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鬼武蔵の覚悟 

2009.02.09 - 戦国史 其の一

永禄元年(1558年)、森長可は、織田家の重臣、森可成の次男として生まれた。弟には、かの有名な森乱丸がいる。元亀元年(1570年)4月25日、 兄、可隆(よしたか)は、越前手筒山城攻めの際、討死し、同年9月20日には、父、可成も近江坂本にて討死してしまう。そこで、まだ若干13歳であった長可が、家督と所領の美濃金山(兼山とも)城を受け継ぐ形となった。元亀4年(1573年)3月、伊勢長嶋の一向一揆攻めに加わって16歳で初陣を飾り、その後も長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参戦するなど、若くして武功を挙げた。戦場での勇ましい戦い振りに加え、度々見せる傍若無人な振る舞いから、人々から鬼武蔵と称された。 織田信長は、この暴れん坊の若武者をいたく気に入って、度々の重大な軍令違反にも目をつむった。おそらく信長は、自らの若かりし頃の面影を長可に見出したのであろうし、気質的にもうまが合ったのだろう。




天正10年(1582年)2月6日、武田攻めが開始されると、長可は同僚の団忠正と共に織田軍の先陣を切って信濃に攻め入った。そして、信長の嫡男、信忠を大将とする高遠城攻めに参加して、これを攻め落とすのに重要な働きを示した。しかし、この時、長可は忠正と競い合って、上司の川尻秀隆に無断で前進して武田方を攻めるなどしたので、信長から書簡で注意を受けている。信長は長可の軽率な行動を戒めようとしたのだが、長可に改めた様子はなく、そのまま関東の上野国まで猛進する事になる。長可の働きを一言で表せば猪突猛進であったが、結果的には、この急進撃が武田家に立ち直る隙を与えず、早期崩壊に導く事になった。そして、同年3月11日、武田勝頼は天目山にて自刃し、これにて戦国の強豪、武田家は滅亡となった。 同年3月28日、長可は、その武田攻めの功をもって、信長より信濃北部、更級・高井・水内・埴科の四郡を加増され、20万石余の所領を宛てがわれた。



これで長可は、25歳にして大名身分となり、織田家中にて一目、置かれる存在となった。同年4月5日、長可は晴れて川中島の海津城に入城したが、すぐさま領主として大きな試練に立たされる事となった。平定間もない川中島は治安が不安定で、しかも隣接する越後の大名、上杉景勝が策動を仕掛けて、大規模な一揆が発生したのである。一揆軍は8千人余、大将は芋川親正で、上杉景勝と結び付いて、大倉の古城を修復して立て篭もった。同年4月7日、一揆軍が進撃してくると、長可は海津城から打って出て、兵3千余をもって一気呵成に攻め立て、一揆勢1,200人余を討ち取る大勝を得た。続いて大倉古城も攻め落とし、城内に残っていた女、子供1,000人余を容赦なく切り捨てた。この時の長可の弾圧は苛烈であったようで、後のこの地を支配した、上杉景勝は、「町人、村人達は無力である」と書状で述べている。




長可はこの一揆鎮圧の功をもって、信忠より感状を受けた。同年5月27日、 長可は領地経営に意を注ぐ間もなく、信長より越後進出を命ぜられ、兵5千を率いて北上する。同年6月初旬、越後に侵攻した長可が上杉景勝と対峙していた時、驚愕すべき知らせが届けられた。天正10年(1582年)6月2日、上方にて本能寺の変が起こり、そこで主君、信長と3人の弟が戦死したとの事であった。だが、長可にはそれを悲しむ余裕も、逡巡する時間もなかった。今、居るのは敵地のど真ん中であって、すぐさま兵をまとめて脱出せねば全滅する恐れがあった。長可は川中島へと舞い戻ったが、そこは既に敵地と化していた。川中島の国人達は長可を見限って、再び一揆を起こしたのである。 折角、手にした領土であったが、最早、維持するのは困難で、長可は旧領、金山への帰還を決意した。



長可は川中島4郡の諸氏から人質を取っていたので、これを盾にしつつ、信濃からの脱出を図った。しかし、それでも一揆勢が前に立ちはだかったので、長可は一戦交えてこれを撃ち破り、猿ヶ馬場峠に到着した時点で、一揆勢と関係のある人質を処刑した。長可は続いて木曽谷を抜けんとして、地元の領主、木曽義昌と交渉を持った。長可は、川中島4郡の人質を譲り渡すという条件で、木曽谷の通過を認められ、無事に美濃金山まで帰還する事が出来た。しかし、木曽義昌は、長可の殺害を計画していたと云う説もある。そうと知った長可は、予定を早めて夜間、木曽福島城に押し入り、義昌の嫡男、義利を捕らえて人質として、金山城への帰還を果たしたとされる。尚、義利は美濃国の大井宿(おおいじゅく)まで来たところで、解放されたと云う。



