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三木合戦 其の一

2009.06.06 - 戦国史 其の二
兵庫県三木市には、宅地に埋もれ、見る影もない城跡、三木城がある。しかし、かつての三木城は、御着城、英賀城と並んで播磨の三大城郭に数えられるほどの大城郭であった。そして、この三木城は、播磨の戦国武将、別所長治と織田家の部将、羽柴秀吉との間で激しい攻防戦が繰り広げられた城でもある。


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↑三木城遠景


別所氏は播磨守護職であった赤松氏の庶流で、別所則治の時代に勢力を大きく伸ばし、東播磨八群の守護と呼ばれるまでになった。明応年間(1492年~1501年)、則治は、播磨国、美嚢群(みのうぐん)三木の地に三木城を築き上げ、以降、別所氏は、この三木城を本拠として勢力を伸ばしていった。


元亀元年(1570年)、別所家第四代当主、安治が39歳の若さで死去すると、その嫡男、長治が12歳で家督を相続する。しかし、長治はまだ若年であったので、安治の次弟、吉親と三弟の重棟が執政となって家中を主導した。ところが、この2人は兄弟でありながら仲が悪く、常に権勢を競っていたと云う。天正3年(1575年)10月20日、長治は上洛して、織田信長に服属した。そして、天正5年(1577年)10月、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨国に入ると、これに協力する事を約した。


しかし、別所家中ではこのまま織田家に協力するか、はたまた毛利家に付くかで揺れ動いていた。別所家を主導する長治の2人の叔父の内、吉親は親毛利派であったのに対し、重棟は親織田派であった。重棟はいち早く秀吉に取り入って、その信頼を受けていたが、吉親は織田家や秀吉に対する不信が拭えなかった。おりしも、足利義昭から決起を促す御内書が、別所氏に届けられており、吉親は毛利家と結んで、織田家とは手切れするよう長治に強く促した。


当時、織田家は播磨の隣国、丹波に攻め入って波多野氏とも交戦していた。この波多野氏と別所氏は、婚戚関係にあった。長治の妻は丹波八上城の波多野秀治の妹であるとされており、長治の弟、治定も丹波氷上城の波多野宗長の娘を娶っていたとされている。両家には深い繋がりがあり、この事も織田家離反の決断を促す一因となった。


天正6年(1578年)3月、長治は、織田家に反旗を翻す事を決した。別所氏は、東播磨20万石余の所領を有する大勢力であり、その影響力は大きかった。これを受けて東播磨の諸領主、淡河城(淡河定範)・神吉城(神吉頼定)・高砂城(梶原景行)・野口城(長井政重)・魚住城(魚住頼治)らも呼応し、別所氏を盟主として仰いだ。


別所氏は、丹波の波多野氏や播磨各地の支城との連携を密にして、籠城戦を取る事を決した。別所氏の作戦としては、織田軍を播磨に拘束した上で毛利軍の来援を請い、その来着をもって一挙に織田軍を粉砕せんとの考えだった。三木城には別所一族の郎党に加えて、西播磨の門徒や付近の農民達も籠城に加わった。三木城には7千5百人余が立て篭もったと云われているが、これは過大だと思われる。この人数は、各地の支城の人員も合わせたものだろう。


秀吉は別所氏を始めとする播磨勢を率いて、今まさに中国地方に攻め入らんとしていたところであった。ところが、その頼りとしていた別所氏離反の報を聞いて、さすがの秀吉も愕然となる。秀吉は長治の叔父、別所重棟を呼び出して問い質したものの、重棟自体も驚くばかりであったと云う。別所氏が離反を決めた謀議では、重棟は蚊帳の外に置かれていた。秀吉の意を汲んで重棟は再三に渡って長治に書を送り、必死に翻意を促したが効果はなかった。そこで、重棟は袂を分かって、織田側に身を寄せた。これ以降、重棟は自らの身の潔白と忠誠を証明するため、自身が負傷するほど、同族に向かって激しく戦いを挑む事となる。こうして、播磨勢の過半が毛利方に変身し、秀吉は敵中に孤立する形となった。


