忍者ブログ
選択したカテゴリの記事一覧

セント・ヘレナのナポレオン 孤独と苦悩の日々 1

2011.10.16 - 歴史秘話 其の二
1815年6月18日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはワーテルローで大敗を喫し、退位を余儀なくされた。そして、ナポレオンはイギリス軍艦ベレロフォン号に投降して、その身を委ねた。ナポレオンはイギリス本土在住を希望し、その法の下での保護を要請した。しかし、イギリス政府が下した決定は、無情にも、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント・ヘレナへの移送であった。無論、ナポレオンはこれに強く抗議した。

「余はイギリスの捕虜ではない。余は貴国の法の保護下に身を委ねるべく、自由意志をもって赴いたのだ。イギリス政府は、個人の権利ともてなしという侵すべからざる権利を保障する、自らの国家の法に違反している。余は抗議し、イギリスの名誉に訴える」

だが、イギリス政府の決定は覆らず、1815年8月8日、ナポレオンは望まぬセント・ヘレナの旅路についた。


ナポレオンに付き従ってセント・ヘレナに赴く人員は、ベルトラン内大臣とその妻子、ラス・カーズ伯爵とその子息、モントロン将軍とその妻アルビーヌ、グウルゴウ将軍、イギリス人外科医オミーラ、それに従僕10人だった。一行を運ぶのはイギリス人提督コックバーンで、彼はナポレオンに敬意を払って丁重に対応した。8月9 日、フランス本土が視界に入ってくると、ナポレオンはデッキの上で帽子を取り、「さらば、勇士達の大地フランスよ、さらば」と万感の思いを込めて、つぶやいた。ナポレオンは航海中、読書や、従僕との歓談、英語学習をしながら日々を過ごした。度々デッキに現れてはイギリス人水兵と会話をし、気に入れば自室に招いて歓待した。夜になればトランプゲームに興じたが、いつも負けてばかりだった。


10月15日、船はセント・ヘレナに到着したが、一行は目の前に広がる荒涼たる光景に暗然となった。島には熱帯の焼け付くような太陽光が照り返し、周囲は300~600メートルの岩山がそびえたって、草木もほとんど生えていなかった。10月17日、ナポレオン一行は島に上陸したが、ロングウッド台地に用意された邸宅はまだ建設中であったので、しばらくは、島の中心地であるジェームス・タウンに滞在する事になった。ナポレオンはここでベツィ・バルコームと言う14歳の少女と知り合い、大の仲良しになった。ベツィはお転婆娘で、ある時はナポレオン一行に体当たりして、一行が倒れたり、ナポレオンがよろめく様を見ては大笑いするのだった。また、ある時はナポレオンの帯剣を引き抜いて、その頭上で振り回した事もあった。ベツィにそんな危険な真似をされてもナポレオンはご機嫌そのものだったが、ベツィが剣を置くとその耳を掴んでひねり、痛いと喚かれると今度はその鼻をつまんで強く引っ張った。さすがのナポレオンも、内心は冷や冷やものだったのだろう。


ナポレオンは流刑の身となってもあくまで皇帝としての威厳を崩さず、侍従達にも儀礼を遵守させていた。だが、ベツィだけは特別扱いだった。ベツィがナポレオンをボーニーとあだ名で呼んでも上機嫌で、気ままに部屋に遊びにきても、いつも満面の笑みで迎え入れた。ナポレオンはこの少女との触れ合いを楽しみにしていたが、それでも仮住まいの暮らしは不自由で、ロングウッドの邸宅の早い完成を望んでいた。12月10日、邸宅が完成したと聞くと、ナポレオン一行は早速そちらに移り住んだ。しかし、そこは、非常に厳しい自然条件にあった。灼熱の太陽光を避ける陰も無く、水も無く、絶えず南東の風に晒されていた。特に、夏には耐えられないほどの暑さとなった。セント・ヘレナの気候は概して健康に悪かったが、邸宅のあるロングウッド台地はとりわけ悪かった。それでも、ここに邸宅が建てられた理由は、監視が容易なためだった。


