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ハンニバルの大遠征

2010.09.10 - 歴史秘話 其の一

古代地中海世界、そこは当時、世界有数の政治、経済、文化先進地であった。紀元前3世紀、この世界はイタリアの新興国ローマと、北アフリカの経済大国カルタゴとに二分されていた。だが、両雄並び立たずのことわざ通り、紀元前264年、両大国は地中海世界の覇権を賭けて、戦争状態に入った。第一次ポエニ戦争の勃発である。この戦いは足掛け23年に渡る消耗戦となったが、最終的には底力のあるローマの勝利に終わった。敗北したカルタゴには多額の賠償金と領土の割譲が課せられ、これで地中海世界の覇権はローマの手に渡ったかに見えた。


だが、紀元前219年になるとカルタゴは再び復興し、ローマの覇権に挑戦する。第二次ポエニ戦争の始まりである。そして、紀元前218年5月、スペインのカルタヘーナから、29歳の若き司令官率いる大軍団が、遥かローマを目指して進軍を開始した。このカルタゴの若き司令官こそ、現在にまでその名を轟かせる名将、ハンニバルその人である。スペインからローマに向かうには、海路を用いるのが最も手っ取り早い。しかし、イタリア周辺の制海権は、優勢なローマ海軍の手にあった。それでもローマに攻め入らんとすれば、ガリア(フランス)を横断し、アルプスも越えて、北からイタリア半島に攻め入るしかなかった。少人数ならともかく、大量の兵士、馬、象、荷車などを引き連れてのアルプス越えは、想像を絶する難事である。


だが、ハンニバルは情報収集に努めた結果、アルプス越えは決して不可能ではないと計算していた。ハンニバルはまず、ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)に入る。この時点でハンニバルが率いていた戦力は歩兵5万と騎兵9千、戦象37頭であった。カルタゴ軍ピレネーを越えるとの報を得て、ローマは緊張する。ローマ側は、ガリア南部にあるローマ同盟都市が攻撃されると予想して、そこに軍団を送り込んだ。まさか、敵がアルプスを越えてイタリア半島に直接攻め入ろうとしているなど、考えにも及ばなかったのである。


ハンニバルは、ローマ軍の探索の目から逃れるため、フランス内陸部の森林地帯を突き進んでいった。このため、ローマはハンニバルの行方を見失う。当時のフランスは森と沼に覆われた未開の地で、勇猛なガリア人が数多くの部族に分かれて居住していた。彼らは決して、友好的ではなかった。ハンニバルはある時は金で懐柔し、ある時は武力をもってガリア人の地を踏破して行く。そして、ハンニバルは、アルプスを源流とするローヌ河まで達した。だが、5万もの大軍を渡河させるのは、これまた難事業で、しかも、その時にローマ軍に襲われればひとたまりもない。


ハンニバルはローヌの下流に斥候隊を派遣し、ローマ軍の襲来を警戒しつつ、困難な渡河作業に入る。その間は、無防備と言っても良い。そして、渡河の最中、ハンニバルの出した斥候隊は、下流でローマ軍の斥候部隊と衝突し、その意図を悟られてしまう。ローマ軍は直ちにローヌ上流を目指して急行したが、3日の差で取り逃がした。ここに至って、ローマも敵がアルプス越えを企図していると気付き、尋常ならざる相手であると悟ったのだった。ハンニバルは危地を脱したものの、水量豊富なローヌを渡る際、多くの兵士を失った。このガリア横断とローヌ渡河で、カルタゴ軍は1万3千人を失った。残りは4万6千人である。


紀元前218年9月、カルタゴ軍はアルプスの麓に達する。ハンニバルはアルプス周辺のガリア部族を懐柔し、アルプスの情報を聞き出した。そして、ハンニバルは通過可能な地点を見定めると、ついにアルプス越えを決行する。だが、山岳に住んでいるガリア人達は敵対的であった。山岳民は、カルタゴ軍に度々襲撃を加え、岩を投げ落とし、矢を射かけて来る。そのためハンニバルは、山岳民が初めて見るであろう象を先頭に立てて、威圧しながら坂を登っていった。しかし、その象も慣れない環境で度々、暴れたり、その場から動こうとしなくなる。兵士達はその度に象をなだめすかし、総出で引っ張り上げねばならなかった。


9月のアルプスはすでに冬に入っており、路面には雪が降り積もっていた。しばしば、足を踏み外した兵士、象、馬が悲痛な叫び声と共に谷底に消えていった。また、疲労と寒さで、命を失う者も絶えなかった。山中に満足な宿営地などあるはずも無く、兵士達は陣幕を体に巻き付けて、震えながら夜を明かさねばならなかった。ハンニバルも兵士達と同じく、粗末な食事を取り、寒さに耐えながら夜を明かす。そして、この難航軍を、強靭な意志と指導力によって推進していった。9日後、カルタゴ軍はようやく峠に達したが、兵士達は心身共に疲れ切っていた。ここで、ハンニバルは兵士達を集める。そして、眼下に広がるイタリア半島を指差しながら、「見よ、あそこはもうイタリアだ。我々は、これから全イタリアの主人になるのだ!」と激励した。これを聞いた兵士達は、たちまち奮い立った。


