Uボートとは、第一次世界大戦と第二次大戦時に活躍したドイツ潜水艦の総称である。特に第二次大戦時の活躍は有名で、多数の連合軍船舶を撃沈して、全世界に勇名を馳せた。だが、輝かしい戦果の裏側で、Uボート乗員の苦労は一方ならぬものがあった。その乗員の苦労の一端を紹介していきたい。
1933年、ドイツ海軍の軽巡洋艦カールスルーエは世界周航の最中、アメリカのハワイを訪れた。この時、軽巡に乗り込んでいた士官候補生ラインハルト・ハルデゲン(後に船舶25隻、13万6千トンを撃沈する事になる第二次大戦のUボートエース)は、ここでアメリカ潜水艦を見学した。潜水艦内部に入ると、パイプや計器類が所狭しと張り巡らされており、居住区は信じられないくらいに狭かった。
しかし、ハルデゲン自身が後にUボートに乗り込むと、あの時のアメリカ潜水艦の居住区は、考えられないくらいに広く快適であったと述懐した。アメリカ潜水艦には士官室、大きな調理室、リクリエーションスペース、数箇所の便所、全乗員にベッドが割り当てられていた。しかし、Uボートにはリクリエーションスペースなど存在せず、乗員44~60人余に対して、便所は一つか二つあるだけだった。ベッドは固有の物ではなく、乗員が昼間と夜間に交代して使用するので常に暖かく、ホットベッドと呼ばれていた。
Uボートは量産性を重視して設計されており、他国と比べると小柄な船体にまとめられていた。その小さなスペースに計器類や魚雷を最大限、搭載した戦闘本位の艦であり、快適に生活出来るよう設計されたものは、何一つ存在しなかった。ある乗員は、「まるでパイプの中に住んでいるようだった」と述べている。出航直前の乗員達は生き生きとして髭もきれいに剃っているが、航海を続けていると、潜水艦乗り特有の青白い顔つきになり、髭は伸び放題になる。乗員は非番の時には、持ち込んだ古雑誌を回し読んだり、喋りあったりして過ごしていた。
潜水艦の最大の武器は、なんといっても魚雷である。Uボートの任務にとっては、食料の搭載よりも魚雷の搭載の方が重要だとされており、出撃する際には、規定数を超えて詰め込めるだけ詰め込んでいた。魚雷はベッドにも積み込まれるので、乗員はそれに寄り添って寝る事になる。魚雷は高度な技術を要する精密兵器であり、値段も非常に高価であった。当時の軍用車フォルクスワーゲン1台の値段は1千ライヒスマルクであったが、ドイツの電気魚雷G7eの値段は1本あたり4万ライヒスマルクもした。日本円に直してみると、フォルクスワーゲン1台が100万円で、魚雷1本が4千万円といったところだろうか。
魚雷内部の繊細な誘導装置や推進機構は、容易に損傷し得るものだった。それをいつでも使用可能な状態にするには、3日もしくは5日の間隔で点検と調整を必要とした。調整に当たる乗員は、発射管に収められている魚雷を慎重に取り出してから、点検、調整をする事になる。長期の航海では1日1本ずつ点検が行われたが、荒天時には大変、危険を伴う作業となった。魚雷は精密機器であるので、荒天で揺り動かされようとも、壁にぶつける訳にはいかなかった。それに、魚雷はただ1本で艦船を撃沈しうる大変な危険物であり、ふとした衝撃で爆発しないとも限らなかった。そのため、調整員は、魚雷が揺れる度、自分の身を挺して止めたので、怪我をする者が絶えなかった。
食料は、鋼管の中、甲板の上下、通路、便所、居住区といったあらゆる箇所、あらゆる隙間に詰め込まれた。生鮮食料の多くは頭上の網に吊るされるので、ただでさえ狭いハンモック上の空間は半分になる。乗員は、パンやソーセージの詰まった袋に頭を埋め、果物の詰まった竹かごに足を乗せて寝た。食料の大体の内訳は、ハム、ソーセージ、リンゴ、葡萄、焼きたてのパンなどの生鮮食料と、肉、野菜、バター、卵、果物、パンなどが詰まった缶詰である。また、壊血病予防のため、いたる所にレモンが詰め込まれていた。Uボート乗員の生活が過酷であるのは皆が承知であるので、ドイツ国防軍の中でも最良の食料が配給されていた。
出航前の潜水艦は綺麗に清掃され、内部には焼きたてのパンと果物の香りが立ち込める。しかし、出航して1週間も経つと食べ物は腐り始め、その腐敗臭と、油、汗、小便、電池のガス、湿気の多い空気とが入り混ざった異様な臭気に変わる。2週間も経てば艦内は、下水道の中に居るのと変わらない状況となった。更に3週間経つと、主食である黒パンにソーセージ、レモンなども厚いカビに覆われるので、乗員はパンの真ん中だけを食べた。それでも、1日3回温かい食事は出されていたので、東部戦線で冷え切った粗末な食事を取っている兵士よりは、まだ恵まれていた。だが、乗員達にとって何よりのご馳走は、食事ではなく敵船舶を喰らう事であった。これを喰らうと乗員の士気は高まり、汚れた艦内生活さえ苦にはならなかった。
