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田辺城

田辺城は、京都府舞鶴市にある平城である。この城は、関ヶ原の戦いの際、戦国有数の武人にして文化人でもある、細川藤孝が籠城して、西軍の大軍と戦った城として知られている。




田辺城は、天正年間(1573年~1592年)末期、丹後の大名、細川藤孝によって築かれた。西舞鶴の平野部にあるが、北には舞鶴湾、東と西には河川、南側は沼沢地という、天然の要害を成していた。そこへ三重の堀と土塁を廻らせ、本丸などの中枢部には石垣を用いた。天守閣は存在せず、櫓程度の建物があったと推測される。




慶長5年(1600年)6月、徳川家康は、上杉景勝を討伐すべく、諸大名を率いて会津攻めを開始する。当主の細川忠興はそれに応じて出征、父の藤孝は留守を預かった。しかし、その隙を付いて、石田三成ら西軍が挙兵、関ヶ原の戦いが始まる。そして、西軍方となった丹波、但馬の諸大名、小野木重勝、前田茂勝、織田信包、小出吉政、杉原長房ら1万5千人余が丹後侵攻を開始する。




この時、細川家では、忠興が主力を率いて出征中であり、藤孝と共に田辺城に籠城した者は500人余に過ぎなかった。同年7月22日より、西軍の攻撃が始まり、藤孝は防戦に努めたものの、7月後半には落城間近となった。しかし、西軍の諸将の中には、当代随一の文化人である藤孝を惜しんで、攻撃に手心を加えたと云われている。また、藤孝の歌道の弟子に当たる、八条宮親王も藤孝を救うべく、7月27日、城に使者を遣わして、開城を促した。




だが、武人でもある藤孝は、この申し出を謝絶し、城を枕に討死する覚悟を示す。そして、八条宮親王へ古今伝授の証明状を送り、朝廷には源氏物語沙、二十一代集を献じて、辞世の句も添え置いた。そうと知った八条宮親王とその兄、後陽成天皇は、藤孝と古今伝授の秘伝が失われるのを恐れて、西軍方の前田茂勝を通して、和議を斡旋した。しかし、藤孝はこれも固辞して、城の守りを固めるばかりであった。西軍も朝廷に遠慮したのか、それとも攻めあぐねたのか、城の攻防は小康状態であったようだ。




9月12日、朝廷は高位の公家である、三条西実条、中野院通勝、鳥丸光広を遣わして、西軍方には囲みを解くよう促し、藤孝には開城するよう説得した。再三に渡る勅命を受けて、ついに藤孝も折れ、開城を決意した。翌13日、城を明け渡したものの、西軍方に城は軍事的に使用不可と約させ、自らは前田茂勝の居城、亀山城に客人格で迎え入れられた。結局、田辺城に引き付けられた西軍1万5千人は、9月15日の本戦には間に合わなかった。




関ヶ原合戦後、藤孝は無事、古今伝授の秘伝を八条宮親王に伝える事が出来た。 藤孝は武人としても、文化人としても見事に面目を保ったのだった。そして、細川家は豊前33万9千石に加増転封され、豊後杵築6万石と合わせて、39万9千石の大大名となった。その後の藤孝は京都で悠々自適の暮らしを送り、慶長15年(1610年)8月、77年の天寿を全うした。その後の田辺城であるが、京極高知が細川家に代わって丹後国に入ったが、一国一城令の中、高知は宮津城を本拠と定めたので、田辺城は破却となった。時代を経て、田辺城の堀は埋め立てられて市街地と化し、本丸の遺構のみが残された。





