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周山城

周山城は、京都府京都市右京区にある、山城である。この城は、明智光秀が築いた事で知られているが、存続期間は短く、また文献も少ない事から、光秀その人の様に謎めいた存在となっている。




天正7年(1579年)9月、織田家部将として丹波を平定した光秀は、同国の支配拠点として亀山城を始めとする幾つかの城を築城する。その一つが、周山城である。周山城は、標高480m(比高230m)の城山の険阻な山上に総石垣で築かれ、天守台も有する近世城郭であった。若狭と京を結ぶ周山街道の中間にあって、北東には禁裏御料地である山国荘が広がっており、重要な街道と荘園を押さえる位置にあった。



天正9年(1581年)8月14日には、堺の商人、津田宗及を招いて、山上にて十五夜の月見が行われたとの記録(津田宗及茶湯日記)が残る。光秀が滅亡した後も城は用いられ、天正12年(1584年)2月4日には、豊臣秀吉も城に向かったとの記録(兼見卿記)が残る。秀吉は家臣の加藤光泰を城代として入れたが、その後の記録は残っておらず、廃城の時期も定かではない。







↑登山口



これから、奥にそびえる山を登って行く事になりますが、熊が出没するとの注意書きがあって、戦々恐々です。






↑大手門



大手門とありますが、それらしい遺構は見受けなかったです。ただ、ここから急坂になって本格的な登りとなります。






↑鍛冶屋



比較的、広い削平地ですが、本当に鍛冶屋があったのかどうか定かではありません。






↑虎口



ようやくそれらしい遺構に出会いました。石垣が崩され、破城の跡が窺えますが、かつてはさぞかし立派な門構えだったのでしょう。







↑兵糧蔵







↑二の丸



奧に登ると本丸があります。この通りも石垣が崩されて、苔むした石があちこちに転がっています。







↑本丸跡



かつて、明智光秀はここに津田宗及を招いて、月見の宴を行ったのでしょうか。






↑本丸跡







↑周山城の見取図







↑本丸石垣








↑井戸跡

小性曲輪にあります。明智光秀も飲んだであろう、城の命水です。







↑小性曲輪





↑小性曲輪






↑周山城からの眺望



周山城の西方には、まだ土塁の城もありますが、今回は石垣の城だけにしました。しかし、これで光秀が築いた城のほとんど、丹波亀山城、福知山城、丹波金山城、近江坂本城、大溝城(光秀が縄張りした城と伝わる)を巡り切って感無量でした。






↑慈眼寺(じげんじ)の明智光秀像

上記の写真は、寺で購入したポストカードです。慈眼寺は周山城の麓にあります。そして、この寺には黒塗りの明智光秀像が安置されています。この写真からは窺えませんが、光秀像の両肩には明智家の家紋、桔梗が施されています。誰もが目にするであろう、かの有名な光秀の肖像画は、知的で柔和な表情をしていますが、上記の光秀像は、表情険しく目も血走っていて、荒々しい武将らしい風貌をしています。光秀には二面性があって、部下や領民を思う優しい一面があったかと思えば、敵と見なせば容赦なく撫で斬りにする冷徹さもあり、この黒塗りの光秀像はそうした光秀の裏面を表しているかのようです。

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米子城

米子城は、鳥取県米子市にある平山城である。標高90mの湊山を中心として、北に丸山、東に飯山(いいのやま)、西に中海があって既に天然の要害を成していた。江戸時代には、総石垣の山陰屈指の近世城郭となった。



応仁元年(1467年)頃、山名宗之によって飯山に砦が築かれたのが、城の最初とされる。永正10年(1513年)頃から、出雲の戦国大名、尼子経久の攻撃を度々受け、大栄4年(1524年)には尼子氏の支配する所となった。永禄5年(1562年)、中国地方の雄、毛利氏によって制圧される。天正19年(1591年)、毛利氏の一門、吉川広家が入城し、湊山に築城を開始する。



慶長5年(1600年)、築城工事の進捗状況は7割であったが、吉川広家は、関ヶ原の戦いを受けて、周防岩国へと転封される。代わって、中村一忠が伯耆国17万5千石の領主として入り、慶長7年(1602年)に米子城に入城した。この中村氏の時代に4重5階の天守閣が完成する。慶長13年(1609年)、中村一忠が急死し、米子藩は改易、城地収公となった。