Uボートが敵船を撃沈すると、情報収集目的で1人か2人は救出する事はあるが、相手の乗員全てを救出する事はない。救出活動自体が自艦を危険に晒す事につながる上、狭い艦内に捕虜を収容する余裕などまったく無いからである。だが、敵船から救命ボートが降ろされた場合、Uボートがそれを攻撃するような真似はしなかった。ドイツ海軍では、救命ボートに乗った漂流者を殺戮する事は基本的に容認できないとされており、Uボートが漂流者に向けて機関銃を掃射したのは、一度の事例を除いて確認されていない。それに対して、アメリカ潜水艦が日本船舶を撃沈した場合、度々、漂流者や救命ボートに向けて容赦なく機関銃を掃射していた。
潜水艦では、ハッチの閉め忘れ、弁の誤回転、電池の誤配列、敵艦船や航空機の見落としが即、全乗員の死につながる。乗員1人1人の果たす役割は重要であり、潜水艦ほどチームワークが要求される兵器はなかった。士官、下士官達は魚雷、ディーゼル機関、電動機、操舵、潜望鏡などの専門家であり、その他の乗員達もそれぞれ特殊な技能知識を持っていた。乗員達はお互いの能力を信頼しあい、篤い友情を培っていた。長期間、狭い空間の中で共に不自由、危険、恐怖、喜びを分かち合うので、自然に兄弟のような一団になっていった。Uボートの頭脳たる艦長には、乗員達を束ねる統率力、状況を素早く正確に見極める観察眼、敵に立ち向かっていく攻撃精神が要求される。潜水艦が任務を成功し得るかどうかは、多分に艦長の力量に左右された。撃沈を重ねた艦長は乗員の信頼を得て士気も上がったが、逆に戦果を挙げられない艦長には失望し、士気も低下した。
潜水艦の任務は過酷であったが、その分、報酬も高額であった。Uボートが潜航した日には、給料が跳ね上がった。また、Uボートが西経20度を通過し、最前線に出れば、危険任務手当てが出て、それはロリアン(フランスにあるUボート基地)に帰投しだい支払われる事になっていた。その金で彼らは、フランスで神のような生活が出来たのだとか。Uボートが過酷な戦闘哨戒任務を終えて基地に帰投すると、軍楽隊が演奏を奏でて勇者達の帰還を祝う。他のUボート乗員や基地要員達は、桟橋から手を振ってこれを出迎え、上陸した乗員には婦人や少女達から花束が手渡される。乗員達は久方ぶりに陸地を踏みしめて、ようやく心から安堵するのだった。顕著な戦果を挙げた艦長ならば、ここで司令長官から勲章を授けられた。
乗員達は陸上に上がると、大抵、盛大なパーティを開く。明日をも知れない身であるので、生ある内に存分に楽しもうという思いからだった。それに、彼らは特別待遇を受けており、多少羽目を外したとしても、憲兵からは大目に見られていた。だが、帰投したUボートが整備と準備を終えると、再び危険な海域へと向かわねばならない。軍楽隊は歓送の音楽を奏で、基地からは成功を祈る群衆が手を振って見送る。Uボートの乗員達はそれに応えながら、大海の彼方に消えて行くのだった。
大戦を通じてUボートは、連合軍船舶を2880隻、1440万総トンを撃沈し、それに加えて連合軍艦船175隻、80万トンを撃沈した。連合軍商船の乗員は、5万人が戦死した。Uボートは大戦中1114隻が就役したが、喪失数も817隻に上った。Uボート乗員3万9千人の内、戦死した者は2万8千人、捕虜となったのが5千人だった (上記の数字は資料によって差異がある)。
大戦中、Uボート部隊を一貫して指揮していたのは、カール・デーニッツである。デーニッツはUボート部隊創設の父であり、潜水艦の特性を熟知した卓越した指揮官でもあった。デーニッツはこう述べている。「開戦時にUボートが、300隻あれば、イギリスを屈服させ得ただろう」と。これは決して大言壮語ではなく、事実であろう。戦争後半になって、ようやくデーニッツは300隻余りのUボートを手にしたが、全ては遅すぎた。戦機に適切な量を投入出来なかったため、勝利を逃したのである。これはデーニッツの罪ではなく、ドイツ軍上層部の無理解によるものであった。
当時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルはこう述べている。「私が真に恐れていたのは、Uボートの脅威であった。ドイツはこれに全てを賭けていた方が賢明であった」
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1941年12月8日、太平洋戦争開戦時、日本は排水量500トン以上の船舶を約650万総トン保有していた。戦時中に建造された船舶は、約340万総トン。これらに拿捕船など26万総トンを加えた日本の総船舶量は、約1000万総トンだった。しかし、アメリカ軍による激しい通商破壊と、上層部の海上輸送軽視によって、日本の船舶は壊滅的な打撃を被る。1945年8月15日、敗戦時には船舶量は約166万総トンまで激減していた。しかも残存船舶の大部分は、損傷して使用には耐えられなかったのである。
