒として、三津寺砦に対する攻撃を開始する。三好康長は和泉と根来寺の兵を率いて攻め掛かり、その後ろには直政率いる山城、大和の兵が本隊として控えた。
本願寺もこれは一大事と見て、近接する楼岸砦から援兵を差し向けて来たので、合戦は大規模なものに発展した。向かってきた本願寺勢は1万人余で、これに対する直政軍も1万人余であった。兵数では互角であったが、本願寺勢には雑賀衆を始めとする数千丁もの鉄砲があった。その凄まじい乱射を受けて、先鋒の三好康長は崩れ立ち、康長は逃走してしまう。 勢いに乗った本願寺勢は、続いて直政の本隊に襲い掛かった。


崩れそうになる陣容を直政はなんとか立て直し、本願寺勢と数刻の間、激しい干戈を交えた。しかし、形勢は悪くなるばかり、支え切る限界を超え、ついには総軍崩壊となった。直政も本願寺勢に取り囲まれ、一族郎党諸共、討死してしまう。この後、本願寺勢は勝ちに乗じて、明智光秀らが守る天王寺砦にまで押し寄せ、一気に攻め落とさんと力攻めを加えて来た。この天王寺砦は急造の砦であり、防御も物資も不十分であった。ここに閉じ込められた光秀ら織田軍は、全滅の危機に直面する。5月4日、京都にあった信長は直政敗死と天王寺砦の危機を知ると、すぐさま諸国に触れを出して兵を募った。5月5日早朝、信長は陣触れ後、軍勢の集結を待たず、自身は明衣姿(ゆかたびら)の軽装に、百騎余りの共廻りの兵を率いて京を出立する。同日中に若江に到着し、ここで後続の兵を待ったが、急な事で兵はなかなか集まらなかった。翌6日になって主な部将は集まってきたが、兵はようやく3千人余でしかなかった。しかし、天王寺砦からは矢のように注進が届き、3~5日以上はもたないと知らせてくる。


信長は、「かの者共を死なせれば、天下の面目を失う」と述べ、まだ兵は少なかったものの、即時攻撃を決意する。そして、翌7日払暁、信長は3千の兵を3段に分けると、1万5千人余の本願寺勢に突入していった。信長公記では織田軍3千人余とあるが、急な事とは言え、大身の部将がこぞって集結しているので7,8千人はいたのではなかろうか。それでも、織田軍が劣勢なのに変わりはなかったろう。織田軍の先鋒は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆らで、2段目は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが務め、3段目は信長自らが、馬廻りを率いて指揮を執った。少ない兵力で敵陣突破を図るため、鋒矢(ほうし)の陣を採ったと思われる。信長は足軽に混じって戦場を駆け巡り、下知を飛ばしつつ、総軍をまとめた。


本願寺勢は数千丁もの鉄砲を撃ち放ち、弾丸を雨あられの如く、織田軍に浴びせかけた。織田軍は非常な苦戦に陥ったが、それでも砦に近づかんとして、本願寺勢に斬り込んで行く。その混戦の最中、信長自身も弾丸を足に受けて、危うく討死するところであった。織田軍は本願寺勢の只中を切り開いて、ついに天王寺砦に入った。だが、本願寺勢もそれに怯む事無く、多勢を頼りに砦の攻囲を継続しようとする。このままでは砦に封じ込まれると見た
信長は、時を置かず、再び敵陣に突入すると諸将に告げた。それを聞いた諸将は驚き、兵力不足を考慮して口々に、「合戦はご無用」と諌めるが、信長の決意が揺らぐ事は無く、織田軍を2段に構えて、砦から打って出た。織田軍の再突入は、本願寺勢の意表を突くものだったらしく、これを散々に切り崩し、2700余を討ち取って、本願寺の城門まで追撃を加えたのだった。天正5年(1576年)5月3日~7日間に起こった本願寺勢との戦いは苦戦の連続であったが、信長は辛うじて勝利を収め、本願寺勢を寺内に押し返す事に成功した。


信長はこの合戦後、本願寺の力を改めて見直し、宿将の佐久間信盛を大将として、七ヶ国の与力を付与した3~4万人に及ぶ大軍団を編成して、石山本願寺を囲ませた。そして、信長は、自身が討死の危機に陥るほどの苦戦を招いたのは、直政の敗戦にあると見なし、塙一族に対して苛烈な処置を申し渡した。すなわち、直政の所領は全て没収され、その腹心であった丹羽二介・塙孫四郎は罪人として捕縛され、残る一族郎党も織田領国内において寄宿厳禁となった。 つまり、塙一族は裸一貫になって、追放されたのである。


