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嘉数高地・ひめゆりの塔

嘉数(かかず)高地は、沖縄県宜野湾市にある高地で、沖縄戦の激戦地となった場所である。現在は嘉数高台公園として整備され、北には在日米軍基地、普天間飛行場を望む事も出来る。



1945年4月1日、米軍は凄まじい艦砲射撃を加えた後、18万2千人を動員して上陸作戦を開始する。この沖縄攻略戦は氷山作戦と呼ばれ、米軍は最終的には54万8千人と1500隻の艦艇を動員する。対する日本軍は11万人の兵力を擁していたが、海軍の後方部隊や沖縄の現地招集兵も含まれており、正規の陸戦訓練を受けた兵員は半分程度であった。日本軍は戦力不足から上陸地点での迎撃を諦め、沖縄本島南部の首里を主陣地として迎え撃つ心積もりであった。嘉数高地は、その外郭陣地に位置付けられていた。



米軍は上陸後、日本軍小部隊による遅滞戦闘を受けるが、大きな損害も無く、順調に南部への進撃を続けていた。だが、4月8日、日本軍の本格的な陣地帯、嘉数高地にぶつかって、その進撃は停止する。日本軍は沖縄戦において、敵と向き合う高地正面には極力、陣地を設けず、反対側の斜面に陣地を設けて砲爆撃を避け、米軍が頂上付近に達してから、陣地を出て反撃を加える戦法を多用した(反射面陣地)。この時、予め射撃諸元を定めておいた迫撃砲による砲撃や、隠蔽しておいた機関銃陣地からの側面射撃を加えて、反撃をより効果的なものとした。反射面陣地は、米軍の圧倒的な火力に対抗すべく、地形と陣地を複雑に組み合わせた、日本軍の苦肉の策であった。



嘉数高地の日本軍も地形を最大限、有効活用して、米軍を十分に引付けてから十字砲火を浴びせ、続いて白兵戦を挑んで撃退し続けた。4月19日、業を煮やした米軍は30両の戦車を繰り出して、嘉数高地を突破せんとした。有効な対戦車兵器を持たない日本軍にとって、米軍のM4中戦車シャーマンは、最大の脅威であった。だが、日本軍は予め設置しておいた対戦車地雷をもって、米軍戦車2~3両を擱座させ、更に巧みに隠蔽しておいた速射砲による側面、後面からの射撃で米軍戦車を次々に炎上させていった。米軍戦車はそれでも進撃し、嘉数集落に突入して陣地を破壊していった。危機的状況に陥った日本軍はここで、速射砲だけでなく野砲や高射砲まで動員して集中射撃を加え、更に歩兵による肉弾攻撃も敢行する。



急造爆雷を抱えた兵士が特攻攻撃して戦車を擱座させると、日本兵が群がりよって車体の隙間から、拳銃や手榴弾による近接攻撃を加えた。こうして米軍戦車合計22両を破壊し、8両のみが退却していった。日本軍は勝利を収めたものの、その損害も甚大であった。4月23日、米軍は西側戦線を突破して、嘉数高地の裏側へと回りつつあった。高地の守備隊も戦力が大きく低下しており、陣地保持が困難となった事から僅かな後衛を残して、後方の前田陣地へと撤退を開始する。翌24日、米軍は激しい準備砲撃を加えると、嘉数高地に突入して、日本軍後衛との2時間の戦いを経て、ついにこれを占領した。





↑弾痕の塀


当時の写真。




↑弾痕の塀


現在の写真




↑展望台

公園内には慰霊碑も幾つか建てられています。











↑陣地壕

嘉数高地にはこの様な陣地壕が無数あります。






↑トーチカ跡






↑トーチカに残る弾痕






↑展望台から北西を望む


宜野湾が見渡せます。1945年4月1日、米軍はこの宜野湾に大挙、上陸して来ました。嘉数高地からは、その様がつぶさに目撃出来たでしょう。






↑展望台から南を望む



前田高地が見渡せます。1945年4月24日、嘉数高地は米軍に制圧され、日本軍は次の陣地、前田高地へと後退しました。けれども、沖縄での戦いは、ここから更に激しいものになっていきます。