戦争中盤から大型商船の損失が激しくなると、船舶不足の穴を埋めるため、各地から漁船や機帆船(主に木造で、機関と帆走を併用する小型船)が手当たり次第に徴発されていった。これらの船は足が遅く、ほとんど何の武器も備えていなかった事から、アメリカ軍の攻撃を受けて、片っ端から撃沈されていった。戦争末期、日本は絶望的な船舶不足、物資不足に陥ると、苦し紛れにコンクリート製の船を建造し、木造帆船まで用いた。しかし、これらの処置も所詮、断末魔の足掻きに過ぎなかった。
戦時中、日本が失った船舶は約890万総トン、実に保有船舶の90パーセント近くを失ったのだった。船員の戦死者は6万人余、海上輸送中に沈んだ軍人、軍属は35万人余に上ったと云う。その他にも、輸送中に戦車・航空機など多くの兵器が沈められ、それを製造するための戦略物資も滞った結果、兵器の製造すらままならなくなった。石油を断たれた陸海軍は、作戦行動や訓練に支障を来し、艦船は港に繋げられたまま撃沈されていった。食料の輸送も断たれ、当時から輸入に頼っていた日本人は、飢えに苦しんだ。日本が敗戦に至った原因として、よく挙げられるのが、ミッドウェー海戦・マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦における大敗北であるが、最後の止めとなったのが海上輸送における敗北である。
戦前の日本海軍は、強大なアメリカ海軍に対抗せんとして、無理を押して正面装備の拡充に最大限の努力を傾けてきた。1935年には国家予算の47%を軍事費が占め、日中戦争が勃発した1937年には、これが69,5%に跳ね上がり、更に日米開戦年の1941年なると、実に75%が軍事費に当てられた。しかし、そうまでしても日本海軍の戦力は、アメリカ海軍に及ばないのであった。 日本海軍は長期戦を想定せず、短期決戦を念頭に置いて戦闘部隊の充実に尽力した。こうなると、海上護衛戦力などの後方支援部隊は、必然的になおざりとなる。実際には全てを消耗し尽す長期戦となり、日本は見通しの甘さを身に染みて実感する事になるのだが、これも、日本とアメリカの国力差を鑑みれば、致し方ない面もあった。そして、日本は開戦してから護衛戦力の拡充を図ってきたものの、その戦術も装備も未熟であり、数もまったく足りていなかった。
1943年からアメリカ潜水艦の配備数が急速に増してくると、それに合わせて日本船舶の撃沈数も激増し始める。だが、護衛戦力はまだまだ不足気味で、全ての船団に護衛艦をつける事は不可能であった。それに、この頃になると日本海軍はかなりの艦艇をすり減らしていたのに対し、アメリカ海軍は日毎に勢力を増しつつあった。1944年になってようやく護衛戦力は整い始めるが、日本海軍は大敗を重ねて、すでに戦争の大勢は決していた。海上輸送は、制海権と制空権を得て初めて成立する。海洋国家が生命線である制海権を握られては、敗北に至る他なかった。ただ、そうであっても、日本海軍がもう少し海上護衛に目を向けていれば、太平洋の戦いの様相は変わっていただろう。戦争の結果事態は変わらなかったであろうが、良くも悪くも、粘り強い戦いが出来たはずである。
戦国時代の九州、肥前の地にある龍造寺家は、土豪のような小さな存在であったが、龍造寺家兼(剛忠)の代になって、佐賀の地を拠点に急速に力を付けつつあった。家兼は知勇に優れ、野心に燃える武将であった。これまで、龍造寺家は小弐氏に仕える一家臣に過ぎなかったが、この家兼の時代に徐々に戦国大名への階梯を上りつつあった。
龍造寺家が勃興しつつあった頃、享禄2年(1529年)、龍造寺家に1人の男子が誕生した。この男子は、家兼の孫である周家と大方殿(慶誾尼)との間に生まれ、長法師丸と名づけられた。この長法師丸こそが、後に「肥前の熊」と恐れられる強豪、龍造寺隆信、その人であった。長法師丸は容貌魁偉、眼光炯炯であったと伝えられている。しかし、長法師丸は武将としての道は歩まず、7歳の折、家兼の三男、豪覚和尚のいる宝琳院に預けられ、円月と号した。
豪覚和尚 「周家殿、大方殿(慶誾尼)、このクマを必ずや、一人前の僧侶として育て上げて見せましょうぞ」
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周囲の者達は、円月が仏の道に精進して、高僧になる事を望んでいた。
だが、寺での円月は、手の付けられない悪僧であったとも。
肥前のクマさん 「精進料理など、腹の足しにもならんクマー!シャケだー!シャケを持って来いクマーっ!!」
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. Y Y´ \
l \ \ グビグビグビ!
