戦国時代、九州の戦国大名が覇を唱えんとすれば、何としても手に入れたい国があった。それが、九州北部に位置する、筑後国である。地図上の面積は小さいが、生産力は高く、太閤検地の石高によれば、約26万6千石あった。1万石に付き250人の動員が出来たとすれば、6650人の兵力が得られる計算になる。だが、なにより重要な点は、筑後国の位置である。やや北寄りであるが、九州の中央部にあって、東西南北の交通の要衝に位置しており、この国を抑えなければ、九州の覇権は握れなかった。
戦国時代中期、筑後15城(筑後の大身15家)を統括する大旗頭として君臨していたのが、蒲池鑑盛である。鑑盛は大友家の麾下にあって筑後国の内、12万石余を領し、柳川城を居城としていた。柳川城は平城であるが、水路が縦横に張り巡らされた難攻不落の堅城であった。本来、これほどの実力があれば自立を考えるものであるが、鑑盛は、「義心は鉄のごとし」と云われるほど清廉な武将で、最後まで大友家に忠節を尽くさんとした。そして、助けを求める者には手を差し伸べる、仁愛の心も有していた。天文14年(1545年)、龍造寺隆信の曽祖父に当たる家兼(剛忠)が馬場頼周の策謀によって所領を追われて筑後に逃れてくると、鑑盛はこれを快く受け入れ、その御家再興の力添えをした。
天文22年(1553年)、龍造寺家の家督を継いだ隆信が、配下の土橋栄益の謀反によって所領を追われると、鑑盛はこれも庇護している。そして、2年後には兵300を護衛に付けてやって、佐賀復帰の力添えをした。この様に蒲池鑑盛は、龍造寺家にとって物心両面における恩人であった。天正6年(1578年)、大友家が島津家と雌雄を決すべく日向に出征すると、鑑盛も家督を継いでいた次男、鎮漣(ちかなみ)と共に兵3千を率いて、参戦する。しかし、鎮漣は途中、病気と偽って兵2千を率いて柳川に引き返してしまう。鎮漣は父とは違って人並みの野心があり、大友家から離反独立する願望を持っていた。
11月、大友軍と島津軍は高城川を挟んで対峙し、やがて激突に至る。だが、大友軍は、島津軍の罠にはまって大苦戦に陥り、鑑盛も兵1千をもって必死に戦ったものの、壮烈な討死を遂げてしまう。この耳川の戦い(高城川の戦い)の惨敗を受けて大友家の威信は失墜し、その衰退は明らかとなった。鎮漣はこれを機に佐賀の龍造寺隆信と結んで、戦国大名として自立せんと試みた。そして、隆信が筑後に侵攻を開始すると、鎮漣は叔父に当たる田尻鑑種と共に龍造寺方として働いた。しかし、隆信には九州中央部に進出せんとの野望があって、筑後を我が物としたかったのに対し、鎮漣も筑後の地で自立せんとの野心があったので、必然的に両者の関係に軋みが生じ始める。
天正8年(1580年)2月、ついに鎮漣は隆信に叛旗を翻し、柳川城に立て篭もった。これを受けて隆信も、嫡子、政家に1万3千余の軍勢を授けて、柳川城を包囲させた。その後、龍造寺軍は数を増すと、満を持して猛攻を加えたが、無類の堅城である柳川城はびくともしなかった。龍造寺軍はその後も度々、攻撃を加え、その包囲は300日余に渡ったが、それでも城が落ちる気配は無かった。攻めあぐねた隆信はいったん和議を結ぶ事を決し、田尻鑑種を柳川に遣わすと、鎮漣の方もさすがに長期の篭城で疲弊していたのか、この申し出に応じた。しかし、和議を結んだとは云え、両者に芽生えた不信感は拭えず、お互い警戒を怠らなかった。
天正9年(1581年)2月、隆信は嫡子、政家に家督を譲り、佐賀城も委ねると、自身は隠居して須古城に移った。だが、実権は引き続き、隆信が握っていた。その頃、鎮漣が薩摩島津氏と通じて、再び叛心を抱いていると云う風聞が伝わり、それを裏付ける報告も隆信の耳に入り始める。鎮漣の叛心を知り、それを隆信に通報したのは田尻鑑種であった。鑑種は、隆信に鎮漣殺戮を勧めて、その所領を恩賞として賜る事を望んでいた。鑑種の思惑がどうであれ、隆信とすれば蒲池家と島津家が結び付く事だけは、何としても避けねばならなかった。島津家は大友家を日向で破った後、矛先を肥後に転じて北上の気配を示しており、龍造寺家との激突は時間の問題となっていた。柳川城は、龍造寺家の本拠、佐賀から指呼の距離にあり、これが島津家の拠点となれば、龍造寺家の存亡にも関わってくる。隆信としても必死であり、今度こそ鎮漣を討滅せんとの決意を固める。
しかし、隆信は前回の柳川城攻めで、その堅城振りを身に染みており、今度は謀略を用いて蒲池氏を討滅せんと策した。5月中旬、隆信は、「昨年に結ばれた和平の答礼をしたいので、佐賀にお越し頂きたい。そして、須古城にて猿楽を興行するので、鎮漣殿は役者を連れて、お越しあるように」と丁重に申し入れた。鎮漣は猿楽の名手であったらしく、それに事寄せて誘き寄せようとしたのである。鎮漣は最初は疑って返事もしなかったが、使者は誠意をもって説き、母や伯父の鎮久もそれに賛同したので、鎮漣もついに佐賀に赴く決意を固めた。