15日後、ついにカルタゴ軍はアルプスを踏破し、北イタリアに達した。スペインを出てから4ヶ月余り、ここまで来るのに3万3千人もの兵士を失っていた。戦力は半減し、歩兵2万、騎兵6千、象20頭余になっていた。それから程なくして、北イタリアに居住する反ローマのガリア人がカルタゴ軍に参集し、合計3万8千人になったものの、ハンニバルはこれだけの戦力で、最大動員力28万人、同盟都市の戦力も合わせれば、合計75万人もの動員力があるローマに挑まねばならないのである。この強大なローマに打ち勝つには、その軍を各個撃破していって威信を失墜させ、同盟諸国の離反を図るしかない。そして最後に、孤立させたローマを落とす。これがハンニバルの基本戦略であった。


この後、ハンニバルはイタリア半島を南下し、その卓越した戦術能力と優勢な騎兵戦力を生かして、ローマ軍を次々に撃ち破っていった。そして、イタリア各地を略奪し、焼き払った。勢力を強めたハンニバルとその軍は最大5万人となり、一時はイタリア南部の大部分を支配下に治めて、ローマを存亡の危機に立たせた。だが、ハンニバルにとって最大の誤算は、ローマから離反する同盟都市が少なかった事である。既にイタリア全土がローマの統治を受け入れて時久しく、都市国家群の多くは、ローマこそイタリアを代表する勢力と見なしていた。そのローマの危機は全イタリアの危機と捉えて、都市国家の多くが利害を乗り越えて一致団結した結果であった。


こうした同盟都市の援助があって、大打撃を被りながらもローマは尚も戦い続ける事が出来たのだった。それだけでなく、頭脳たる、ローマ元老院の戦略指導も優秀だった。強力なハンニバルに対しては主力を差し向けて持久戦に持ち込み、じりじりとイタリアのつま先に追い込んだ。その上で、一軍を割いてハンニバルの策源地であるスペインに攻め入らせたのである。この軍を率いるのは、ローマの新星スキピオであった。ローマ市民の期待を一身に背負ったこの若き将は、期待以上の働きを示し、寡兵をもってスペインを平定すると、更に北アフリカのカルタゴ本国まで攻め入った。


危機に陥ったカルタゴ本国から帰還命令がもたらされ、ハンニバルは16年に渡って転戦してきたイタリアを離れる事になった。この時、ハンニバルは44歳になっていた。片目を失明し、2人の弟も戦死していた。ハンニバルの軍は3万人に減っており、この内、彼がスペインから率いてきた古参兵は8千人であったと云う。一方ローマの方も、この第二次ポエニ戦争中、10万人を越える戦死者と10人を越える司令官の戦死を出しており、青年男子層の人口減少をもたらすほどの被害を受けていた。その死者の大半が、ハンニバルとの戦闘によるものだった。


ここで、ハンニバルの人となりを述べてみる。紀元前247年、ハンニバルは、カルタゴの将軍ハミルカル・バルカの長子として生まれる。父ハミルカルは、第一次ポエニ戦争でローマ相手に大いに活躍した優秀な指揮官だった。しかし戦争自体はカルタゴの敗北に終わり、その結果、カルタゴには多額の賠償金が課せられると供に、多くの海外領土を失った。戦後も無念の思いが消えないハミルカルは、スペインに新天地を求めた。この時、9歳になっていたハンニバルも同行を願ったが、父は息子に「一生ローマを敵として戦う」と誓わせた上で同行を許したと云う。以後、ハンニバルはスペインの地で成長を重ねつつ、ローマ打倒の機会を窺った。そして、紀元前218年、父以来の念願を果たすべく、ローマへと向かったのである。


ハンニバルは、厳格で誇り高い人物だった。どのような苦境にあっても、無言でそれを耐えた。冷徹な一面があり、戦略のためにイタリア各地を略奪放火し、捕虜としたローマ兵を容赦なく斬る事も辞さなかった。兵士達に気軽に話し掛ける様な人物ではなかったが、彼は一兵士と同様の食事を取り、睡眠も一兵士と同様、マントにくるまって地面に寝た。遠征カルタゴ軍だけでなく、全カルタゴの命運もハンニバル1人の双肩にかかっていると言っても過言では無く、その責任の重さは計り知れなかった。多くの問題は1人で処理せねばならず、ハンニバルが休息するのは、それを終えた後の僅かな時間だった。


兵士達は、ハンニバルが寝ている側を通る時には、武器の音が鳴らないよう気遣った。ハンニバルの軍は、アフリカ、スペイン、ガリア、イタリアからの傭兵で成りたっていて、お互い言葉も満足に通じ合わなかった。だが、彼らに共通していたのは、この孤高の司令官に対する、深い畏敬の念だった。ローマ軍の反撃によって、イタリア半島のつま先に押し込まれ、満足に報酬が得られなくなっても、傭兵達がハンニバルを見捨てる事はなかった。いよいよ、イタリアを離れる時が来た。だが、船舶の不足で、3万の兵士全てを北アフリカに連れて行く事は出来なかった。


ハンニバルはこの内、スペイン以来の古参兵8千人を含む、1万5千人を選抜して帰還に取り掛かった。残される兵士達はローマの報復を恐れ、共に連れて行ってくれるよう懇願して、船に取りすがった。しかし、ハンニバルにこの願いを聞き入れる事は出来ず、船の沈没を防ぐため、取りすがる兵に向けて矢を射させたと云う。ハンニバルは冷徹な命令を発したが、内心は断腸の思いであったろう。紀元前203年、ハンニバルはカルタゴ南方にあるハドゥルメントゥムに上陸した。9歳でカルタゴを出てから、実に35年振りの帰国であった。そして、翌年春のローマとの決戦に向けて、冬営に入る。そのハンニバルの元へ、首都カルタゴから増援が差し向けられた。