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l l *ζ' / * ミ / j
l. ヽ. '´ _ノ _/ ./
l  ̄ ノ
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豪覚和尚 「寺で酒を飲みおって、この馬鹿もんが!ほれ、本州のシャケを持ってきてやったぞ。」
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. | (__人__) これ食って落ち着け、酒乱グマめ!
| ` ⌒´ノ
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ヽ ノ mm
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肥前のクマさん 「バッキャローーー!!!シャケは蝦夷地の物に限るクマー!」
オーリャー ____ ───── ―=ニ
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三_ 彡 (_ ●_) ミ  ̄ / |::::::::::::::::::::::::| |
─── 二 |∪|二 三 / |:::::::::::::::::::::::::| |
__ = 三 二_ (_(__ !:::::::::::::::::::::::::! i
──── 二─ |:::::::::::::::::::::::| ,
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─── .| / 二二 ) ─ ------ ─ '
∪ ( \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ────
\_) ドコーーーン!!!
豪覚和尚 「手が付けられん。この馬鹿グマは・・・」
/ ̄ ̄ ̄ヽ
/:::: ||||| ヽ
/::: __ノ::::::ゞ;;:) ウウウ・・・
/ ( ;:;:;:;ノ:::::<->
/;:;:;:;;;:; (_ _人 __)
.///ヾ .`┃ノ
/ /| ヽ/ / ∧ |
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ヽ、//////)/ | |
/  ̄ ̄ ノ | |
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肥前のクマさん 「寺の生活は暇過ぎるクマー!やってやれんクマーーっ!!!」
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( ヽ∩___∩
 ̄ ̄\ | ノ ヽ
/ ● ● | アッシャーーー!!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、` ‐- _
/ .ヽノ .) \ \
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豪覚和尚 「こ、これ、仏像で爪を研ぐでない!この罰当たりもんがー!」
.___
/ ノ .\
/ (●) ヽ、ヽ やめるのじゃー!
/ (⌒ (●)/
/ ( ̄ヽ__)/∩m
. /⌒ヽ(ふ. ノ yノ/ ( ノ
`ァー─⊇(_ノ´\_/ /
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/ ⌒ヽ
___/ / ̄ ̄`) ノ
(__r___ノ (.__つ
肥前のクマ 「うるせークマーーーっ!!!」
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(● )o /_ノ ヽ ヽノ ̄ ̄`ヽ、―ニ
゚ _)_) (◎) / ´`ヽ _ 三,:三ー三,:
| (_人/⌒ } ノヽ--/ ̄ , ` ` ̄ ̄ ̄
。 o 。/ ( }、ー‐し'ゝL _
| (__ン jr--‐‐'´} ;ーー------
| ヾ---‐'ーr‐'"==
. ヽ /
ヽ く ゴスッ!