信長としては、直政の敗北が余りにも無様に感じたのかもしれない。そして、このような失策は、二度とあってはならないとの思いから厳罰を下したものと思われる。しかし、この措置を聞いた織田家部将達は、譜代の重臣であっても、敗北を喫すれば全てを失うと、戦慄した事だろう。
本願寺との戦いで歴史から消えていった直政であるが、あの敗北が無ければ、本願寺を担当する軍団長格になっていただろう。そのまま、本願寺を屈服させる事に成功したなら、直政は畿内を統括する実力者となって、明智光秀が台頭する事も難しくなったかもしれない。


当時、軍団長と云う役職はなかったのであるが、現在から見れば、そう呼ぶのが相応しいと思われる。織田家の軍団長は数ヶ国に渡る国衆の軍事指揮権を委ねられており、それを任されると云うことは、織田家の宿老として認められた証左であろう。織田家臣の最上位に位置する彼らの戦力は、各国の有力戦国大名に匹敵、あるいは上回るほどであり、並大抵の器量の者では務まらない。直政はその軍団長格であったのだから、相応の器量はあったのだろう。 その彼にとって不幸だったのは、敵とした相手が、信長でさえ手を焼く、大敵本願寺であった事である。そして、直政は、地位と栄誉と命を、一度の敗北で全て失ったのであった。 運が悪かったと言えばそれまでであるが、大規模な軍勢を動かすには、まだ経験不足であったのかもしれない。




豊臣政権、損失の10年

2009.01.02 - 戦国史 其の一
1590年から1599年までの10年間に豊臣政権は、政権を支え得る人材を多数、失っている。 その彼らが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いまで生きていたらと仮定してみた。


この10年の間で、私が知っている限りの主な人物を挙げてみると。



●堀 秀政(1553年~1590年)

美濃郡茜部の小豪族の家柄に生まれたが、能力重視の織田信長によって取り立てられ、やがて、菅谷長頼と並んで、信長の側近筆頭の位置にまで立つ。秀政は政務だけでなく、戦場でもその力を如何なく発揮し、名人久太郎と称された。秀吉にもその才を愛され、天正10年(1582年)の段階で羽柴性を賜っている。


以後、秀吉の最有力部将として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州攻め、小田原攻め、等に参陣し、それぞれで重要な働きを示している。このように秀政は秀吉の天下取りに大いに貢献して、一門格の待遇を受けていた。小田原参陣中に38歳の若さで惜しくも病没するが、長生きしていれば100万石級の大大名になっていた可能性が高い。関ヶ原まで存命だったなら、西軍の総大将となっていたかもしれない。



●豊臣 秀長(1540年~1591年)

秀長は政務、軍務ともに優れているだけでなく、人望厚い人格者でもあった。常に兄、秀吉を立てて、その天下統一事業を影から支えた。秀吉の代理として政務や交渉を司ったり、軍を率いて遠征に赴く事も度々で、特に四国攻めでは病気で動けない秀吉に代わって、総指揮官として活躍している。豊臣政権の大黒柱的な存在であったが、天正19年(1591年)1月22日、多くの人々に惜しまれながら、52歳で病没した。そして、翌文禄元年(1592年)、豊臣政権に深刻な打撃を与える事になる、朝鮮出兵が行われる事になる。秀長
が長生きしていたとしても朝鮮出兵は実施されただろうが、その結果、生じるであろう政権内の対立は、彼が存命だったなら抑えられていただろう。慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、政権分裂は起こらず、豊臣家が今後も日本を主導していったであろう。豊臣政権にとって、彼の死は最も大きな痛手であった。



●加藤 光泰(1537年~1593年)

一般的には知名度は低いが、秀吉からは、関東の徳川家に隣接する重要な国、甲斐一国を任されるほどの信頼を受けていた。秀吉の数少ない譜代家臣の1人で、職務に忠実かつ、一徹な性格の持ち主であった。 ここに挙げている人物の中で加藤光泰は最も地味な存在だが、一浪人から国持ち大名にまで上り詰めた器量人である。
文禄2年(1592年)、朝鮮出兵中に光泰は重病に罹り、秀吉に一通の遺言状を残して57歳で病没した。その遺言には、息子はまだ年少であり、甲斐の国を任せるには心許ないため、その領地は召し上げて秀吉の近習として使ってもらいたいとあり、それは実行されている。


大半の大名は、手に入れた領土と財産をそのまま可愛い息子に残そうとしていたが、光泰は公を重んじて、領土の返還を申し出たのだった。私利私欲無く、秀吉への忠義を貫き通した生涯だった。関ヶ原の戦いまで存命で甲斐の国を任されていたならば、西軍側に立って、東軍の足止めをしていただろう。そうなれば、家康の西上は困難に見舞われ、その間に西軍は足場を固めることが出来ていたかもしれない。



