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戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
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鳥取城は、鳥取県鳥取市にある山城である。標高263メートルの久松山に築かれていて、総石垣の近世城郭となっているが、山上部には中世山城の遺構も残っている。
鳥取城は、天文年間(1532~1555年)に因幡の守護である山名氏によって築かれた山城である。鳥取城は山名氏の出城として作られたが、次第に拡張され、因幡の主城と目されるようになる。山名氏は名門の出で、かつては山陰の大勢力であったが、山名豊国(1548~1626)の代には毛利氏に屈し、その傘下に入る。しかし、天正8年(1580年)より、織田家の勢力が山陰にまで及んでくると、豊国は織田家に鞍替えしようとする。すると、それに反発した山名家重臣、森下道与、中村春続らによって、豊国は鳥取城から追放されてしまった。そして、森下、中村らは、毛利家の重鎮、吉川元春に新たな城主の派遣を請うた。当時の吉川元春は、毛利家の山陰方面を統括していた。
天正9年(1581年)3月、元春は、この山名重臣の要請に応じ、吉川一門から、良将として名高い吉川経家を鳥取城に派遣した。経家は出陣するにあたって所領を子息に譲っており、死を覚悟の上での出陣であった。織田家の部将、羽柴秀吉による山陰攻めは間近に迫っており、経家は城に到着するや、直ちに篭城の準備に取り掛かった。だが、経家は城内を見廻して、兵糧備蓄の少なさに愕然とする。これは、秀吉が予め、高値をもって因幡の米を買い占めていた結果であった。
経家は上方に間者を送るなどして、情報収集に務めた結果、上方の軍勢が襲来するのは7月頃であると分析した。そして、上方の軍は、積雪の厳しい山陰の冬が到来する11月頃には撤退すると読んで、自身は翌年の3月までは篭城する決意でいた。これは見事な読みであったが、その篭城の裏付けとなる兵糧が絶対的に足りなかった。しかも配下の因幡武士からは、兵糧を求める不満の声が挙がって、城内に不穏な空気が漲っていた。経家は自ら説得して回り、城内の意思統一に務めつつ、幾度となく本国に兵糧輸送を打診した。しかし、元春は、備前の戦国大名、宇喜多直家との戦いに忙殺され、なかなか支援に応じる事が出来なかった。
それに鳥取城と元春の本拠、出雲との間には、織田方の羽衣石城が立ちはだかっていた。羽衣石城主の南条元続は、当初、毛利家に従っていたが、織田家の勢力が山陰にまで伸びてくると、これに鞍替えしたのである。そのため、陸路からの兵糧輸送は困難で、海路を用いる以外に手はなかった。対宇喜多戦での兵糧消耗に加え、羽衣石城による兵糧輸送の妨害もあって、元春は鳥取城への支援を後回しにする。この頃、経家は実家の家臣宛てに手紙を出しており、その中で、兵糧さえあれば全ての問題は解決するのにと嘆きの声を上げている。そうこうしている内に、秀吉軍の侵攻が始まった。
天正8年(1581年)6月25日、秀吉は姫路城を出立し、経家の読み通り、7月7日に鳥取表に到着する。そして、鳥取城東方の山に本陣を置くと、約12キロに渡って土塁や柵を廻らし、徹底的な封鎖を試みる。鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)と云う山全体を城域としており、麓にも二つの出城がある大要害であった。このような城に力攻めを加えるのは愚の骨頂であり、秀吉は最初から兵糧攻めにする心積もりであった。この時、秀吉軍の戦力は2万人余で、鳥取城の戦力は、将兵1千人に非戦闘員2千人の合わせて3千人余であった。非戦闘員2千人は秀吉軍によって追い立てられ、城に逃げ込んだ民衆であった。