γ⌒´ ⌒\
豪覚和尚 「だ、誰か、お願いだからこのクマを引き取って・・・」
/ ̄ ̄ ̄ヽ
/:::: ||||| ヽ
/::: __ノ::::::ゞ;;:) ウウウ・・・
/ ( ;:;:;:;ノ:::::<->
/;:;:;:;;;:; (_ _人 __)
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ヽ、//////)/ | |
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ある日、寺で修行に励んでいた円月に、驚くべき知らせが舞い込んできた。それは、天文14年(1545年)1月22日に父、周家を初め、龍造寺一門の主だった者達が、主家、少弐氏によって悉く討たれたとの凶報であった。これは、少弐氏が、龍造寺一門が力を付けてきた事に恐れを抱いて、老臣の馬場頼周と共謀しての事であった。一族の重鎮、家兼は筑後へと逃れた。
だが、家兼は3ヶ月と経たずに逆襲に転じた。92歳の家兼は闘志を燃やし、鍋島清久、清房父子の協力と、筑後の蒲池鑑盛の支援を受けて佐賀の地に舞い戻ると、見事、馬場頼周を討ち取って、一族の無念を晴らしたのだった。
だが、翌天文15年(1546年)、精魂尽き果てた家兼は病に倒れた。
家兼は、自分亡き後の龍造寺家の行く末を案じる。そして、寺に入っていた円月に龍造寺家を託そうと考えた。住職が手が付けられないと嘆く、その悪法師振りはかえって頼もしくさえ思えた。家兼は、円月に戦国武将としての資質を見出していた。臨終間際、家兼は、「円月を還俗させよ」ともらした。家兼は当時としては異例の高齢、93歳で波乱の生涯を閉じた。そして、家兼が最後に残したこの一言が、後の九州の戦国絵図を、大きく塗り替える事になる。
18歳だった円月は還俗して、胤信と名乗り、水ヶ江龍造寺家を継いだ。
こうして、肥前の熊は、戦国の世に出る事となった。
肥前のクマさん 「和尚、今まで世話になったクマー。これは、せめてものお礼クマー」
∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | 蜂の子だ。美味いから食ってみろクマー
| ( _●_) ミ__∩
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`ー一'´
豪覚和尚 「馬鹿もん!スズメバチの巣など持って来るなあああ!!!」
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/::::::::::::::\ ブワーーーーン!
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うぎゃああああああ!!!
豪覚和尚 「もうやだ、このクマ・・・二度と見たくない・・・」
/ ̄ ̄ ̄ヽ
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/::: __ノ::::::ゞ;;:) ウウウ・・・
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天文19年(1550年)7月19日、胤信は隆信と改名する。
この後、隆信は様々な試練を乗り越えながら、九州を代表する大武将へと成長してゆく。
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/ ● ● | / クマの門出を祝って乾杯────!!
| ( _●_) ミ/
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_ ,-、 _ ,ヘ イェーーーイ!
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_人_.ノ/ | _,,ゝ-──- ,,_ ヽ、
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!. / l. 彡、 ヽj`ー、_ `ー、 /
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シャケだー!シャケを持ってこーい!
17世紀、オランダ東インド会社の貿易往復船の航海概要
オランダから東インドへの長い航海は、地球を半周する以上の距離があった。そのため、東インド貿易にたずさわるオランダ商船は非常に頑丈に作られていた。商船は大中小幾つかの種類があったが、その中でもバタヴィア号級は最大、最高級の船だった。
バタヴィア号級 性能要目