 
Naporeon2.jpg










↑セント・ヘレナのナポレオン


イギリス政府は、この小さな島に3千人もの兵士を送り込んでナポレオンを厳重に監視させた。ロングウッドを取り巻く岩山の山頂には、イギリス兵が常駐して行動の監視に当たり、海上でも警備船が島を巡回して警戒に当たっていた。更に念を押すように軍艦が常駐して、ナポレオンの脱出と、不審船の接近に備えていた。そして、イギリス人提督コックバーンも、皇帝一行に慇懃な態度を取りつつも、政府の訓令に従って徐々に拘束を強めていった。夜21時になると、邸宅の周辺にはイギリス兵の歩哨が立つので、夜間の外出は不可能となった。時には歩哨から、銃剣を突きつけられる事もあった。誇りをいたく傷付けられたナポレオンは、これら一連の監視強化に激しく抗議する。しかし、その結果、コックバーンとの関係は冷却化して更に締め付けが強化され、昼間でもナポレオンがイギリス人士官の随行無しで散策できる範囲は、邸宅から7キロまでに限定された。


ナポレオンの日常は、変化の無い単調なものだった。起床時間はまちまちで、夜が明けると乗馬で散歩をし、それから朝食を取った。14時頃風呂に入り、雑談するか口述筆記をさせた。入浴後は伯爵や夫人方を四輪馬車に乗せて、ロングウッド台地を廻ったりした。19時に夕食を取り、その後は読書、歓談、口述筆記などをする。22時以降、歓談し、眠気を催すとベッドに入った。ナポレオンは寝つきが悪く、2箇所にあるベッドを行き来しながら眠りについた。ベッドは質素な野戦用だったが、それが一番しっくりくるようだった。ナポレオンが待遇改善を訴え出ると、イギリス政府はもっと快適な地に邸宅を建設すると約束した。しかし、ナポレオンはその企画書を見た時、「この家を建てるには5年はかかるだろう。その時、余に必要なのは墓であろうに」と漏らした。ちなみにイギリス総督の邸宅は、同じセント・へレナに在りながら、日陰と水に恵まれた住み心地の良い建物だった。それはナポレオンの目に付かないように、散策を制限して存在が隠されていた。


1816年4月14日、セント・ヘレナ島の責任者として、ハドソン・ロウ総督が赴任する。それに伴って、コックバーン提督は本国に帰還していった。この頃、コックバーン提督とナポレオンとの関係は冷えきっていたが、それでもコックバーンは精一杯対応してくれていた。ナポレオンは次の新任総督との待遇の差を、身をもって思い知る事になる。4月16日、ナポレオンとハドソン・ロウは会談の場を持ったが、お互いに良い印象を抱かなかった。ロウはナポレオンを見下して皇帝とは認めず、ボナパルト将軍と呼んだ。ナポレオンは今でも皇帝としての威厳を重んじていたので、ただの将軍と呼ばれる事に憤慨した。ナポレオンは、この新任総督の悪意を感じとって、「この男は余の看守であるに留まらず、余の死刑執行人となるであろう」と断言した。


5月7日、両者は再び会談の機会を持ったが、長く激しい言葉の応酬となった。ナポレオンは、「あの男は不快極まる。礼儀も無ければ、教養も無い。二度と会いたくないぞ」と言った。ロウの方も、「ボナパルト将軍は己の状況の良し悪しが、総督たる私にかかっているという事を認識すべきだ。何時までも私に敬意を払わないのなら、私の権威を分からせてやろう。彼は私の囚人であり、私には彼の振る舞いを左右する権利がある」とまくし立てた。外部の人間がナポレオンと引見するには、ベルトラン内大臣に申し込めば良かったのだが、ロウは自らの許可無しにナポレオンに会う事を禁止した。これでナポレオンの交友関係は狭められ、外部からの情報も伝わり難くなった。ストレスの溜まったナポレオンは、侍従達に当り散らす事もあった。1816年6月に島を去った料理人ル・パージュの回想、「皇帝はちょっとした事でもすぐ怒り出す。カッとなるとビリヤードのキューを手にして邸宅中を駆け回り、口汚く罵りながら手当たりしだいに叩きのめした」


イギリス人侍医オミーラは、ナポレオンとロウとの仲介役を担っていたが、上手くいかず、「私は板ばさみだ。何の解決も出来ない。両者とも気難し過ぎる」とつぶやいた。ナポレオン宛ての書籍や手紙は差し押さえられ、経費の削減も申し渡された。そのため、ナポレオンは銀器を破壊して、それを売り払って不足分に割り当てるよう命じた。ロウは更に、随員4人をロングウッドから退去させ、雇っていた使用人も削減するよう申し渡してきた。ナポレオンは怒りながらも、これを受け入れた。それに加えて、ナポレオンの監視体制は一層強化され、ほとんど軟禁状態となった。従僕の1人は怒ってロウの暗殺を口にしたが、ナポレオンは、「そんな事をすれば、私の立場がどうなるか分からないのか。復讐など、断じてならん」と強く押し留めた。