慶長15年(1610年)、加藤貞泰が伯耆国2郡6万石の領主として入るも、元和3年(1617年)、伊予大洲に転封される。代わって伯耆、因幡国の領主となった池田光政の支配する所となり、その一族が米子城に入った。寛永9年(1632年)、光政は岡山に転封され、代わって池田光仲が伯耆、因幡の領主となり、その家老であった荒尾成利が米子城を預かった。以後、明治の世を迎えるまで、荒尾氏が米子城を統治する。明治6年(1873年)、城内の建物群は売却され、その数年後、取り壊されていった。





↑内善丸




↑内善丸から本丸を望む






↑本丸石垣








↑天守台石垣





↑天守台






↑天守台から西を望む

この方面には、中海が広がっています。





↑天守台から北を望む

弓ヶ浜半島が広がっています。




↑天守台から東を望む

この方面には、大山が見えるはずなんですが、雲に隠れてしまっています。




↑天守台から南を望む

この方面には、中国山地が広がっています。




↑本丸石垣


米子城の見所は、整った石垣と360度の展望です。私が訪れた日は、曇り模様で見晴らしはいまいちでしたが、晴れていれば、中国地方の名峰、大山を拝むことも出来るでしょう。

鶉野飛行場(うずらのひこうじょう)と紫電改

鶉野飛行場は、兵庫県加西市にある、旧日本軍が建設した飛行場である。



昭和17年(1942年)9月、練習航空隊の設置が決まり、翌昭和18年(1943年)3月より建設工事が始まる。同年10月1日、姫路海軍航空隊が開隊され、同年10月8日より、飛行訓練が始まる。昭和19年(1944年)6月、鶉野にて、川西航空機の組立工場が建設され、姫路製作所から運ばれて来た機材の組立が始まる。そして、局地戦闘機、紫電466機、紫電改44機が組み立てられて、試験飛行を行った後、各地の前線飛行場へと運ばれていった。



昭和20年(1945年)2月10日、姫路海軍航空隊の教官や訓練生から、神風特別攻撃隊が編成され、姫路城の別名「白鷺城」にちなんで、「白鷺(はくろたい)」と命名された。同年3月23日、白鷺隊は大分県の宇佐海軍航空隊に移動し、更に鹿児島県の串良基地へと進出した。そして、同年4月6日より始まった第一号~第六号菊水作戦に加わって、21機63名の若き搭乗員が散っていった。同年8月15日、終戦を迎えてほどなく、飛行場は閉鎖された。



現在、滑走路は道路によって分断されているが、現状をよく留めており、掩体壕、戦闘指揮所、対空機銃座、防空壕なども残されている。令和元年(2019年)6月より、敷地内にある防災備蓄倉庫にて、紫電改の実物大模型の展示が始まった(屋外展示は毎月第1日曜、第3日曜、展示時間10~15時)。




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑鶉野飛行場跡




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑平和記念の碑




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑紫電改の実物大模型


紫電改を一見して思ったのは、機体は大柄なのにプロペラ直径が小さいと感じたことです。プロペラ直径を長くすれば、もっと高性能が発揮できたのではと?想像しました。


紫電改のプロペラ直径は3・3m

アメリカ海軍のF6Fヘルキャット戦闘機のプロペラ直径は3・99m



紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑紫電改の実物大模型

ややアップ




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑紫電改の実物大模型

エンジンを最大直径として、そこから胴体を絞り込んでいるのが分かります。




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑紫電改の実物大模型




紫電改
紫電改 posted by (C)重家

↑紫電改実物大模型




川西 局地戦闘機 紫電改 性能要目


乗員1名

全長9・37m

全幅11・99m

発動機1990馬力

最高速度644km

航続距離(正規)1,715km (増槽装着時)2,392km

自重2,657kg 正規全備重量3,800kg

武装20mm機銃4挺(携行弾数内側各200発、外側各250発)

爆装 250kg爆弾2発 60kg爆弾2発

生産機数415機



紫電改は、局地戦闘機、紫電の改良型として昭和18年(1943年)1月から設計が始まり、昭和20年(1945年)1月に制式化された。前身となった紫電は、水上戦闘機、強風を母体として開発された。制作元の川西によれば、強風を陸上機化すれば、短期間で高性能戦闘機を実戦化出来るとの触れ込みであった。そうして開発された紫電11型であったが、発動機、プロペラの不調に加え、主翼の中翼配置による視界不良、二段引き込み脚の故障に伴う着陸時の事故、計画値653kmを下回る570kmの速度性能など、期待を大きく裏切る出来であった。しかし、アメリカ軍が次々に新鋭機を投入している状況下、他に候補機も無かった事から紫電は制式化された。