紀元前202年春、北アフリカ、ザマの大地で、稀代の名将ハンニバル率いるカルタゴ軍5万と、ローマの新星スキピオ率いるローマ軍4万が、国家の命運を賭けて激突する。カルタゴ軍の方が総数は勝っていたが、騎兵戦力ではカルタゴ軍4千に対し、ローマ軍6千と劣っていた。そして、この決戦は、優勢な騎兵戦力を生かしたスキピオ率いるローマ軍の完勝に終わった。第二次ポエニ戦争はハンニバルの攻撃から始まり、その敗北で幕を閉じた。そして、この戦いで、長年死線を共に乗り越えてきた、戦友とも言える古参兵達も全滅した。ハンニバル自身はこの戦いを生き延びたものの、彼らの死によって、ハンニバルの遠征も終りを告げたのだった。



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↑ハンニバル・バルカ




 

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小谷城の攻防 後

2010.09.05 - 戦国史 其の二
岐阜に在った信長は、山本山城が降ると知るや、なんと報を得た8月8日の夜半の内に出陣する。そして、続々と追い慕って来る軍勢の集結を待って、8月10日には小谷城を囲んだ。このあたりの信長の迅速な決断と用兵は、さすがと言わざるを得ない。この時の織田軍の兵数は不明であるが、主だった部将を総動員している事から、3万人は超えていただろう。信長は今度こそ、決着を付ける決意であった。



「信長公記」によれば、朝倉義景も2万人余を引き連れて救援に駆けつけたとあるが、「朝倉記」によれば、義景に次ぐ実力者であった朝倉景鏡や、重臣の魚住景固らが連年の出兵の負担に耐えかねて参陣を拒否したとあるので、実数は1万人余だったのではないか。朝倉軍は劣勢で、しかも小谷城は既に織田軍の重囲にあって、近寄る事も出来ず、小谷北方にある田部山(田上山)に陣取らざるを得なかった。小谷城には大嶽(おおずく)と呼ばれる、本城よりも高所に築かれた砦がある。この大嶽は小谷城の背面を守る要であり、朝倉家との連絡線でもあった。だが、その大嶽の北面にある焼尾砦の将、浅見対馬守は浅井家を見限って、信長に内通を打診する。これを受けて、信長は焼尾砦からの大嶽攻略を企図した。



8月12日夜半、大雨が降りしきる中、信長は自ら馬廻りの者を率いて焼尾砦に入ると、そこから大嶽に夜襲を仕掛けた。大嶽には5百人余の朝倉軍が守っていたが、不意を突かれて、たちまち降伏に追い込まれる。信長はこの降兵を朝倉本陣に向けて解き放ち、現在、朝倉軍が圧倒的不利な状況に置かれている事を知らしめた。これを受けて義景は戦意を喪失し、撤兵するに違いないと信長は見込んだ。そして、無防備な背後を晒した瞬間、間髪入れずに襲うと決めた。翌8月13日、信長は大獄に続いて、小谷城の麓近くにある丁野、中島といった砦を奪取した。これで、小谷城は外部と遮断され、完全に孤立する。8月13日夜半、朝倉義景はこの情勢を見て、小谷救援の望みは断たれた、または既に小谷城は落城したと判断し、越前に撤退を開始した。だが、信長はこの瞬間を見逃さなかった。



信長は自ら先頭に立って朝倉軍を急追すると、刀根坂において捕捉、朝倉軍数千人余を討ち取って完勝した。信長は、義景の心胆を完全に見抜いていたとしか言えない。信長はそのまま越前に侵攻し、義景に立ち直る隙も与えず、8月20日に自害に追い込んだ。朝倉家の滅亡をもって浅井家の運命は極まり、長政も覚悟を決める。8月26日、越前から舞い戻った信長は、続いて浅井家に止めを刺すべく小谷城前面の虎御前山に着陣した。この頃、小谷城では、その運命を見越して逃れ出る者が絶えなかった。だが、その一方で、少数だが最後まで浅井家に忠実たらんとする者もいた。篭城の最中、長政とその父、久政はそういった忠義の士に報いんとして、感謝の意を込めた感状を与えている。それらの感状の中には土地を与えんとの文言があったが、最早、長政にはそのような土地は無かった。受け取る者も空手形に終わると分かっていたが、主君からの感謝の意と名誉だけを受け取ったのだった。



8月27日夜半、小谷城の京極丸を守備する部将、浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊ら3人がこの期に及んで織田方に通じ、秀吉の部隊を迎え入れた。このため、長政が守る本丸と、久政が守る小丸とが分断される。そして、秀吉は占領した京極丸を基点に、その一段上にある小丸に攻撃を集中した。久政は防戦に努めたものの、衆寡敵せず、最後を悟って郭内に入った。久政は家臣と決別の杯を交わすと、鶴松太夫と云う舞楽をもって仕えていた者に、逃れ出るよう促した。だが、鶴松太夫は武士でないにも関わらず、最後までお供致しますと述べ、その言葉通り久政の介錯を勤めた末、切腹して果てたのだった。後に人々は、鶴松は名を小谷に上げしと称えた。



8月28日、信長は自ら京極丸に上り、長政の篭る本丸攻撃に望んだ。だが、この28日前後、信長は、長政に降伏を促す使者を送ったらしい。信長は裏切られたとは云え、長政の武将としての器量は高く買っており、数度に渡って使者を送ったと云われている。長政も心が揺れ、父、久政が存命ならばこれに応じる事も考えたようだ。しかし、織田方が久政の死を隠していたと知ると、最後まで戦う覚悟に変わった。8月28日夜半、長政は、妻、お市の方と茶々、お初、お江与の3人の娘を城から送り出す。お市と3人の娘は今生の別れを惜しんだが、長政にはこれで思い残すものはなくなった。翌8月29日、織田軍の総攻撃が始まるも、長政とそれに殉ずる覚悟を決めている将兵の奮戦もあって、本丸は尚も持ち堪えた。