1816年12月30日、ナポレオンと同世代で親友の様な付き合いをしていた、ラス・カーズ伯爵とその子息が逮捕され、離島を余儀なくされた。これはナポレオンにとって、大きな心の痛手となった。しかし、ラス・カーズ伯爵自身は、稀代の征服者の回想録を書いて、大ベストセラーにしたいという野心からエント・ヘレナ行きに従っていたに過ぎなかった。実際、帰国後に彼が出版した回想録は、大ベストセラーとなっている。ナポレオンは私生活では、モントロン夫人やベルトラン夫人と肉体関係を持っていたようだ。夫はそれを黙認していたらしい。1818年1月26日にモントロン夫人アルビーヌは女児を出産しているが、これはナポレオンの子供と言われている。しかし、このナポレオンに良く似た女児ジョゼフィーヌは、翌1819年9月30日に死亡する。


1818年2月18日、ナポレオンやモントロン将軍と仲違いしたグウルゴウ将軍が島を去った。同年2月24日、不自然な事件が起こる。邸宅の給仕長だった、チプリアーニが突然、激しい腹痛を訴えて倒れて3日後に死亡、同日中に1人の女召使いとその子供も同じ症状になって死亡した。生前のチプリアーニはただの給仕長ではなく、ナポレオンの間諜としての働きもしていた。ナポレオンがエルバ島に流された時には、大陸に送られて情報収集に当たっていた。ナポレオンがエルバ島を脱出して百日天下を取った際には、チプリアーニのもたらした情報に依るところが大きかったと云われている。1818年8月、ナポレオンが信頼していたイギリス人侍医オミーラがロウによって追放された。ナポレオンと親しくしていた者達は次々に島から去って行き、その孤独は益々深まっていくのだった。


1819年正月を迎える頃にはナポレオンは憔悴して、体の不調を訴える事が多くなった。新しく赴任してきたイギリス人軍医はナポレオンを診察して、瀉血(しゃけつ・血を抜く行為)をし、有毒な水銀入りの丸薬を飲ませた。現在から見ればかえって体を壊すような医療行為であるが、これは悪意あってのものではなく、当時はこれが最良の方法だと信じられていた。ナポレオンの目には隅が出来て、顔は青白くなった。そして、横腹に剃刀で切られるような痛みを感じると訴えた。ただ、鋭い眼差しだけが、往時のナポレオンを偲ばせた。ロウからの締め付けは続いていたが、それに立ち向かう気力は衰えてはいなかった。


ナポレオンは侍従に本を朗読させたり、自らの戦記や思い出を口述筆記をさせるのが常だった。自分について書かれた本で明らかな間違いを見つけると、「間違いだ。馬鹿げておる!」と怒ったが、良く書けた本であれば、自らが批判されていても「なかなか良い文章じゃ」と素直に評価した。また、ナポレオンは古き良き時代の思い出を時折、語った。「フランスではもう、炉端というのが消えてしまった。炉端での機知に富んだ、気の利いた会話は夕べの一時を過ごすのに欠かせなかったものだ。今では一族といった精神も失われておる。若い者が年寄りを敬う事も知らん」と言うのだった。ちなみに「最近の若い者は・・・」との台詞は古代エジプト時代から、現在まで使われている。


熱帯の島での生活は、ナポレオンだけでなく、多くの侍従達も体を壊す原因となった。モントロン将軍の夫人も島の気候で体を壊したため、離島を余儀なくされた。ナポレオンはこのモントロン夫人とその子供達3人との触れ合いを楽しみの一つとしていたが、それも失われた。1819年7月12日、夫人とその子供達が島を出る日、ナポレオンは侍従のマルシャンに、「余一人、この悲しい孤独の中で死んでいくのだ」と寂しげに語った。続けて、「死とて余にとっては恩恵となろう。余は死を急ぐつもりはないが、生きるために藁(わら)をも掴むような真似はせんぞ」と言った。行動範囲を狭められたナポレオンは、気分転換に部屋の改装をしたり、庭園や噴水を作らせたりした。また、菜園を作って、そこで取れた食材が食卓に上る事もあった。貧相な野菜ではあったが、収穫の喜びを噛み締めるのだった。


