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知られざる北越の剛将

2009.05.07 - 戦国史 其の二
新発田因幡守重家(1546?~1587)


天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて織田信長が死す、京都で起こったこの大事件は、瞬く間に日本全国を駆け巡った。これを機に、歴史の流れも、人々の運命も激変する。ある者は栄転の道が開き、また、ある者は転落の道を辿っていった。そして、この新発田重家も、運命に翻弄された人間の1人である。もし、本能寺の変がなければ、越後には名門上杉氏に代わって、新発田重家が織田家の有力部将として君臨していた事だろう。


戦国時代の新発田氏は、阿賀野川以北に割拠する揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人領主達の1人で、上杉家を盟主として仰いだが、半独立的な存在でもあった。天文15年(1546年)頃、重家は、新発田綱貞の次男として生まれたが、家督は長男の長敦が継いだので、重家は同族の五十公野(いみじの)家の養子となり、そこで五十公野治長(いみじの はるなが)と名乗った。治長は上杉謙信に付き従って、関東出兵や川中島の戦いにも参陣し、若くして武名を上げた。天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信の死去に伴って、景虎と景勝の2人の養子による、後継争い(御館の乱)が勃発すると、治長は、安田顕元の手引きで景勝側に付いた。


天正6年(1578年)9日26日、大場口(上越市)の戦いでは、治長は騎乗して自ら先陣に立ち、300人余を討ち取る功を挙げ、景勝から感状を貰うほどの抜群の働きを示す。この御館の乱時、治長の兄であり、新発田家当主の新発田長敦も、武田勝頼との和議に奔走するなど外交面で活躍している。このように新発田家は、政戦両面に渡って大いに働いて、景勝を助けている。そして、天正8年(1580年)、御館の乱は、景勝の勝利に終わった。だが、その立役者の1人、長敦はほどなく病没してしまう。それを受けて、五十公野家を継いでいた治長が新発田家を相続し、ここで重家を名乗った。そして、自らの後押しで越後の国主となった景勝に対し、功績に見合った恩賞を期待する。


しかし、景勝は自らの直臣である上田衆の所領は増やしたものの、外様の国人である重家に対しては、新発田家相続を認めただけで、なんの恩賞も与えず、しかも忠誠を強要してきたと云う。この措置を受けて、重家は大いに憤激する。重家とて一族郎党の長であり、御館の乱で働いた郎党に対し、恩賞を施さねば、面目と信頼を損ないかねないからだ。重家を景勝側に引き入れた安田顕元は、重家に恩賞が賜るようにと奔走したが、景勝に聞き遂げられる事はなかった。面目を失った顕元は、重家に詫びる様に自刃して果てた。顕元の死を伝え聞いた重家は益々憤激し、「景勝、もはや頼むに足らず!」とついに謀反の決意を固めた。


この時、景勝の方にも、容易には恩賞を出せない事情があった。当時、織田家は越中、能登といった上杉家の支配地に侵攻中であり、早急にこれに対応せねばならなかった。また、内乱の影響で国内が疲弊しており、重家に対し、十分な恩賞を与える余裕がなかったように見える。しかし、景勝は戦国大名としての自らの基盤を固めるために、直臣の所領だけは増やしている。武士は論功公賞をもらうために、命懸けの働きを示すものである。武功を上げておきながら、論功公賞がないというのは、裏切りに等しい行為であった。景勝は苦しい台所事情であったにせよ、重家に対し、誠意ある対応を取るべきであった。この後に見せる重家の凄まじいまでの意地と覚悟を見れば、礼を失していたとしか考えられない。


この重家の不満に、目聡く目を付けたのが織田信長であった。信長は上杉家の討滅を目論んでおり、重家をそそのかして、その背後を突かせようと考えたのである。この申し出は、重家にとっても渡りに船であった。これに加えて隣国、会津の戦国大名、蘆名盛隆も重家を支援する運びとなった。こうして、挙兵のお膳立ては整った。そして、天正9年(1581年)重家は、「たとえ死しても、決して景勝には屈さぬ」と叫んで、上杉家に反旗を翻す。挙兵した重家が直ちに取った行動は、水運の要衝、新潟津の奪取であった。この新潟は越後を流れる2つの大河、阿賀野川、信濃川の河口にあたり、河川と日本海の流通を一手に押さえる事が出来る戦略拠点だった。そして、重家は、この地に新潟城を築き、海上を通じて織田家から武器弾薬、兵糧の援助を受けた。これと並行して、阿賀野川経由で蘆名家からも武器弾薬、兵糧の援助を受けた。