●豊臣 秀次(1568年~1595年)

秀次は、秀吉の姉、智子の子である。秀吉がなかなか実子に恵まれなかった事もあって、後継候補として引き立てられた。その後は、数々の重要な戦役に参戦して、それなりの戦果を上げている。天正19年(1591年)11月に正式に秀吉の養子となり、同年12月には24歳にして関白となった。若くしてこれほどの地位に就けたのは勿論、秀吉の親族であったからだが、そこそこの能力は持っていたと思われる。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、精神的に不安定となり、問題行動を起こしたとある。そして、文禄4年(1595年)、謀反の嫌疑をかけられて、28歳で切腹となった。殺生関白と罵しられるほどの悪行を本当にしていたかどうかは疑問であり、これは秀次粛清を正当化するための後付けであろう。秀頼が成人するまで、秀次が後見役として収まる事が出来ていれば、豊臣政権は長続きしたかもしれない。しかし、政権が秀頼派と秀次派に分かれ、秀吉死後に内紛が起こる可能性も否定できない。



●蒲生 氏郷(1556年~1595年)

織田信長に近習として仕えていた頃、早くもその器量の片鱗を見せ、信長は娘の冬姫を宛てがって、一門に迎え入れている。その期待に応えて、氏郷は信長の主要な戦いのほとんどに参戦して、武功を上げた。その次の天下人、秀吉にも
秀吉にも重く用いられて、ついには会津92万石の大大名にまでなった。秀吉は氏郷に、東北の驍勇、伊達政宗と関東の大実力者、徳川家康を押さえ込む役割を期待していた。しかし、逆に言えば、会津は一癖も二癖もある両実力者に挟まれる形ともなる。


このような難しい地勢の会津を任された事こそ、氏郷が政戦両略に優れていた何よりの証である。また、
氏郷は茶の湯にも深い造詣があって、千利休の七哲(高弟)の筆頭でもあった。この氏郷が関ヶ原まで存命だったなら、豊臣政権の大老に名を連ねていただろう。そして、越後の上杉景勝や常陸の佐竹義宣と協力して、徳川家康、伊達政宗を牽制していたのではないか。この3人が組めば家康、政宗は動こうにも動けなかっただろう。



●小早川 隆景(1533年~1597年)

小早川隆景は毛利元就の三男であり、政戦両略で才能を発揮して、毛利家の発展に尽力した名将である。元就死後には、家中の指導者的存在となるが、豊臣秀吉にもその才を愛され、政権中枢に迎え入れられて、五大老の1人となっている。1595年には養子、小早川秀秋に家督を譲って三原に隠遁するが、関ヶ原まで存命だったなら、毛利家を影から指導し、小早川秀秋もその意向に従って動いたかもしれない。


毛利一門を合わせると、毛利輝元120万石・吉川広家14万石・小早川秀秋34万石・小早川秀包13万石・安国寺恵瓊6万石の合計187万石という戦力となる。この戦力が隆景の指導の下、結集して睨みをきかせれば、家康もおいそれとは動けない。もっとも、隆景は老年であり、隠退の身でもあったので関ヶ原まで存命であったとしても、どれだけの指導力を発揮できたかは分からない。



●前田 利家(1538年~1599年)

信長の一部将から始まって武功を重ね、能登国の大名となった。若かりし頃は血気盛んで、己の槍1本で成り上がって来たが、老成すると学問を習得し、茶の湯や能にも通じた、正に文武両道の武将となった。信長死後は柴田勝家に組したが、賤ヶ岳の戦いでは勝家を見限って無断撤退し、秀吉の勝利に大きく貢献する。その後は秀吉に付き従って昇進を重ね、やがては徳川家康に次ぐ官位を得るまでになった。秀吉に近しい関係と、その人柄を見込んで諸大名から取次ぎ役として頼りにされた。


家康には実力では及ばなかったが、人望では上回っていたと云う。秀吉とは古くからの付き合いでその信頼も篤く、秀吉が死を迎える際には、嫡子、秀頼の傅役(もりやく)を委ねられた。 慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、家康と協調しつつ政権内の対立を抑える事に尽力したのではなかろうか。もし、戦いに発展したならば、西軍の総大将となっていただろう。そうなれば、史実よりも多くの武将が彼の元に参集し、その結束も固くなっていただろう。