 
Napoleon.jpg













↑皇帝時代のナポレオン



 
Naporeon1.jpg













↑セント・ヘレナのナポレオン



 
PR

炎の革命家 吉田松陰 2

2011.09.05 - 歴史秘話 其の二
安政5年(1858年)、この年、幕府の大老、井伊直弼は朝廷の許可無く、日米修好通商条約を締結する。更に老中、間部詮勝(まなべ・あきかつ)を京都に派遣して、維新志士に対する弾圧を強めさせた。これらの情報に接すると松蔭は激怒して、井伊直弼と間部詮勝を取り除くべく、暗殺という非常手段を用いる事を決した。だが、井伊直弼の方は水戸浪士が暗殺を企てていると聞いたので、松蔭は間部詮勝の暗殺を企てた。それ以外にも、尊皇攘夷派の公卿、大原重徳を動かして、各藩に決起を呼び掛けさせる計画も立てていた。松蔭は自らの手で、革命を成そうと動き出したのだった。そして、長州藩の重役に大砲と弾薬の貸与を願い出て、江戸にいる高杉晋作、久坂玄瑞らにも協力を要請する手紙を送った。しかし、塾生の多くは松蔭の計画を危ぶんで、自重する。長州藩もこれまでは松蔭を大目に見てきたが、表立っての暗殺計画にはさすがに驚きを隠せず、安政5年(1858年)12月26日、放置して置くと何をしでかすか分からないと危惧して、再び野山獄に投獄した。 


江戸の塾生達から松蔭説得を頼まれた桂小五郎は、わざわざ萩まで赴いて時期尚早であると説き、教え子の高杉晋作、久坂玄瑞らも自重を促す手紙を送った。しかし、松蔭は自らの主張を改めず、逆に同調しなかった晋作らに怒りを含んだ手紙を送った。「江戸に居る諸友らと、僕とは意見が違うようだ。その分かれるところは、僕は忠義をするつもり、諸友は功業を成すつもり」。そして、松蔭は自分に付き従った塾生宛てには、「4、5年間は出獄の見込みは無いので、勤皇の行いも今日限りだ。同士の中にも然るべき人物はいない。長州も最早、どうしようもない。生きている事さえ、嫌になった」と破れかぶれの心情を語った。松蔭は塾生の多くが自分を支持してくれなかった事に腹を立て、晋作を始めとする塾生達に失望したと書き送り、数人には絶交状も送った。晋作は敬愛する師匠から罵られて一時期、自暴自棄になり、遊郭に通って酒色に耽ったり、道すがらに犬を斬った事もあった。しかしながら、晋作は孤立している松蔭を愛おしくも思って、郷里の友人に先生の世話を頼むと書き送ってもいる。 


安政6年(1859年)4月、松蔭の牢獄生活も半年近くなり、この頃になると大分、平静を取り戻してきて、野山獄で牢番や囚人相手に講義をするようになっていた。松蔭は絶望の淵から、草莽崛起(そうもうくっき)、すなわち、志ある在野の人々が立ち上がる事によってのみ革命は成されるとの考えに至り、自らその先駆けとなって倒れる事も辞さない覚悟を決めた。そして、塾生との関係修復に乗り出して、晋作にも落ち着いた手紙を送るようになった。「近頃は怒気も大分薄らいできた。数年間、在獄する内、藩の体制が変わって釈放される事になれば、その時こそ君達に相談したい事がある」と書き送った。


だが、同年5月14日、幕府より呼び出しがあり、松蔭は江戸に連れ出される事となった。この時、今だに野山獄に入牢中であった高須久子からは手拭いを送られ、松蔭との別れに際して歌を交し合った。久子は、松蔭から送られてきた書き付けを終生、大切に持ち続けた。5月24日、松蔭に心酔していた司獄、福川犀之助の特別の計らいによって、松蔭は1日だけ実家の杉家に戻る事を許された。この夜、母の滝は松蔭を風呂に入れ、その背中を流した。そして、「元気に帰って来るのですよ」と声をかけると、松蔭も「はい、必ず元気で帰ってきます」と答えた。翌5月25日、松蔭は籠で江戸へと送られて行き、6月25日に江戸に着いた。 