↑田辺城外観







↑復元大手門







↑田辺城復元図



かつては三重の堀を廻らせた広大な城域がありましたが、現在は、中心部が僅かに残るのみです。






↑復元二重櫓 内部はちょっとした資料館になっています。







↑二重櫓からの眺め







↑本丸井戸跡



籠城戦時、藤孝らもこの水を飲んで命を繋いだ事でしょう。







↑庭園と奥に本丸石垣







↑本丸石垣







↑天守台跡



天守閣と言うより、櫓の様な建物があったと推測されています。






↑天守台跡



田辺城は遺構としては見るべき所が無いですが、細川藤孝、一世一代の大働きの地として、思いを馳せてみてはどうでしょう。

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山中城 2

山中城訪問の続きです。





↑弾薬庫と兵糧庫跡



本丸直下にあります。






↑武将達の墓



宗閑寺の境内に佇んでおり、その由来によれば、山中城の戦いで戦死した北条方の部将、松田康長、間宮康俊とその一族、箕輪城主の多米長定が祭られており、豊臣方の部将、一柳直末の墓も並んで祭られているとのことです。






↑岱崎(だいさき)出丸






↑岱崎出丸から駿河湾を望む



山中城からは、西方から進軍して来る豊臣軍の様子が、つぶさに目撃出来たはずです。北条方では、戦いを前にして武者震いする者と、圧倒的な敵軍を前にして恐怖に震える者との二通りに分かれた事でしょう。






↑岱崎出丸の堀






↑岱崎出丸の堀 



素人目ですが、この付近の堀は浅く、土塁の高さも足りないように感じます。往時は逆茂木(木製バリケード)を堀の外に置いて、侵入し難くしていたんでしょうが、渡辺了らはこうした所を乗り超えたんじゃないでしょうか。








↑岱崎出丸






↑櫓台






↑擂鉢(すりばち)曲輪



北条方の部将、間宮康俊は一族と共にこの曲輪に立て籠もって激しく抵抗しました。彼らは80挺の鉄砲に加えて、数挺の大鉄砲も有しており、その大鉄砲の威力は、豊臣方の防弾用の竹束さえ撃ち砕いたと云われています。






↑擂鉢曲輪の堀 


豊臣方の中村隊が攻めかかって来た所です。かつての激闘に思いを馳せながら散策すると、感慨深いです。 山中城の規模は大きく、並大抵の戦国大名では、せいぜい遠巻きに囲むしか出来なかったでしょう。天下人、豊臣秀吉だからこそ、火力と人数に物を言わせた強襲が出来たのでしょう。ただし、その犠牲は計り知れないです。

山中城 1

山中城は、静岡県三島市にある山城である。戦国関東の覇者である北条氏によって築かれ、障子堀を始めとする北条流築城術の粋が見られる城である。また、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍を迎え撃って、激闘が繰り広げられた城としても知られている。



永禄年間(1558~1570年)、山中城は北条氏康によって築かれた。箱根山中にあって東海道を取り込む形となっており、本拠地、小田原城の西方を守る、最重要の支城と目されていた。天正15年(1587年)、豊臣氏との緊張が高まってくると改修が始まり、天正17年(1589年)には、岱崎(だいさき)出丸を増築して更に防御力を強化する。しかしながら、防御工事は不完全なまま、天正18年(1590年)の小田原征伐を迎える事になる。時の山中城主は松田康長で、増援として玉縄城主、北条氏勝とその与力、間宮康俊ら4,000人が入った。




豊臣軍の総勢は22万人余で、その内、3万5千人が山中城の攻略に当たった。主将は豊臣秀次で、中村一氏が岱崎出丸を担当、一柳直末が三ノ丸と岱崎出丸の結節点にある大手口を担当、第二陣として山内一豊隊が続いた。西ノ丸には、徳川家康麾下の部将、本田忠勝、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世らが当たった。天正18年(1590年)3月29日早朝、豊臣方による鉄砲射撃によって戦いは始まり、城方もこれに負けじと激しく応射した。豊臣方は射撃に晒されながらも、じりじりと掘際ににじり寄って、攻撃配置に付く。まず、中村隊が動いて岱崎出丸の先端にある擂鉢(すりばち)曲輪に猛攻を加える。