↑展望台から北を望む



普天間飛行場が見渡せ、オスプレイらしき機影が見えます。ここは現在、アメリカ海兵隊の基地として使用されています。地下で眠る、日本軍将兵や民間人達はさぞかし、無念の思いで見つめている事でしょう。沖縄に生きる人々にとっても、米軍基地の存在は大変、煩わしいものでしょう。



しかし、現在の厳しい国際情勢、特に中国の脅威を鑑みれば、沖縄の米軍基地は日本の防衛上、必要不可欠なものとなっています。日本の平和ボケした政治家や国民、憲法に縛られ、戦力にも劣る自衛隊では勝ち目がありません。沖縄が中国の手に入ればどうなるか?日本は生命線たるシーレーンを中国に握られて、その属国と化し、沖縄の人々はチベット、ウイグルと同様の運命を辿るでしょう。





●ひめゆりの塔は、沖縄県糸満市にある、小さな石碑である。



1945年3月23日、米軍の沖縄本島上陸が間近に迫る中、ひめゆりの愛称で呼ばれていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の両校から、生徒222人、教師18人が動員され、南風原(はえばる)にある陸軍病院壕に配属された。病院とは言っても、40近くの横穴壕に粗末な二段ベッドを備えただけの施設であった。同年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、戦いが本格化してくると、壕には、次から次に負傷兵が運ばれて来る。



学徒達はひたすら看護に明け暮れ、負傷兵の食事の世話から下の世話、手術の手伝いと切断された手足の処分、爆弾砲弾が飛び交う中、食料、水の運搬、死体の埋葬まで行った。同年5月25日、米軍が首里に迫って来たことから、南風原陸軍病院壕を引き払って、学徒と歩ける負傷兵は南端部へと撤退していった。しかし、重傷者達は壕に残され、自決に追い込まれた。学徒達は糸満に無数ある壕に移って、引き続き看護を行った。その内の一つが、伊原第三外科壕である。



同年6月18日夜、米軍が間近に迫る中、突然、解散命令が出され、学徒達は戦場の只中に放り出された。学徒の多くは、この解散命令に憤り、絶望を覚えたと云う。翌6月19日早朝、伊原第三外科壕は米軍による黄燐手榴弾の攻撃を受けて、壕に潜んでいた96人(教師5人、学徒46人)中、87人が死亡した。僅かな生存者も、逃れ出たところを銃撃を受けて倒れ、最終的に生き延びたのは軍医1人と学徒4人のみであった。その他の壕でも、米軍の攻撃を受けたり、自決したり、波に吞まれたりして、多くの犠牲者を出した。結局、ひめゆり学徒隊は沖縄戦を通して、教師、学徒240人中、136人が命を失った。






↑慰霊碑とひめゆりの塔


正面にあるのが慰霊碑で、右端の小さな石碑がひめゆりの塔です。中央にぽっかり空いている穴が、ひめゆり学徒隊が活動していた壕の跡です。





↑沖縄陸軍病院第三外科壕跡(伊原第三外科壕)


深さは14メートルもあって、底は見渡せなかったです。






↑ひめゆり平和祈念資料館



ここでは、当時の外科壕の様子が模型で再現されており、生き残った学徒の方が書き残した、生々しい証言の数々が読めます。また、死亡した学徒達の写真が部屋全体に貼り出されていて、死亡に至る経緯も綴られています。その部屋に入ると犠牲者の方々に見つめられている様な感覚を受けて、正直、圧迫感を覚えました。しかし、当時、戦火が轟く中、暗く狭い壕内で、彼女達が覚えていた圧迫感とは比べものにならないでしょう。

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中城城

中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中城群にある山城である。15世紀に活躍した按司(あじ)、護佐丸の城として知られている。また、沖縄に300余ある城(ぐすく)の中で最も良好な遺構が残されており、曲線を描く城壁、神秘的な8つの遥拝所など、古代遺跡感漂う城跡である。