篭城が始まって1ヶ月余、城内では早くも飢餓が始まった。7月、吉川経家の父、経安は息子の苦闘を案じ、元春に銀子100枚を献上して、鳥取城への兵糧輸送を懇願する。これを受けて、元春はようやく本腰を上げて兵糧輸送に取り掛かった。元春は、名将と讃えられているが、この対応の遅さには疑問を感じざるを得ない。元春は石見銀山を押さえていたはずであるが、それでも財政は火の車であったのであろうか。一方、秀吉の方でも兵糧不足が深刻化しており、信長に願い出て、兵糧輸送を頼み出ている。天正8年(1581年)8月半ば、海路を通じて織田本国からの兵糧が秀吉の元に届いた。それから程なくして、元春からの兵糧を満載した船団も鳥取城の沖合いに現れた。ところが毛利船団は、丁度、兵糧を積み降ろして身軽になった織田船団とぶつかってしまい、無残な敗北を喫してしまう。これで、海上からの鳥取城への補給の見込みは、完全に無くなった。
元春は今度は、陸路から鳥取城を救わんと進撃したが、その途上、南条元続が篭る羽衣石城で足止めされてしまう。経家は、この元春の軍が駆け付けてくれる事を信じて篭城を続けた。鳥取城では兵糧が尽きると、人々は始めは草木の葉や稲株を食した。やがてそれらも尽きると、今度は牛馬を裂いて食した。それも無くなると、ぽつぽつと餓死者が出始める。そして、幽鬼の如く痩せ衰えた男女は、包囲軍の柵に取りすがり、泣いて助命を乞うた。だが、秀吉は、それに対して火縄銃の射撃で応じた。弾を受けて倒れた者に、痩せ衰えた人々が群がり寄せ、刃物を手に取って、争って肉を食い漁る様は、まさに地獄絵図であった。特に頭部は奪い合いになったと云う。この世のものとは思えない惨状を目の当たりにして、経家は開城を決した。
経家は自らの切腹をもって、城内全ての人々の助命を請うた。これに対して秀吉は、雇われ城主である経家に責任は問わず、切腹すべきは、山名家の重臣でありながら主を追い出した森下道与、中村春続の2人にあると答えた。だが、経家はあくまで責任は自分1人にあると主張し、森下道与、中村春続らを庇ったため、交渉は難航する。同年10月24日、森下道与、中村春続は自分達の存在が、経家と篭城者を苦しめていると感じ、切腹して果てた。これを受けても経家は、篭城の総責任者として切腹する心積もりは変わらなかった。
経家は切腹を前にして、父と子宛てに遺書を残している。これは、経家が父、経安に宛てた遺書である。
「去る7月12日、羽柴秀吉が鳥取城に攻め寄せてまいりました。昼夜200日余に渡って堅固に城を守ってきたものの、今に至っては兵糧も尽き果てました。この上は、私が腹を切り、諸人の命を助けたいと存じます。それによって、吉川一門の名誉ともなるでしょう」
200日余と云うのは、経家が3月に入城した時からの日数である。開城した後、経家は行水で体を清め、死に装束を身にまとうと、具足の前に正座する。そして、時世の句を書き記し、別れの杯を飲み干した。それを終えると、別室に控える秀吉の検使に、「突然の事ゆえ、無調法があるやもしれません」と大声で呼びかけ、2、3高笑いを残すと、腹を真一文字に切って果てた。吉川経家、享年35。
天正8年(1581年)10月25日、吉川経家と森下道与、中村春続の首は秀吉の陣所へと届けられた。これによって、3ヶ月に渡っての鳥取城の篭城は終わりを告げる。過酷な篭城から解放され、痩せ衰えた人々が城からよろめき出るのを見て、包囲軍は炊き出しを振舞った。しかし、弱った胃に急に大量の食物を流し込んだため、大勢の者が死んでしまう。戦後、鳥取城では、雨の夜の日にはうめき声が聞こえるとか、幽鬼が現れるといった噂が流れた。
鳥取城は、その後、秀吉の部将であった宮部継潤とその子、長房の居城となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦において、長房は西軍に付いたため、改易となった。代わって入封したのは、池田輝政の弟、長吉で、この時に鳥取城は近世城郭に改められた。元和3年(1617年)、池田輝政の孫、光政が32万5千石で入封する。以後代々、鳥取城は池田家の居城として用いられると共に、増改築されていった。明治の世を迎えると、鳥取城も他の例に漏れず、順次、取り壊されていった。現在、鳥取城は地元の人々の憩いの場所として賑わっている。しかし、その光の影には、暗い歴史も埋もれている。