この29日、長政は、戦国大名として最後となる感状を家臣の片桐孫右衛門直貞に与えている。この直貞は、豊臣秀頼の傅役(もりやく)として仕えた片桐且元の父に当たる人物である。長政の感状を要約して載せる。

「思いもよらぬ成り行きで、当城も本丸一つを残すのみとなってしまった。不自由な篭城の中にあっても、忠節を全うせんとするそなたの覚悟には、感謝の念しか覚えない。特に、皆が次々に城から抜け出していく中、そなたは変わりなく尽くしてくれている。とても言葉では言い尽くせない」

直貞は、この書を名誉の証として懐に入れ、主君の最期の戦いに臨んだと思われるが、生き延びて、天正19年(1591年)に死去した模様である。 この感状は、現代にまで伝えられている。



9月1日、長政は本丸から打って出て、前面の織田軍と尚も激闘を続けていたが、後方の織田軍が本丸に雪崩れ込んで来て、中に入る事は出来なくなった。長政は最早これまでと定め、敵の手にかかるよりは自刃して果てんと、本丸東下にある赤尾清綱の屋敷に入った。百人余の近臣達が防戦して時間を稼ぐ中、長政は腹をかき切り、29年の生涯を閉じた。そして、多くの近臣も主君の後を追って、切腹して果てていった。小谷城には当初、3千人余が篭っていたと見られるが、その多くは逃れ去った。だが、7百人余りの将兵は、最後まで長政に付き従って戦死した。この長政主従、最後の奮戦によって、織田方も相応の戦死者を出したであろう。



戦後、浅井長政、久政、朝倉義景の首は京に送られ、獄門に晒された。信長は、長政を頼りになる義弟と信じていただけに裏切られた怒りも激しく、捕虜とした長政の母は惨殺し、長政の長男で10歳の万福丸も探し出して、関ヶ原にて磔(はりつけ)とした。そして、長政、久政、義景の首は薄濃(はくだみ)にして、酒肴の見せ物とした。信長は、この浅井家討滅にあたって、木下秀吉の武功が一番であると評し、小谷城を含む12万石の所領を委ねた。また、小谷城落城の切っ掛けを作った、山本山城主の阿閉貞征にも2万5千石の所領が与えられた。それに対し、大嶽を落とす切っ掛けを作った焼尾砦の降将、浅見対馬守は落城寸前の裏切りのため、所領没収の上、追放となった。また、浅井家の重臣でありながら、最後の最後で裏切った浅井井規、三田村左衛門尉、大野木茂俊らは後世への戒めと称され、斬首となった。



この後、小谷城の主となったのは秀吉であるが、天正4年(1576年)、琵琶湖畔に新たに長浜城を築いたため、小谷城は廃城となり、その短くも激しい歴史に終わりを告げた。だが、浅井家の血脈が途切れる事はなかった。長政の長女、茶々は秀吉の妻となって秀頼を生み、次女、初は名門の家柄である京極高次に嫁ぎ、三女、江は徳川秀忠に嫁いで、後の三代将軍家光を生んだ。長政の娘達はそれぞれ数奇な運命を辿りながらも、浅井家の血筋は後世まで残されてゆく。



小谷城の攻防 前

2010.09.05 - 戦国史 其の二
永禄11年(1568年)、この年、尾張、美濃を領有する有力大名に成長していた織田信長は、天下統一事業を一気に進展させるべく、上洛を目指して動き出す。しかし、岐阜から京に抜けるには、北近江に勢力を張る浅井氏と、南近江に勢力を張る六角氏の領国を通らねばならなかった。同年4月、信長は上洛を確実なものとするため、北近江の雄、浅井長政と盟約を結び、さらに妹のお市の方を嫁がせて絆を深めた。 同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、六角氏は敵対したが、長政は信長に協力して援軍を送った。信長の勢いは凄まじく、瞬く間に畿内の主要部を制圧して、一躍、天下人に最も近い武将となった。この信長の成功は、その通り道に当たる浅井長政の協力なくしては達成し難いものであった。そして、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢攻めを開始すると、長政はこれにも援軍を送っている。両家の協力関係は、このまま続いて行くかに見えた。


しかし、元亀元年(1570年)4月、信長が越前朝倉攻めを開始すると、長政は突如として信長から離反し、その背後を襲った。この離反の理由については、古くからの繋がりがある朝倉家との関係を重視したものと云われているが、確かな事はわかっていない。挟撃の危機から命からがら逃れた信長は激怒して、両家は一転、不倶戴天の間柄となった。だが、この時の浅井家と織田家の実力の差は、余りにも大きかった。浅井家は近江北部30万石余で動員力は8千人余なのに対し、織田家は尾張57万石、美濃54万石、伊勢志摩の大半50万石余、その他、近江南部や畿内各地にも所領があるので、石高は200万石以上、動員力は5万人を超えていた。浅井家は、朝倉家の援助を受けねば戦線の維持は不可能で、必然的に受け身の態勢となる。