7月9日、松蔭は幕府の評定所に送られ、吟味を受ける。幕府の呼び出しは、安政の大獄で獄死した攘夷志士、梅田雲浜と謀議をしたのではないか?御所内に置かれた投書は松蔭が書いたのではないか?と問うものであった。何れも松蔭はまったく関与しておらず、間部詮勝の暗殺計画も幕府は知らなかったので、白を切っていれば重罪になる事はまず無かったろう。だが、松蔭は、暗殺計画は既に幕府に知られているだろうと考えて、それを正直に告白した。それに加えて黒船来航以来の幕府の姿勢は明らかに間違っていると、自らの思うところを滔々と語るのだった。松蔭の思いがけぬ告白に幕府役人は驚いたが、松蔭自身は重くて遠島送りか、軽くて牢獄に蟄居させられるぐらいにしか考えていなかった。松蔭は小伝馬町の牢獄に送られ、追って沙汰を待つ身となった。 


この時、江戸にあった晋作は、牢獄で不自由していた松蔭のために奔走し、その求めに応じて牢名主に送る金子を用立てたり、書物なども差し入れた。晋作は懸命に師匠に尽くし、ために松蔭も深く感謝する。二人は一事の諍いを乗り越えて、強い友情で結ばれた。しかし長州藩は、晋作が、今や政治犯となった松蔭の身の回りの世話をする事に眉をひそめ、萩への帰国を命じた。松蔭はこれに落胆しつつも、「この災厄に遭っている時、君が江戸に居てくれた事は非常に幸せであった。君の厚情は忘れない。急に御帰国とは残念でならない」と別れの言葉を送った。安政6年(1859年)10月17日、晋作は後ろ髪を引かれる思いで、江戸を発った。9月から10月にかけて、幕府による吟味が続いたが、時の大老、井伊直弼は松蔭を危険人物と見なして、死罪を下した。 


松蔭は見通しの甘さを悔いたが、覚悟を定め、安政6年(1859年)10月20日には、父、母、叔父、兄、義母宛ての遺書、「永訣の書」を記す。その冒頭には、両親への時世の句が読まれている。 

「親思ふ 心にまさる 親心 けふの音づれ 何ときくらん」 

10月25日から26日にかけては塾生宛ての遺書、「留魂録」を記す。その中で、松蔭は人間の生涯を穀物の四季に例えて、塾生に語りかけた。 

「私は30歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実りを迎えたが、それがもみ籾なのか、成熟した粟なのか、私には知る由がない。もし、同志諸君の中で、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずに年々実り続けるのと同じである。同士諸君、よくよく考えてほしい」 

安政6年(1859年)10月27日、刑場へと連れ出されていく際、松蔭は歯をかみ締め、無念ありありの様相であった。しかし、いざ執行の時が来ると松蔭は泰然自若とし、処刑人の山田浅右衛門すら感嘆させたと云う。そして、居合わせた幕府役人にも惜しいと思われつつ、江戸小伝馬町にて斬首に処された。吉田松陰、享年30。生涯独身であった。 


松蔭の残した「留魂録」は後に塾生の間で回し読まれ、彼らは大いに悲憤した。松下村塾の筆頭格であった高杉晋作は、藩の重役宛てに、「私は松蔭先生の弟子として、この仇を討たずにはいられません」と決意の程を述べた。松蔭が松下村塾を建てて教えたのは僅か1年に過ぎず、実家の幽囚室で教えた1年半を加算しても2年半でしかない。だが、松蔭がその身をもって示した憂国と激情の念は、松下村塾の塾生に受け継がれ、それが倒幕の原動力となっていく。松下村塾出身で、動乱を切り抜けて明治の高官に登った者として伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義らがおり、雄才を有しながら動乱最中で命を散らした者として、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿らがいる。 


松下村塾
↑左から山田顕義、高杉晋作、伊藤博文 


彼ら松下村塾の面々は、激情の師の生き様に感化され、時に暴発して無謀な戦いに身を投じる事もあった。だが、その失敗にも学び、屈する事なく行動し続けた結果、維新の回天は成ったのだった。尚、松下村塾の出身では無いが、長州出身の明治の偉人として、木戸孝允、大村益次郎、井上馨、桂太郎、乃木希典、児玉源太郎らの存在も忘れる事は出来ない。彼らも松蔭の存在は知っていたはずであり、その行動、思想に何らかの影響を受けた事は想像に難くない。 