岱崎出丸の城兵は、擂鉢曲輪を救援すべく移動を開始した。中村隊の家臣、渡辺了(わたなべ さとる)はこの隙を突いて塀を乗り越え、岱崎出丸に侵入、山中城一番乗りを果たす。それを後方から確認した豊臣秀吉は法螺貝を吹かせて、総攻撃を命じた。一柳隊も突撃を開始し、直末は陣頭指揮を執って大手を突破せんとしたが、その直後、鉄砲に撃たれて直末は討死にしてしまう。一柳隊は指揮官の討死で混乱を来たし、死傷者が続出する。渡辺了も大手を突破せんとしたが、南櫓と三ノ丸からの猛射を受けて釘付けにされた。渡辺了に付いて来た8人の内、4人がここで討死し、付近には50~60人もの一柳隊の死傷者が倒れていた。




この間、中村隊は岱崎出丸と擂鉢曲輪の掃討を進め、出丸の守将、間宮康俊を討ち取った。次に中村隊は三ノ丸突入を窺ったものの、城方の反撃は激しく、大手付近で膠着状態に陥った。その頃、徳川隊は犠牲を厭わず広範囲から西ノ丸に猛攻を加えて、これを乗っ取った。山中城の主将、松田康長は岱崎出丸に加えて西ノ丸も落ちた事で敗北を悟り、渋る北条氏勝を説得して城から脱出させた。しかし、これを見た城兵達に動揺が走り、持ち場から逃げ出した。渡辺了と中村隊はこの隙を突いて三ノ丸に突入、徳川隊も二ノ丸に突入した。




山中城も残す所、本丸のみとなるが、康長と侍衆200人余は北西隅にある土塁と櫓に立て籠って最後の抵抗を試みる。まず、渡辺了と中村隊が攻めかかって激しく槍をぶつけ合っていたところ、二ノ丸を落とした徳川隊も本丸に殺到して来たことから、敵味方共、土塁から押し出されて堀に転がり落ちて行った。乱戦の最中、松田康長が討死し、ここに山中城は落城した。時刻は夕刻を迎えようとしていた。両軍の死傷者数は不明だが、5千人を超えたであろう。短くも激しい戦いであった。山中城はほどなく廃城となった。






↑山中城の地図






↑三ノ丸堀






↑田尻の池






↑二ノ丸土塁







↑二ノ丸土塁






↑西ノ丸






↑西ノ丸障子堀



左奥にあるのが西櫓で、徳川軍が最初に攻めかかった所です。







↑西ノ丸障子堀






↑左が本丸で右が北ノ丸



最終局面では、この土塁から両軍の武者が組み合いながら転げ落ちたのでしょうか。







↑本丸



この付近で松田康長は討死したのでしょう。

斎場御嶽(せーふぁーうたき

斎場御嶽(せーふぁーうたき)は、沖縄県南城市にある史跡で、琉球王国最高の聖地とされていた。この地では、琉球神道における最高神職、聞得大君(きこえおおぎみ)就任の儀式と、王国の祭事が行われた。聞得大君は、国王の姉妹など王族の女性から任命され、国王と王国全体を霊的に守護する存在とされた。










↑久高島を望む


天気が悪かったので、久高島の姿は不明瞭でした。久高島は神の島とされており、琉球王国時代には数々の神事が行われていました。歴代の琉球国王は2年に1回、久高島参詣を欠かしませんでした。






↑御門口(うじょうぐち)



参道への入口です。




↑大庫理(うふぐーい)



大広間との意味合いがあって、拝所となっています。












↑艦砲射撃の穴



沖縄戦の傷跡がここにも残っています。






↑寄満(ゆいんち)



豊穣に満ち満ちた場所との意味合いです。当時の琉球王国は貿易で栄えていたことから、世界中から集められた交易品がここに捧げられたのでしょう。









↑アマダユルアシカヌビーの壺 



2本の鍾乳石から滴り落ちる聖なる水を受けるため、2つの壺が置かれています。






↑正面が三庫利(さんぐーい)で右側が、ちょうのはな



それぞれ拝所とされています。斎場御嶽で最も奥まった所にあって、ここで最重要の神事が行われたのでしょう。



斎場御嶽は琉球王国最高の聖地と謳われているだけあって、神秘的な雰囲気が漂っていました。かつてここで、荘厳な儀式が執り行われた事を想像しながら、散策してみてください。

