忍者ブログ

スターリングラード 1

(1941年6月21日)、300万人を越えるドイツ軍が、ソ連邦へと攻め込んだ。ソ連の体制崩壊を目指したこの大攻勢は、バルバロッサ作戦と呼ばれた。当初は破竹の勢いで進撃していったドイツ軍であるが、広大なロシアの大地で消耗を続け、12月にはソ連の首都モスクワを目の前にして、その進撃は食い止められてしまう。消耗し尽くしたドイツ軍は、ソ連軍の反撃の前に敗退を余儀なくされた。


だが、ヒトラーはまだ、ソ連の打倒を諦めてはいなかった。今度はモスクワよりもずっと南、カフカス地方とヴォルガ河にいたる南部ロシアを征服しようとの決意を固めた。東部戦線の最終勝利を目指したこの大攻勢は、ブラウ作戦と命名された。1942年6月28日)、大攻勢が開始され、ドイツ軍は昨年と同じように破竹の勢いで進撃を続ける。ドイツは軍を大きく二つに分け、A軍集団はカフカス地方の油田を、B軍集団はヴォルガ河河畔の都市スターリングラードを目指した。当初、作戦の経過は順調だった。
 

(7月)、スターリングラード攻略を担うドイツ軍は、兵員25万人、戦車750両、軍用機1,200機、火砲7,500門だった。それに対するソ連軍は、兵員17万人、戦車360両、軍用機340機、火砲8,000門だった。(8月23日)、ドイツ空軍が、スターリングラードに猛爆撃を加えた。当時、スターリングラードの人口は60万人であったが、最初の週の爆撃で4万人の死者を出した。8月後半)、ドイツ地上軍は、市の郊外に達する。(9月初旬)、ドイツ軍は自信満々だった。市攻略の主力を担う第6軍司令部には戦勝気分がみなぎり、あるドイツ兵は便りに、「スターリングラードは2、3日で陥落するでしょう」と書いている。しかし、早期攻略どころか、戦闘は激しくなる一方であった。


ソ連軍は消耗し、この時点で防衛隊は4万人ほどでしかなかったが、彼らはここがロシアの最後の防衛線であると認識し、最後まで戦い抜く決意を示していた。兵士達はロシアの国民全体の思いが自分達に向けられていると感じており、スターリングラードで戦うことに凄まじい誇りを感じていた。また、市街戦には多数の女性兵士も参加していた。ドイツ装甲師団の報告、「午後も遅くなるまで、我々は37ヶ所もの敵の高射砲陣地を相手に撃ち合わねばならなかった。敵の砲兵は粘り強い女性だったが、ついに全滅した」。


(9月13日)、ドイツ軍は市街に突入を開始する。爆撃と砲撃で崩れ落ちた建物の一角一角を廻って、独ソ両軍は熾烈な戦闘を繰り広げた。ドイツ兵の書き残し、「急降下爆撃機の地獄を思わせる咆哮、高射砲、大砲の響き、エンジンの唸る音、戦車のキャタピラが立てる雷のような音、ロケット弾の金属音、飛び交う短機関銃のせわしい音、あたりは騒音の洪水である。しかも46時中どこにいても燃え盛る街の熱に襲われる」 「負傷兵の挙げる叫び声、あれは人間の発する声ではない。傷付き苦しむ野生動物のおぞましい叫びだ」 


「衛生兵、助けてくれ!」という負傷兵の叫びは、爆撃音や瓦礫を吹き飛ばす砲弾の音と同じように日常の戦場の音となる。両軍の兵士達にとって、街中に落ちてくる砲弾は何よりも恐ろしかった。爆発そのものも危険であったが、高層ビルに当たれば、砲弾の破片やレンガなどが凶器となって上から大量に降り注いでくるのだ。市街は、始終舞い上がる煙や土埃によって霞み、死体や物の焼ける異様な臭気が立ち込めた。