織田信長、信忠の死を受けて、美濃は無主の地となり、各地の国人達がそれぞれ勢力の伸張を図る、群雄割拠状態に陥った。そして、長可も金山帰還後、近隣の切り取りを開始した。天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老が集まって清洲会議が行われ、信長の三男、信孝が美濃の主となるが、長可はこれに叛いて尚も近隣の切り取りを続け、信孝の重臣、斎藤利堯が守る加治田城をも攻め落とした。これにより、東美濃の諸城の多くが長可に属する事となった。清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化し、戦に発展すると長可は秀吉方に付いて、柴田方となった信孝の諸城を攻め立てた。信孝は足元で起きている、東美濃での長可の働きや、西美濃の重鎮、稲葉一徹の離反を受けて岐阜城からまったく動く事が出来なかった。



そして、天正11年(1583年)4月20日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れ、北ノ庄で滅亡すると、孤立した信孝は岐阜城を開け渡し、まもなく切腹を命ぜられた。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が対立を深め、「小牧・長久手の戦い」へと発展すると、長可は舅の池田恒興と共に秀吉方で参戦する。同年3月13日、恒興が織田信雄の支城、犬山城を奪取すると、これに歩調を合わせる形で、3月16日、長可も3千人余を率いて尾張羽黒へと進軍し、小牧山城の奪取を狙った。しかし、この動きは家康に読まれており、3月17日早朝、長可は家康家臣の酒井忠次、榊原康政ら5千人余の奇襲を受けて、300人余を討ち取られる敗北を喫した(羽黒の戦い) 。長可は、この敗北に深い恥辱を覚える。この後、家康は小牧山城に入り、周囲に砦や土塁を築いて秀吉の来襲に備えた。



3月28日、秀吉は大軍を率いて楽田に着陣し、家康と向かい合うが、小牧山を中心とした徳川方の防備が堅いのを見て、楽田を中心に城砦群を築く。こうして厳重に守りを固めた両軍は、迂闊に手を出せなくなり、戦線は膠着状態に陥った。秀吉は兵力では勝っているので、別働隊を編成して、徳川方の陣地帯を迂回しつつ、三河方面に侵攻する計画を立てた。別働隊の編成は、本隊の羽柴秀次が8千、三番隊の堀秀政が3千、二番隊の森長可が3千、先鋒の池田恒興、元助父子が6千で、合計2万人余の大軍団であった。長可はこの作戦に参加するにあたり、羽黒での敗退を挽回すべく心に期するものがあった。そして、自筆の遺言状を、秀吉の近臣である尾藤甚右衛門に宛てて送った。



4月6日夜、秀次別働隊は三河に向けて出陣するが、練達の家康はすぐさま、その動きと意図を読んで動き出した。そして、榊原康政ら4,500を先鋒として出立させると、自らも織田信雄と共に先鋒に続いて、秀次別働隊の追跡を開始する。4月9日、秀次別働隊は行軍中、岩崎城近辺を通過するが、ここで岩崎城兵の妨害を受けたので、池田隊が応戦し、これに森隊も加わって攻城戦が開始された。城方は圧倒的な寄せ手相手に善戦したものの、衆寡敵せず、16歳の丹羽氏重以下200人余の城兵が全滅して、岩崎城は落ちた。城を落としたものの池田隊の疲労は大きく、休憩を兼ねて配下の論功行賞を始めた。そのため秀次本隊も停止して、敵地で別働隊全体の動きが止まった。しかし、その間に徳川軍は背後に忍び寄り、最後尾の秀次隊に狙いを定めると、一斉に襲い掛かった。



不意を突かれた秀次隊は壊乱し、総大将の秀次はからくも長久手方面に逃れた。 三番隊の堀秀政は沈着冷静で、後方の銃声ですぐさま徳川軍の追撃と判断し、隊を返して秀次を収容し、備えを固めて徳川軍を待ち受けた。家康先鋒隊は勢いよく堀隊に攻めかかったが、待ちかまえていた堀隊に鉄砲の一斉射撃を受けて冷や水を浴びせられた挙句、槍隊の逆襲を受けてたまらず崩れたった。先鋒の敗走を知った家康は直ちに救援に向かい、御旗山(長久手にある丘陵)に上って、頂上に自らの所在を示す金扇の馬印を打ち立てた。秀政はこの金扇を見て、難敵、家康の着陣を悟る。しかし、堀隊は井伊直政隊の攻撃を受けて打撃を受けた事に加え、主将の秀次を無事逃す必要もあって、秀政は家康の着陣を先鋒の池田、森隊に通報してから、戦場を離脱した。



