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米子城

米子城は、鳥取県米子市にある平山城である。標高90mの湊山を中心として、北に丸山、東に飯山(いいのやま)、西に中海があって既に天然の要害を成していた。江戸時代には、総石垣の山陰屈指の近世城郭となった。



応仁元年(1467年)頃、山名宗之によって飯山に砦が築かれたのが、城の最初とされる。永正10年(1513年)頃から、出雲の戦国大名、尼子経久の攻撃を度々受け、大栄4年(1524年)には尼子氏の支配する所となった。永禄5年(1562年)、中国地方の雄、毛利氏によって制圧される。天正19年(1591年)、毛利氏の一門、吉川広家が入城し、湊山に築城を開始する。



慶長5年(1600年)、築城工事の進捗状況は7割であったが、吉川広家は、関ヶ原の戦いを受けて、周防岩国へと転封される。代わって、中村一忠が伯耆国17万5千石の領主として入り、慶長7年(1602年)に米子城に入城した。この中村氏の時代に4重5階の天守閣が完成する。慶長13年(1609年)、中村一忠が急死し、米子藩は改易、城地収公となった。



慶長15年(1610年)、加藤貞泰が伯耆国2郡6万石の領主として入るも、元和3年(1617年)、伊予大洲に転封される。代わって伯耆、因幡国の領主となった池田光政の支配する所となり、その一族が米子城に入った。寛永9年(1632年)、光政は岡山に転封され、代わって池田光仲が伯耆、因幡の領主となり、その家老であった荒尾成利が米子城を預かった。以後、明治の世を迎えるまで、荒尾氏が米子城を統治する。明治6年(1873年)、城内の建物群は売却され、その数年後、取り壊されていった。





↑内善丸




↑内善丸から本丸を望む






↑本丸石垣








↑天守台石垣





↑天守台






↑天守台から西を望む

この方面には、中海が広がっています。





↑天守台から北を望む

弓ヶ浜半島が広がっています。




↑天守台から東を望む

この方面には、大山が見えるはずなんですが、雲に隠れてしまっています。




↑天守台から南を望む

この方面には、中国山地が広がっています。




↑本丸石垣


米子城の見所は、整った石垣と360度の展望です。私が訪れた日は、曇り模様で見晴らしはいまいちでしたが、晴れていれば、中国地方の名峰、大山を拝むことも出来るでしょう。

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