ヴォルガ河は、湖を思わせる広大な河だった。夜間、船に乗ったソ連の増援部隊が、赤黒く燃え盛る市街地へと送り込まれて行く。巨大な炎がビル群の抜け殻を映し出し、夜空に火の粉を舞い上がらせる。兵士達は、船から鉄兜だけを出して、西岸の燃え盛る建物を睨み続ける。河にはドイツ軍の銃砲弾が絶え間なく飛来して水柱が上がり、直撃を喰らって沈没する船もある。この地獄のような光景を見て、怖じ気をふるう兵士もいた。しかし、船には政治将校が乗り込んでおり、川に飛び込んで逃れようとする者がいれば、容赦なく射殺する構えをとっていた。


至近弾があってパニックに陥る兵士がいれば、政治将校は即刻、射殺して死体を河に投げ落とした。岸が近づくにつれ、焼け焦げた建物と腐った死体の悪臭が漂ってくる。彼らは上陸するや否や、駆け出して、「ウラー(万歳)!!!」の叫びと共にドイツ軍に突撃していった。スターリングラードの凄まじい消耗戦を物語る事例がある。ソ連親衛第13狙撃師団は、増援として市街戦に投入されたが、第13狙撃師団は西岸に渡った最初の24時間で30%が死傷し、スターリングラード戦が終わった時点で1万人いた部隊の内、生き残った者は320名に過ぎなかった。


(9月中旬)、急に気温が下がり、霜が降りてくる。過酷なロシアの冬が近づいていた。だが、そのような事はおかまいなしに、市内では果てしない消耗戦が続いていた。壊れた建物や掩蔽壕、地下室や下水道で、近接戦が繰り広げられた。両軍の兵士は共に、疲労、緊張、憤怒で神経が昂ぶっており、ろくに捕虜も取らずに相手を撃ち殺していった。ドイツ空軍が爆撃して破壊した建物が、皮肉にもソ連軍に格好の待ち伏せ場所を提供していた。ドイツ軍将軍の手紙、「敵は目に見えない。地下室、崩れた壁の陰、掩蔽壕、工場跡に待ち伏せて攻撃してくるので、我が方の損害は甚大だ」。ソ連軍は、ドイツ軍を絶え間ない緊張状態に陥れて心身を消耗させようと、夜襲を繰り返した。さらにソ連空軍は毎晩、ドイツ軍陣地に爆撃を加えた。


あるドイツ軍部隊の報告、「部隊は不眠不休の有様だ。もうすぐ彼らの体力は完全に消耗するだろう」。ドイツ軍の中には戦闘のストレスに耐え切れず、自傷行為を行う者や自殺をする者が絶えなかった。一方のソ連軍の方も消耗し、疲労しきっていた。高い士気を保っている兵士もいたが、恐るべき戦闘の重圧に耐えられない兵士も大勢いた。このスターリングラード戦全体で、ソ連軍は脱走・寝返り・自傷行為・無能・臆病などを理由に13,500人余の自軍兵士を処刑している。


スターリングラード2に続く・・・
PR

戦国の暗殺者 遠藤兄弟

2009.04.01 - 戦国史 其の二
永禄9年(1566年)、 備前の戦国武将、宇喜多直家は、浦上宗景を主君として仰いでいたが、内心には取って代わる野心を秘め、勢力拡張に努めていた。直家は美作の地に目を付け、手を伸ばさんとしたが、そこに立ちはだかって来たのが三村家親であった。備中一国を領有し、武勇の誉れ高い三村家親は、版図拡大を狙って美作に侵攻してきたのである。この美作には宇喜多家の勢力下にある諸城があって、直家は深刻な脅威を覚えた。