一方、恒興と長可は秀次隊の敗報を受けて、すぐさま引き返しにかかったが、その途上で、御旗山に陣取る徳川、織田連合軍と遭遇した。森隊、池田隊は合わせて9千人余で、徳川軍は織田信雄隊を含む1万人余であった。森隊、池田隊は家康に帰路を塞がれて、戦って押し通るしか方策は無かった。両軍、しばしの睨み合いの後、4月9日午前10時頃、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。双方、戦歴を積んだ武将同士で、人数もほぼ互角とあって、両軍入り乱れての激闘が続き、どちらに軍配が上がるかわからない状況であった。そして、長可も前線に立って、鬼武蔵の名に相応しい猛戦を続ける。 だが、激戦の最中、一発の銃弾が長可の眉間を撃ち抜いた。長可は馬上から崩れ落ち、その首は徳川方によって掻き切られた。森長可、享年27。この長可の討死を切っ掛けとして、池田隊も崩れ始め、恒興も勇戦空しく、嫡男、元助と共に討ち取られる。



こうして、秀次別働隊は前後共とも壊滅した。この小牧・長久手の戦いで秀吉方は2,500人余り、家康方は550人余りの戦死者を出したとされている。長可の討死後、遺言状の内容は尾藤甚右衛門を通じて、秀吉や長可の家族に伝えられた。 長可討死の13日前に書かれた遺言状の内容はこうである。


「宇治にある名物の沢姫の茶壷と、山城の仏陀寺にある台天目茶碗、いずれも秀吉様に進上する。もしも自分が討死したならば、母上は秀吉様から生活費を頂いて京都に住んでもらいたい。末弟の千丸は今のまま秀吉様に奉公せよ。自分の後継者をたてることはくれぐれもいやである。しかしこの金山城は要地であるから、しっかりとした人物を秀吉様から置いてもらえ。女達は急ぎ大垣の池田家に帰らせよ。粗末な茶道具や刀や脇差、仏陀寺にある物の他はみな千丸に与える。ついで、京都の本阿弥家に預けてある秘蔵の脇差二つも千丸にやる。おこうは京都の町人か医者に嫁がせよ。母上は必ず必ず京都にいていただきたい。千丸にこの金山城を継がせるのはいやだ。けれども万が一総負けになったなら、皆々火をかけて死んでほしい」



長可の兄、可隆は元亀元年(1570年)に越前敦賀・手筒山城を攻めた際に討死しており、同年には父、可成も近江坂本合戦で討死している。更に、天正10年(1582年)、本能寺の変の折には森乱丸・坊丸・力丸の弟3人を一挙に失った。長可は戦場に於いては命知らずの猛者であるが、戦国の世の苛烈さは身をもって味わっており、自分が討死した際には、残された遺族はもう戦乱に巻き込きこまれないでほしいと願っていた。 それでも、戦乱に巻き込まれたなら、せめて武家らしい最後を遂げてもらいたいと言っている。長可の遺書を読んで、妙向尼(長可の母)は嘆き悲しんだ事であろう。夫と4人の息子を失い、今また長可を失ったのである。 その後、女達(おそらく妻とその侍女達)は妻の生家である池田家に帰り、おこう(おそらく長可の娘)は遺言通りに商人に嫁いだものと思われる。



だが、金山城は、千丸こと忠政が継ぐ事になった。長可は忠政に城を継いでもらいたくはなく、秀吉の近習として仕えてもらいたいと望んでいた。しかし、この措置は森家を存続させてやりたいという秀吉なりの配慮であったのか、それとも、大勢の家臣を抱える大名としての森家の責務であったのか。その後、忠政は関ヶ原の戦いの折には家康方に付き、加増を受けて森家を存続させることに成功する。そして、森家は紆余曲折はあったものの、大名として明治までその名を残す事となる。 戦国時代、大勢力を誇る一族であっても、一敗地にまみえれば、族滅する事も日常茶飯事であった。その中で、多くの犠牲を払いながらも大名として存続できた森家は、まだこれでも幸運な方であったのかもしれない。

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仇を尋ねて40年

2009.02.08 - 歴史秘話 其の一
文化14年(1817年)12月20日、北越の新発田藩(溝口家5万石)にて、一件の殺人事件が起こった。滝沢休右衛門と言う藩士が、城下町の酒場にて、同じ新発田藩士である、久米弥五朗と口論した挙句、相手を殺害したのである。休右衛門は事件後、逃亡し、行方をくらませた。その結果、滝沢家は喧嘩殺人の上に出奔の罪で断絶となった。そして、被害者である久米家も、主人が斬り殺されたとあって改易となった。


久米家に残された遺族は、妻と一女二男である。娘は10歳、長男、幸太郎は7歳、次男、盛次郎は4歳であった。家禄は没収され、屋敷を追われたが、遺族には年30表の合力米が与えられた。久米家が再び御家を再興するには、仇討ちを果たす必要があった。そこで、弥五朗の弟である、板倉留六郎(32歳)が幼い兄弟を育成し、仇討ちを成就させるために後見人となった。