↑鳥取城全景
↑山麓の石垣
↑山上部にある古井戸の跡
土砂に埋もれていますが、今でも水が滲みだしています。鳥取城の攻防戦時には、篭城者の喉を潤す命の水だったのでしょう。
↑山上部の石垣
↑山上二の丸
ここまで来るのに、30~40分ばかり掛かりました。結構、きつい登山でした。
↑鳥取城からの眺め
鳥取市内を望みます。
↑鳥取城からの眺め
麓を流れる川は、千代川です。かつてはあの河口付近で、織田、毛利の水軍の激突がありました。
↑鳥取城からの眺め
鳥取砂丘が見えます。
↑鳥取城からの眺め
鳥取城東方の山です。峰々には秀吉軍の陣所がありました。
↑本丸跡
奥には天守台の跡があります。戦国期の鳥取城は、この山上が主城だったので、鳥取城の攻防戦時には、ここに吉川経家らが篭っていたのでしょう。そして、経家が篭城者の命を助けるために、切腹した場所もおそらくこの辺りでしょう。
古代地中海世界、そこは当時、世界有数の政治、経済、文化先進地であった。紀元前3世紀、この世界はイタリアの新興国ローマと、北アフリカの経済大国カルタゴとに二分されていた。だが、両雄並び立たずのことわざ通り、紀元前264年、両大国は地中海世界の覇権を賭けて、戦争状態に入った。第一次ポエニ戦争の勃発である。この戦いは足掛け23年に渡る消耗戦となったが、最終的には底力のあるローマの勝利に終わった。敗北したカルタゴには多額の賠償金と領土の割譲が課せられ、これで地中海世界の覇権はローマの手に渡ったかに見えた。
だが、紀元前219年になるとカルタゴは再び復興し、ローマの覇権に挑戦する。第二次ポエニ戦争の始まりである。そして、紀元前218年5月、スペインのカルタヘーナから、29歳の若き司令官率いる大軍団が、遥かローマを目指して進軍を開始した。このカルタゴの若き司令官こそ、現在にまでその名を轟かせる名将、ハンニバルその人である。スペインからローマに向かうには、海路を用いるのが最も手っ取り早い。しかし、イタリア周辺の制海権は、優勢なローマ海軍の手にあった。それでもローマに攻め入らんとすれば、ガリア(フランス)を横断し、アルプスも越えて、北からイタリア半島に攻め入るしかなかった。少人数ならともかく、大量の兵士、馬、象、荷車などを引き連れてのアルプス越えは、想像を絶する難事である。
だが、ハンニバルは情報収集に努めた結果、アルプス越えは決して不可能ではないと計算していた。ハンニバルはまず、ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)に入る。この時点でハンニバルが率いていた戦力は歩兵5万と騎兵9千、戦象37頭であった。カルタゴ軍ピレネーを越えるとの報を得て、ローマは緊張する。ローマ側は、ガリア南部にあるローマ同盟都市が攻撃されると予想して、そこに軍団を送り込んだ。まさか、敵がアルプスを越えてイタリア半島に直接攻め入ろうとしているなど、考えにも及ばなかったのである。
ハンニバルは、ローマ軍の探索の目から逃れるため、フランス内陸部の森林地帯を突き進んでいった。このため、ローマはハンニバルの行方を見失う。当時のフランスは森と沼に覆われた未開の地で、勇猛なガリア人が数多くの部族に分かれて居住していた。彼らは決して、友好的ではなかった。ハンニバルはある時は金で懐柔し、ある時は武力をもってガリア人の地を踏破して行く。そして、ハンニバルは、アルプスを源流とするローヌ河まで達した。だが、5万もの大軍を渡河させるのは、これまた難事業で、しかも、その時にローマ軍に襲われればひとたまりもない。
ハンニバルはローヌの下流に斥候隊を派遣し、ローマ軍の襲来を警戒しつつ、困難な渡河作業に入る。その間は、無防備と言っても良い。そして、渡河の最中、ハンニバルの出した斥候隊は、下流でローマ軍の斥候部隊と衝突し、その意図を悟られてしまう。ローマ軍は直ちにローヌ上流を目指して急行したが、3日の差で取り逃がした。ここに至って、ローマも敵がアルプス越えを企図していると気付き、尋常ならざる相手であると悟ったのだった。ハンニバルは危地を脱したものの、水量豊富なローヌを渡る際、多くの兵士を失った。このガリア横断とローヌ渡河で、カルタゴ軍は1万3千人を失った。残りは4万6千人である。