創建年代は定かではなく、中城按司が数世代に渡って築城を重ね、14世紀後半までに、西の廓、南の廓、一の廓、二の廓、などの主要部分が完成し、1440年に城主となった護佐丸によって、北の廓、三の廓が増築され、現代見られる姿となった。護佐丸は、勝連城の阿麻和利に備えて中城城に着任したのだが、1458年、その阿麻和利の謀略を受けて、攻め滅ぼされたとされる。




その後は、琉球王国の世子である中城王子の居城とされたが、1729年からは一の廓に中城間切番所が置かれた。明治12年(1879年)の琉球処分後、番所は、中城村役場として使用されていたが、昭和20年(1945年)3月、沖縄戦の戦火を受けて焼失した。






↑ガンジャーガマ(鍛冶屋跡)





↑中城城



中城城に入るには入場料を支払う必要がありますが、駐車場から城の入り口までは無料のカートで送ってもらえます。











↑遥拝所跡



































評判通り、中城城の遺構は良好で、整った石垣が見応えあります。沖縄版竹田城といった趣です。ここはまだ観光客の姿は少なく、ゆったりと見学出来ました。

勝連城

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にある山城である。城は、北に中城湾、南に金城湾に挟まれた勝連半島の丘陵上にあって、眼下に海が広がる風光明媚な城跡である。



勝連城は、14世紀初頭、勝連按司(かつれんあじ)によって築かれたと推測されている。歴代城主の中で最も有名なのが、第10代勝連按司の阿麻和利(あまわり)である。1454年、王位継承をめぐる王族の内乱、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」を経て、尚泰久(しょう たいきゅう)が第6代国王となる。しかし、彼の権力は不安定で、急速に力を増しつつあった阿麻和利が最大の脅威となっていた。



そこで、尚泰久は、長女を阿麻和利に娶らせて懐柔を図ると共に、実力者である護佐丸の娘を正室に迎えて、彼に阿麻和利を牽制させた。1458年、護佐丸は中城城にて、阿麻和利に対抗する兵馬を整える。しかし、阿麻和利はこれを逆手にとって、護佐丸が王家に対する謀反を企んでいると讒言する。これを受けて尚泰久は、阿麻和利を総大将に任じて、護佐丸を攻撃させた。護佐丸は身の潔白を証明すべく反撃もせず、妻子と共に自害した。



首尾よく宿敵を討ち滅ぼした阿麻和利は、続いて那覇の王府を急襲せんとした。だが、阿麻和利の妻で尚泰久の娘であった、百度踏揚(ももとふみあがり)が王府に走って急報を伝えたので、その謀反は明らかとなった。尚泰久は討伐軍を差し向けて阿麻和利を撃退し、続いて勝連城を攻め立てて、これを攻め滅ぼした。以後、勝連城は廃城となった。これが琉球王国の正史が伝える歴史であるが、逆臣とされる阿麻和利は勝連では名君と称えられており、忠臣とされる護佐丸は実際に謀反を企んでいたとの説もある。






↑勝連城





↑右旋回の階段




↑二の廓石垣





↑一の廓を望む





↑二の廓


ここには城で最も重要な施設とされる、殿舎がありました。





↑一の廓から北を望む





↑一の廓から東を望む



正面奥には海中道路が走っています。両側が海という開放感溢れる道で、沖縄本島屈指の景観の良さでした。




↑一の廓から南を望む




↑一の廓から西を望む





↑勝連城の麓


深田によって、敵の侵入を阻んでいます。


勝連城は海を見渡す、360度の展望が広がっており、晴れていれば爽快感は計り知れないです。また、沖縄の城の中では珍しく、動乱の歴史を秘めており、その余韻に浸ることも出来ます。

今帰仁城

今帰仁城(なきじんぐすく・なきじんじょう)は沖縄県国頭郡今帰仁村にある、山城である。琉球王国成立以前に存在していた、北山王国の本拠であり、沖縄本島北部の要衝でもあった。


今帰仁城は、12世紀末に築城され、その後、整備拡張されて、14世紀始めには現在の形になったと見られている。14世紀の中国の史書には、北山王として、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)の3王が登場する。そして、この頃の沖縄は、北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山が支配する、三国鼎立(さんごくていりつ)状態にあった。