以後、久米家の遺族、親戚はあらゆる方法で滝沢休右衛門を探索したが、その行方はようとして知れず、空しく11年の歳月が流れた。文政11年(1828年)留六郎は43歳、幸太郎は18歳、盛次郎は15歳となった。同年5月5日、3人は藩主、溝口直諒(みぞぐち・なおあき)に御目見えし、格別の思し召しによって兄弟には刀一振りと金30両、留六郎にも金15両が下賜された。さらに家老からも激励の言葉をかけられ、3人は恐縮して平伏した。藩主と家老からの直接の激励と援助と云う、大変な配慮を受けた3人であったが、その反面、この仇討ちからは決して逃れられない身となった。すなわち、人生の枷となって重く圧し掛かって来るのである。


仇討ちには守るべき内規が定められており、その幾つかを挙げてみる。
仇討ちには公許が必要であり、追跡が藩外に及ぶ場合、幕府に届け出る必要がある。宮中、江戸城内、寺社の境内での仇討ちはご法度である。一度、仇討ちの旅に出たならば、本懐を遂げずに生国に帰る事はできない。探す敵が死んでいた時は、その証拠となるものを持ち帰らねばならない。仇討ちの繰り返しである重敵(じゅうがたき)は、再現なく恨みが続くため禁止である。主君の手討ちは誰も復讐できない。また、親が子の内、兄を手討ちにした場合、その弟は兄の仇を討つ事はできない。一方、敵と狙われる方は、卑怯者と言われようと、あくまで討たれないように工夫し、逃げおおせるのが武士の誉れとされた。返り討ちをして、さらに逃亡する事も卑怯ではない。仇討ちは、敵にめぐり合うまでが実に大変であった。仇討ちの成功率は、実に百分の一であったらしい。


3人は幕府に届けを出し、いよいよ仇討ちの旅へと乗り出した。こうした旅の場合、虚無僧に身を変えるのが便利であったので、3人は秀峰山明暗寺を訪れると、そこに入門を願い出た。3人は明暗寺にしばらく滞在して、尺八を習い覚えた。一通りの修行を終えると、3人は黒衣の袈裟をかけ、明暗寺発行の通行手形を手にして山門を出た。この通行手形が有れば、関所の通過は容易となる。3人は東北一円を巡りながら、人の集まる場所に顔を出しては休右衛門の人相画を差し出し、その特徴を語って熱心に情報を求めた。


3人はさらに全国をほぼ一回りしながら、仇を捜し求める。そして、10年の歳月が流れた。留六郎は53歳、幸太郎は28歳、盛次郎は25歳となった。留六郎と同輩の者達は、楽隠居をしていたであろう。兄弟も妻を娶っていてもおかしくない年頃であったが、このような境遇ではそれも叶わなかった。この間、仇討ちの為に貯めてきた費用や、藩主から下賜された45両の金も底を突いてしまう。3人は代わる代わる病気に罹り、長期間、寝込んだ事もあった。


凶事の日から、21年の歳月が流れ、仇の滝沢休右衛門は63歳になっているはずであった。最早、生きているかどうかも定かではない。これからは休右衛門の生死を確かめる事も急務となってきた。3人は話し合って、武蔵にある普化宗鈴法寺(ふけしゅうりほうじ)に再入門する事にした。明暗寺で得た僧籍は金銭で買える仮印可であり、正式の僧として認められた訳ではなかった。そこで3人は鈴法寺で正式な印可をもらい受けようと、修行に励んだ。これは、路銀が底を突いた今、生活の手段として托鉢をする必要があったのと、各地の寺院を訪ねてその協力を仰ぎ、墓地を調べて休右衛門の生死を確かめる必要に迫られた為であった。3人は所定の修行を終えると、正式な僧として法号を得た。


3人は托鉢をしつつ仇を尋ね、無縁仏の墓を調べる旅がさらに10年続いた。留六郎は63歳、幸太郎は38歳、盛次郎は35歳となった。この間、幸太郎は医者を開業し、盛次郎は習字の塾を開いた事もあった。留六郎は老齢となって体が弱り、旅が困難になっていた。嘉永4年(1851年)、隠居して健斎と号していた前藩主、溝口直諒は、まだ本懐を遂げれずに諸国放浪を続けている久米兄弟を哀れんで一文を綴っている。


安政4年(1857年)、弥五朗が殺されてから、40年の歳月が流れた。留六郎は72歳、幸太郎は47歳、盛次郎は44歳となった。この頃になると3人の結束も乱れ、三者三様の考えを持つ様になっていた。あくまで仇討ちの執念に燃えているのは長男、幸太郎1人だけであった。仇討ち40年の歳月は、3人の間に亀裂を作っていたのかもしれない。3人は別行動を取るようになっていたが、連絡場所だけは決め合っていた。