豊臣秀吉はなかなか実子に恵まれず、しかも親族も少なかったため、力量があって自らに忠誠を誓う武将は、一族の様に貴重な存在であっただろう。これらの人物を失ったのは豊臣政権にとって大きな損失であり、その寿命を縮める結果となった。これらの人物の内、一人でも長生きしていれば、家康の天下取りは困難に見舞われていただろう。しかし、家康を止められるほどの力量がある人物でも慶長5年(1600年)から数年ほどで亡くなってしまえば、やはり家康は天下取りに動き出すだろう。それに加えて、豊臣政権内では武断派と文治派の対立が頂点に達しており、これを抑えられる実力者がいなければ、遅かれ早かれ内乱状態に陥ったと思われる。


上記に挙げた人物に関わりなく、関ヶ原で西軍が勝利を収め、家康を倒していたと仮定しても、豊臣政権は安定しなかっただろう。豊臣家は血の通った親族を全国の要所に配置したいが、その親族がいない。そうなると要所にも外様大名を配置せざるを得なくなり、全国に親藩や譜代藩を配置した徳川政権よりも不安定な政権になる。それに豊臣秀頼もまだまだ幼い事から、指導力など発揮しようもない。豊臣家は勝利によって石高こそ増えるだろうが、当面は象徴的な存在として祭り上げられるだけだろう。


それに、西軍が勝利したとすると石田三成はもちろんだが、毛利家、上杉家も大きな役割を果たした事になり、両者は150~200万石級の大大名に成長する事になる。この東西の大実力者は石高の増大に比例して、発言力も大きくなるだろう。そして、西軍勝利後の新生豊臣政権は、これら雄藩の実力者を集めた連合政権にならざるを得ない。その中で石田三成が豊臣家の権威を背景に、政権を主導していくのだろうが、雄藩の実力者とどれだけ協力し合えるだろうか?政権運営に行き詰まれば、実力者の力を削ぐ必要が出て来て、天下にもう一波乱か二波乱、起きそうである。

 

梅津政景と院内銀山

2008.12.29 - 戦国史 其の一

梅津政景(1581年~1633年)

慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開府すると、時代は戦国から近世へと大きく転換してゆく。そして、時代は武勇に長けた人物から、実務に長けた人物を必要としていったのである。梅津政景はそういった大きな時代の転換期に活躍した人物である。


天正9年(1581年)、政景は、下野の戦国大名、宇都宮氏の陪臣であった梅津道金の子として生まれ、兄に9歳年上の梅津憲忠(1572~1630)がいる。しかし、政景がまだ幼時であった時、父道金は浪人となり、父子は常陸国に移り住む。やがて憲忠・政景は兄弟揃って常陸の戦国大名、佐竹義宣に近習として仕えるようになり、両者共、高い実務能力をもって重く用いられるようになる。


関ヶ原合戦後、慶長7年(1602年、佐竹氏が常陸54万5800石から、出羽国20万5800石に移転、減封されると政景もこれに従って任地に赴く。


慶長8年(1603年)政景は佐竹義宣の命により、譜代家老、河合忠遠を刺殺し、これを出世の足掛かりとする。


慶長14年(1609年)政景は院内銀山奉行となる。


慶長17年(1612年)政景は二度目の院内銀山奉行となると、この年から日記を記し始め、寛永10年(1633年)3月6日、政景が死を迎える4日前まで記載は続く。これが梅津政景日記であり、近世初期に書かれた資料の中では、最良のものの一つとされている。


慶長18年(1614年領内の諸鉱山を統括する惣山奉行となる。


慶長19年(1615年)5月
、大坂夏の陣に参戦し、金銀出納の任にあたって佐竹軍の兵站を管理した。戦後、この功績をもって佐竹藩の財政を担当する勘定奉行を任される。


元和2年(1616年)、檜山群藤琴・比井野に新田開発を申し出て許可される。


元和5年(1619年)、家老格となり、藩政実務の中枢を担う。


元和6年(1620年)11月、新田開発に成功し、義宣より藤琴4ヵ村に300石、比井野村に200石、計500石の開知行を与えられる。檜山群藤琴・比井野(秋田県、藤里町と二ツ井町)には岩堰用水が引かれ、この地に広大な新田が切り開かれたのである。このように政景は秋田藩の領内発展に尽力した人物であった。この岩堰用水は現在でも用いられており、二ツ井町全地域の水田を潤している。時代が下ると、その地の農民は感謝の意味を込めて政景を大明神として祀り、その功績を讃えた。