直家は、この強敵に正面から立ち向かうのは困難と考え、かねてから策を練っていた。戦国の戦は、大抵、相手の主将を討ち取れば、勝敗は決する。だが、軍勢をもって討ち取るのは、多大な費用と犠牲、それに幸運を必要とした。もし、暗殺で始末する事が出来るなら、これ以上、効率的なものは無い。直家は、その暗殺という任務に最適の人物を2人雇い入れていた。それは、遠藤又三郎・喜三郎の兄弟で、どちらも鉄砲の名手として知られており、更に美作の地理に詳しく、三村家親の顔まで見知っていたのである。この兄弟は浪人であったが、直家は、多額の報酬と重臣への取立てを約束して、家親の暗殺を依頼した。遠藤兄弟は了承し、計画を立て準備を整えると、三村家親が在陣している美作の地へと向かった。


遠藤兄弟は美作の地に入ると、方々を探索して、家親が興禅寺に在陣していることを突き止めた。 永禄9年(1566年)2月5日、遠藤兄弟は目立たぬ格好をし、短筒(片手で扱える火縄銃)と玉薬を携えると、夜を待って輿善寺の背後の竹薮に忍び込んだ。遠藤兄弟は隙を見て堂内に侵入し、内部の話し声がする方へと忍び寄った。唾で指を湿らせ、障子にそっと穴を開け部屋を覗うと、家親は丁度、軍議の真っ最中であった。又三郎は早速、短筒を撃とうとしたが、なんとここで火縄が立ち消えとなってしまった。


そこで、弟の喜三郎は警固の兵を装い、大胆にも番兵に気安く話し掛けたりしながら、かがり火から短筒用の火を拝借し、再び堂内に侵入する。そして、兄、又三郎は軍議に余念のない家親を、障子の破れから狙いを定め引き金を引いた。堂内はたちまち騒然となった。遠藤兄弟はその混乱に乗じて竹藪に隠れ、そのまま輿善寺から脱出する事に成功した。 遠藤兄弟による家親暗殺は実際にあった出来事であるが、この話は出来過ぎている様にも感じる。おそらく、遠藤兄弟は普通の火縄銃を用意して輿善寺近くに身を潜め、大将格の武将に狙いを定めて遠くから狙撃したのではないか。命中率を上げるため、2人同時に発射したかもしれない


いずれにせよ、遠藤兄弟は無事使命を果たし、銃弾の命中を直家に報告する。しかし、その後も三村勢が動揺することなく整然としていた為、当初、直家はこの報告を信用しなかった。それから、ほどなくして三村勢は備中松山城へと引き揚げて行き、家親の死を発表した事により直家は暗殺の成功を確信した。


遠藤兄弟は、宇喜多直家から決死の働きの褒美として、浮田の姓と1,000石の知行を与えられ、又次郎は浮田河内、喜三郎は遠藤修理亮と名乗った。後に浮田河内は4,500石、遠藤修理亮は3,500石を加増され、名実共に家中の有力部将となる。この遠藤兄弟による三村家親暗殺は、日本で始めての銃による暗殺だと云われている。


一方、この三村家親、暗殺後の三村家の運命は悲惨であった。家親の子、元親は宇喜多直家に復仇戦を挑むが、明禅寺合戦で大敗北を喫し、徐々に勢力を失ってしまう。そして、天正3年(1575年)には、毛利家と宇喜多家に挟撃を受けて、元親は切腹、元親の子で僅か8歳であった勝法師丸も斬られて三村家は滅亡に到る。三村家滅亡後、天正5年(1577年)、宇喜多直家は主君、浦上宗景を追放して戦国大名として自立した。


遠藤兄弟は大名暗殺という非常に危険な任務を完遂して、よく生還できたものである。当時の戦国日本では、名も知れぬ暗殺者の多くは任務に失敗し、成功しても命を落としていったであろう。