重家は織田、蘆名の支援を受け、滅んだ景虎の残党も糾合して侮れない戦力となった。それでも新発田家は越後の一国人に過ぎず、その兵力が3千を越える事は無かったであろう。対する上杉景勝は、重家の反乱を抱えていたとは言え、越後の大部分と越中の三分の一ほどは支配していたので、8千人余の動員力はあったであろう。ただし、越中は今まさに織田家の侵攻を受けており、ここをまず支えねば、本拠の春日山城が危なかった。こうした景勝の苦境に付け入る形で、重家は着実に支配権を拡大していった。



天正10年(1582年)重家は、越後に迫る織田家部将達と同調し、景勝に対する攻勢を強めつつあった。進退窮まった景勝は、死を覚悟するに至る。しかし、そのような折に、「本能寺の変」が勃発したのである。これを受けて織田軍は、潮が引くように上杉領から撤退して行った。元々、上杉家の半分以下の戦力しか持たない重家は、息を吹き返した景勝によって、逆に包囲される立場に陥った。しかし、重家は決して膝を屈する事はなく、この後も景勝と、数年に渡って干戈を交え続ける事となる。重家は劣勢ながら、地の利を生かして幾度となく上杉方を撃退し、一時は景勝の首級を得るまで、後、僅かという所まで追い詰める事もあった。しかし、天下の情勢、越後の情勢は徐々に上杉方有利へと傾いていった。


天正14年(1586年)、新発田方の有力な支城、新潟城が陥落する。これによって海上補給路が断たれ、その衰勢は明らかとなってくる。その様子を見た、時の天下人、豊臣秀吉は、「重家が新発田城を明け渡して出頭し、再び景勝の配下に戻れば、本領相当の地を別に与える」と呼び掛けたが、重家はこの勧告に耳を貸さなかった。重家にとって、景勝に屈する事だけは何としても出来ない事であった。天正15年(1587年)8月、秀吉は再び降伏勧告を呼び掛けたが、重家は聞く耳を持たず、かえって上杉領へと乱入した。重家はすでに死を決しており、例え天下人の威令であっても、自らの誇りと意地を曲げるつもりはなかった。秀吉もここに到って重家討滅を決し、翌年春までには決着を付ける様、景勝に申し渡した。


天正15年(1587年)9月、景勝は天下人からの厳命を果たすべく、そして、越後の完全な統一を果たすべく、軍を発した。まず上杉軍は、蘆名家との連携を断ち切らんとして、会津に近い加治城と赤谷城を攻め落とした。これによって重家は孤立無援となった。同年10月24日には五十公野(いみじの)城も落城し、残るは重家の本拠、新発田城のみとなる。10月25日上杉軍1万人余が新発田城を取り囲み、7年もの長きにわたって繰り広げられた景勝、重家の因縁の対決にも終焉の時が訪れる。上杉軍は新発田城に総攻めをかけ、城内へと突入していった。覚悟を決めた重家は染月毛の名馬に跨り、700騎の手勢を率いて最後の突撃を敢行する。重家は大太刀を振って、散々に上杉方を切りまくった挙句、壮絶な討死を遂げた。その最後の奮戦振りは、敵であった上杉方も褒め称えるほどの働きであったと云う。 己の意地を貫き通した男の、見事な最後であった。


知られざる北越の剛将、新発田重家の事をもっと詳しく知りたい方は、下記のHP「埋もれた古城」を御覧になると良いでしょう。




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近江の地、天下を制する地

2009.05.02 - 戦国史 其の二
戦国時代、天下統一を目指す者にとって、近江国(滋賀県)は最重要地であったと思われる。


天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は本能寺の変を起こした後、真っ先に近江の攻略に着手する。当時、近江にはまとまった軍勢はおらず、軍事的空白地となっていたのもあるが、なにより、この地の持つ重要性を分かっていたからだろう。