松蔭が残した思想と格言の数々。 

一君万民論 (天皇の下に万民は平等である) 

飛耳長目 (何時も情報収集を怠らず将来の判断材料とせよ) 

草莽崛起 (志有る在野の人々よ立ち上がれ) 

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない) 

俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてはいけない) 

不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな) 

且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ) 

百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない) 

君子勿素餐 (君たちよどうかいたずらに時を過ごさないでほしい) 

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり(真心込めて訴えれば相手は必ず分かってくれる) 

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし (死んでも志が残るのであればいつでも死ねばよい、生きて大事を成せる見込みがあるなら諦めずに生き抜くがよい) 



炎の革命家 吉田松陰 1

2011.09.05 - 歴史秘話 其の二
吉田松陰は、幕末の思想家、教育者、そして、革命家として名高い存在である。 


天保元年(1830年)8月4日、松蔭は、長州藩士、杉常道の次男として誕生する。天保6年(1835年)、6歳の時、山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となるが、翌年、養父の大助が病死したため、7歳の松蔭がその名跡を継いだ。この後、松蔭の叔父で、山鹿流兵学免許皆伝の玉木文之進から厳しい、禁欲的な幼年教育を受けた。天保9年(1838年)、松蔭9歳の時、藩校明倫館の見習教授となる。天保11年(1840年)、松蔭11歳の時、藩主毛利敬親の前で山鹿流兵学の講義をし、賞賛される。天保13年(1842年)、叔父、文之進が松下村塾を開くと、松蔭もここに入門した。嘉永3年(1850年)、松蔭21歳の時、小倉・佐賀・平戸・長崎・熊本等を遊歴した。 


嘉永4年(1851年)、松蔭22歳の時、長州藩の命を受けて江戸に遊学し、ここで洋学の第一人者である佐久間象山と出会う。松蔭は象山の人物に心酔し、弟子入りして蘭学と砲術を学び始める。ちなみに、幕末の志士達は芸妓好きで知られており、そのような若者が花の江戸に出たとすれば、まず吉原に向かったりするものであるが、松蔭にはまったくそんな気配は無かった。松蔭は女性には奥手で、周りからは仙人と呼ばれていた。この年、松蔭は東北旅行を友人と約したが、出発期日までに通行手形が下りなかったため苦慮する。だが、松蔭は友人との約束を重んじて、思い切って脱藩した。嘉永5年(1852年)、松蔭は東北各地をくまなく遊歴した後、江戸に戻ったが、脱藩の罪を問われて、士籍剥奪、家禄没収の処分を受けた。翌年には許され、諸国遊歴も許可される。 


嘉永6年(1853年)7月4日、アメリカのペリーが日本に来航した聞くと、松蔭は佐久間象山と共に浦賀に向かい、そこで黒船の威容を目の当たりにした。それは、当時の日本では到底建造不可能な代物であり、松蔭は先進文明の技術にいたく感銘を受けた。しかし、同時に、その脅威に接して膝を屈せんとする幕府の姿勢に屈辱も感じた。そして、海外の情報収集に努め、更に洋学研究に打ち込むようになった。それからほどなく、ロシアのプチャーチンが長崎に来航したと聞き付けると、松蔭は海外渡航するとの一大決心を固め、同年9月18日、江戸から長崎に向かった。同年10月27日、松蔭は長崎に着いたものの、プチャーチンはすでに出航した後であり、同年12月27日に江戸に舞い戻った。これらの旅は、ほとんどが徒歩である。 


安政元年(1854年)1月、ペリーが日米和親条約締結のため、横須賀の浦賀に現れると聞くと、松蔭は今度こそ宿願を果たさんとの決意を固める。そして、ペリー艦隊が伊豆の下田沖に移動すると、弟子の金子重之助と共に後を追って下田に入った。同年3月27日、松陰は上陸中のアメリカ水兵を見かけると、ペリー宛ての漢文の嘆願書「投夷書」を手渡した。 