紀元前218年9月、カルタゴ軍はアルプスの麓に達する。ハンニバルはアルプス周辺のガリア部族を懐柔し、アルプスの情報を聞き出した。そして、ハンニバルは通過可能な地点を見定めると、ついにアルプス越えを決行する。だが、山岳に住んでいるガリア人達は敵対的であった。山岳民は、カルタゴ軍に度々襲撃を加え、岩を投げ落とし、矢を射かけて来る。そのためハンニバルは、山岳民が初めて見るであろう象を先頭に立てて、威圧しながら坂を登っていった。しかし、その象も慣れない環境で度々、暴れたり、その場から動こうとしなくなる。兵士達はその度に象をなだめすかし、総出で引っ張り上げねばならなかった。
9月のアルプスはすでに冬に入っており、路面には雪が降り積もっていた。しばしば、足を踏み外した兵士、象、馬が悲痛な叫び声と共に谷底に消えていった。また、疲労と寒さで、命を失う者も絶えなかった。山中に満足な宿営地などあるはずも無く、兵士達は陣幕を体に巻き付けて、震えながら夜を明かさねばならなかった。ハンニバルも兵士達と同じく、粗末な食事を取り、寒さに耐えながら夜を明かす。そして、この難航軍を、強靭な意志と指導力によって推進していった。9日後、カルタゴ軍はようやく峠に達したが、兵士達は心身共に疲れ切っていた。ここで、ハンニバルは兵士達を集める。そして、眼下に広がるイタリア半島を指差しながら、「見よ、あそこはもうイタリアだ。我々は、これから全イタリアの主人になるのだ!」と激励した。これを聞いた兵士達は、たちまち奮い立った。
15日後、ついにカルタゴ軍はアルプスを踏破し、北イタリアに達した。スペインを出てから4ヶ月余り、ここまで来るのに3万3千人もの兵士を失っていた。戦力は半減し、歩兵2万、騎兵6千、象20頭余になっていた。それから程なくして、北イタリアに居住する反ローマのガリア人がカルタゴ軍に参集し、合計3万8千人になったものの、ハンニバルはこれだけの戦力で、最大動員力28万人、同盟都市の戦力も合わせれば、合計75万人もの動員力があるローマに挑まねばならないのである。この強大なローマに打ち勝つには、その軍を各個撃破していって威信を失墜させ、同盟諸国の離反を図るしかない。そして最後に、孤立させたローマを落とす。これがハンニバルの基本戦略であった。
この後、ハンニバルはイタリア半島を南下し、その卓越した戦術能力と優勢な騎兵戦力を生かして、ローマ軍を次々に撃ち破っていった。そして、イタリア各地を略奪し、焼き払った。勢力を強めたハンニバルとその軍は最大5万人となり、一時はイタリア南部の大部分を支配下に治めて、ローマを存亡の危機に立たせた。だが、ハンニバルにとって最大の誤算は、ローマから離反する同盟都市が少なかった事である。既にイタリア全土がローマの統治を受け入れて時久しく、都市国家群の多くは、ローマこそイタリアを代表する勢力と見なしていた。そのローマの危機は全イタリアの危機と捉えて、都市国家の多くが利害を乗り越えて一致団結した結果であった。
こうした同盟都市の援助があって、大打撃を被りながらもローマは尚も戦い続ける事が出来たのだった。それだけでなく、頭脳たる、ローマ元老院の戦略指導も優秀だった。強力なハンニバルに対しては主力を差し向けて持久戦に持ち込み、じりじりとイタリアのつま先に追い込んだ。その上で、一軍を割いてハンニバルの策源地であるスペインに攻め入らせたのである。この軍を率いるのは、ローマの新星スキピオであった。ローマ市民の期待を一身に背負ったこの若き将は、期待以上の働きを示し、寡兵をもってスペインを平定すると、更に北アフリカのカルタゴ本国まで攻め入った。