三村家親、暗殺後の三村家の説明。
http://www.ibara.ne.jp/~my-way/newpage21.htm



戦国の暗殺者 杉谷善住坊

2009.04.01 - 戦国史 其の二
 元亀元年(1570年)4月、織田信長は、朝倉義景を討つため越前に攻め入った。織田軍は怒涛の進撃を見せ、一挙に一乗谷に攻め入る勢いであったが、ここで信長は妹婿の浅井長政の離反に遭ってしまう。信長はこの危うい局面を何とか切り抜け、ようやく京都に帰還した。 信長は陣容を建て直すため、一旦、本拠である岐阜に戻る必要に迫られた。しかし、近江から岐阜への通路は、浅井長政に閉ざされて通ることは叶わない。そこで信長は日野から千草越えで伊勢に抜け、そこから岐阜に帰還する道を選んだ。この道は人の往来が滅多に無い、山中の険峻な道であった。


だが、この道には、六角承禎から信長暗殺の密命を受けていた杉谷善住坊が、信長一行の行く先をあらかじめ察知して、千草峠の岩陰で待ち伏せをしていた。杉谷善住坊は甲賀の住人で、火縄銃の名手として名高く、飛ぶ鳥をも射落とすとの評判であった。行く先に暗殺者が待ち構えていることも知らず、信長は険しい山道を急いでいた。 信長が馬上で大きく揺られながら近づいて来ると、善住坊は狙いを定め、十二、三間の距離(約23メートル)から火縄銃の引き金を引いた。大きな銃声が響き、弾丸は信長をかすめて小袖を撃ち抜いた。 驚いた供の者達はただちに追いかけるが、善住坊は山中を野猿の如く逃れ、姿をくらましてしまう。 危うく命を落とすところであった信長はこれに激怒する。


5月21日、信長は無事、岐阜に帰還したが、自分の命を狙った善住坊 を必ず捜しだすように命じ、多額の懸賞金をかけて徹底した捜索をさせる。その結果、天正元年(1573年)、善住坊は、近江高島群に身を潜めていたところを信長の家臣で高島郡の領主である、磯野員昌によって捕縛された。9月10日、善住坊は岐阜に護送され、信長の側近、菅谷長頼が厳しい詮索をして、千草峠でのあらましを語らせた。善住坊は信長の激しい怒りに触れており、散々拷問を受けた挙句、路傍に生きたまま首から下まで土中に埋められた。そして、道行く通行人に竹製のノコギリで引かせ、時間をかけて首を切断するという鋸挽きの刑に処された。 善住坊の無残な最後を知って、信長は大いに満足したのだった。


滋賀県、東近江市にある雨乞岳という山の麓には、杉谷善住坊の隠れ岩という場所が、今でもあると云う。


洲本城

洲本城は兵庫県洲本市にある山城です。


洲本城は、大永6年(1526年)、三好氏の家臣である、安宅治興によって築かれたとされる。その後、織田家の淡路領有を経て、城主は仙石秀久→脇坂安治→藤堂高虎→池田輝政→と代わり、最終的には蜂須賀至鎮の持ち城となって、そのまま明治の世を迎える。


この城は三熊山(標高133メートル)の山頂にありまして、洲本市街と大阪湾を見渡す事ができます。私はホテルの脇道から徒歩で登って行きましたが、車で登る事もできます。徒歩の場合、30分程度で登れるでしょう。



sumotojyou4.jpg









↑麓から眺めた洲本城

城跡には模擬天守閣が建っておりましたが、あれは吹きさらしの展望台のようなものでした。そこからの眺めはよくありませんでしたが、暑い季節に訪れると、風が吹きぬけて気持ちが良いでしょう。