近江の地が持つ重要性とは何か・・・

太閤検地による石高と石高1万石につき250人の兵力を得られたして、近江の地を挙げてみると。

近江 77万5千石  兵力19,375人

戦国時代を代表する戦国武将、武田信玄の主な領国、甲斐、信濃、駿河を挙げてみると。

甲斐 22万7千石  兵力5,675人
信濃 40万8千石  兵力10,200人
駿河 15万石    兵力3,750人
合計 78万5千石  兵力19,625人

次に上杉謙信の主な領国、越後、越中を挙げてみると 。

越後 39万石  兵力9,750人
越中 38万石  兵力9,500人
合計 77万石  兵力19,250人


この太閤検地で弾き出された石高は、完全には信用出来ないが、おおよその国力の目安にはなる。そして、これを参考にすれば、近江1国を領有するだけで武田、上杉といった有力戦国大名に匹敵する動員力を得られる事になる。近江国が持つ強みは、それだけではない。琵琶湖の水運があって、日本海と瀬戸内海の産物が往来しており、物流が盛んで、畿内有数の商業先進地であった。また、鉄砲の産地、国友村を擁しているので、当時の最新兵器も入手可能であった。


全国地図を見てもらえば分かるが、近江国こと滋賀県は、日本本州のほぼ中心に位置している。戦国時代、ここは中山道、北国街道、東海道と言った重要街道が走る交通の要衝であった。現在でも滋賀県には、名神高速や北陸自動車道といった重要道路や、東海道新幹線が走っており、もし、この地が閉ざされたなら、国内の移動すらままならなくなる。また、戦国時代有数の大都市にして政治都市でもある、京都に隣接するという点も見逃せない。近江を制圧すれば、朝廷を動かす事も容易となるのだ。織田信長がこの地に安土城を築いたのも、こういった地理的重要性と琵琶湖の水運を考慮してのものだろう。安土城から船を出して坂本に入り、そこから比叡山を馬で超えれば、その日の内に京に入る事も出来た。


そういった重要な地であったからこそ、天下人となった者は、近江の国を力量があって誰よりも信用の置ける部将に任せている。豊臣秀吉は石田三成を、徳川家康は井伊直政をこの地に配しているのが、その証明である。


3万5千海里を越えて 2

(1943年11月5日)、伊29は金塊2トンを積み込み、呉を出港。1944年3月1日にフランスのブレストに到着する予定である(後にロリアンに変更される)


(11月14日)、伊29はシンガポールに到着し、入念な改修整備を行うため、約1ヶ月の準備期間を設けた。シンガポールには、伊29と同じ訪独任務を課せられ、無事に帰還していた伊8があった。その伊8がドイツで搭載してきたレーダー受信機メトックス(敵機の発するレーダー波を事前に察知する装置)を伊29が譲り受けた。そして、ドイツ側が求めている生ゴム、タングステン、スズ、亜鉛、キニーネなどの戦略物資を積み込み、乗員105名と便乗者16名、総員121名が乗り込んだ。


(12月17日)、伊29はシンガポールを出港した。いよいよ、前途多難な大航海の始まりである。そして、伊29号は一路南下して、スマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通過し、インド洋へ入った。極秘任務のはずであったが、この時点で既に伊29の行動はアメリカ軍によって把握されていた模様である。 艦内では毎朝8時にベルが鳴り響き、30分の急速潜航の演習で一日が始まる。潜水艦と乗員の能力一致を確認する大事な訓練であり、最も緊張する瞬間でもあった。


(12月30日)、スマトラ島とマダガスカル島の中間のインド洋で、ドイツ海軍の補給艦ボゴダ号と会合し、重油と生鮮食料の補給を受け取った。


(1944年1月1日)、伊29は、インド洋上のマダガスカル島付近で元旦を迎えた。この海域は比較的、危険の少ない海域であった。乗組員一同は小ざっぱりした服装に着替えて、恒例の急速潜航を行った。そして、海中で遥拝式を行い、インド洋の海底で「君が代」のラッパが鳴り響いた。元日の献立は豪華であった。朝食は(雑煮・銀飯・煮豆・数の子・煮魚・漬物)、昼食は(五目寿司・マグロの刺身・するめ・昆布巻き・数の子・煮豆・ビワ・漬物)、夕食は(銀飯・魚・フルーツサラダ・数の子・味付葉豆・すまし汁・漬物)、夜食には(ぼた餅)が付いた。大半は缶詰ではあったが、当時の粗末な国民生活と比べれば比較にならなかった。さらに冷酒が振舞われると、艦内には歓声が上がった。


