2012.09.09 - 城跡・史跡訪問記 其の二
2012.09.09 - 城跡・史跡訪問記 其の二
犬山城は、愛知県犬山市にある平山城である。木曽川南岸の丘陵上に築かれ、尾張国と美濃国の境目にあって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら天下人もこの城の争奪を図った要衝である。
犬山城は、織田信長の叔父にあたる織田信康が天文6年(1537年)に築城したのが始まりとされる。城は木曽川の畔にある丘上にあって天然の要害を成しており、また、木曽川の水運に加え、中山道と木曽街道を睨む事も出来る経済、交通上の要衝である。信康は、兄の織田信秀の良き協力者として活躍していたが、天文13年(1544年)、信秀に従って斉藤道三の居城、稲葉山城を攻め立てた際、逆落としの逆襲を受けて戦死した。その跡は嫡男の信清が継いで犬山城主となり、引き続き信秀を支援した。天文20年(1551年)、信秀が急死して信長が跡を継いでも両者の協力関係は続いていたが、永禄5年(1562年)、所領の分与を巡って信長との対立が深まると、信清は美濃の斉藤龍興と結んで反旗を翻した。しかし、信長の勢いは強く、信清方の支城は次々に落ちて孤立を深め、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も落とされて、信清は甲斐の武田氏の下へ落ち延びていった。
信長は犬山城を占領すると、丹羽長秀を城番に置いて、ここから美濃国侵攻を図る。犬山城は木曽川を挟んで美濃国に接する事から、重要な拠点として機能した。元亀元年(1570年)、織田家の部将、池田恒興が城主として入るが、天正9年(1581年)に摂津国へ転封され、代わって信長の五男、信房(勝長とも)が入った。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きて信房が討死すると、尾張国は信長の次男、信雄の領域に加えられ、犬山城もその持ち城となった。天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄とが対立を深めると、美濃大垣城主となっていた池田恒興は羽柴方で参戦して、かつて知ったる犬山城に奇襲を加えて奪取し、これが開戦の狼煙となった。しかし、同年4月に起こった小牧・長久手の戦いで羽柴方は敗れて池田恒興は戦死し、同年11月に結ばれた和議によって、犬山城は信雄に返還された。
天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡に伴って織田信雄は、秀吉から移封命令を受けたが、これを拒絶したため、かつての家臣筋である秀吉によって容赦なく改易された。それに代わって尾張の領主となったのは秀吉の養子である豊臣秀次で、犬山城には秀次の実父である三好吉房が入った。しかし、文禄4年(1595年)、秀次が謀反の疑いをかけられて自害すると、吉房も改易され、犬山城には秀吉の直臣、石川光吉(貞清とも)が入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、光吉は西軍側で参戦するも、本戦は敗れて徳川家康に所領を没収された。慶長6年(1601年)、家康の家臣である小笠原吉次が犬山城に入ったが、慶長12年(1607年)に平岩親吉に代わった。慶長16年(1611年)、親吉は死去するが、子が無く、嗣子断絶となった。それから6年間、無城主であったが、元和3年(1617年)に成瀬正成が犬山城主となり、そのまま明治の世まで成瀬家による統治が続く事になる。
明治の世を迎えると、廃藩置県によって愛知県の所有となり、櫓、城門などは取り壊されたが、天守閣だけは破壊を免れた。明治24年(1891年)に起こった濃尾地震によって天守閣は半壊してしまうが、明治28年(1895年)、その修復を条件に、旧藩主である成瀬正肥に無償譲渡された。昭和10年(1935年)、その価値が改めて見直され、国宝に指定される。犬山城は、明治から平成まで成瀬家による所有が続いていたが、平成16年(2004年)に財団法人犬山城白帝文庫に委ねられて、現在に至る。犬山城の最大の見所である天守閣は、1階と2階部分は慶長6年(1601年)に建築され、3階と4階部分は元和6年(1620年)に増築されたと見られている。天守閣は小振りであるが、最も古い形態を残している為、姫路城、松本城、彦根城と並んで国宝4城の一つとなっている。その古い天守に立つと、木曽川の優美な流れから、岐阜城のある金華山、遥か御嶽山までも望む事が出来る。