sumotojyou1.jpg









↑洲本城石垣

洲本城は、天正13年(1585年)、脇坂安治が洲本城主として入ってから、大規模に修築されました。



sumotojyou2.jpg









↑洲本城石垣

石は砂岩で出来ているとの事です。


sumotojyou5.jpg









↑洲本城石垣

洲本城の立派な石垣には驚かされました。


sumotojyou3.jpg









↑洲本城石垣

本丸には休憩所があって、飲み物が売ってありました。また、ボランティアのガイドの方がおられて、しばし、その説明に耳を傾けました。


sumoto.jpg









↑洲本城からの眺め

麓は洲本市街です。山を降りてから、しばらく歩くと警察署がありまして、その前に足湯があります。この城を登った場合、足湯で一服してみては如何でしょうか。

柳川討滅戦

2009.03.15 - 戦国史 其の一
戦国時代、九州の戦国大名が覇を唱えんとすれば、何としても手に入れたい国があった。それが、九州北部に位置する、筑後国である。地図上の面積は小さいが、生産力は高く、太閤検地の石高によれば、約26万6千石あった。1万石に付き250人の動員が出来たとすれば、6650人の兵力が得られる計算になる。だが、なにより重要な点は、筑後国の位置である。やや北寄りであるが、九州の中央部にあって、東西南北の交通の要衝に位置しており、この国を抑えなければ、九州の覇権は握れなかった。


戦国時代中期、筑後15城(筑後の大身15家)を統括する大旗頭として君臨していたのが、蒲池鑑盛である。鑑盛は大友家の麾下にあって筑後国の内、12万石余を領し、柳川城を居城としていた。柳川城は平城であるが、水路が縦横に張り巡らされた難攻不落の堅城であった。
本来、これほどの実力があれば自立を考えるものであるが、鑑盛は、「義心は鉄のごとし」と云われるほど清廉な武将で、最後まで大友家に忠節を尽くさんとした。そして、助けを求める者には手を差し伸べる、仁愛の心も有していた。天文14年(1545年)龍造寺隆信の曽祖父に当たる家兼(剛忠)が馬場頼周の策謀によって所領を追われて筑後に逃れてくると、鑑盛はこれを快く受け入れ、その御家再興の力添えをした。


天文22年(1553年)龍造寺家の家督を継いだ隆信が、配下の土橋栄益の謀反によって所領を追われると、鑑盛はこれも庇護している。そして、2年後には兵300を護衛に付けてやって、佐賀復帰の力添えをした。この様に蒲池鑑盛は、龍造寺家にとって物心両面における恩人であった。天正6年(1578年)大友家が島津家と雌雄を決すべく日向に出征すると、鑑盛も家督を継いでいた次男、鎮漣(ちかなみ)と共に兵3千を率いて、参戦する。しかし、鎮漣は途中、病気と偽って兵2千を率いて柳川に引き返してしまう。鎮漣は父とは違って人並みの野心があり、大友家から離反独立する願望を持っていた。


11月、大友軍と島津軍は高城川を挟んで対峙し、やがて激突に至る。だが、大友軍は、島津軍の罠にはまって大苦戦に陥り、鑑盛も兵1千をもって必死に戦ったものの、壮烈な討死を遂げてしまう。
この耳川の戦い(高城川の戦い)の惨敗を受けて大友家の威信は失墜し、その衰退は明らかとなった。鎮漣はこれを機に佐賀の龍造寺隆信と結んで、戦国大名として自立せんと試みた。そして、隆信が筑後に侵攻を開始すると、鎮漣は叔父に当たる田尻鑑種と共に龍造寺方として働いた。しかし、隆信には九州中央部に進出せんとの野望があって、筑後を我が物としたかったのに対し、鎮漣も筑後の地で自立せんとの野心があったので、必然的に両者の関係に軋みが生じ始める。


天正8年(1580年)2月、ついに鎮漣は隆信に叛旗を翻し、柳川城に立て篭もった。これを受けて隆信も、嫡子、政家に1万3千余の軍勢を授けて、柳川城を包囲させた。その後、龍造寺軍は数を増すと、満を持して猛攻を加えたが、無類の堅城である柳川城はびくともしなかった。龍造寺軍はその後も度々、攻撃を加え、その包囲は300日余に渡ったが、それでも城が落ちる気配は無かった。攻めあぐねた隆信はいったん和議を結ぶ事を決し、田尻鑑種を柳川に遣わすと、鎮漣の方もさすがに長期の篭城で疲弊していたのか、この申し出に応じた。しかし、和議を結んだとは云え、両者に芽生えた不信感は拭えず、お互い警戒を怠らなかった。