元亀元年(1570年)6月、浅井氏の麾下にあった有力国人、堀秀村がその居城、鎌刃城と、美濃との境目にある長比城(たけくらべじょう)や刈安尾城(かりやすおじょう)ごと信長に投降すると云う事態が起こる。これは戦わずして国境線を打ち破られ、直接、小谷城を突かれる事を意味していた。長政は、国境で信長を食い止める算段を立てていたが、それは味方の裏切りで脆くも崩れ去る事となった。信長は勿論この機を逃さず、一挙に長政を討滅せんと動き出す。そして、徳川家康にも援軍を要請して、大軍をもって小谷城へ迫った。これに対し、単独では敵し得ない長政は、朝倉家に援軍を仰いだ。同年6月28日、長政は朝倉軍の来援を待って、姉川にて信長との決戦に望んだ。浅井、朝倉軍は1万5千人余で、織田、徳川軍は2万5千~3万人余だった。


浅井、朝倉軍は前半は優勢であったが、最終的には数に勝る織田、徳川軍の前に敗れ去った。この結果、浅井方の横山城が落ち、その南方の佐和山城は孤立した。浅井家は多くの将兵を失い、領国も分断されるという大打撃を被るが、まだ余力は残っていた。信長は落とした横山城に木下秀吉を篭めると、ここを対浅井の最前線とした。同年9月、浅井、朝倉軍は巻き返しを図り、大阪本願寺、三好家と結んだ上で京へと進軍を開始する。そして、浅井、朝倉軍は比叡山に立て篭もって、信長を大いに苦しませたが、決着には至らず、両軍共に兵を退いた。 これが浅井、朝倉家にとって、最初にして最後の織田勢力圏への攻勢であり、最も信長を追い詰めた瞬間であった。しかし、これ以降は、地力に勝る織田家によって防戦一方に追い込まれていく。


翌元亀2年(1571年)2月、敵中に孤立していた佐和山城は8ヶ月の篭城の末、力尽き、城将、磯野員昌と共に信長に降伏する。だが、同年5月、長政も反撃に出て、浅井井規(いのり)に軍を授けて、先年、信長に寝返った堀秀村の拠る鎌刃城を攻めさせた。浅井勢は一向一揆勢を加えた5千人余の軍勢だったが、急遽駆け付けた木下秀吉率いる数百人余によって側面攻撃を受け、それに合わせて城兵も突出して来たので、脆くも敗れ去った。同年8月、信長は3万余の兵を率いて浅井領国に侵入し、越前との国境に近い余呉、木之本近辺まで進出して村々を放火して回った。これは国の基である領民の生活を破壊して、間接的に浅井家の首を締め上げる作戦であった。信長は尚も攻撃の手を緩めず、同年9月、浅井方の志村城に猛攻を加えて城兵を悉く討ち果たし、首級670を上げて城を落とした。それを見て震え上がった近隣の小川城は、戦わずして降伏した。浅井家は、領国を幾度も蹂躙されて疲弊し、支城も次々に奪われて勢力圏は縮小する一方であった。


元亀3年(1572年)正月、横山城の城将、木下秀吉が岐阜の信長の下に新年の挨拶に出向くと、長政はその隙を突かんと浅井井規らに軍を授けて、横山城を急襲させた。だが、城代の竹中半兵衛は少数ながら城を良く守り、近隣の城からも援軍が駆けつけたので、浅井軍は退けられた。同年3月、信長はまたも北近江に進出し、小谷近辺まで放火して回った。信長は盛んに長政を挑発して、小谷城から誘い出さんとしたが、この時の長政に朝倉の援軍は無く、じっとこれに耐える他無かった。同年7月19日、信長は嫡男、信忠を始め、柴田勝家、丹羽長秀、木下秀吉、佐久間信盛といった錚々たる部将も引き連れた3万~5万余の大軍を動員し、総力を挙げて小谷攻めに取り掛かった。この頃、東の武田信玄が不穏な動きを示しており、信長としては信玄との対決が始まる前に、浅井家を滅ぼしたかったのである。


7月21日、織田軍は小谷城に至ると、まず、その麓にある虎御前山(とらごぜんやま)や雲雀山(ひばりやま)を占領し、続いて町口を破って城下を焼き払った。翌22日には木下秀吉に命じて、小谷城の支城、山本山城を攻撃させて50人余を討ち取り、23日には近江北部の余呉、木之本まで兵を出して寺院や家屋を焼き払わせた。そして、7月27日より、小谷城攻略の前線基地とすべく、虎御前山に砦の建設を開始する。目の前でここまでされながらも、戦力で劣る長政には手の出しようが無く、歯軋りするばかりであった。信長公記によれば、このような浅井家存亡の危機にも関わらず、朝倉家の援軍はなかなか現れなかった。そこで長政は、信長が苦境に陥っているとの偽情報を流し、それを信じた義景は、7月29日にようやく小谷にやってきたと云う。しかも義景は、情報とは違って意気盛んな織田軍を見て、小谷後方の大嶽(おおずく)に陣取ったまま動かなくなったとされる。


この信長公記の記述を見れば、義景は怠惰で臆病な大将にしか映らないが、実際には現実的な対応をしている。
信長が岐阜城から出陣したのが7月19日で、その報が一乗谷に届くまで1日~2日、そこから動員をかけて兵が集まるまで2~3日はかかるだろう。そして、義景は7月24日に一乗谷から出陣しているから、それほど遅くはない。ただ、行軍速度は遅く、信長が2日の行程で近江に入ったのに対し、義景は4日の行程で7月28日にようやく近江に入っている。長政はこの行軍の遅さに苛立って、偽情報を流したのかもしれない。それから、義景が大獄に陣取ったまま動かなくなったというのは、臆病と言うより、お互いの兵力に格差があるからで、朝倉、浅井軍は合わせても1万5千から2万、対する織田軍は最低でも3万、最大で5万人であった。これで野戦を挑めというのが無理な話で、例え打って出ても兵力不足で敗れた姉川の戦いの二の舞になるだけである。で、あるから、高所に陣取って織田軍の攻撃を待ち受けるという義景の方策は間違ってはいないだろう。