犬山城 posted by (C)重家
↑犬山城
犬山城 posted by (C)重家
↑犬山城近くで開かれていた朝市
犬山城 posted by (C)重家
犬山城の開門は朝の9時なのに、6時にここに着いてしまいました。3時間も待つ気は無いので、外観だけの眺めになってしまいました。
犬山城 posted by (C)重家
↑城内にある三光稲荷神社
犬山城 posted by (C)重家
犬山城 posted by (C)重家
犬山城 posted by (C)重家
せめて間近から天守閣を眺められればと思っていましたが、天守閣へと繋がる門は無情にも閉じられていました・・・
犬山城 posted by (C)重家
↑犬山城
木曽川対岸からの眺めです。次にここを訪れる時は、天守閣からの眺めを写真に収めたいです。
2012.08.29 - 城跡・史跡訪問記 其の二
岐阜城は、岐阜県岐阜市にある山城である。岐阜城は戦国史上において、最も名高い山城の一つである。
建仁元年(1201年)、鎌倉幕府の政所執事であった、二階堂行政が砦を築いたのがその始まりとされる。岐阜城は、低いながらも険しい金華山の山頂にあって、山麓には長良川が流れる天然の要害である。それを麓から眺めたなら、平野にそそり立つ難攻不落の城に映った。しかし、山上の地積が狭いのと、ここを普段の住居とするには険しすぎるのが欠点であった。
室町時代には美濃守護、土岐氏の最有力家臣で美濃守護代を務めた、斉藤氏の居城となり、天文2年(1533年)には、下克上の道を駆け上りつつあった斉藤道三(この頃の名は長井新九朗規秀)が城主となった。道三の時代、岐阜城は稲葉山城の名で呼ばれており、道三はここを拠点に美濃第一の実力者となりつつあった。だが、織田信長の父で尾張の実力者である、織田信禿が美濃攻略に乗り出すと、一時、支城の大垣城を奪われるなど苦戦に陥った。
天文13年(1544年)9月22日には織田信秀軍に稲葉山城下まで攻め入られるも、道三は夕刻を迎えて引き揚げる織田軍の一瞬の隙を突いて逆襲を加え、1千人余を討ち取る大勝利を収めた(加奈口の戦い)。この戦いで戦死した織田将兵を弔うために建てられた塚は織田塚と呼ばれ、現在でも金華山の麓に存在している。天文20年(1551年)頃、道三は、美濃守護で主筋に当たる土岐頼芸を放逐して美濃国主となり、下克上を極めた。そして、天文23年(1554年)、子息の義龍に家督と稲葉山城を譲って、自身は近隣の鷺山(さぎやま)城に隠居したとされる。
しかし、道三と義龍の仲は次第に険悪なものとなり、弘治2年(1556年)4月18日には両者は軍勢を催して、長良川を挟んで対峙する事態となった。人数は道三軍が3千人未満であったのに対し、義龍軍は1万人以上であったと云う。4月20日には合戦となったが、衆寡敵せず、道三は鼻を削がれたうえで、首を上げられた。道三の娘婿となっていた織田信長は、援軍を率いて美濃に向かっていたが、道三討死の報を聞いて空しく引き揚げていった。
血塗られた道を経て美濃の支配者となった義龍はなかなかの実力者で、度々の信長の侵攻を撃退して国内に踏み込ませなかったが、永禄4年(1561年)、35歳の若さで急死した。義龍の跡を継いだ龍興はまだ14歳の若年であり、信長はそれを当て込んで度々、美濃に攻め入った。それでも美濃勢は当初は若い当主を支えて、信長の侵攻を食い止めんとした。しかし、信長の圧力は強まる一方であるのに対し、今だ年少の龍興に指導力は期待出来ず、次第に美濃勢の結束は揺らいでいった。
そして、永禄7年(1564年)には、家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就が背いて、稲葉山城を急襲、占拠する事件が起こった。城はすぐに返還されたものの、この事件は斉藤龍興の権威を失墜させ、信長の侵攻を加速させる契機となった。永禄10年(1567年)9月頃、ついに稲葉山城は落ちて、龍興は長良川を下って伊勢長島へと逃れた。この落城の際、火災が生じたらしく、麓にはその時のものと思われる焼土層が残っている。信長はこれにて念願の美濃攻略を果たし、100万石級の大大名となって、一躍、天下人への道が開かれた。