天正6年(1578年)3月29日、秀吉は三木城に対し、最初の攻撃を加えたと云われている。しかし、天険の要害である三木城はびくともせず、逆に手痛い反撃を受けて秀吉軍は撃退されたらしい。三木城は、丘陵の上に本丸、二の丸、西の丸、新城、東の丸、三の丸があった。更に今回の挙兵の際、城を強化すべく、新たに西南にある高台、鷹の尾、宮ノ上に砦が築かれた。三木城の北と西には美嚢川(みのうがわ)が、東には志染川が流れており、天然の堀となっていた。このような要害の地に大兵力が篭っていてる現状では、大軍をもってしても早期攻略は極めて難しい。その上、この時の秀吉が率いている兵力は8千人程度でしかなく、城を包囲する事さえ、ままならなかった。


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↑三木城天守台跡


そこで、秀吉は長期戦を覚悟し、三木城への兵糧輸送と兵員提供を担っている支城を、一つ一つ落としていく地道な作戦を取る事にした。4月3日、秀吉軍はまず、三木城の近隣にある野口城へと向かった。秀吉軍は野口城を力攻めにしたが、城主長井政重と4百人余の城兵の抵抗は激しいものがあった。しかし、緒戦で敗退する訳にはいかない秀吉は、休まず3日間猛攻を加え続け、ようやく政重を降伏に追い込んだ。ひとまず序盤の山場を越えた秀吉であったが、またもや憂慮すべき事態が起こる。


秀吉は三木城攻めに取り掛かったばかりであったのに、今度は西に大敵が現れたのである。4月下旬、毛利、宇喜多の連合軍3万人余が、備前、播磨、美作の国境沿いに位置する上月城を囲んだのである。これこそ、別所氏が待ち望んでいたものであった。上月城には、尼子勝久、山中幸盛(鹿助)を始めとする尼子の残党7、8百人余が立て篭もっていた。尼子の残党は御家再興を願って、織田家の指揮下に入っており、秀吉の中国攻めにも協力していた。上月城からの急報を受け、秀吉は三木城に抑えの兵を残すと、救援に向かった。


5月4日、秀吉からの増援要請を受けて、荒木村重の軍も上月城に到着した。しかし、両将の兵を合わせても1万人余でしかなく、これに対して毛利、宇喜多軍は3万人もの兵力で、しかも要地を占めて城を取り囲んでいた。劣勢の秀吉、村重軍は近づく事も出来ず、城と連絡を取り合う事すら困難であった。上月城が困窮する様子は秀吉にも伝わってくるが、手の打ちようが無く、ただただ日数だけが過ぎていった。6月16日、万策尽きた秀吉は上洛し、信長の指図を仰いだ。


秀吉は、信長の直接出馬をもって、上月城を救ってもらいたかった様だが、信長の下した決断は非情かつ、現実的なものだった。秀吉に対し、上月城は見放し、三木城の攻略に専念するよう命じたのである。6月26日、現地に舞い戻った秀吉は、後ろ髪を引かれる思いで姫路、書写山へと引き揚げていった。味方に見捨てられた上月城が落ちたのは、7月3日の事であった。籠城以来、70日余が過ぎていた。この日、尼子勝久は自刃して果て、山中幸盛も後に殺害された。かつて山陰に大勢力を築いた尼子氏は、ここに滅亡した。


6月27日、上月城から秀吉が退き始めた頃、織田信忠率いる3~4万人余の大軍が播磨に来援した。そして、織田軍は三木城の支城の一つ、2千人余の将兵が守る神吉城に対する攻撃を開始する。織田軍は大軍にものを言わせて強襲を加えたが、城方の抵抗は激しく、おびただしい戦死者を出した。この攻防戦の最中、信長の三男、信孝も負傷している。だが、織田軍は攻撃の手を緩める事無く、井楼(せいろう)、築山(つきやま)を築き、そこから大鉄砲を城内に撃ち込んでは、塀(へい)、櫓を突き崩していった。織田軍が本丸に迫ってくると、城方は降伏を申し出て来たが、信長はこれを撥ねつけさせた。