(1月4日)、
マダガスカル島沖で、ボゴダ号から2回目の補給を受け、生鮮食料と燃料187トンを受け取った。両艦の連絡は、それぞれの艦橋に黒板を置いて、ドイツ語で記した文字を双眼鏡で読み取りながら行われた。伊29からボゴダ号へ、感謝の意味が込められた正月用お供え餅が送られ、さらに伊29乗員達の故郷への便りが託された。両艦が別れる際、伊29乗員達はボゴダ号へ向かい、ちぎれんばかりに帽子を振って、感謝の意を表した。


(1月9日)、アフリカ南端の喜望峰沖に到達する。ここまでは、水上航行が主であった。しかし、 南アフリカにはイギリス軍の航空基地があって、哨戒機が巡回している。その哨戒距離が400浬であったので、伊29は迂回して、それより南方の沖合600浬を通らねばならない。その航路は、荒れ狂う南緯40度(ローリングフォーティーズ)と呼ばれる凄まじい暴風圏であったが、哨戒機の目から逃れるには、ここを抜ける他無かった。

この海域では風速40メートルの台風並みの西風が吹き荒れており、凄まじい風と波が伊29に叩き付ける。見張り員の命網が波に引きちぎられるも、間一髪で助けられた。激浪と強風が止む事はなく、艦は上下に激しく揺り動かされ続ける。艦橋の窓ガラスが壊れて哨戒長が負傷し、アンテナも吹き飛ばされた。艦と人員の損傷を防ぐため、潜航を余儀なくされる。しかし、潜水艦は、定期的に空気を入れ替える必要があり、また、バッテリーを充電しておかねば潜航能力を失うため、そういう時には否応無しに浮上航行しなければならない。伊29は11日間耐えた後、ようやく暴風圏を突破、南大西洋に抜け北上を開始する。



(1月20日)、シンガポールからロリアンまでの航程の半分に達する。


(1月25日)、伊29はセントヘレナ島右横800マイル地点を通過し、いよいよ連合軍の哨戒網が張り巡らされた危険海域に突入する。木梨艦長は乗員達にその旨を訓示し、見張りや緊急配備を再確認した。そして、昼食にウイスキーを、夕食に散らし寿司を、夜食にフルーツポンチと梅酒を特配して、士気を鼓舞した。伊8を指揮して、訪独任務を成功させた内山艦長は、「大西洋は予想以上に狭かった」と回顧している。大西洋は、太平洋と比べると両側に大陸が迫る、狭い海域だった。要所要所の島や岬に連合軍基地があって、そこから哨戒機が絶え間なく飛んでおり、しかも、島のない海域には敵空母が配置されていた。伊8とそれを指揮していた内山艦長は、大西洋を航行中、絶えず敵の気配を感じて、一瞬も気を緩める事が出来ず、実際以上に逃げ場のない狭い海域に感じられたのである。


(2月1日)、赤道を越える。


(2月5日)、大西洋を更に北上する。これより先は連合軍のさらなる警戒が予想される為、昼は潜航、夜は水上航行となる。伊29は洋上でドイツ潜水艦と会合するよう指示され、指定の位置へ向けて北上を続けた。会合の日時に合わせるため、北緯16度を越えると潜水してゆっくり進んだ。


(2月13日)、会合点付近の海域で、駆逐艦に守られた連合軍の空母を発見する。この空母に対し、ドイツ潜水艦が魚雷を発射した。攻撃後、ドイツ潜水艦は4隻の駆逐艦に3時間にわたって追われ、伊29も2度、哨戒機を目撃するなど危険な目に遭った。


(2月14日)、伊29は、無事、ドイツ潜水艦との会合に成功した。そして、ドイツ海軍の連絡将校の少尉1名と下士官2名が伊29に乗り移る。さらにナクソスと言う新型レーダー逆探知装置が運ばれ、約10時間で設置を完了した。危険極まる海域で、無防備な10時間の作業は、乗員一同の気を揉ませるものだった。だが、この装置は、レーダーを備えた敵機の接近を事前に探知する事が出来るので、この先の航海には必須のものであった。