信長は稲葉山城を新たな本拠に定めると、その麓に4階の豪勢な居館を築いてそこを平時の住まいとした。そして、信長は、稲葉山城とその城下の井ノ口を岐阜と改名し、ここから天下布武の大号令を下したのだった。永禄12年(1569年)に岐阜城の信長の下を訪れたルイス・フロイスによれば、その居館は驚くほど壮麗で、欧州でもこれに比肩するものは無かったと云う。居館の外には4つから5つの庭園があり、形の良い石や白砂が撒かれて池には美しい魚が泳いでいた。
1階には20余の部屋があって、それぞれに絵画と塗金が施された屏風が飾られてあった。2階は更に美麗な装飾が施された婦人部屋があり、その前の廊下は中国製の金襴(きんらん)の幕で覆われていた。3階は一転、静寂優雅な佇まいで、ここには茶室が設けられていた。4階からの展望は素晴らしく、美しい庭園や、岐阜の町並みを一望する事が出来た。信長の独創的な発想は岐阜居館の作りにも存分に反映され、それは後に幻の名城、安土城へと繋がってゆく。だが、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前に控えた信長は、突如として本能寺に消えた。
その衝撃は美濃にも波及して、織田信忠の家臣の斉藤利堯なる者が岐阜城を乗っ取る事件も起こった。斉藤利堯はしばらく岐阜城から天下の動静を覗っていたが、羽柴秀吉が明智光秀を破って上方を掌握すると、岐阜城を明け渡した。この後、岐阜城は信長の三男信孝の居城となるが、信孝は秀吉との対立を深めてゆき、天正10年(1582年)12月には秀吉の大軍に攻められた。信孝は一旦、人質を差し出して降伏するが、翌天正11年(1583年)3月、柴田勝家が越前から出陣すると、再び挙兵して岐阜城に立て篭もった。
しかし、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで滅亡すると岐阜城は孤立無援となり、信孝は再び秀吉に降伏して、城を明け渡した。だが、信孝は許されずに切腹となり、岐阜城には池田恒興の嫡男、元助が入った。天正12年(1584年)4月、小牧、長久手の戦いで池田恒興、元助父子が討死すると、次男の輝政が岐阜城主となった。天正19年(1591年)4月、池田輝政は三河に転封され、代わって秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となった。
文禄元年(1592年)9月、秀勝が病没すると、信長の孫に当たる織田秀信が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀信は西軍側で参戦し、西上する東軍を岐阜城で迎え撃たんとした。そして、同年8月22日、秀信軍6千人余は岐阜城から出撃して木曽川の線で東軍1万8千余を撃退せんとした。だが、兵力不足から強攻渡河を許し、そのまま数に勝る東軍に押し切られて岐阜城へと退いた。8月23日、勢いに乗った東軍は金華山を駆け上がり、岐阜城を激しく攻め立てた。
岐阜城の見た目は堅固そのものであるが、山上部の地積が狭い事から、ここまで攻め入られれば、長くは持ち堪えられなかった。それでも秀信軍は激しく抵抗し、上格子門や二の丸門を巡る戦闘では双方多数の死傷者を出したと云う。だが、岐阜城の抵抗もここまでで、秀信軍は千人余が討ち取られ、同23日に秀信は降伏した。壮麗を極めた信長居館も、この時の戦災で焼失したのであろう。
戦後、秀信は高野山に追放され、代わって岐阜の地には徳川家康の家臣、奥平信昌が入った。だが、家康は岐阜城の廃城を決定し、信昌に加納城を築かせて、そこを統治の拠点とさせたので、岐阜城を巡る激動の歴史はここに終わった。それから4百年近い時を経た、昭和31年(1956年)、岐阜城跡に、鉄筋コンクリート製の3層4階建ての天守閣が復元された。決して風情を感じる建物ではないが、そこからの眺望だけは素晴らしいものがある。
それはかつて、斉藤道三や、織田信長が大望を抱きながら眺めた光景と一緒である。また、金華山の麓にあるロープウェー駅のすぐ側には、壮麗を極めたと云う信長の居館跡が存在する。安土城の前身とも言えるこの居館跡を発掘調査した結果、かつては居館を中心に広大な庭園が巡らされていたようだ。現在は山の一角と化し、訪れる人も少ないが、ここには確かに信長の息吹が残っている。
岐阜城 posted by (C)重家
↑上格子門跡
慶長5年(1600年)8月23日の岐阜城を巡る攻防戦では、この門付近で福島正則や池田輝政を始めとする東軍諸隊と、織田秀信軍との間で激しい戦闘が繰り広げられたそうです。