その頃、伊達領、仙台城下のはずれにある曹洞宗金剛寺では、久米兄弟の事が話題に上っていた。そこの住職、大雲和尚には、久米兄弟の仇である滝沢休右衛門に良く似た怪しい人物が思い浮かんできた。その人物とは、伊達領、牡鹿半島にある洞福寺の住職を務める黙照(もくしょう)という老僧であった。この黙照は新発田出身のようであるが、何故かその事に触れられるのをひどく嫌うのであった。檀家の話では、黙照は昔から他国者を異様なほど警戒して、滅多に外に出ないと云う事であった。さらに黒衣の懐に、短刀を忍ばせているのを目撃した人もいた。大雲和尚は、この事を久米兄弟に知らせた。


吉報を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのは、やはり幸太郎であった。幸太郎は洞福寺を訪れ、密かに黙照をかいま見たが、面体を知らないので休右衛門とは断定出来なかった。休右衛門の顔を知っている頼みの伯父、留六郎はまだ未着であった。そこで、幸太郎は新発田に戻り、休右衛門の顔を見知っている老齢の親戚、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門に同行を願い、再び洞福寺を訪れた。渡辺戸矢右衛門は洞福寺に紛れ込み、黙照が休右衛門である事を確認した。だが、寺内での決闘はご法度であったので、本懐を遂げるには用心深い黙照を寺から誘き出す必要があった。そこで幸太郎は、洞福寺の本山にあたる海渓寺の住職に懇願して、黙照を呼び出してもらう事にした。


安政4年(1857年)10月9日正午頃、3人は牡鹿半島、祝田浜の林に身を潜めて待ち受けていたところ、老僧が足取りもおぼつかずに歩み寄ってきた。幸太郎は躍り出て長刀を振り上げると、名乗りを挙げた。老僧は驚いて、「拙僧は出羽の生まれの黙照と申す者、老いた出家に御無体なされますな」と言って震えながら手を合わせた。その哀れな姿に、幸太郎の心に迷いが生じる。相手は仇とはいえ、82歳の老齢である。それに40年もの歳月の間に、怨恨はほとんど消えてしまっていた。あるのは義務感だけであった。老僧は、幸太郎がひるむのを見ると喜色を浮かべ、「人違いである事が、お分かりか」と云って立ち去ろうとする。だが、その前に、「滝沢、よもや我らを忘れはしまい」と板倉貞次と渡辺戸矢右衛門が立ち塞がった。


老僧は旧知の出現にしばし唖然としていたが、ついに観念したのか、「いかにも、わしが滝沢休右衛門である」と告げた。そして、板倉貞次が、「幸太郎、討て!」と叱咤した。幸太郎は夢中で刀を振り下ろすと、無抵抗の休右衛門は血飛沫をあげて倒れた。実に40年もの辛苦が報われた瞬間であった。この瞬間のため、果てしない闇夜に一点の灯火を求めるような旅を、数十年に渡って続けてきた。風雨に打たれつつ諸国を巡り、托鉢で物乞いして糊口を凌ぐ毎日であった。少年は青春も知らず、人間らしい生活も送れないまま、中年となった。余りにも多くのものを失ってきた幸太郎に、この時、どのような思いが去来したであろう。辛苦と責務からようやく解き放たれたという開放感であったのか、それとも言い様の無い虚無感であったのか。この時、久米幸太郎47歳、弟盛次郎44歳、叔父板倉留六郎72歳、滝沢休右衛門82歳であった。


この後、新発田に帰国した幸太郎は家名を再興した上、250石に加増された。間に合わなかった弟、盛次郎と伯父、留六郎にも長年の労苦を賞され、それぞれ扶持が下された。仇討ちの手助けをした、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門にも褒賞が与えられた。宮城県石巻市祝田浜には、「久米幸太郎仇討の地」と書かれた碑が置かれている。

彦根城

彦根城は滋賀県彦根市金亀町にある近世城郭です。日本には天守閣が現存している城が12城ありますが、彦根城もその一つです。


慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、要地である近江北東部を領有していた石田三成に代わって、徳川家の重鎮、井伊直政が入封する。直政は、石田三成が居城としていた佐和山城に代わって、新たな城の築城を計画していたが、関ヶ原の戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去する。


直政の意志は嫡男の直勝とその重臣達に引き継がれ、彦根城の築城が始まる。慶長8年(1604年)から築城が始まり、天守閣は慶長12年(1607年)頃に完成するが、城郭全体の完成を見たのは元和8年(1622年)三代目、井伊直孝の時代だった。



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↑彦根城天守閣

小振りですが、国宝に指定されている貴重な建造物です。


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↑本丸近くでひこにゃんに出会いました。

私は最初、ひこにゃんの事を快く思っていませんでした。「城にゆるキャラなど似合ぬ!見かけ次第、成敗してくれるわ!」と意気込んでいました。そして、ひこにゃんを見かけるや否や、私は「ひこにゃん、覚悟ぉー!」と近寄ったものの、その可愛ゆさの前に返り討ちに遭い、「ひこにゃーん、こっち向いて~」と、カメラでパシャパシャ撮りだしてしまう始末でありました。