(2月20日)、ポルトガル西方のアゾレス諸島付近に到達。潜水艦の気配を感じただけで、敵水上艦艇は激しい爆雷攻撃を仕掛けてきた。レーダーに敵を感じたらすぐ潜る、浮上したと思ったらまた潜る、その連続であった。


(2月28日)、爆雷攻撃はさらに激しさを増し、昼も夜も潜航となる。空気は濁り、その不快感は耐え難かった。まず、頭が痛くなり、次に心臓の鼓動が早くなって呼吸が乱れる。1日18時間、潜りっ放しという苦しい日が続き、23時間、連続潜航という日もあったという。


(3月3日)、フランスとスペインに囲まれたビスケー湾が迫り、いよいよ最終航程に入る。しかし、ここからはイギリス本土に近く、そこから絶え間なく飛び立つ、敵哨戒機の襲撃に備えなくてはならない。この付近では、多くのドイツ潜水艦が撃沈されており、最後にして最大の関門である。


(3月5日、午前5時)、警戒充電航行のため浮上するも、突如、イギリス軍機が来襲、急速潜航した。レーダー逆探知装置は、僅かな反応しか示さなかった。敵機のレーダー波の周波数が、ナクソスで逆探知できる周波数と異なっていた為だと考えられた。連合軍のレーダー技術の進歩は早く、短い周波数のレーダーが次々に開発されるので、ドイツの逆探知装置でも十分に対応できなくなっていた。そして、潜航後、乗員1名が行方不明となっていた。海上に取り残されているようであり、木梨艦長に苦悩の色が浮かぶ。しかし、敵機の哨戒は続いているようであり、すぐに浮上する訳にはいかなかった。乗員一同はやりきれなさに打ちのめされた。その後、伊29は浮上して乗員を捜索するが、発見できず戦死認定とする。


3月5日、6日と夜間充電航行を試みたが、浮上後、2分から5分経過すると即、敵哨戒機が現れた。浮上充電が出来ないので、電力と酸素を極力節約する必要に迫られ、艦内の照明は最小限にとどめ、当直以外の乗員は全員、ベッドに横になった。乗員達に頭痛、眠気、酸欠などの症状が現れ、特に3人のドイツ乗員がぐったりとなった。空気清浄装置は限度を超えたのか効かず、電力は残り僅か、浮上に必要な圧縮空気も4回分しかない。これ以上の潜航は危険であった。


木梨艦長は総員を配置に付け、「浮上充電航行を強行するが、哨戒機の襲撃で戦闘も覚悟しなければならない。全員沈着に職務を遂行、この危機を突破しよう」と訓示する。木梨艦長は潜望鏡で周辺海域の安全を確認後、伊29を浮上させた。それから僅か10秒で、電波探知機に敵機の弱い電波が入り始める。しかし、強行突破である。ハッチから冷たい空気が艦内に流れ込んでくると、乗員一同、口を開け、胸一杯に空気を吸い込んだ。今まで、これほど空気が美味いものだと感じた事はなかった。電波音は強弱を繰り返したが、幸い敵機は現れなかった。代わりにスペインのヴィラーノ岬灯台が浮かび上がってくる。実に80日目振りに見た陸影であった。ここからスペインの海岸線に沿い、ビスケー湾に入る。


(3月10日、午前7時30分)、ドイツ側から指定された海域に、伊29は静かに浮上した。その位置は11隻のドイツ水上艦艇が円陣を組み、上空には護衛戦闘機1個小隊が飛び交って待つ、まさにその中央であった。乗員によれば、まるで映画の1シーンを見る思いであったと云う。目的地ロリアンまでは、ドイツの駆逐艦2隻、大型水雷艇2隻に護衛され、フランスの海岸線に沿って伊29は水上航行した。この海域では、イギリス軍機が磁気探知機雷を敷設しているため、水中潜航は危険であった。