岐阜城 posted by (C)重家
二の丸門跡
慶長5年(1600年)の岐阜城攻防戦では、この二の丸門付近でも激しい戦闘があって、門付近にあった火薬庫が大爆発して、夜空を焦がしたと云います。
岐阜城 posted by (C)重家
↑岐阜城天守閣
岐阜城は、標高329メートルの金華山の山頂にあって、平野部からの比高は308メートルあります。標高はそれほど高くはないのですが、見た目は険難そのものなので、麓にあるロープウェイを使って登るのが無難でしょう。天守閣は、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。外見は綺麗ですが、内部は味気ないです。
岐阜城 posted by (C)重家
↑岐阜城天守閣からの眺め
写真中央、市街地の中にある小さな丘は、斉藤道三の隠居城であった鷺山(さぎやま)城跡です。岐阜城から長良川を渡った辺りが、斉藤道三とその息子、義龍とが父子相討つ戦いを繰り広げた場所です。そして、弘治2年(1556年)4月20日、斉藤道三はこの長良川の畔で、首を上げられました。道三の首塚は、付近の市街地の一角に存在しています。
岐阜城 posted by (C)重家
↑岐阜城天守閣からの眺め
これは、西の方角だったと思います。織田信長もここから西を眺めては、天下への野望を逞しくした事でしょう。
岐阜城 posted by (C)重家
↑信長居館跡
ロープウェイからの眺めです。かつては眼下に壮麗な建物がそびえ立っていたのでしょう。
岐阜城 posted by (C)重家
↑かつての岐阜城の姿
岐阜城 posted by (C)重家
↑信長居館跡
ロープウェイ駅のすぐ側にあるので、乗られる際には足を運んでみる事をお勧めします。
岐阜城 posted by (C)重家
↑信長居館の奥にある小さな滝
近くには、滝へと下りる古い石段がありました。信長や斉藤道三などの歴代城主も政務の合間に、ここで一息入れる事もあったでしょう。
岐阜城 posted by (C)重家
信長居館前にある庭園
信長居館の周囲には、かつては、ルイス・フロイスも感嘆したと云う庭園がありました。現在、そのほとんどは埋もれてしまっているようですが、それでも僅かに往時を偲ばせてくれます。
2012.08.18 - 城跡・史跡訪問記 其の二
大垣城は、岐阜県大垣市にある平城である。
その築城年は詳らかではなく、明応9年(1500年)に竹腰尚綱によって築かれたとも、天文4年(1535年)に宮川安定によって築かれたとも云われている。大垣は美濃から近江へと通じる街道脇にあって、尾張との国境にも近い交通上の要衝であった。そのため、戦国時代には尾張の織田家と美濃の斉藤氏によって争奪戦の的となっている。戦国の興亡をそのまま表すように、大垣城の主は入れ替わり立ち代わりしつつ、徐々に増改築が加えられていった。そして、慶長元年(1596年)には、大垣城主の伊藤祐盛によって、四重四層の優美な天守閣が築かれたとされる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、大垣城は石田三成を始めとする西軍の拠点となった。関ヶ原での決戦後も三成の妹婿である福原長堯らが大垣城に篭もって抵抗を続けたが、城内に裏切り者が続出した事によって、9月23日に開城する。この時、城内にいて攻防の模様をつぶさに目撃していた三成の家臣の娘は、後年、尼僧となってから、その体験を生々しく語り伝えている。これが「おあむ物語」であり、おあむとは尼僧の敬称の事である。それによれば、天守閣で鉄砲玉を鋳ったり、生首にお歯黒を塗って身分の高い武士に見せつけるよう頼まれたり、その血生臭い生首を並べた側で寝起きをした事などが語られている。それから、14歳の弟が鉄砲玉に当たって死んだ事や、落城後の自身の苦労なども語られている。
関ヶ原戦後、徳川幕府は大垣城には譜代家臣を置き続け、寛永12年(1651年)からは同じく譜代の戸田氏鉄を配し、以後、明治の世を迎えるまで戸田氏による統治が続いた。大垣城の天守閣は廃城令からの破壊を免れ、昭和11年(1936年)には国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)7月29日、米軍機による大垣空襲を受けて、天守閣は惜しくも焼失してしまう。昭和34年(1959年)、大垣城天守閣は鉄筋コンクリート製で復元された。往時の大垣城は3重の堀を巡らせた大城郭であったが、現在は都市開発が進み、僅かに残された遺構が市街の影にひっそりと佇むのみである。