寛永7年(1630年)、政景の兄、梅津憲忠が死去する。享年58歳。憲忠も政景同様、高い実務能力を有しており、右筆を勤めた経歴もある。浪人から、佐竹義宣の近習となり、家老にまで出世した有能な人物であった。また、馬術や鉄砲にも長けており、大坂の陣に参戦して重傷を負った経歴もある武功の士でもあった。現在、政景の肖像画は現存していないが、憲忠のものは現存している。同年、政景は家老及び、久保田町奉行となる。


寛永10年(1633年)1月25日、藩主、佐竹義宣が死去する。享年64歳。義宣の事を、屋形様、大殿様と呼んで、常にその側に仕えてきた政景にとってその死の衝撃は大きかったのであろう。同年3月10日、義宣の後を追うように政景も死去する。享年53歳。この年から政景の体調は優れなかったのであるが、その突然ともいえる死は殉死であったかもしれない。この主従は強い絆で結ばれていたのであろう。 


院内銀山は、秋田県と山形県の県境にあたる雄勝峠の近くにある銀山である。慶長11年(1606年)に発見された直後から秋田藩によって積極的に開発が進められ、石見銀山・生野銀山と並ぶ、日本有数の銀山へと発展する。そして、極めて短期間に大勢の人々が集まって、山中に1万人近い鉱山町が出現する。これは、秋田藩において、久保田の城下町に次ぐ大規模な都市であった。秋田藩は院内銀山に奉行を派遣し、直接の支配下に置いた。秋田藩にとって鉱山経営は、財政面で非常に重要な位置を占めていた。それも銀山から産出する銀より、鉱山町そのものがより重要な意味を持っていた。


近世における、大名の主な収入源は米である。しかし、米のままでは勿論、財源として使用できないので、大名はそれを市場で売りさばき、換金する必要があった。秋田藩の場合、領内の市場は狭く、その米を換金するには大市場である畿内まで運んで換金する必要があった。しかし、秋田から畿内までの遠距離輸送には多額の経費がかかる事から、大きな負担となっていた。それが、秋田藩領内に大規模な人口を擁する鉱山町が出現した事で、米を独占的に安定した高値で販売できるようになったのである。また、銀山では銀の精錬過程に不可欠の材料である鉛の専売も行われて、これも秋田藩に多額の利益をもたらす事となった。院内銀山は、この様に銀そのものより、大規模な市場としての価値の方が高かったのである。



当時、世界的に銀の需要が高まっており、日本はその主要輸出国となっていた。江戸初期には、年間120トンもの銀を輸出していた模様である。出羽国に突如として出現した都市は、当時の世界情勢とも結び付いていた。
院内銀山は深い山に囲まれた閉鎖都市で、唯一の出入口には番所が設置され、人と物の出入は厳重に管理されていた。それでも、銀山には日本全国から採掘請負人、労働者、商人、職人、遊女が集まって、非常な活況を呈していた。しかし、米と鉛は秋田藩による専売制で販売されていたため、住民と精錬業者は市場価格を上回る高値で購入せぜるを得なかった。その上、生活必需品も、番所にて商品代金の十分の一が税として徴収されて持ち込まれるので、住民は生活必需品も高値での購入を余儀なくされていた。
 

梅津政景日記は慶長17年(1612年)2月28日、政景が院内銀山に到着した日から記載が始まる。その日記には銀山における出来事も書き込まれている。慶長18年(1613年)3月17日、1人の商人が十分一番所で処刑された。この商人は若狭彦二郎と云い、泥鰌(どじょう)を販売するために横手から院内銀山にやってきた者であった。3月2日、彦二郎は番所で検問を受け、手に房判という判を捺されて通過する。


房判とは銀山から出る際に番所で確認される判の事であり、これがなければ銀山から外に出る事は許されなかった。ところが彦二郎は滞在中に房判が消えてしまい、そこで銀山から出る際、偽造の判を捺して番所を通過しようとしたのである。3月4日、これを番所の者に見咎められ、彦二郎は牢屋に入れられる事となる。そして、3月17日、彦二郎は鼻と耳を削がれたうえ、見せしめとして町中を引き回され、その挙句、番所にて処刑された。 これは政景の命によるものであろう。このように政景には容赦のない統治者としての一面もあった。


院内銀山の操業はその後も長く続けられ、昭和29年(1954年)に閉山されるまで続く事になる。その間、多くの労働者、遊女達が過酷な生活の中で、早死にしていった。院内銀山は最盛期には1万5千人もの人々が住んでいたそうだが、現代では全く無人の地となり、人の気配はない。かつての賑わいはどこへやら、静まり返った山中にあるのは、名も無き無数の墓石のみとなっている。



(余談)ちなみに院内銀山は東北随一の心霊スポットであるとか・・・




 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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