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↑ひこにゃん

現在の彦根城主です。笑



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↑佐和山城跡

彦根城からは、かつて石田三成の居城であった佐和山城が見渡せました。



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↑玄宮園

見応えのある大名庭園でした。どの季節に訪れても目を楽しませてくれそうです。


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↑玄宮園と彦根城天守閣

彦根城はここから眺めるのが、最も美しいんじゃないでしょうか。
この庭園を作った人物は、この眺めになる様に計算していたのでしょう。


彦根城は家族連れ、老若男女問わず、万人が楽しめる城だと思います。




信長の就職活動

2009.02.03 - お笑い歴史街道
織田信長が現在に生まれて、就職活動をすると仮定してみた。
はたして、信長は内定を勝ち取ることができるだろうか?



            / ̄ ̄\
          /   _ノ  \
          |    ( ●)(●)    学生時代に
          |     (__人__)   打ち込んだものは
             |     ` ⌒´ノ     何ですか?
              |         }
              ヽ        }
            ヽ、.,__ __ノ
   _, 、 -― ''"::l:::::::\ー-..,ノ,、.゙,i 、
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      ____
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   /  ─    ─\      
 /    (●) (●) \      博打と鉄砲だな
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 \     ` ⌒´   /      
,,.....イ.ヽヽ、___ ーーノ゙-、.
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    |  \/゙(__)\,|  i |
    >   ヽ. ハ  |   ||




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          /   _ノ  \
          |    ( ○)(○)    どちらも
          |     (__人__)    違法なんですが・・・
             |     ` ⌒´ノ      
              |         }      
              ヽ        }
            ヽ、.,__ __ノ
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            / ̄ ̄\
          /   _ノ  \
          |    ( ●)(●)    当社で働くにあたって
          |     (__人__)   その意気込みを
             |     ` ⌒´ノ    語っていだだけますか。
              |         }
              ヽ        }
            ヽ、.,__ __ノ
   _, 、 -― ''"::l:::::::\ー-..,ノ,、.゙,i 、
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黙って、俺に付いて来い!!!
                              ,.へ
  ___                             ム  i
 「 ヒ_i〉                            ゝ 〈
 ト ノ                           iニ(()
 i  {              ____           |  ヽ
 i  i           /__,  , ‐-\           i   }
 |   i         /(●)   ( ● )\       {、  λ
 ト-┤.      /    (__人__)    \    ,ノ  ̄ ,!
 i   ゝ、_     |     ´ ̄`       | ,. '´ハ   ,!
. ヽ、    `` 、,__\              /" \  ヽ/
   \ノ ノ   ハ ̄r/:::r―--―/::7   ノ    /
       ヽ.      ヽ::〈; . '::. :' |::/   /   ,. "
        `ー 、    \ヽ::. ;:::|/     r'"



    


            / ̄ ̄\
          /   _ノ  \
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          |     (__人__)  
             |     ` ⌒´ノ     ところで信長君
              |         }    そのタメ口は何とか
              ヽ        }      なりませんか
            ヽ、.,__ __ノ
   _, 、 -― ''"::l:::::::\ー-..,ノ,、.゙,i 、
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      ____
     /⌒  ⌒\ ホジホジ
   /( ー)  (ー)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \    で、あるか
  |    mj |ー'´      |
  \  〈__ノ       /
    ノ  ノ 

     


            / ̄ ̄\
          /   _ノ  \
          |    ( ○)(○) 
          |     (__人__)      ・・・・
             |     ` ⌒´ノ      ・・・・
              |         }      ・・・・
              ヽ        }
            ヽ、.,__ __ノ
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後日、信長に手紙が届きました 
         _____
         / ヽ____//
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       /    ̄ ̄ ̄ ̄      /_____
       /    当然       /ヽ__//
     /     不合格      /  /   /
     /              /  /   /
    /   ____     /  /   /
   /             /  /   /
 /             /    /   /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /   /




        / ̄ ̄ ̄ \    これで100社全滅・・・
      /   :::::\:::/\    俺のどこに問題が
     /    。<一>:::::<ー>。     あるんだ・・・
     |    .:::。゚~(__人__)~゚j      
     \、   ゜ ` ⌒´,;/゜
    /  ⌒ヽ゚  '"'"´(;゚ 。  
   / ,_ \ \/\ \
    と___)_ヽ_つ_;_ヾ_つ.;.