(午前9時過ぎ)、イギリス軍機2機が来襲し、護衛のドイツ軍機と交戦を開始、伊29も25ミリ機銃で対空戦闘を行う。ドイツ軍機1機が撃墜されたが、イギリス軍機は撃退された。伊29の25ミリ機銃は重い上に故障が多く、敵機の攻撃に対して、すばやく反撃する事が出来なかった。乗り込んでいたドイツの連絡将校は、伊29の対空火力は不十分だと指摘した。ほかにも改良すべき点として、潜水して進む時、音が大きい点、エンジンから出る煙や夜間の火花が目立つ点、急速潜航に要する時間が長い点を挙げた。


(3月11日、未明)、ロリアン港に近づく。これまでの航海で乗員達の髭は伸び放題、服は垢と汗で黒ずんで異臭を放っていたであろう。しかし、ドイツ側にそのような風体を晒すわけにはいかず、上陸前には体を清め、散髪、ひげ剃りをして、第一種軍装に衣服を正した。(午前8時)この日、伊29は幾多の困難を乗り越え、ロリアン港に到着する。ロリアンには、コンクリート製の巨大なブンカー(Uボート収容施設)が築かれており、伊29はそこにしずしずと進んで行く。ブンカー内では軍艦マーチが奏でられ、日の丸の小旗を振る人垣があった。乗員一同は甲板に整列し、敬礼の姿で威儀を正す。目の前に迫るコンクリートの壁には、生け花や花輪が色鮮やかに飾られてあった。そして、君が代とドイツ国歌が響く中、木梨艦長以下、乗員一同は久方振りに陸地を踏みしめ、ようやく心から安堵する事ができたのだった。


伊29の航海日数は87日、水中航行時間は907時間に達していた。消費燃料は700トン、残存燃料は207トンだった。乗員にも艦体にも大きな負荷のかかる航海であったが、ここまで主機械からポンプまで一度の故障も無かった。それは、自分の部署を守りぬいてきた乗員達の努力の証であった。伊29は甲板上部が少々損傷していたが、それ以外には大きな損傷はなかった。伊29は損傷修理と艦体整備を受けるため、ドックに入る。ドイツのラジオや新聞各紙は、久方ぶりの明るいニュースとして伊29の到着を報じた。そして、ドイツ側は、乗員達を最高級のもてなしで歓迎した。乗員達は上陸後、5日間パリを見学し、オーケストラ付きの晩餐会に招かれるなどして、1ヶ月間休息をとった。この間、木梨艦長はカール・デーニッツ海軍長官から、ワスプ撃沈の功を讃えられ、鉄十字章を授与される。


(4月16日)、伊29は整備を終え、帰路に就く事となった。伊29にはベルリン駐在の技術士官14名、外務省連絡員と陸軍士官のドイツ人4名が同乗した。そして、「離陸時加速用のロケット・装置与圧キャビンの部品と設計図・ビルド社コンパス・潜水艦用レーダー・潜水艦用の簡易型磁力機雷・レーダー逆探知装置・地上用レーダーウルツブルグ・地上用レーダーウルツブルグの妨害波除去装置・電子高度計・KOB装置・IFF装置・クランクシャフトの固定研磨器設計図」など、様々なドイツ新兵器の設計図類とそのモデルを積んで帰路につく。伊29は、敵が厳戒中のビスケー湾と大西洋、そして、荒れ狂う南緯40度線が待ち構える難路を、再び引き返して行くのである。この帰路、乗員1名が黄疸で死亡、2人目の犠牲者が出る。


(7月14日)、ロリアンから89日間に及ぶ苦難の航海を終えて、伊29は再びシンガポールに帰港した。この無事到着の知らせにベルリンの関係者は皆喜び、ドイツ海軍も祝辞を送った。ここで便乗者と新兵器の設計図類を降ろし、大任の半分を終える。後は、新兵器類を日本本土に運び入れるのみである。このシンガポールからはようやく日本の勢力圏内であるが、この航海の間に日本の戦況は大きく悪化し、その勢力圏内にもアメリカ潜水艦が跳梁する事態となっていた。そして、この伊29がシンガポールに到着した事も、連合軍諜報員と暗号解読によって悟られていた。


(7月25日)、伊29はシンガポールを出港した。この動きを把握していたアメリカはその帰国航路に3隻の潜水艦(タイルフィッシュ、ロック、ソードフィッシュ)を派遣して待ち伏せをさせる。