全長は49メートル、全高は約61メートル 排水量は1200トン、マストは3本、甲板は4層、大砲は30門、船体は2重構造。乗員乗客は350名余。新造時には600トンの積載能力があるが、年数を経ると海水が染込んできて、積載能力は落ちてゆく。
建造費は約10万ギルダー。当時は300ギルダーで家族を1年養う事が出来た時代である。建造には莫大な費用がかかっていたが、老朽化して解体されるまでには、建造費用の数倍の利益が得られた。東インドまでの航海は、並の船では壊れてしまう程の圧力を受ける。頑丈な作りのバタヴィア号級といえども、5、6回の往復、10年から20年働くのがせいぜいだった。老朽化すると解体され、住宅用の木材にされた。
東インド貿易船に、女性が乗り込む事は少なかった。若い独身女性を、数百人の若い男達と一緒にすれば、問題が起こるのは必死だったからだ。東インド会社は過去の苦い経験から、女性が東インドに渡る事をあまり許可しなかった。許可されるのは、高級商務員の妻と娘ぐらいだった。バタヴィア号級では、階級に応じて部屋や船内空間を割り当てられた。メインマストから後方は、高級船員、商務員とその使用人だけが出入りを許される特別な空間だった。船長などの地位の高い乗員、及び上流階級に属する乗客には個室が与えられ、彼らにはある程度のプライバシーが保たれていた。次に、職人、大工、医師、料理人などの中級に属する人々は船尾、あるいは船首楼の比較的ゆったりとした寝台で眠る事が出来た。
しかし、下級に属する水夫や兵士には個室など無かった。乗組員の三分の二を占める彼らは、メインマストから前方の空間に押し込まれ、仕事に必要でない限り船尾に近づく事は許されなかった。兵士らは甲板の最下層に居住したが、天井は低く、新鮮な空気や光も入ってこない薄暗い空間だった。水夫は砲甲板に居住しており、兵士よりはややましな居住空間があった。ここには光も空気も入ってくるが、その反面、赤道付近では耐え難いほどの暑さに悩まされ、冬場は凍えるような寒さに苦しめられた。水夫、兵士達は限られた生活空間をめぐって、隣人とよく喧嘩沙汰となり、盗難も横行していた。
長い航海生活中、人々は退屈を紛らわせるのに苦労した。食事が一番の楽しみで、それを待つ間、乗員達は噂話をしたり、サイコロ賭博などのゲームをして過ごした。また、歌を歌ったり、芝居を披露する事もあった。上級の少数の人は読書をして過ごし、女性は毛糸を編んだり、料理を作ったりした。水夫達は腕相撲をして気晴らしをした。だが、退屈と暑さのせいで、揉め事はしょっちゅう起こった。不敬や酩酊といった軽い罪を犯した者には罰金刑が課せられたが、暴力行為や盗難をした者には重い罪が課せられた。
ナイフによる喧嘩では、当事者はマストに縛りあげられた上で、利き手の手のひらにナイフを突き立てられる事になる。これは自力で外すまで放置された。反乱のような重罪を犯した者は即座に殺されるか、容赦のない厳罰が加えられた。反乱者には大抵、鞭打ち200回の刑が加えられる事になる。この刑を受けると背中は真っ赤にただれ、苦しみ抜いて死ぬ者も多く、助かっても傷跡は一生残った。さらに重い罰はマスト落とし刑で、後ろ手をロープで縛られ、足に重りを付けられた上で何回もマストの端から落とされた。この刑を受けると、急な減速を受けて手や腕の骨はバラバラに砕けた。他にも船底くぐり刑と言うのがあり、これはロープで括り付けられた上で、船の舷側から舷側へと潜らされた。これは溺死する者が絶えなかった。
バタヴィア号級は当時としては最大級の船だったが、便所はたった4つしかなかった。2つは船尾にあって上級の船員や乗客が用いた。残る2つは船首にあって、下級に属する、大部分の乗員がそれを用いた。船首の便所は、雨ざらしの甲板に穴を開けただけのものだった。他人からは丸見えで、乗員はそれに長い列をなして順番を待った。そして、用を足した後、水中まで垂らしてあるロープを引き上げ、それで尻を拭いた。そのロープは勿論、汚物まみれである。悪天候の日には船内で用を足し、それらはビルジ(船底の湾曲部)に溜められた。ビルジの汚水は恐ろしい臭いを放ち、航海中、下甲板から悪臭が消える事はなかった。
航海中は、誰もが日焼けに苦しんだ。また、上級、下級を問わず、全乗員がシラミにたかられた。シラミによって、発疹チフスが発生する事もあった。東インド貿易船の乗員の内、4分の1余りが発疹チフスによって命を落としたと云う。船内にいる生物はシラミだけでなく、ゴキブリやネズミなどもはびこっていた。新造船であっても、これらの生物はいつの間にか潜り込んで、すぐに繁殖した。