7月20日、激しい攻防戦の末、城主、神吉頼定は戦死し、神吉城は落城した。他の城への見せしめとするため、城内の生存者のほとんどが殺害された。織田軍は引き続き志方城へと押し寄せたが、城方は神吉城の凄惨な最後を見て萎縮しており、戦わずして降伏した。恐怖を与えて早期降伏に追い込む、これこそ信長の狙いであった。そして、こちらは人質供出と、城の明け渡しだけで許された。この神吉、志方城の攻略と前後して、織田軍は加古川河口にある高砂城へも兵を差し向けている。こちらの攻防は定かではないが、城主の梶原景秀は後に秀吉に服属しているので、降伏した模様である。次に織田軍は、本元である三木城を囲んだ。しかし、信長の敵は、毛利や別所だけでは無い。数万もの大軍がいつまでも播磨だけに留まっている訳にはいかず、幾つかの付城を築くと本国へと引き揚げていった。三木城の主だった支城は落としたので、後は秀吉の仕事とされたのである。


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↑三木城からの眺め
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竹田城

竹田城は兵庫県朝来市和田山町にある山城です。その山城としての遺構は、全国屈指のものであるとされています。


竹田城は、山名持豊(宗全)の家臣であった太田垣氏が嘉吉年間(1441~1443年)に古城山(標高354メートル)の山頂に城郭を築いたのが始まりとされている。しかし、この頃の竹田城は、土塁の砦のようなものだった。その後、山名氏の下、太田垣氏の支配が続くが、天正5年(1575年)、丹波の国人、赤井(荻野)直政の攻撃を受けて、竹田城が一時占拠される事もあった。


天正5年(1577年)~天正8年(1580年)、織田家の部将、羽柴秀吉の攻撃を受けて大田垣氏は追い落とされると、竹田城には、秀吉の弟、秀長が城代として入る。秀長が有子山城に移ると、その家臣の桑山重晴が城主となった。天正13年(1585年)、桑山重晴が和歌山城に転封されると、龍野城主であった斎村政広(赤松広秀)が城主となる。この政広の時に竹田城は、総石垣の豪壮な城郭となった。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、斎村政広は当初、西軍に身を置いていたが、途中から東軍に転じて、西軍方の鳥取城を攻め立てた。しかし、この時に鳥取城の城下を焼き払った事を咎められ、戦後、徳川家康に切腹を命ぜられる。この後、竹田城は廃城となり、山林に変わっていった。現在、史跡は整備され、その豪壮な石垣は、古代遺跡を思わせる威容を誇っている。そして、晩秋の霧に浮かぶ姿は比類なき美しさを誇る事から、西日本屈指の名城と評価されている。


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↑麓から眺めた竹田城



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↑傾斜の強い斜面



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↑南千畳からの眺め



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↑南二の丸付近からの眺め



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↑本丸石垣



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↑本丸石垣



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↑北千畳を望む




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↑本丸からの眺め


竹田城は雲海に浮かぶ城として有名です。この城を訪れるなら、晩秋の早朝が一番良いでしょう。また、城には桜の木が何本か生えていたので、春に訪れても風情があるでしょう。

三国志の人口と兵力

2009.05.21 - 三国志・中国史

(153年)、後漢末期、中国の総人口は約4900万人であった。それが、黄巾の乱に始まる戦乱の時代を迎えると、人口は激減する。


●蜀の滅亡時(263年統計)の記録によると、戸数28万戸、人口94万人、将兵10万2千人、官吏4万人。


●呉の滅亡時(280年統計)の記録によると、戸数52万3千戸、人口230万人、将兵23万人、官吏3万2千人。


(263年統計)、魏は、戸数64万戸、人口443万人、兵力の記録は残っておらず、これは推定40万人と見る。



三国の総戸数は144万3千戸で、総人口は767万人となる。しかし、(280年)に三国を統一した晋の統計によると、中国全体の戸数は246万戸となり、総人口も、1616万人となっている。僅かな期間で、戸数は100万戸の増加、人口も849万人増加し、何とも不自然である。実は、三国の総人口767万人という数字は、戸籍に登録されていた人々で、実際には戸籍に登録されていない人々が多数、存在していた。



(196年)、曹操は、兵糧を確保する目的で屯田制を実施する。この屯田民は一般群県民とは異なり、戸籍には載らなかった。ところが、(265年)魏から晋に王朝が代わると、翌266年に屯田制は廃止され、屯田民も新しく戸籍に載るようになった。この屯田民は、一般群県民と同じぐらいの人口がいた。そのために、280年の晋の統計で、一気に二倍の人口となったのだ。 この屯田制は魏だけでなく、呉や蜀も行っていたものと思われる。