ルイス・フロイスの記述によれば、天正8年(1580年)に隆信は、大村純忠と蒲池鎮漣の両者に和平締結のため、佐賀城に来るよう呼びかけたとある。鎮漣は警戒して自重したが、大村純忠の方は佐賀に赴き、そこで盛大なもてなしを受けて、何事もなく帰国した。翌天正9年(1581年)、鎮漣は、純忠が無事に帰還したのを確認した上で、佐賀に赴いたとある。この純忠の招待劇は、鎮漣を油断させるために打った、隆信の謀略であるとフロイスは推測している。
5月25日、鎮漣は万が一に備え、家中から選りすぐった武士を引き連れ、それに猿楽者を合わせた300人余で柳川を発った。その日の夕方、鎮漣一行は佐賀に到着すると、政家の案内で城内に招かれ、そこで盛大な酒宴が催されて心尽くしの饗応を受けた。鎮漣らはその夜、城北の本行寺に泊まり、翌26日も滞在する。何事もなく2日間を過ごし、鎮漣一行の警戒心も解きほぐされていった。明けて27日早朝、鎮漣一行は、今度は隆信の居城、須古城へと向かうべく、本行寺を出立した。しかし、鎮漣らが本行寺を出てまもなく、与賀の馬場に差し掛かった時、待ち伏せていた完全武装の龍造寺軍が一斉に姿を現して、鎮漣一行に襲い掛かった。
鎮漣は選りすぐった精鋭を連れて来ていたが、多勢に無勢、それに不意を突かれたこともあって、たちまち討たれていった。鎮漣に佐賀行きを勧めた伯父、鎮久は後悔しつつ、群がり寄せる龍造寺軍に斬りこんで討死を遂げた。鎮漣はもはや逃れられぬ身と悟ると、主従3人、刺し違えて自害した。「北肥戦誌」によると、ここで、鎮漣を始めとする、173人の蒲池勢が斬殺されたとある。事件後、無念の最後を遂げた鎮漣の亡霊が出ると噂されたので、鍋島直茂は六地蔵を立てて、浮かばれぬ魂を慰めたとされる。現在もその六地蔵は、佐賀市田布勢町に存在している模様である。
鎮漣謀殺の報を聞いて、蒲池氏の本拠、柳川城は上も下も騒然となった。隆信はこの機に乗じて柳川の地を征すべく、田尻鑑種に柳川討伐を命じた。柳川城内にいた鎮漣の弟、蒲池統春は、最早、柳川城は保てないと定め、城を明け渡すと、自身は支城の佐留垣城へと退いた。それとは別で、鎮漣の夫人(玉鶴姫)と6歳になる嫡子、統虎丸、それに主だった一族郎党500人余は柳川東南にある塩塚城へと移った。しかし、龍造寺方は攻撃の手を緩める事無く、塩塚城へと押し寄せた。
天正9年(1581年)6月1日、田尻鑑種軍と目付けの鍋島軍合わせて数千人余は、塩塚城へと攻め寄せた。この塩塚城は一族の蒲池鎮貞が城主となっており、そこに男女500人余が篭っていた。午前6時から始まった戦いは熾烈なものとなり、午後12時頃、城は落城した。城攻めの主力、田尻軍には100人余の討死と数百の手負いを出し、城方は蒲池鎮貞を始めとする老若男女500人余が斬殺された。鎮漣夫人(玉鶴姫)は隆信の娘であったとされているが、父に降る事を良しとせず、蒲池一族に殉じた。後年、塩塚城には蒲池一族郎党を弔う慰霊碑が建てられた。
隆信は続いて、田尻鑑種に蒲池統春の篭る佐留垣城の攻略を命じる。6月3日、田尻軍の他、龍造寺の援兵も加わって、佐留垣城への攻撃が始まった。蒲池統春以下100人余が討ち取られて落城すると、斬獲された首は隆信の実検に供するため、二艘の船で佐賀に運ばれていったと云う。この柳川討滅戦で隆信は筑後国を得て、九州中央部への進出が可能となった。隆信はさらなる飛躍の土台を得たのであるが、同時に暗い影も落とすようになる。
蒲池鎮漣が油断ならない人物であったとはいえ、大恩ある蒲池家に対してとった隆信の容赦のない仕打ちは、いくら戦乱の世であったにせよ、決して評判の良いものではなかった。蒲池一族討滅後、田尻鑑種・黒木家永ら筑後の国人達は、次は自分かもしれないと云う疑心暗鬼に囚われたのか、ほどなくして龍造寺家から離反し、隆信の手を煩らわせるようになる。島津氏との対決が迫っていたので、隆信は強引な手段を用いざるを得なかったのであるが、この蒲池一族の討滅が人心の離反を招き、滅亡に繋がっていったと云われている。
隆信は 「分別も久しくすればねまる(名案も実行の機会を失えば、意味のないものとなる)」と云う言葉を残したとされている。機会が訪れるまでは隠忍自重に努めるが、その機会が訪れれば、間髪入れずに実行に移す武将であった。果断実行型の武将であり、それが龍造寺家を興隆に導いていったのであるが、目的の為ならば手段を選ばない非情な一面もあった。隆信は「恐れられているうちは、恐れさせておけ」と云う言葉も残している。
隆信は、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで惨敗し、56歳の生涯を閉じた。隆信は、沖田畷で不覚を取った事と、人間性が残忍であると流布されている事もあって、その評判は極めて悪い。しかし、隆信の戦死の際、付き従っていた部将の多くは、その最後に殉ずるかの様に、枕を並べて討死している。また隆信は、名将、鍋島直茂を深く信頼して、自分の代理としても活用している。冷酷な一面のみが強調されているが、度量が広く、人間的な魅力もあったのだろう。そうでなければ、九州三強と呼ばれるだけの勢力は築けない。蒲池家の討滅と、沖田畷の惨敗から、後付けで評価を著しく陥れられた武将である。
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