だが、義景は何時も、信長が出動してから、遅まきに対応するといった感じで、基本的に受身の姿勢であった。これでは敵味方から、戦意に欠けると見られても仕方なかった。兵力の多寡と言い、大将の戦意と言い、どちらに時の勢いがあるかは一目瞭然であった。8月8日には、朝倉家の有力部将である前波吉継が、8月9日には富田長繁が、それぞれ義景を見限って、信長に降る事態が起きた。信長はしきりに挑発して決戦を誘ったものの、義景が乗ってくる気配は無かった。こうなると信長も手の出しようがなく、戦線は膠着状態となった。そのため、信長は今回で浅井家に引導を渡せなかったが、小谷前面に大規模な封鎖陣地を築き上げた事で、浅井家をほぼ封じ込める事には成功した。信長との開戦以来、浅井家は領国を幾度となく蹂躙され、その挙句、小谷城に完全に押し込められてしまった。最早、年貢を満足に得る事すら難しかったであろう。


なので篭城を支えていたのは、朝倉家からの兵糧援助であったと思われる。しかし、それを援助する朝倉家にも、明らかに衰えの色が見えていた。朝倉家にとって、浅井家は組下大名であってそれを保護する道義上の責任があった。それに信長によって小谷城が落とされると、次に狙われるのは越前の一乗谷であるのは明白であって、越前の安全保障上からも、何としても守り抜かねばならなかった。しかし、連年の出兵に伴う出費と、兵糧援助の負担は重かったに違いない。対する信長も連年の様に出兵しているが、浅井、朝倉家と比べると体力が段違いであった。消耗戦となれば、やはり国力の差が物を言ってくる。


元亀3年(1572年)11月、追い込まれる一方であった浅井、朝倉軍が動いた。浅井井規を先鋒として、織田方の宮部城を攻撃したのである。これは、宮部城から虎御前山に連なる織田方の陣地破壊を目論んだものだったが、堅固な陣地はびくともせず、逆に木下秀吉の迎撃を受けて撃退される始末であった。衰えを見せる浅井、朝倉軍の戦力で、この封鎖陣地を突破する事は、最早、不可能であった。この戦勢を挽回するには、他の反織田勢力の助力、特に大規模な野戦兵力を有する武田信玄の力が必要であった。同年12月、その頼みの綱である信玄が西上を開始し、三方ヶ原にて織田、徳川軍を打ち破った。浅井、朝倉家はこの信玄の西上作戦に期待し、愁眉が開く思いであった。


だが、信玄は、翌元亀4年(1573年)4月、志半ばにして病没してしまう。これによって浅井、朝倉家の運命も閉ざされた。そして、天正元年(1573年)8月8日、浅井家にとって決定的な出来事が起こる。小谷城の西方に位置する重要な支城、山本山城の阿閉貞征が離反して、織田方に付いたのである。この山本山城の側面援助があったから、小谷城は全面包囲を免れて篭城を続けられてきた。だが、山本山城を失った事で、小谷城は全周囲からの攻撃に晒される事になるのである。

備中高松城 

備中高松城は、岡山県岡山市北区高松にある平城である。備中高松城は、織田家による中国攻めの際、その部将、羽柴秀吉によって水攻めにあった城として有名である。



高松城の築城年代は不明で、地元の豪族、石川氏が築いたのが始まりとされる。石川氏は備中の戦国大名、三村氏に仕えていたが、天正3年(1575年)、毛利氏の侵攻を受けて三村氏共々、攻め滅ぼされる。この時、三村氏に属していた清水宗治は、毛利氏に鞍替えして高松城主の地位に就いた。以後の宗治は毛利氏に従って各地を転戦し、深い信頼を得るようになる。



天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨に入り、毛利氏との全面対決が始まった。この頃の戦場は播磨であったが、天正7年(1579年)、毛利輝元に属していた備前の戦国大名、宇喜多直家が織田信長に鞍替えすると、毛利家の戦線は一挙に後退し、清水宗治が守備する備中東部が最前線となった。そして、秀吉は播磨三木城、因幡鳥取城といった主要な城を落としていくと、天正10年(1582年)3月、今度は備中高松城を攻略すべく、姫路城を出立する。秀吉は攻撃に先立って黒田官兵衛を派遣し、宗治の誘降に取り掛かった。宗治は毛利に従ってまだ7、8年ばかりの外様であり、脈は十分あると踏んだのである。



だが、宗治はこの申し出を丁重に断った。それでも秀吉は諦めず、再び使者を送って説得せしめたが、結果は同じであった。秀吉は、武力をもって高松城を奪取する他、手は無くなった。同年4月、秀吉軍は高松城北方にある竜王山に陣取り、攻略戦に取り掛かった。秀吉軍は宇喜多軍1万余を加えた3万余の大軍団で、宗治は高松城を中心に6つの支城に5千人余の兵を配置して、これを迎え撃った。