尚、晋の戸数、246万戸を、旧三国の領域に当てはめると、魏144万5千戸、呉73万戸、蜀31万8千戸となる。ただし、晋19州を、漢13州に当てはめて統計した結果、多少、数字の重なりが生じている。そして、晋統計(280年)の中国の総人口1616万から戸数246万を割ると、1戸当たりの家族数は約6・5人となる。そして、魏の戸数144万5千戸に6・5をかけると、約939万人となり、呉の戸数73万戸に6・5をかけると、474・5万人、蜀の戸数31万8千戸に6・5をかけると、206・7万人となる。これらを足すと、1620万2千人となった。厳密さには欠けるが、三国志の魏は人口939万人、呉は474万人、蜀は206万人であったのではないか。 



(補足)、三国時代から晋にかけての時代は混乱の時代で、王朝の支配力が弱く、全ての人民を把握していたとは言い難い。王朝が弱体化すると、遊戸と呼ばれる、戸籍に載らない民衆が増えるからだ。晋の総人口、約1616万人は王朝が把握している人民だけで、実際には更に多くの人口が存在していた可能性もある。



上記に三国の兵力は、魏40万(推定)・呉23万・蜀10万であると書いたが、これは防衛の兵力も含めた数で、実際に侵攻に使える兵力は、この半分程度だと思われる。全てを動員すれば、それだけで国力を大きく消耗するし、守備も疎かになってしまうからだ。それと、兵糧輸送にも大量の人員を必要とする。魏は40万の兵力の内、5万は対蜀防衛に、10万は対呉防衛に、5万は三国の係争地である荊州に、10万は北方の長大な国境沿いに、残る10万は中央に留め、状況に応じてこれを派遣したのではないかと推測する。蜀や呉に攻めかかる際には、中央軍と現地防衛軍とが合同で行ったのだろう。魏は強大な国力と兵力を誇るが、呉や蜀に加えて、北方の異民族、鮮卑(せんぴ)や、遼東の公孫氏にも備えておかねばならず、兵力の分散を強いられていた。それに魏は、地形によって兵力の節減が出来る地域が少なかった。



それに対して呉は、前面は長江を天然の堀とし、背後は海によって守られ、側面には同盟国の蜀があったので、兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。ただ、呉は内部に、山越や蛮といった強力な異民族を抱えていたので、この対策にある程度の兵力は割かねばならなかった。蜀は、ほぼ国全体が山脈によって守られており、側面には同盟国、呉があったので、これまた兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。しかし、蜀も、西方の羌族や益州南部の異民族対策にある程度は備えなければならなかったし、山脈から打って出れば必ずと言って良い程、兵糧不足に陥った。 魏が強大な国力を誇りながらも、蜀や呉をなかなか滅ぼせなかったのは、相手が天険の要害によって守られていたのもあるが、ほぼ全方位に脅威を抱えて戦力の集中が出来なかった事も大きい。



対して、国力に劣る呉や蜀が攻勢に出る事が出来たのは、地の利と外交の安定から来る、兵力集中によるものだろう。蜀は、10万の総兵力の内、外征に使えるのは5万人といったところだろうが、無理を押せば、6~7万は動員出来たかもしれない。呉は、総兵力23万の内、外征に使えるのは11、2万といったところだろうが、無理を押せば、15~6万は動員出来たかもしれない。これがもし、魏、呉、蜀がそれぞれ争うような事態となれば、呉や蜀は防衛で手一杯となって、遠征どころでは無かったろう。魏が存在する限り、呉と蜀の同盟は必須であった。魏にとっての悪夢は、こうした呉と蜀の兵力集中による連携攻撃に加えて、北方の異民族が敵対する事態であったろう。意外と、魏も苦しかったではないか。だから、魏及び晋は、呉や蜀が十分に弱るまで引導を渡せなかったのだろう。