危機に陥ったカルタゴ本国から帰還命令がもたらされ、ハンニバルは16年に渡って転戦してきたイタリアを離れる事になった。この時、ハンニバルは44歳になっていた。片目を失明し、2人の弟も戦死していた。ハンニバルの軍は3万人に減っており、この内、彼がスペインから率いてきた古参兵は8千人であったと云う。一方ローマの方も、この第二次ポエニ戦争中、10万人を越える戦死者と10人を越える司令官の戦死を出しており、青年男子層の人口減少をもたらすほどの被害を受けていた。その死者の大半が、ハンニバルとの戦闘によるものだった。
ここで、ハンニバルの人となりを述べてみる。紀元前247年、ハンニバルは、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの長子として生まれる。父ハミルカルは、第一次ポエニ戦争でローマ相手に大いに活躍した優秀な指揮官だった。しかし戦争自体はカルタゴの敗北に終わり、その結果、カルタゴには多額の賠償金が課せられると供に、多くの海外領土を失った。戦後も無念の思いが消えないハミルカルは、スペインに新天地を求めた。この時、9歳になっていたハンニバルも同行を願ったが、父は息子に「一生ローマを敵として戦う」と誓わせた上で同行を許したと云う。以後、ハンニバルはスペインの地で成長を重ねつつ、ローマ打倒の機会を窺った。そして、紀元前218年、父以来の念願を果たすべく、ローマへと向かったのである。
ハンニバルは、厳格で誇り高い人物だった。どのような苦境にあっても、無言でそれを耐えた。冷徹な一面があり、戦略のためにイタリア各地を略奪放火し、捕虜としたローマ兵を容赦なく斬る事も辞さなかった。兵士達に気軽に話し掛ける様な人物ではなかったが、彼は一兵士と同様の食事を取り、睡眠も一兵士と同様、マントにくるまって地面に寝た。遠征カルタゴ軍だけでなく、全カルタゴの命運もハンニバル1人の双肩にかかっていると言っても過言では無く、その責任の重さは計り知れなかった。多くの問題は1人で処理せねばならず、ハンニバルが休息するのは、それを終えた後の僅かな時間だった。
兵士達は、ハンニバルが寝ている側を通る時には、武器の音が鳴らないよう気遣った。ハンニバルの軍は、アフリカ、スペイン、ガリア、イタリアからの傭兵で成りたっていて、お互い言葉も満足に通じ合わなかった。だが、彼らに共通していたのは、この孤高の司令官に対する、深い畏敬の念だった。ローマ軍の反撃によって、イタリア半島のつま先に押し込まれ、満足に報酬が得られなくなっても、傭兵達がハンニバルを見捨てる事はなかった。いよいよ、イタリアを離れる時が来た。だが、船舶の不足で、3万の兵士全てを北アフリカに連れて行く事は出来なかった。
ハンニバルはこの内、スペイン以来の古参兵8千人を含む、1万5千人を選抜して帰還に取り掛かった。残される兵士達はローマの報復を恐れ、共に連れて行ってくれるよう懇願して、船に取りすがった。しかし、ハンニバルにこの願いを聞き入れる事は出来ず、船の沈没を防ぐため、取りすがる兵に向けて矢を射させたと云う。ハンニバルは冷徹な命令を発したが、内心は断腸の思いであったろう。紀元前203年、ハンニバルはカルタゴ南方にあるハドゥルメントゥムに上陸した。9歳でカルタゴを出てから、実に35年振りの帰国であった。そして、翌年春のローマとの決戦に向けて、冬営に入る。そのハンニバルの元へ、首都カルタゴから増援が差し向けられた。
紀元前202年春、北アフリカ、ザマの大地で、稀代の名将ハンニバル率いるカルタゴ軍5万と、ローマの新星スキピオ率いるローマ軍4万が、国家の命運を賭けて激突する。カルタゴ軍の方が総数は勝っていたが、騎兵戦力ではカルタゴ軍4千に対し、ローマ軍6千と劣っていた。そして、この決戦は、優勢な騎兵戦力を生かしたスキピオ率いるローマ軍の完勝に終わった。第二次ポエニ戦争はハンニバルの攻撃から始まり、その敗北で幕を閉じた。そして、この戦いで、長年死線を共に乗り越えてきた、戦友とも言える古参兵達も全滅した。ハンニバル自身はこの戦いを生き延びたものの、彼らの死によって、ハンニバルの遠征も終りを告げたのだった。
↑ハンニバル・バルカ