高松城は低湿地の微高地に築かれており、平城ながら三方を沼に囲まれた要害堅固な城であった。秀吉は、高松城を強攻すれば犠牲は計り知れないと判断し、低湿地に築かれている事を逆に利用して、水攻めにする事を検討する。まず手始めに、高松城を援護する支城の攻略を開始した。同年4月25日、秀吉軍は冠山城に猛攻を加えてこれを落とし、100人余を討ち取った。続いて、加茂城、日幡城と落とし、5月2日には宮地山城を開城に追い込んだ。これで高松城を支える6支城の内、4つまでが落ちた。こうして障害を取り払った後、秀吉軍は堤防工事に取り掛かる。



秀吉は、金に物を言わせて農民多数を動員し、5月8日~5月19日までの僅か12日間で、高さ7メートル、長さ3キロメートルもの堤防を完成させたと云われている。(実際には高さはもっと低く、長さも数百メートルであったらしい)。上流の足守川の水が堤防内に引き込まれ、折からの梅雨の増水もあって、高松城の大部分が水に浸かった。これによって城方は、兵糧搬入と出撃はほぼ不可能となる。秀吉の方は、水攻めによって城方を封じ込める事に成功したので、自軍の大部分を援軍にやってくるであろう毛利軍主力に備える事が出来た。



これに対して毛利方は、4月中旬に小早川隆景の軍が後詰めにやって来たが、兵力不足で成すすべがなかった。5月21日になって、吉川元春の軍や毛利輝元の本隊が到着し、毛利方はようやく陣容が整った。この時、毛利方は総力を挙げた3万~4人余の軍勢を揃えたと云われているにも関わらず、積極的な動きを見せなかった。一つは、秀吉軍の包囲網がほぼ完璧で高松城に近寄り難かった事、二つは、最早、毛利家の劣勢は覆い難く、織田家との早期和平を望んでいたからである。秀吉は毛利方のそういった弱味を熟知した上で安土に使者を送り、信長の直接出馬を仰いだ。信長もこれを了承し、明智光秀ら畿内の諸将を率いて中国戦線に赴くと答えた。



毛利方は、信長の直接出馬を知って焦りが募る一方であった。秀吉の一軍だけでも押され気味であるのに、この上に信長の本隊が現れれば、毛利家は一挙に崩壊しかねなかった。すでにこの年、天正10年(1582年)3月には、名立たる強豪であった武田家が、織田家の大攻勢を受けて滅亡している事実もある。毛利方はそうなる前にと交渉を試みたが、秀吉は有利な情勢を背景に大幅な譲歩を求めてきた。すなわち毛利領国、五カ国の割譲と、清水宗治の切腹を要求してきたのである。



毛利方にとって領土の割譲は、最早、受け入れざるを得なかったが、毛利家に忠節を尽くし、今でも城を守り続けている清水宗治の切腹だけはどうしても受け入れ難かった。こうして和平交渉は暗礁に乗り上げたが、秀吉には焦る素振りは無かった。何故なら信長の親征を前にして、毛利方に更なる譲歩を要求出来る立場にあって、交渉を急ぐ必要などなかったからである。だが、信長が中国戦線に現れる事は永久になかった。天正10年(1582年)6月2日、本能寺において、織田信長、信忠父子が明智光秀によって討たれたからである。



同年6月3日夜半、高松の秀吉陣営にて1人の密使が捕らえられた。その密使が携えていた書を見て、秀吉は信長の死と明智光秀の反逆を知った。秀吉は長年仕えてきた主君の死の衝撃と、自らが置かれている危険な状況を鑑みて暗澹たる思いになった。しかし、秀吉に逡巡する時間は無かった。毛利方に信長の死が知れ渡るのは時間の問題であり、そうなれば光秀と毛利氏の挟撃を受ける恐れがあった。実際、そうしようとして光秀の密使が来たのである。



毛利方に正確な情報が伝わる前に、秀吉には直ちに和平交渉をまとめる必要があった。秀吉は密使を斬り、周辺の街道を封鎖して厳重な情報統制を行った。その上で秀吉は、この6月3日の夜中か、翌4日早々に毛利家の使僧、安国寺恵慶を呼び出した。会談にあたって秀吉は、面目上、清水宗治の切腹は譲れないが、領土の割譲に関しては、ほぼ現状を維持する形で講和すると大幅な譲歩案を示した。



千両役者の秀吉は信長の死を秘し、「上様の親征を前にして、これが最後にして最良の和解の機会である」と説いた。毛利方にはまだ、信長の死は伝わっていなかった。安国寺恵慶はこれが最良の和解条件と信じて秀吉陣から出ると、その足で高松城へと赴いて、宗治に和解条件の事を伝えた。暗に切腹を促すためである。この頃、高松城では餓死者が出始めるなど、篭城の限界に近づいていたらしく、すでに宗治は自身の切腹と引き換えに開城する決意を固めていた。



そして、宗治は自らの命一つで、高松城の将兵と毛利家が救われるのならば本望であると述べ、直ちに切腹開城の運びとなった。6月4日巳の刻(午前10時)、宗治は湖上に船を浮かべ、敵味方多くの将兵が見守る中、「浮き世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」との時世の句を残すと、従容として死の徒についた。清水宗治、享年46。そして、宗治の兄、月清入道や、弟の難波伝兵衛、毛利家の軍監、末近左衛門らもその後を追った。



この清水宗治の自刃をもって、毛利家と織田家との和解は成り、高松城は秀吉軍に明け渡された。そして、毛利方が信長の死を知ったのは、そのすぐ後の6月4日夜半か、翌5日であったようだ。毛利方では、この機に乗じて秀吉を襲わんとの声も挙がったが、すでに高松城を明け渡して和約を結んでいる以上、名分が立たなかった。それに和約を破棄して攻撃せんとしても、秀吉はまだ陣を固めたままであり、隙は無かった。