ロシア兵とウォッカ

ウォッカとは、東欧~ロシア原産の酒である。大麦・小麦・ライ麦・ジャガイモ・など穀物を原材料とし、蒸留後、白樺の炭でこしてから飲む。一般に無味、無臭、無色である。極寒の地で暖を取るという用途もあるため、アルコール度数は40度から50度と極めて高い。第二次大戦中、ロシア兵にとってウォッカは欠かせない飲み物であり、ロシア兵の燃料とも呼ばれた。そして、ロシア兵はウォッカに酔った勢いで、東ヨーロッパ全域で、またはアジアの満州で、はたまた自国のソ連領においても、略奪に励み、婦女暴行を繰り広げたのだった。


ロシア兵達 「ウォッカは俺達の元気の源、ウォッカウラー!!!」

 ∩∩                               V∩
  (7ヌ)                 ,,,,,,,,,,,,            (/ /
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   /   ノ | /  ヽ ヽ、_/)  (\    ) ゝ  |
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第二次大戦中、ロシア兵には1日100グラムのウォッカが支給されていた。しかし、戦闘では激しい緊張を強いられるので、この割り当ては、ロシア兵にとって甚だ不満足なものであった。ウォッカが取り出されると、ロシア兵は誰もがしんと静まりかえり、一同の目はビンに注がれる。外科用のアルコールは、職務上の目的に使用されることはなかった。ウォッカが不足すると、ロシア兵は工業用アルコールや凍結防止用アルコールも、ガスマスクの活性炭フィルターでこしてから飲んだ。結果はたちの悪い頭痛どころではない、飲みすぎて失明した者もいた。また、不凍液を飲み干したため、故障車両も頻発したと云う。


スターリン 「馬鹿共が!貴様らは地雷原をその足で切り開け!」

     , -.―――--.、
   ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
  .i;}'       "ミ;;;;:}
  |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
  |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|    
  |  ー' | ` -     ト'{   
 .「|   イ_i _ >、     }〉}  
 `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'    
   |    ='"     |       
    i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {
  丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ
''"~ヽ  \、_;;,..-" _ ,i`ー-
   ヽ、oヽ/ \  /o/  |



冬の間、兵士達は大抵1日に1リットルの酒を飲んだ。公式の割り当てだけでは足りないので、実際の死傷者数を報告せずにその割り当て分を分け合ったり、戦線後方の村民と物々交換して手に入れた。また、自分達で考えられる限りの手法を使って、酒を醸造した。


スターリン 「酒を飲んだらさっさと突撃するんだ!グズグズしてると、背後の機関銃が火を噴くぞ!」

          , -.―――--.、
       ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
      .i;}'       "ミ;;;;:}
      |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
      |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|
      |  ー' | ` -     ト'{   
     .「|   イ_i _ >、     }〉}  
     `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'     胸に七つの傷を持つ
       |    ='"     |        赤い星の力を見たいのかね
        i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {        
      丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ      私の大ソ連粛清拳が火を噴くぞ
, -<''"´   ヽ         >- /i,, ノ`-、_,,_ 、   
   ヽ,, 、   ヽ、.   `ー-一 '/   ,r'    `゙ヽ、
_     ヾ 、.._ __`ー ノ ⌒ ニニ、ヽ'"       _,, `ヽ
-'"`゙=-、  )    /     ィ- 、ソl `ー 、 /  ,,..r -=- 、
_,;-'"´   /`"''ーtイ     {⌒ ̄""''ー--、ー''"ヽ  `゙ =- 、゙ヽ
     ,i'     |     ノLヾ`ヽ、,    |   |    ヾ、  ト、
     {     | _,,r、 _'"ト、__,へ_,, ` __ノ ノ   ノ         }
` - 、  ヽ__,,r─''"     (_ )rー‐‐'" ⌒ー、'"_   - ' "  ,,イ
_,,ィ一'"´ヽ、 ..★ _   _ ,,ノヽ、 _   _★ ,, ノ l `゙ー、 _ ,,ノ
ヽ    ヽ ヾ                  彡、 ノ
 ヘ、  ソゝ、ヽ      r '"´イト `゙ヾ   ノソ /