天正9年(1581年)2月、隆信は嫡子、政家に家督を譲り、佐賀城も委ねると、自身は隠居して須古城に移った。だが、実権は引き続き、隆信が握っていた。その頃、鎮漣が薩摩島津氏と通じて、再び叛心を抱いていると云う風聞が伝わり、それを裏付ける報告も隆信の耳に入り始める。鎮漣の叛心を知り、それを隆信に通報したのは田尻鑑種であった。鑑種は、隆信に鎮漣殺戮を勧めて、その所領を恩賞として賜る事を望んでいた。
鑑種の思惑がどうであれ、隆信とすれば蒲池家と島津家が結び付く事だけは、何としても避けねばならなかった。島津家は大友家を日向で破った後、矛先を肥後に転じて北上の気配を示しており、龍造寺家との激突は時間の問題となっていた。柳川城は、龍造寺家の本拠、佐賀から指呼の距離にあり、これが島津家の拠点となれば、龍造寺家の存亡にも関わってくる。隆信としても必死であり、今度こそ鎮漣を討滅せんとの決意を固める。


しかし、隆信は前回の柳川城攻めで、その堅城振りを身に染みており、今度は謀略を用いて蒲池氏を討滅せんと策した。5月中旬、隆信は、「昨年に結ばれた和平の答礼をしたいので、佐賀にお越し頂きたい。そして、須古城にて猿楽を興行するので、鎮漣殿は役者を連れて、お越しあるように」と丁重に申し入れた。鎮漣は猿楽の名手であったらしく、それに事寄せて誘き寄せようとしたのである。鎮漣は最初は疑って返事もしなかったが、使者は誠意をもって説き、母や伯父の鎮久もそれに賛同したので、鎮漣もついに佐賀に赴く決意を固めた。


ルイス・フロイスの記述によれば、天正8年(1580年)に隆信は、大村純忠と蒲池鎮漣の両者に和平締結のため、佐賀城に来るよう呼びかけたとある。
鎮漣は警戒して自重したが、大村純忠の方は佐賀に赴き、そこで盛大なもてなしを受けて、何事もなく帰国した。翌天正9年(1581年)、鎮漣は、純忠が無事に帰還したのを確認した上で、佐賀に赴いたとある。この純忠の招待劇は、鎮漣を油断させるために打った、隆信の謀略であるとフロイスは推測している。


5月25日鎮漣は万が一に備え、家中から選りすぐった武士を引き連れ、それに猿楽者を合わせた300人余で柳川を発った。その日の夕方、鎮漣一行は佐賀に到着すると、政家の案内で城内に招かれ、そこで盛大な酒宴が催されて心尽くしの饗応を受けた。鎮漣らはその夜、城北の本行寺に泊まり、翌26日も滞在する。何事もなく2日間を過ごし、鎮漣一行の警戒心も解きほぐされていった。明けて27日早朝
鎮漣一行は、今度は隆信の居城、須古城へと向かうべく、本行寺を出立した。しかし、鎮漣らが本行寺を出てまもなく、与賀の馬場に差し掛かった時、待ち伏せていた完全武装の龍造寺軍が一斉に姿を現して、鎮漣一行に襲い掛かった。


鎮漣は選りすぐった精鋭を連れて来ていたが、多勢に無勢、それに不意を突かれたこともあって、たちまち討たれていった。鎮漣に佐賀行きを勧めた伯父、鎮久は後悔しつつ、群がり寄せる龍造寺軍に斬りこんで討死を遂げた。鎮漣はもはや逃れられぬ身と悟ると、主従3人、刺し違えて自害した。「北肥戦誌」によると、ここで、鎮漣を始めとする、173人の蒲池勢が斬殺されたとある。事件後、無念の最後を遂げた鎮漣の亡霊が出ると噂されたので、鍋島直茂は六地蔵を立てて、浮かばれぬ魂を慰めたとされる。現在もその六地蔵は、佐賀市田布勢町に存在している模様である。