大垣城 posted by (C)重家
大垣城 posted by (C)重家
↑水之手門跡
大垣城 posted by (C)重家
↑鉄門跡
大垣城 posted by (C)重家
↑復元天守閣
鉄筋コンクリート製の天守閣です。
大垣城 posted by (C)重家
↑展示品の火縄銃
大垣城 posted by (C)重家
↑天守閣からの眺め
眺望はいまいちでした。
大垣城 posted by (C)重家
↑おあむの松
おあむ物語の尼僧と直接の関係は無さそうですが、誰言うとなくこう呼ぶようになったそうです。
大垣城 posted by (C)重家
↑明治29年(1896年)の洪水跡
石垣に破線が入っていますが、そこまで水で溢れたそうです。
大垣城 posted by (C)重家>
↑戸田氏鉄の石像
長らくこの地を統治した大垣戸田家の初代藩主です。
大垣城 posted by (C)重家
↑在りし日の大垣城
昔の大垣城は壮大な造りでしたが、残念ながら現在の大垣城には見所と呼べるものは少ないです。大垣城だけに限らず、都会の城に残されるのは歴史のみですね。
2012.08.08 - 城跡・史跡訪問記 其の二
赤穂城は、兵庫県赤穂市にある平城である。そして、この城は、かの有名な忠臣蔵ゆかりの地である。
赤穂城は、慶安元年(1648年)、赤穂藩5万3千石の大名、浅野長直の命によって築城が始まり、途中、軍学者の山鹿素行の意見なども取り入れながら、13年後の寛文元年(1661年)に完成を見た。城内には天守台も築かれたが、そこに天守閣が建てられる事は無かった。元禄14年(1701年)、長直の孫で赤穂3代藩主の浅野内匠頭長矩の時代、かの有名な事件が起こる。長矩は、江戸城松の廊下にて吉良上野介義央に切り付けると云う刃傷沙汰を起こして、長矩は切腹、浅野家も改易処分となってしまうのである。
赤穂城は近隣の龍野藩主脇坂安照が一時預かった後、元禄15年(1702年)に永井直敬が3万3千石で入封した。浅野家の筆頭家老であった大石内蔵助良雄は御家再興の努力を続けていたが、それは儚い夢と散った。そして、この年、大石内蔵助を始めとする赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入りを果たし、彼らは伝説の人と化した。宝永3年(1706年)、永井直敬は転封して、森長直が2万石で入封し、以降、幕末まで森家による統治が続く。明治6年(1873年)、明治政府の廃城令により赤穂城は廃され、その建物は破却されて堀と石垣だけの城となった。だが、昭和から平成にかけて徐々に建物は復元されており、赤穂浪士の故郷の城として、今後も再建は続けられていく事だろう。
赤穂城 posted by (C)重家
↑本丸門
赤穂城 posted by (C)重家
↑天守台と本丸庭園
赤穂城 posted by (C)重家
↑御殿跡
天守台からの眺めです。この御殿のあった場所が、政務の中心地だったのでしょう。
赤穂城 posted by (C)重家
↑堀と本丸石垣
大石神社 posted by (C)重家
↑大石神社
道の左右には、赤穂浪士の石像が建ち並んでいます。
大石神社 posted by (C)重家
↑大石内蔵助が所要していた太刀と脇差
大石神社の宝物殿に展示されています。展示品は商用に用いない限りは、写真に撮っても良いとの事でした。
大石神社 posted by (C)重家
↑赤穂浪士の1人、堀部安兵衛が討ち入りの際に用いた鎖頭巾と鎖襦袢(じゅはん)
これを着ていれば、ちょっとやそっとの斬撃では体に傷は付かなかったでしょう。
大石神社 posted by (C)重家
↑森長可使用の鎧
天正12年(1584年)の長久手の戦いで戦死した武将、森長可所用の鎧とされています。兜は首級と共に持ち去られ、鎧だけが残されたので、首無しの鎧とも云われています。宝永3年(1706年)に赤穂に入封してきた森長直は、森長可と同じ一族なので、この鎧を伝え残したのでしょう。
大石神社 posted by (C)重家
↑大石邸庭園
ここは大石内蔵助の邸宅跡です。そして、内蔵助も眺めた庭園です。
大石神社 posted by (C)重家
↑大石邸跡に生えている楠(くす)の大木
この楠の木は樹齢300年以上と云われているので、大石内蔵助の誕生前後に芽生え、その討ち入りから死までを見届けた事になります。