しかし、1416年、中山の尚巴志(しょうはし)によって、北山は攻め滅ぼされてしまう。北山は沖縄北部を支配して、面積的には三山最大であったが、北部は山岳と密林が大半を占めているので、人口的には最小であったと思われる。そのため、人口に勝る中山によって、押し潰されたのだろう。


尚巴志によって琉球統一が成されると、今帰仁城には北山監守(ほくざんかんしゅ)が置かれて、北部地域を管理した。しかし、1609年、薩摩島津氏の侵攻を受けて、今帰仁城は灰塵と化し、1665年、監守は廃止された。以後は、拝所、祭祀の場となって、多くの参拝者を集めた。





↑今帰仁城入口






↑平郎門






↑平郎門裏側






↑大庭へと続く道



右側に旧道があって、そちらは防御上、曲がりくねった形状となっています。






↑北西を望む



左奥に見える建物は、なきじんぐすくショップで、ちょっとした食べ物やお土産が売られています。






↑大庭(うーみゃ)


正殿、北殿、南殿があったと推測される、重要な場所です。






↑火之神の祠



沖縄の城は統治の場であるだけでなく、祭祀の場である事も多いです。






↑主郭の石垣





↑志慶真門郭(しげまじょうかく)



ここには、城主に仕える、側使えの人々が住んていたと考えられてます。





↑平郎門から続く石垣


ここの石垣は規模が大きく、見応えがあります。

沖縄の城は総じて海が見渡せるので、景色が爽快です。この事は海との深い関わり、すなわち海外交易によって、栄えていたことを窺わせます。

首里城

首里城は、沖縄県那覇市にある平山城で、かつて南西諸島に存在していた琉球王国の王都として栄えた城跡である。那覇港を見下ろす丘陵にあって、日本、中国の築城技術を融合させた、独特の建築様式が用いられている。


城の創建年代は定かではなく、14世紀末には存在していたが、1429年に琉球統一を果たした尚 巴志(しょう はし)によって、本格的な築城が始まった。15世紀初期に内郭が築かれて、ここに正殿、北殿、南殿、奉神門などの中心施設が置かれ、16世紀中期に外郭が築かれて、4つの門が設けられた。


首里城は、王とその一族が居住する政治的中心地であり、また、王国の祭祀(さいし)を司る宗教的中心地であり、那覇港を通じて日本、中国、朝鮮、東南アジアとの中継貿易を行う、経済的中心地でもあった。明治12年(1879年)、明治政府によって琉球王国は廃され、首里城も明け渡されて沖縄県が設置された。


昭和20年(1945年)、太平洋戦争時には、首里城地下に壕が掘られて、陸軍第32軍の司令部が置かれた。その影響もあって、米軍の激しい砲爆撃を受けて、地上の建物群は焼失した。


尚、首里城は2020年までに5度、焼失している。


①1453年、王位争いである、「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」が起こって焼失。


②1660年、焼失。


③1709年、焼失。


④1945年、太平洋戦争の戦火を受けて焼失。


⑤2019年、焼失。



南国の青空の下、鮮やかな朱色に彩られた正殿は、沖縄の象徴であり、人々の心の拠り所でもあった。その再建が待たれるところである。




↑守礼門






↑歓会門





↑瑞泉門






↑西を望む





↑石垣





↑南殿跡


広場の奥に正殿がありました。なんとも無残な状況です・・・ ここに来る時に乗ったタクシーの運転手によれば、首里城に向かう観光客の数は激減しているとのことで、付近の道路や駐車場も空いていました。首里城の案内役をしておられた、地元の方々も表情に影が差しており、やるせない思いを抱えているようでした。






↑焼失跡





↑那覇市街を望む






↑王陵(たまうどぅん)



琉球王国の歴代王が祭られています。太平洋戦争で破壊されてしまいましたが、昭和52年(1977年)に復元されました。




↑王陵(たまうどぅん)





↑石畳道 首里城から南部へと続く道で、300メートルほど残っています。





↑首里城遠景



この場所から、首里城が燃えている様子がニュースで映し出されていて、なんとも残念な思いがしました。時間はかかるでしょうが、再建は成されるでしょう。しかし、6度目の焼失だけは、何としても避けてもらいたいです。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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