鎮漣謀殺の報を聞いて、蒲池氏の本拠、柳川城は上も下も騒然となった。隆信はこの機に乗じて柳川の地を征すべく、田尻鑑種に柳川討伐を命じた。柳川城内にいた鎮漣の弟、蒲池統春は、最早、柳川城は保てないと定め、城を明け渡すと、自身は支城の佐留垣城へと退いた。それとは別で、鎮漣の夫人(玉鶴姫)と6歳になる嫡子、統虎丸、それに主だった一族郎党500人余は柳川東南にある塩塚城へと移った。しかし、龍造寺方は攻撃の手を緩める事無く、塩塚城へと押し寄せた。


天正9年(1581年)6月1日、田尻鑑種軍と目付けの鍋島軍合わせて数千人余は、塩塚城へと攻め寄せた。この塩塚城は一族の蒲池鎮貞が城主となっており、そこに男女500人余が篭っていた。午前6時から始まった戦いは熾烈なものとなり、午後12時頃、城は落城した。城攻めの主力、田尻軍には100人余の討死と数百の手負いを出し、城方は蒲池鎮貞を始めとする老若男女500人余が斬殺された。鎮漣夫人(玉鶴姫)は隆信の娘であったとされているが、父に降る事を良しとせず、蒲池一族に殉じた。後年、塩塚城には蒲池一族郎党を弔う慰霊碑が建てられた。


隆信は続いて、田尻鑑種に蒲池統春の篭る佐留垣城の攻略を命じる。6月3日、田尻軍の他、龍造寺の援兵も加わって、佐留垣城への攻撃が始まった。蒲池統春以下100人余が討ち取られて落城すると、斬獲された首は隆信の実検に供するため、二艘の船で佐賀に運ばれていったと云う。この柳川討滅戦で隆信は筑後国を得て、九州中央部への進出が可能となった。隆信はさらなる飛躍の土台を得たのであるが、同時に暗い影も落とすようになる。


蒲池鎮漣が油断ならない人物であったとはいえ、大恩ある蒲池家に対してとった隆信の容赦のない仕打ちは、いくら戦乱の世であったにせよ、決して評判の良いものではなかった。蒲池一族討滅後、田尻鑑種・黒木家永ら筑後の国人達は、次は自分かもしれないと云う疑心暗鬼に囚われたのか、ほどなくして龍造寺家から離反し、隆信の手を煩らわせるようになる。島津氏との対決が迫っていたので、隆信は強引な手段を用いざるを得なかったのであるが、この蒲池一族の討滅が人心の離反を招き、滅亡に繋がっていったと云われている。


隆信は 「分別も久しくすればねまる(名案も実行の機会を失えば、意味のないものとなる)」と云う言葉を残したとされている。機会が訪れるまでは隠忍自重に努めるが、その機会が訪れれば、間髪入れずに実行に移す武将であった。果断実行型の武将であり、それが龍造寺家を興隆に導いていったのであるが、目的の為ならば手段を選ばない非情な一面もあった。隆信は「恐れられているうちは、恐れさせておけ」と云う言葉も残している。


隆信は、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで惨敗し、56歳の生涯を閉じた。隆信は、沖田畷で不覚を取った事と、人間性が残忍であると流布されている事もあって、その評判は極めて悪い。しかし、隆信の戦死の際、付き従っていた部将の多くは、その最後に殉ずるかの様に、枕を並べて討死している。また隆信は、名将、鍋島直茂を深く信頼して、自分の代理としても活用している。冷酷な一面のみが強調されているが、度量が広く、人間的な魅力もあったのだろう。そうでなければ、九州三強と呼ばれるだけの勢力は築けない。蒲池家の討滅と、沖田畷の惨敗から、後付けで評価を著しく陥れられた武将である。




 
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
09 2024/10 11
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
▼ 最新CM
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
[08/11 重家]
[05/02 通りすがり]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場