(7月26日16時頃)、伊29は、フィリピンと台湾の間にある、バシー海峡を通過中であった。故国、日本まで後僅かである。乗員の大部分は穏やかな雰囲気であったであろう。だが・・・(16時45分)、待ち伏せていたアメリカ潜水艦ソードフィッシュは浮上航行中であった伊29を発見し、4本の魚雷を発射した。伊29は避ける間もなく魚雷3本を受けて爆沈し、僅かな時間で、木梨艦長を含む110余人と共に海中へと消えていった。 祖国を目の前にしての無念の最後であった。


日本の勢力圏に入ったという事で木梨艦長を始め、乗員達には一瞬の気の緩みがあったのかもしれない。だが、この航海において彼らが示した、超人的な忍耐力・不断の努力・強靭な意志を忘れる事はできない。彼らは日本を救わんとして任務に邁進し、海に消えていったのである。


ドイツへの潜水艦派遣作戦には5隻の日本潜水艦が出撃して行き、荒れ狂う南緯40度線を越え、大西洋の連合軍警戒網を突破し、3隻まではロリアンまたはブレストまで到達する事ができた。しかし、無事に日本まで帰還する事ができたのは、伊8号、1隻のみであった。


3万5千海里を越えて 1

ソロモン諸島、それは日本から遥か南、メラネシアにある島々である。オーストラリア大陸に程近く、どれも鬱蒼としたジャングルに覆われている。(1942年)、第二次大戦時、日本とアメリカは、このソロモン諸島の島の1つ、ガダルカナル島を巡って、陸海空で激しい戦闘を繰り広げていた。そして、ソロモン諸島の近海では、日本の潜水艦戦隊がアメリカ艦隊の動向を探る為、哨戒活動をしていた。その内の1隻が伊19である。


(1942年9月14日朝10時)、伊19は潜航哨戒中、前方に集団機関音を探知した。1時間後、潜望鏡を上げると、15キロの距離を遠ざかってゆくアメリカ艦隊を発見する。追跡すること33分、アメリカ艦隊は変針してきて、伊19の攻撃可能な位置まで前進して来る。それを受け直ちに攻撃準備、魚雷発射の調定がなされる。 その時、アメリカ艦隊はさらに変針、自ら絶好の射線に入ってきた。再度調定、方位右50度、敵速12ノット、距離900メートル、艦長の号令一下、伊19号は6発の魚雷を次々に発射した。そして、艦は直ちに急速潜航、深度80メートルまで潜って敵の反撃に備える。


雷撃から6分後、敵艦からの爆雷攻撃が始まる。伊19を覆い尽くす様に爆発音が響き渡り、艦は激しく振動する。この攻撃は5時間半にも及んだが、幸い至近弾はなく、伊19は無事、生還して魚雷4発の命中を報告する。 伊19が爆雷攻撃を受けていた最中、その必殺の魚雷はアメリカ艦隊を次々に貫いていた。空母ワスプには魚雷3発が命中して、消火不能の大火災を発生させ、戦艦ノースカロライナにも魚雷1発が命中し、艦橋よりも高く水柱が立ち昇り、更にもう1発は駆逐艦オブライエンに命中し、小さな艦は水柱に飲み込まれた。実際には、魚雷5発が命中していた。


この伊19が挙げた戦果は空母1隻撃沈、戦艦1隻中破、駆逐艦1隻撃沈というものであり、1回の雷撃としては、世界の潜水艦史上に残る大戦果であった。この戦果は偶然の要素もあったが、伊19を指揮していた艦長の冷静な判断力によるところも大きかった。その艦長の名は木梨鷹一、この戦果をもって日本有数の潜水艦長として名を馳せる事になる。そして、木梨は11月1日をもって中佐に進級する。


昭和18年10月10日で木梨は伊29の艦長に拝命され、ある重大な任務を言い渡された。


その任務とは日本の呉を出航し、シンガポールでタングステン等の戦略物資を積み込み、遥々、フランスブレストにあるドイツ潜水艦基地を目指し、そこでレーダー等の新兵器を積み込み、日本まで帰還するというものであった。その距離なんと3万5千海里(約6万キロメートル)、しかも、その航路のほとんどの海域が、連合軍の制海権下にあった。航海中、艦が重大な損傷を受けたとしても、誰も助ける事は出来ない。しかも、長期に渡って、乗員は狭い不潔な空間で耐え忍ばねばならない。なんとも過酷な航海であった。