ソ連軍は進撃する時、戦車に大量の歩兵を載せて進む。しかし、そんな不安定な戦車上でも、ロシア兵はウォッカを手放さない。ある時、戦車が窪みに落ちて大きく揺れ、乗車していた酔っ払いのロシア歩兵がそれに大いに怒って、ハッチを開いて操縦手を射殺すると云う事件も起こっている。ウォッカの支給が遅れたり、届かない事があると、ロシア兵はとんでもない代用品を飲む事もあった。毒ガス攻撃に対応するために作られた対化学兵器用薬液には多少のアルコールが含まれていたようだ。それを誰かがワインだと断言したため、ロシア兵達はこれを大量に飲んでしまった。この有毒な液体は科学戦に備えて、ごく微量を摂取すべきものだったのだが、大量に飲み込んだため28名の死者を出すと言う出来事もあった。


スターリン 「役立たず共が!貴様ら全員、シベリア荒野の肥料にしてやる!」

     , -.―――--.、
   ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
  .i;}'       "ミ;;;;:}
  |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
  |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|    
  |  ー' | ` -     ト'{   
 .「|   イ_i _ >、     }〉}  
 `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'    
   |    ='"     |       
    i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {
  丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ
''"~ヽ  \、_;;,..-" _ ,i`ー-
   ヽ、oヽ/ \  /o/  |



現在では、ウォッカの需要はやや落ち込んでいるようだが、それでもロシア人にとってなくてはならない必需品である。ウォッカにまつわるこんなニュースもある。2009年、ある男性が失業の憂さ晴らしをするため、ウォッカをボトル8本(4リットル)もの量を飲み干した。すると、男性は昏睡状態に陥って病院へ運ばれた。男性の血中からは、致死量の二倍ものアルコールが検出され、医師を驚愕させた。男性は命は取りとめたが、しばらくは酷い頭痛に苦しめられ、「もう酒を一滴も飲まない」と誓った。


ロシアの厳しい冬の寒さから体を守る必需品ともいわれるウォッカ。しかし、現代のロシアで出回っているウォッカの半分は、マフィアなどが非合法的に作ったもので、逆に体をボロボロにしてしまう危険性が指摘されている。 非合法ウォッカの5%は、人体に有害な工業用メチルアルコールや薬品用アルコールを薄めただけの粗悪品であると云われている。また、悪い衛生状態で作られることも多く、危険に満ちている。ロシア人男性の平均寿命は59歳。その寿命を縮める大きな原因といわれているのが、非合法ウォッカである。

出石城

出石城は兵庫県豊岡市出石町にある平山城です。


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↑標高321mの有子山とその中腹にある出石城


有子山には、但馬の戦国武将、山名祐豊が築いた有子山城が築かれています。有子山城は天正2年(1574年)に築かれ、山名氏の本拠地となりますが、天正8年(1580年)、織田家の部将、羽柴秀長によって攻め落とされます。その後、秀長の家臣、木下昌利、青木甚兵衛が城代を勤め、次に前野長康、小出吉政が但馬の大名として有子山城に入ります。慶長9年(1604年)小出吉政の子、吉英の時に有子山城は廃され、山麓に出石城が築かれます。この時に城下町も整備されました。元禄9年(1696年)小出氏が断絶すると、代わって松平氏が入封し、最終的には仙石氏が城主となって明治の世を迎えます。



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↑出石城の石垣

苔むしていて良い味が出ています。



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↑出石のシンボルとも言える辰鼓楼。

辰鼓楼とは、太鼓で時を告げる鼓楼ですが、現在でも時計台となって現役で働いています。

出石と言えば蕎麦が非常に有名です。せっかく来たので名物の皿蕎麦を頼みました。ここの皿蕎麦は一人前で700~900円位ですが、はっきり言ってそれだけでは物足りません。普通の人なら一皿130円位の皿蕎麦を10皿は追加して平らげないと腹は満たされないでしょう。
なので、ここで皿蕎麦を頼んだ時は、
よぉーく(^◇^)(^◇^)(^◇^)考えよぉー♪
お金は(^◇^)(^◇^)(^◇^)大事だよぉー♪

 

 
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↑出石城から見た、出石の町並み。

出石は但馬の小京都とも呼ばれた、山々に囲まれた小さな城下町です。
見えにくいですが、右の方にちょこっと辰鼓楼も写っています。元治元年(1864年)7月には、後に明治の高官となる桂小五郎(木戸孝允)が、禁門の変の後、密かに出石を訪れ、幕府の目から逃れるため、しばらく潜伏していた時期もありました。

 プロフィール 
重家 
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重家
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男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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