信長が現代に生まれたとして、平社員として出発したならば、能力があってもその奔放な性格が災いして出世するのは難しいんじゃないでしょうか。始めから二代目社長の椅子が用意されていれば、大企業に育て上げたかもしれませんが、最終的には部下から追放されそうです。

肥前の熊 「今山の戦い」

2009.01.27 - お笑い歴史街道
元亀元年(1570年)3月、肥前の戦国大名、龍造寺隆信は存亡の危機に立っていた。隆信はこれまで九州の大大名、大友宗麟に表面上は従っていたが、その裏では近隣の大友方豪族を攻め立てて、勢力を拡大していった。だが、宗麟にその行動を見咎められ、6万と号される一大討伐軍が佐賀城に差し向けられたのである。これに対する龍造寺方は5千人余しかなかった。



          ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |    なにマジになってんの?
          彡   (_●_)    ミ
           /、   |∪|    ,\   シャケの切り身やるから
          /.|     ヽノ    | ヽ   仲直りしようクマー
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .∥ /
            ("___|_`つ



 /\___/\
/ /    ヽ ::: \    
| (●), 、(●)、 |     NO THANK YOU
|  ,,ノ(、_, )ヽ、,,   |    クマ臭いシャケ
|   ,;‐=‐ヽ   .:::::|    なんていらない
\  `ニニ´  .:::/      
/`ー‐--‐‐―´´\
       .n:n    nn
      nf|||    | | |^!n
      f|.| | ∩  ∩|..| |.|
      |: ::  ! }  {! ::: :|
      ヽ  ,イ   ヽ  :イ


                 


元亀元年(1570年)8月19日、龍造寺方の籠城は半年にも及んだが、事態が好転する兆しはまったく見えなかった。龍造寺方には、援軍もなく焦燥の色が濃くなってくる。そして、いよいよ大友方の総攻撃が決まり、その督戦をするべく、宗麟の一族、大友親貞が今山に着陣したとの報がもたらされた。佐賀城内は、沈鬱な空気に包まれる。


城内では和平を望む声が高まり、隆信もその意見に心が傾く。そういった折、隆信が出していた斥候が 「大友方は今夜、戦勝の前祝いに酒宴を開く」との報をもたらした。重臣、鍋島直茂はそれを聞いて 「この絶好の機会に今山へ夜襲すべし」と具申した。だが、危険な賭けであって、隆信は尚も迷う。


  
      ∩___∩
       (ヽ   | ノ           ヽ    /)
      (((i ) /    (゚)      (゚) | ( i)))
    /∠彡       ( _●_)   |_ゝ \
  ( ___、       |∪|       ,__ )
          |          ヽノ    /´                   
          |                /          クマッた 
     三  |              /                      クマッた      
          |      -―'' ̄ ̄ ヽ
          ゝ    __,,-―'、  \
三 __/   /               \ \_/|
/  __ _/                   \_'丿



軍儀を聞いていた隆信の母、大方殿(慶誾尼)はここで口を開き、「男ならば、死生二つの勝負を決せよ」と皆を叱咤激励する。


大方殿 「何を迷いなさるか!母は臆病な穴熊を生んだ覚えはありませぬぞ!男なら討って出て一世一代の勝負を挑みなされ!そして大将首を討ち取ってヒグマになりなされ!」


        ___  o
       ( ;;;;;_;;;;; )/'''
     丶.-'~;;;;;;;;;;;;;;~'-、
    /~;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;,ヽ、
   ,;';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、
  ./;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヘ
  l;;;;;;;;;'   ~''''''''''~    ';;;;;;;;l
  .l;;;;;;;;;;            ;;;;;;;l
  l;;;;;;;;;;'  ノヽ         .;;;;;;l
  k;;;;;;;'  ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r''''''  ;;;;;l    勝負じゃあああ!!!
 ヘ ヽ;; ン(○),ン <、(○)<::;; ノ |`ヽ、+
   ∧. `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ | .|::::ヽ.l +
  / キ ヽ il´トェェェイ`li r /ヽ、.|::::::i |
 ./   ヽ 、 !l |,r-r-| l! /    .|:::::l |
 /    ヽヽ、 `ニニ´/     ,r-|:「 ̄
       `\\//    ,U(ニ 、)ヽ
                人(_(ニ、ノノ




                 
                 -ーー ,,_                            
                r'"           `ヽ,__               宗麟より母ちゃんの方が 
               \           ∩/ ̄ ̄ ヽつ        怖いクマー・・・         
             ノ ̄\ /"ヽ/ "     ノ    ヽ i                  
             |   \_)\ .\.     ○   ○|\アウアウ        
            \ ~ )       \ .\_ U( _●_)\_つ
                ̄           \_つ-ー''''