川西は紫電の量産を進める一方、その改修型の開発も進め、主翼を低翼配置として視界を改善、胴体をより細い断面形として速度性能を向上、部品点数を紫電の2/3減らして工数を削減、主脚変更による着陸性能向上、主翼と胴体内燃料タンクの防弾化、これらの改造によって実用性は大きく向上する。テスト飛行の結果も上々で、本機は紫電21型(通称、紫電改)と命名される。海軍はこの結果を受けて、本機を最重点機種に選定し、大増産計画を立てる。しかし、工場の被爆を受けて、400機強が生産されるにとどまった。紫電改の登場は遅きに失したが、零戦ではまるで歯が立たなかった、アメリカ海軍の新鋭戦闘機F6Fとも互角に渡り合える、日本海軍希望の星であった。また、紫電改を集中配備した第三四三航空隊は、四国松山を基地として、圧倒的なアメリカ軍相手に奮戦し、日本海軍航空隊の最期の華を飾った。

生野銀山 3

生野銀山には、数多くの電動人形が設置されて、当時の作業を再現しています。それを今回、紹介していきます。





↑風を送る手子(てご)





↑桶引人足 (ひびきにんそく)

坑内作業は、湧水との戦いでもあります。この鉱夫は木製のポンプを使って、延々と水をくみ出す作業をしていたのでしょう。





↑下財(当時の鉱夫の名称)


ノミと金槌を使って、こつこつと岩を掘り進めている様子が伝わって来ます。狭い坑内には、大量の粉塵が舞い散っていたでしょう。それを長年、吸った鉱夫はやがて咳き込み始め、呼吸困難に陥っていきます。それが鉱山労働者の職業病、塵肺です。当時、鉱夫の多くが、この症状になって、若くして亡くなっていった事でしょう。






↑砕女(かなめ)


鉱石を小さく砕いて、銀鉛を含んだ鉱石により分けます。当時の鉱山は、女性も働いていたそうです。この作業も、大量の粉塵が舞ったでしょう。





↑石臼

精錬用に、鉱石を細かく砕くために用いられた臼です。





↑休憩所

食事時ばかりは、鉱夫達にも笑顔が生じたでしょう。





↑負子(おいこ)

鉱石を背負って運び出す、鉱夫です。この人形は立って進んでいますが、江戸時代の坑道は狭いので、実際には、はって進んだものと推測します。






↑木作りをする手子(てご)


坑内作業では、常に落盤の危険が付きまといます。それを防止するための木組みを作っている様子です。





↑出方相改取締(でかたあいあらためとりしまり)

役人が2人ずつ、昼夜詰めきりで日々、掘り出される鉱石を、下代に記載させ、厳重に監督していたとあります。鉱夫が無断で鉱石を持ち出さないよう、厳重に監視していたのでしょう。





↑坑内作業の模型


まるで、蟻の巣のようです。鉱石を掘りきった穴には、無価値の岩石を捨てていった様子が伝わって来ます。



今まで紹介してきた鉱夫人形には、暗い雰囲気が漂っています。しかし、それは仮の姿です。実際の彼らは地下深くにありながらも、光り輝いています。



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生野銀山 2

生野銀山散策の続きです。


前回は地下の坑道を見学して来ましたが、今回は地上から、江戸時代の採掘跡を見て行きます。





↑彫刻の跡


戦国時代、江戸時代の鉱夫が、坑内作業の安全を願って、ノミで彫ったものです。読み取り難いですが、文字らしき跡が見えます。






↑滝不動尊


戦国時代から、この社で、坑内作業の安全と鉱業の繁栄が祈念されていたと伝わります。鉱夫達はこの社で一礼してから、危険な坑内に入っていったと思われます。





↑坑道への道

昔の鉱夫達は、麓の町からこの道を伝って、続々と坑道に向かって行ったはずです。





↑慶寿ひ(江戸時代の露天掘り跡)

写真では迫力に欠けますが、山が割れている感じです。





↑江戸時代の坑道

狭くて、薄暗いです。





↑慶寿ひ(江戸時代の露天掘り跡)





↑鉱夫の彫った線刻

慶寿ひの脇にあります。読み取り難いですが、確かに人が彫った跡が見受けられます。





↑江戸時代の坑道

この辺りで見られる、江戸時代の坑道は総じて狭いですが、この坑道は特に狭かったです。





↑江戸時代の坑道


ここから産出する銀は、非常に品位が高かったとあります。






↑江戸時代の坑道

この坑道は比較的、広かったです。大規模な採鉱が成されたのでしょう。



生野銀山を観光する人は、観光用の坑道内コースで終ることが多いです。しかし、それだけだと物足りなく感じる事でしょう。屋外にある坑道外コースにも見所があるので、こちらと合わせて見学すると良いと思います。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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