長い単調な航海生活を続けていると、中には精神のバランスを崩す者も現れる。うつ病に罹る者は珍しくなかったし、海中に身を投じる者も中にはいた。その一方で、乗員達は楽しいひと時を過ごす事もあった。穏やかな日には水泳をしたり、イルカの戯れを見たり、夜半には話し上手な人の語りに耳を傾けたりして心を慰めた。赤道を越えた日や船長の誕生日など、特別な日を迎えた時は盛大に祝って、大騒ぎする事もあった。人々にとって、1日3度の食事が何よりも待ち遠しい時間であった。しかし、食事も階級によって差があり、上級船員は下級船員よりも上等なものを食べていた。
航海が長引くと食物や水は徐々に腐ってゆき、そこに虫が湧いていった。赤道付近では、熱で樽が破裂する事もあり、これ幸いと無数の鼠が群がった。保存食のビスケットや堅パンも、大量のゾウムシが発生して、不気味にうごめいていた。乗員達は新鮮な食物を手に入れるため、鶏(にわとり)、ヤギ、豚を主甲板の小屋で飼ったり、野菜を育てたり、魚を釣ったりして工夫した。船内生活では、真水は何よりの貴重品である。しかし、日が経つにつれ、水には藻が繁殖してきて緑色を帯び、小さな虫が繁殖した。乗員達は、ぬるぬるとして異臭を放つ水を、こしてから飲んだ。貴重品な水で体を洗う事など、もちろん出来ない。この水も階級によって分配される量に差が有り、上級の人々の割当量は2倍だった。下級の乗員達は、常に喉の渇きを訴えていた。
オランダから東インドまでの航海には、平均して8ヶ月かかった。条件に恵まれた幸運な船は4ヶ月半ほどで目的地に着いたが、風が凪いで数ヶ月間、まったく動けなくなり、再びオランダに帰り着くのに2年かかった船もあった。東インド会社は、如何なる事情があろうとも、航海の遅延には激しく怒った。17世紀半ば、オランダはアフリカ南端の喜望峰に要塞を築き、ここを船の寄港地とした。往復船はオランダを出て、平均5ヶ月かけて喜望峰に到着すると、ここに3週間ほど滞在して休息を取った。その間、食料物資を補給し、病人を治療するなどした。東インド会社はいち早く目的地に到着した船には報奨金を出したが、大抵の船は喜望峰で快適に過ごす数週間の方を選んだ。喜望峰は水夫達にとって憩いの場であり、ここを大海の酒場と呼んで親しんだ。
船が出港して3~4ヶ月経つと、船乗りが最も恐れる壊血病が発生し始める。この病気はビタミンCの不足によって起こるのであるが、17世紀には、まだその原因は知られていなかった。発症すると、患者の足は腫れあがって痛み、息が臭くなり、歯茎から出血し始める。やがて口が酷く腫れ上がり、壊疽を起こして歯が抜け落ちてゆく。発症してから1ヶ月経つと、患者は酷く苦しみながら死んでいった。東インド貿易船では、喜望峰に着くまでの間、1隻に付き、大抵20人から30人が死亡した。犠牲者がもっと増える場合もあり、船の運航に支障が出る場合もあった。
東インド貿易船はこうした様々な苦労を乗り越えて、東インドに到着する。そして、大量の香辛料を積み込んだ後、長い長い往路を戻ってゆくのだった。
↑バタヴィア号級
このバタヴィア号級は、難破の結果、150人以上が惨殺される事件が起こった事で有名です。
ヨーロッパに住む人々は、古代から肉や魚をよく食していた。その肉や魚を長期間、保存したり、味を引き立たせるには香辛料が不可欠である。しかし、ヨーロッパには香辛料を産出する地域はなく、遠い異国から取り寄せねばならなかった。それは遥か彼方、インドからニューギニア付近にかけての東南アジアにあった。そこから香辛料をヨーロッパに持ち込もうとすれば、アジアやアラビアの陸路を経由せねばならず、その間に価格は元値の百倍に跳ね上がる。それでいて、手に入る量は僅かであった。その為、ヨーロッパ人はより安く、より多くの香辛料を求めて海へと乗り出していく。そして、15世紀後半にポルトガル船がアフリカを回ってインド洋に進出すると、海路を通じて産地から直接、香辛料を仕入れる事が可能になった。
東インドからヨーロッパにまで香辛料を運ぶ航海は非常な困難を伴うが、貿易から得られる冨はその労苦を補って余りある物だった。それから、しばらくはポルトガルとスペインが香料貿易を独占していたが、16世紀後半からは、オランダとイギリスも東インドに進出するようになる。新興勢力のオランダ商人には勢いがあり、多数の商社を結成して船団を東インドに送り出していった。これらの商社は、お互いに競合しながら膨大な利潤を上げていたが、やがて、競争の激化によって貿易の利益率は下がっていった。こうした事態を放置しておけば、共倒れになる恐れが高い。1602年3月20日、そこで、各商社は話し合って、一つの巨大会社を設立する事にした。これが、世界最強の会社とも謳われた、連合東インド会社(略称VOC)の誕生である。