また、毛利方がこの時に得ていた上方の情報は、はなはだ不正確で(明智光秀と柴田勝家が結託して謀反を起こしたと見なしていた)判断に迷っていた事もあり、ここは一旦、兵を引き情勢を見極める事に決した。そして、6月6日、毛利軍は、当初の和約通りに兵を引いた。秀吉は、この毛利軍の陣払いを見届けた上で撤退に取り掛かった。そして、宇喜多軍1万人余を毛利軍への備えとして残すと、明智光秀と雌雄を決すべく、2万人余りの兵を率いて急速に東上を開始するのである。



毛利方は、この秀吉の撤退を黙って見逃した。間に宇喜多軍が立ちはだかっているとは云え、もし、この時に大挙して毛利方が襲い掛かっていれば、情勢はどう転んでいたか判らない。本能寺の変後、織田家の関東方面軍司令官だった滝川一益が、北条家の逆撃を受けて大敗北を喫している事実もある。また、光秀の密使が迷わずに毛利陣に手紙を届けていれば、これまた情勢は大きく変わっていただろう。そうなれば、高松城の開城も清水宗治の自害も無くなり、おそらく、毛利軍は大挙して反撃を試みていただろう。秀吉は強運の持主であった。だが、強運だけでなく、好機を逸する事なく行動した秀吉には、やはり天下人の器があったのだろう。



歴史の転換点の舞台となった高松城であるが、落城後は宇喜多氏の持ち城となり、江戸時代初期には廃城となった。清水宗治の死後、その嫡子の景知は、秀吉から大名に取り立てようとの誘いがあったと云うが、これを断って小早川家の家臣として仕えた。その後、小早川家が断絶した事から景治は毛利家に復帰し、父以来の忠勇を評されて重臣格の身上となって、そのまま明治の世まで続く事となる。








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↑高松城全景




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↑高松城近辺の水田

かつて、この辺りが湿地帯であった事を偲ばせます


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↑高松城東方の山


秀吉の本陣が置かれていたとされる山です。



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↑資料館


高松城のすぐ近くにあります。


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↑水攻めの模型


資料館内にあります。これを見ると、大規模な堤防が築かれている様子が窺えますが、実際には堤防はもっと小規模であった模様です。また、高松城には5千人もの人数が篭っていたされる資料もありますが、これは誇張で、資料館の方に伺うと実際には千人程度ではなかったかと言う事でした。



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↑高松城本丸


かつて清水宗治らが、立て篭もっていた場所です。



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↑清水宗治の首塚


近辺の石井山に祭られてあったものが、明治時代になって高松城内に移築されました。



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↑清水宗治時世の句



「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」


宗治の兄、月清入道の時世の句も載せておきます。


「世の中に 惜しまれる時散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ」

実際には、下記の句を読んだのは宗治であって、上記の句を月清入道が読んだとの声があります。いずれにせよ、心に響くものを感じます。



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↑清水宗治自刃の地


宗治自刃の地は、高松城の駐車場から歩いてすぐの寺の近くにあります。



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↑ごうやぶ遺跡


宗治自刃の地のほど近くにあり、宗治を慕って自害した家臣を祭ったものであるとされています。こういうものが現在まで語り残されている事から、この出来事は史実であると思われます。



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↑ハスの花


このハスは、高松城で公園造成工事をしていた際に見つかった種が、自然繁殖したものです。宗治在城時に咲いていたものと推測され、約400年振りに花を咲かせました。このハスは宗治ハスと呼ばれており、清廉な武人、清水宗治を偲ばせます。

岡山城

岡山城は、岡山県岡山市北区にある平山城である。


岡山城は、南北時代に前身となる砦が築かれ、戦国期には金光氏と云う豪族の居城となっていた。天正元年(1573年)、備前国制覇を進める、宇喜田直家によって金光氏は滅ぼされ、直家はその居城を自らの本拠と定め、大規模な改修を施す。直家の子、秀家の時代になると、城は近世城郭へと作り変えられ、慶長2年(1597年)には天守閣の完成を見る。しかし、秀家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に破れて、八丈島へと島流しとなり、代わって小早川秀秋が新たな城主となる。


秀秋は岡山城を更に改築し、城域は2倍に拡張された。しかし、秀秋は慶長7年(1602年)に死去して、その治世は僅か2年で終わる。その後には、池田輝政の次男、忠継が入城し、以後代々、備前池田家の居城となる。池田氏治世の間にも城は逐次、増改築されてゆき、御殿や、後楽園などが作られていった。明治の世となると、城郭は取り壊されていき、天守閣と幾つかの櫓を残すのみとなる。やがて、天守閣は国宝に指定され、その保存が決まったものの、昭和20年(1945年)の米軍の空襲によって、惜しくも焼け落ちてしまう。その後、空襲の被害から免れた、月見櫓、西の丸西手櫓が国の重要文化財に指定され、天守閣は、昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート製で再現された。



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↑岡山城



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↑表書院跡


かつては、この辺りに御殿や書院が立ち並んでいました。



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↑塀と狭間



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↑石垣



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↑月見櫓



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↑天守閣


見た目はすこぶる立派なのですが・・・



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↑城内部


中に入ると、近代的な建物で、エレベーターもあって興醒め・・・

その他、天守閣内部には、甲冑や槍、刀、文献資料などが展示されていました。




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↑天守閣


天守閣の石垣は、米軍空襲時の激しい火災によって、変色している箇所があるとの事です。



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↑天守閣からの眺め



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↑天守閣からの眺め

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重家 
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