摩文仁の丘

摩文仁の丘は、沖縄県糸満市にある戦跡である。この地は、沖縄戦の末期、南端に追い詰められた日本軍と沖縄県民数万人が最後を遂げた場所である。



昭和20年(1945年)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸を開始し、南北に進撃を開始する。北部での戦闘は4月16日に終了し、本島北部は米軍に制圧されたが、日本軍主力が待ち受ける南部では、4月8日を境にして、戦いは激烈なものになってゆく。戦闘の焦点となったのは、日本軍沖縄守備隊、第32軍の司令部が置かれている首里であった。第32軍司令部は、琉球王国の居城であった首里城の地下50mにあって、あらゆる砲撃に耐えうる事が出来た。



主防衛線は、西は安謝川から首里城を経て、東の与那原に達する、沖縄本島を横断する10kmの線で、高地と地下陣地を巧妙に組み合わせた非常に堅固な造りであった。また、日本軍砲兵の火力は比較的、充実しており、これが米軍に多大な出血を強いた。しかし、米軍は、沖縄の制海権、制空権をほぼ完全に握っており、その海軍と空軍は、苦戦する陸軍に圧倒的な火力援護を提供した。日本軍は善戦を重ねるも、その兵力、弾薬は乏しくなる一方であった。5月4日、第32軍は、死中に活を求めて総攻撃を実施したものの、米軍の凄まじい砲爆撃を受けて、成すすべなく撃退された。



5月22日、首里戦線の両翼を担う、西の拠点、安里52高地(米軍名 シュガーローフヒル)と、東の拠点、運玉森(うんたむまい 米軍名 コニカルヒル)が突破され、首里は包囲されつつあった。このままでは、第32軍は首里一帯、数キロ円内に閉じ込められる。第32軍の消耗も激しく、陸軍正規部隊、沖縄現地招集兵、海軍後方部隊を含む、11万人いた将兵の内、6万人が戦死し、残存兵力は5万人となっていた。第32軍は、このまま首里で玉砕するか、知念半島に撤退するか、南端の摩文仁に撤退するか、の選択を迫られる。



そして、第32軍は、更に戦闘を引き延ばすには、摩文仁への撤退が望ましいと判断し、この22日より移動を開始する。だが、この決定は、沖縄南部に避難していた多数の沖縄住民を、戦火に巻き込む事も意味していた。第32軍は、首里に5千人の後衛を残すと、折からの豪雨に紛れて段階的に撤退していった。しかし、5月26日には米軍に察知され、猛烈な砲爆撃を浴びせられて、大勢の将兵や住民達が泥濘の大地に倒れていった。



5月31日、第32軍は撤退を終えて、3万人(陸軍正規部隊は1万人)が八重瀬岳、与座岳に新たな戦線を構築したが、この撤退時に1万5千人余の兵員を失った。6月5日、米軍は、第32軍最終防衛線への攻撃を開始し、再び激闘が展開される。日本軍は疲弊しきった兵力で奮戦を重ねるも、6月17日には八重瀬岳、与座岳も陥落して、住民共々、南端の摩文仁の断崖へと追い詰められていった。海上からは米軍艦艇による砲撃を受け、陸上からも迫撃砲、野砲による砲撃を受け、上空からも航空機による爆撃を受けて、摩文仁一帯は人々が逃げ惑い、吹き飛ばされる阿鼻叫喚を呈した。



6月20日、米軍はついに、第32軍司令部のある摩文仁岳を取り囲んだ。そして、昭和20年(1945年)6月23日早朝(22日とも)、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇(ちょう いさむ)中将の自決をもって、沖縄日本軍の組織的戦闘は終結した。沖縄戦において、日本軍は当初11万人の兵力を有していたが、10万人余が戦死し、住民9万人余が死亡した。米軍は陸海軍含めて54万8千人を動員し、その内、1万2,520人が戦死、5万5,112人が負傷、2万6,211人の戦闘疲労症を出した。