新会社の経営は17人の重役の手に委ねられ、出だしは順風満帆であった。最初の連合船団は巨額の富を会社にもたらしたし、ポルトガルと戦って、重要な香料諸島を奪取せしめたからである。更に東インド会社は、イギリスを東インドから追い出して、香料貿易を独占する事にも成功した。こうして、東インド会社は世界最高の冨と権力を誇る、並び立つ者のいない大企業となった。貿易でもたらされる冨は、いったん東インド会社の金庫に収められた後、出資者に分配されていった。株主には10~20%の配当が毎年、支払われ、時には50%を越える時もあった。出資者の1人、ヤコブという商人は50万ギルダーの財産を築き上げた。
会社の出資者達の懐は、大いに潤っていた。しかし、実際に命懸けで長い航海にたずさわる職員や水夫には、僅かばかりの賃金が支給されるに過ぎなかった。昇級はあったが、年金などは無かった。だが、オランダ本国で働こうにも、安定した仕事にありつくことは難しく、僅かであっても賃金が支払われ、食事、寝床だけは保障されている東インド会社で働く事は、貧しい者にとっては励みとなっていた。ちなみに当時の月給は、上級商務員は80ギルダーで交易の責任者となれば160ギルダー、商務員の中で一番位の低い商務員補佐で24ギルダー、兵卒は9ギルダー、軍曹で18ギルダーだった。当時のオランダでは300ギルダーで家族を1年養う事ができた。
会社で働いていれば、大きな利益を得られる機会は確かに存在した。だが、大金を得る前に早死にする者の方がほとんどだった。東インドに到着したばかりの職員の余命は3年であり、現地に定住して長生きする者はごく僅かであった。熱帯の蒸し暑い気候の下、大勢の者が健康を損ない、マラリア・赤痢を始めとする疫病、熱病に罹って死んでいった。また、会社から厳罰を下されて死ぬ者や、海難事故で命を落とす者や、酒を大量に浴びて命を落とす者も大勢いた。東インド会社の職員となって、無事帰国できる者は大体、3分の1だったと云う。
こういった事情で、東インド会社に応募する者の大抵は窮乏し、切羽詰まって、命の危険を省みずに一山当てようとする者ばかりだった。商務員の中には育ちの良い者もいたが、多くは財産を失った者であった。商務員が仕事で大きな功績を挙げても賞与などは与えられず、働きに見合った賃金が支払われる事はなかった。潤うのは安全な本国にいる経営者達だけであり、正直者でいては馬鹿を見るばかりだった。そのため、商務員達はことごとく不正行為に手を出して、帳簿の改ざん、禁止されていた私的貿易などが日常茶飯事のように行われていた。この様な状況がまかり通っていたにも関わらず、実利を重んじる東インド会社は私貿易の横行を黙認し、まれにしか取締りを行わなかった。
東インド会社もその職員も欲丸出しで皆が金儲けに執心していたが、その下で働く水夫や兵士の多くも柄の悪い荒くれ者揃いだった。彼らは悪態をつき、大騒ぎし、娼婦を買い、殺人を犯すので、上官は厳罰をもって彼らを服従させねばならなかった。粗暴な部下を率いる上官には、何よりも腕っ節の強さを求められた。しかし、こうであっても、船を動かすには相互の信頼と協力が不可欠である。東インド会社の水夫達は度々、問題行動は起こしても、航海を通じて絆を深め、それなりにはまとまっていた。当時の一般認識では、東インド会社で働く人間は社会の最底辺にいる者と見なされていたが、こういった命知らずの人間でなければ務まらない仕事でもあった。
東インドに滞在しているヨーロッパ人女性は、非常に少なかった。そのため、新たにやってくるヨーロッパ女性は航海中から待ち望まれており、美人であろうと不美人であろうと求婚者には事欠けなかった。そのような事情で、東インドで働いているオランダ人男性の大半は現地人女性を妻や、愛人としていた。しかし、オランダ政府は、現地人妻や混血児を本国に連れ帰る事を禁じていたので、オランダ人男性が現地家族と暮らしていこうとすれば、東インドに定住するしかなかった。これには慢性的な人手不足に悩む、東インド会社の思惑もあった。だが、大抵のオランダ人男性は一山当てると、現地家族を捨てて本国に帰っていったようだ。
東インド会社は、最盛期には約200隻の武装商船と1万人の兵士を有しており、東南アジア全域から、日本を含む東アジアにも影響力を及ぼしていた。オランダで最大の収益を誇り、かつ強大な会社であると自他共に認める存在であった。この東インド会社の成功は、オランダに大いなる冨と繁栄を呼び込む。しかし、18世紀に入ると、香料の価値の低下、職員の私利追求、植民地拡大戦争による出費などが経営に重く圧し掛かって来るようになる。そして、1799年、さしもの大会社も破産状態となって解散となり、東インドの経営と支配はオランダ政府の手に委ねられた。オランダ東インド会社は、冨に彩られた華やかな表情の裏で、強欲な醜い一面を持つ組織でもあった。だが、歴史に特筆される大きな存在であった事は間違いない。