1943年に入ると、日本は消耗戦の末、ガダルカナル島から撤退、ドイツもスターリングラード戦でソ連に敗れるなど、枢軸国側の戦況は急速に悪化していった。ドイツと日本は戦局を挽回すべく、あらゆる手段を模索する。当時、ドイツでは希少金属や生ゴムを始めとする戦略物資が不足しており、兵器の生産にも支障が出ていた。だが、当時、日本が占領していた東南アジアには、ドイツが欲する戦略物資が存在していた。ドイツはそこに目を付け、日本側に戦略物資の提供を求め、その見返りとして、ドイツの進んだ兵器技術を提供したいと提案してきた。


当時、日本はレーダーを始めとする電子兵器の遅れもあって、アメリカ軍に苦戦していた。そこで、日本側もこの提案に乗り、お互いに不足するものを補って、協力し合う運びとなった。しかし、航空機による両国の往復は、まず不可能であった。そこで、隠密裏に海中を進む潜水艦によって、通信しようと試みたのである。


現在の原子力潜水艦は、水中で高速を発揮する事が可能で、水中で長期間、活動する事も可能である。しかし、第二次大戦中の大部分の潜水艦は、航行の大部分を水上で活動する事を前提として設計されており、水中では短時間、短距離しか活動出来なかった。しかも水中では低速しか発揮出来ず、一旦、敵艦のソナーに捉えられれば、そこから逃れるのは困難だった。


狭く密閉された潜水艦での任務は現在においても過酷であるが、当時の潜水艦はさらに居住性が劣悪であり、艦内は湿気だらけで洗濯物も乾かせず、また燃料・排気・カビ・体臭などの臭気が充満している。真水は貴重なので入浴は制限され、日光にもろくに当たれない。このような環境で毎日、単調な任務が続くのである。第二次大戦時、勇名を馳せたUボート乗員でさえ、こうした悪環境で戦闘状態が長引くと、精神の均衡を失う者が現れた。重症になると、ただ開放されたい一心で浮上用弁を勝手に操作したり、機器を叩き壊したりするようになる。こうなると監視付きで、監禁する必要が出てくるのである。


●伊号第29潜水艦の性能要目、艦型は巡潜乙 

基準排水量2,198トン、水中排水量3,654トン、

全長108メートル 、全幅9、3メートル

水上では最大23.8ノット、水中では8ノットの速力を発揮

航続距離は、水上速力16ノットで14,000海里、水中速力3ノットで96海里

兵装は、艦首に53センチ魚雷発射管6門装備、14センチ単装砲1門、25ミリ連装機銃1基

安全潜航深度100メートル


諸外国の潜水艦と比べ、航続距離が長く大型で航洋性に優れている反面、その大型さが災いして敵に発見されやすく、量産が難しいという欠点もある。


木梨艦長と乗員達はこの潜水艦に乗り組み、フランスロリアンを目指す事になる。



後編に続く・・・



姫路城

姫路城は兵庫県姫路市にある日本一の名城であります。城は姫山(標高約46メートル)の上に築かれた平山城です。姫路城の簡単な略歴を書いておきます。


姫路城は、南北朝時代、貞和2年(1346年)、赤松貞範がこの地に砦を築いたのが始まりと云われている。戦国時代、天正8年(1580年)、織田家の部将、羽柴秀吉が毛利攻めの拠点として使用し、三層の天守閣を築く。慶長6年(1601年)、池田輝政が関ヶ原の戦功をもって播磨52万石の領主として入封すると、大改築を行い、五層七階の天守を始めとする大城郭を築き上げる。


元和3年(1617年)、池田氏が因幡・伯耆32万石に移封されると、本多忠政が15万石を領有して入城し、西の丸、三の丸の増改築を行う。その後、城主は松平、本田、榊原と変わり、最終的に酒井氏が城主となって明治の世を迎える。姫路城は明治時代の解体の危機、第二次大戦の姫路空襲を潜り抜けて、現在にその優美な姿を残している。




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城が一番映えるのは、やはり、桜の季節です。
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