↑平和祈念公園



この丘には、日本全国の戦没者の慰霊碑が置かれています。平和祈念公園はとにかく、広大です。






↑摩文仁の海岸 東方



この日見た太平洋は穏やかに見えましたが、それでも泳ぐには波が大きく、危険だと思いました。摩文仁に追い詰められた人々の中には、海岸に沿って北部に逃れようとした人もいましたが、大半が銃撃を受けて倒れ、太平洋の荒波に吞まれて命を失う人も多かったと云います。ひめゆり平和記念資料館で見た資料にも、学徒が大波に吞まれて死亡したとの記述を度々、目にしました。





↑摩文仁の海岸 西方 




戦争中は、この様な崖の隙間に、人々がひしめきあって避難していたのでしょう。捕虜になるのを恐れた若い女性が、崖から身を投げる光景もありました。






↑黎明之碑



摩文仁岳の山頂にあります。






↑摩文仁岳から北を望む 



戦争中は、見渡す限りが砲爆撃による荒野となっていたはずです。






↑第32軍司令部壕跡



この付近で、第32軍司令官、牛島満中将と参謀長、長勇中将が自決を遂げました。






↑平和の像



沖縄戦に動員された男子学徒 鉄血勤皇隊を祀った像です。第32軍は沖縄の旧制中学校から14歳~16歳の男子学徒、1,780人を招集し、戦闘に動員して約半数が戦死しました。





↑摩文仁の井戸 



摩文仁には井戸がこの一か所しかなく、兵士や住民は米軍の攻撃の合間を縫っては、水を汲みに来ました。しかし、海上には米軍艦艇がひしめいており、この井戸も昼夜を問わず、見張られていました。しかも、周辺の樹木は砲爆撃によって薙ぎ払われており、身を隠す場所もありませんでした。米軍艦艇からの機銃掃射を受けながらも、飢え渇いた人々は水を求め、井戸にひしめきあっていたそうです。井戸の周りには死体が折り重なっており、そのため、この井戸は死の泉とも呼ばれました。それでも、人々は生きるため、命懸けで水汲みに走りました。





↑管理部の壕跡




人々は水を汲んだ後、この壕で炊事を行っていたそうです。その水や飯を上にある壕まで運び入れる事を、飯あげと呼んでいました。これは、銃砲弾が飛び交う中、必死で急坂を駆け上がる命懸けの作業でした。沖縄師範学校の男子学徒で構成されていた、鉄血勤皇師範隊がこの飯あげの任に当たっていたそうです。元沖縄県知事の太田昌秀氏によれば、上空から焼夷弾攻撃を受けて、管理部壕には黒焦げの焼死体が折り重なっていたそうです。この時の焼夷弾攻撃は大規模で、丘陵全体が炎に包まれたと云います。壕の上部が黒染んでいるのは、その時の攻撃の跡かもしれません。また、ここで、鉄血勤皇師範隊の学徒が自決したとあります。






↑摩文仁の海岸



現在では奇岩そびえる景勝地となっていますが、戦争中には、多数の水漬く屍が漂っていたでしょう。





↑平和の礎(いしじ)



日本軍、米軍、英軍、沖縄住民、台湾出身者、朝鮮半島出身者など敵味方を含む、沖縄戦での戦没者、また、1931年から1946年までに戦没した沖縄出身者が石板に刻銘されています。現在は、24万人分の石碑があって、その数に圧倒されます。





↑沖縄県平和祈念資料館



正面奥に見えるのが、沖縄県平和祈念資料館です。年末だったので、残念ながら閉館でした。摩文仁の丘は美しい場所でしたが、言いようのない物悲しさが漂う場所でもありました。

 プロフィール 
重家 
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重家
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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