これを聞いた隆信にもはや迷いはなかった。覚悟を決め、一大勝負に討って出る事を決めたのである。やはり隆信は一角の男だった。


                           ・,   `ヽ`、
                          (´、_     )  ) (、   :、
                        ’  )   )  (  (__ノ )( (  ;
                     )ヽ, (     `'´       (__ノ  )  、     母ちゃんに殺されるから
                   (   (__ノ                    (    )`、    勝負するクマー!!!
                ;    )         ∩___∩      `ー'    )    ,  
              (´、  (          | ノ           ヽ/⌒)   (    (
               ) `ー'        ./⌒) ●      ●|   |     )   )`ヽ  
        、 ‘ (              /  /     ( _●_)  ミ./       `ー'    i  
          )ヽ. ヽ          (    ヽ    |∪|    /              ,ノ_   
        (   `ー'            \      ヽノ   /                 (__`; )    
         ヽ                  /             /                      (
            )                |             /                        )
          (                 .|    /|    /                       (´
            ヽ               |  /    |  /                       _,ノ
              i              .∪      ∪                    ;'


隆信はこの家運がかかった夜襲の指揮を、腹心であり義兄弟でもある直茂に委ねた。8月20日早朝、直茂は800人余の兵を引き連れ、秘かに大友方の陣営に忍び寄る。夜が明けるや否や、龍造寺軍が一斉にときの声を上げると、酒宴明けで寝ぼけ眼の大友方は大混乱に陥った。そして、乱戦の最中、成松信勝が大友方の大将、大友親貞を討ち取るという殊勲を挙げた。



    ●
          目
      ..-──- 、
    ▲             ヽ   , - ´~~` -、   大儀であった!
   /     ●      ● |  \ 天晴 /  苦しゅうないぞよ
   |        ( _●_)   ミ     ヾア
  彡、      |∪|    、`\ノつ
/  __   ヽノ  /´ヽ   ノ
(___)      /




 <(_ _)> <(_ _)> ハハーッ

鍋島直茂  成松信勝



  ∩___∩      
     | ノ           ヽ     褒美にシャケをあげるクマー
    /    ●      ● |           ___    
   |        ( _●_)   ミ___l l i //
  彡、      |∪|    _____)⌒|
/           ヽノ  /          /    |7
ヽ|              /           i!     |
  |             /            |      !7
  |      /   /             l      |'
  |    / |    /             ∩r-;l
  |  /   l  _/               |    ,!
  ∪    ヽ_)              ヾi!_ノ



(。□。;)ガーン!! (;゚□゚)ガーン!!  褒美がシャケ・・・


今山の戦いの後、宗麟は隆信からの講和を受け入れ、不本意ながらその所領を安堵した。


     ./\               /\
         /:::::::ヽ____/::::::::ヽ、
       /  ::. _    .:::::::::::::   _::::ヽ_
    /  /  °ヽ_ヽv /:/  °ヽ::::::ヽ      クマのくせにぃー
  /  /.( ̄( ̄__丶 ..( ̄(\   ::::|    くやじいー
. |  .:::::::: )   )/ / tーーー|ヽ)   )  .::::: ::|   
. |  .::::...(   (..||.       |  (   (       ::|      
. |  :::.   )   )| |⊂ニヽ .| !  )   )     :::l:  
  |  :   (   ( | |   |:::T::::.|  (   (       ::|
  \:   )    )ト--^^^^^┤  )   )     丿     
   / (    (               (   .(      \



     ∩___∩
     (ヽ   | ノ           ヽ    /)
    (((i ) /  (゜)    (゜) | ( i)))        バーカ
  /∠彡       ( _●_)   |_ゝ \     バーカ
( ___、       |∪|        ,__ )
        |         ヽノ     /´
        |                /



形式上は宗麟に屈服した形であったが、隆信はその後も肥前の平定を進めてゆき、後には、五州二島の太守と呼ばれるまでの大武将に成長してゆく。


肥前のクマさん 「ヒグマにレベルアーップ!俺様の時代がキターーーーッ!!!」

              ┏/ >>>>ゝヽ'人∧━∧从〈〈〈〈 ヽ.━┓。
  ┏┓  ┏━━┓  < ゝ{  ⊂>’ 、  ' 〃Ν ; 〈⊃   }..ゝ '┃.     ┏┓┏┓┏┓
┏┛┗┓┃┏┓┃   ∇ |   |  ∩___∩  |   | .〆 ,┃  /  ┃┃┃┃┃┃
┗┓┏┛┃┗┛┃┏━ ┠|   | . | ノ      ヽ.!   !'´;  ┨゚━━┓┃┃┃┃┃┃
┏┛┗┓┃┏┓┃┃。冫▽ヽ   \/  ●   ● |   /  ▽┃< ゚ ┃┃┃┃┃┃┃
┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ ┃  \   |    ( _●_)  ミ/  て く、 ━━┛┗┛┗┛┗┛
  ┃┃      ┃┃    ┠─ムヽ 彡、    |∪|  / .┼ ァ Ζ┨ ミo'’` ┏┓┏┓┏┓
  ┗┛      ┗┛  。、゚`。、   iヽ     ヽノ / 、'’ × 个o     ┗┛┗┛┗┛
            ○  .┃   `、,~´+√ ▽   ',!ヽ.◇   ; o┃
            .   ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛;
 プロフィール 
重家 
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重家
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