それは要約すると、こう書かれている。 

「私達2人は卑賤の身で、小禄の者です。これまでただ空しく歳月を過ごしてきた無知の者です。そんな私達ですが、書を読み、西洋の進んだ文明を知るにつれ、この目で実際の世界を見たいと思うようになりました。しかし、我が国では、海外への渡航が厳しく禁止されており、どうする事も出来ませんでした。そんな折、貴国の軍艦が来られました。ここにおいて、宿念の思いを実行せんと決意した次第です。乗船させて頂けるなら、船内の如何なるご用も引き受けるつもりです。しかし、我が国の国禁は未だ解かれておりません。事が露見すれば、私達は捕らえられ斬刑に処されるでしょう。その様な訳ですから、出航するまでは私達を匿ってください。言葉では十分に伝える事は出来ませんが、以上は我々の心からの願いであります故、どうか疑わないでください。よろしくお願い申し上げます」 


夜になると、松蔭と金子重之助は小舟を漕ぎ出し、苦労して黒船への接舷に成功する。そして、松蔭はペリーの通訳と話し合い、広い世界を見聞するため、乗船させて頂きたいと懇願した。しかし、ペリーの意を受けた通訳からは、「目的は理解するし、同行させたいのはやまやまであるが、現在、アメリカと日本とは条約を結んだばかりであるので、波風を立てる訳にはいかない」と断られる。松蔭らはそれでも諦めず、長時間に渡って話し合いを続けたが、聞き届けられる事は無かった。松蔭らは空しく引き返す他、無かったが、小舟が流されてしまったため、艦隊のボートで海岸まで送り届けられた。だが、流された小舟には、密航の証拠となりうる書類が載せられてあった。そのため、松蔭らは必死になって海岸を捜し回ったものの、とうとう見つける事は出来なかった。それが人目に付けば、すぐに密航は発覚するだろうと考え、松蔭は潔く下田奉行所に自首する。 


松蔭は下田から江戸の獄に移される事になった。その途中、赤穂浪士の霊が弔われている泉岳寺を通りかかった時、一句を手向けた。 

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 

松蔭は死罪も覚悟の上であった。 

ペリーは、この出来事を遠征記に記している。 

「この事件は、厳しい国法を犯し、知識を増すために命まで賭けようとした2人の教養ある日本人の激しい探究心を示すものとして、興味深いものであった。日本人は探求好きな民族で、道徳心、知的能力を増す機会があれば、進んでこれを迎えたものである。この2人の行動は、同国人に特有のものと信じられる。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の将来には、なんと広い展望が広がっていることか!」 

ペリーは日本に開国を迫った時、尊大に構えて、どこか日本人を見下した態度を取っていた。けれども、松蔭らの命を賭しても学びたいという姿勢には心を打たれ、日本人に対する認識も改めたのだった。そして、松蔭らが捕われたと聞くや、直ちに助命嘆願を行った。 

「2人の行為は、日本の法律に触れるものであったかも知れない。しかし、私達から見れば、自由にして賛美すべき好奇心の発露に過ぎない。どうか、2人に対して寛大な処置を取られん事を望む」 


このペリーの嘆願書と、松蔭自身の憂国の一念から行ったものなのだとの説明もあって死罪は免れ、郷里の萩にて投獄される身となった。安政元年(1854年)10月、松蔭は萩に送られると、士分の幽閉先である野山獄に入れられ、従者の金子重之助は、庶民の幽閉先である岩倉獄に入れられた。松蔭は幾分、ましな環境の野山獄で囚人相手に孟子の講義を始めるが、より劣悪な環境にあった金子重之助は病んで、安政2年(1855年)1月に獄死する。これを伝え聞いた松蔭は嘆き悲しみ、それから出獄するまでの1年間、食費を節約し、金子を貯めて遺族に送った。その金子は石造りの花筒となり、現在でも重之助の墓前に供えられていると云う。 


この野山獄で松蔭は1人の女性と出会い、親しく言葉を交わす様になった。女性は高須久子と云い、藩士の娘であったが、遊芸好きな上、奔放な性格であったので、乱惰(らんだ)の所業として入牢させられていたのだった。この時、久子は37歳で、松蔭は25歳、久子の方が一回り年上であったが、2人は獄中で催された連歌会で歌を交わすなど、心の交流を重ねた。これが松蔭唯一の恋と、呼ばれている。安政2年(1855年)12月、松蔭は野山獄からの出獄を許され、代わって実家の杉家に蟄居するよう申し渡された。 


安政3年(1856年)、松蔭は実家の幽室に親族や近隣の者を集めて、孟子の講義を始める。その講義は評判を呼び、やがて城下からも人がやってくるようになった。安政4年(1857年)、受講人数が増えて狭い幽室に入り切らなくなると、松蔭は納屋を増改築して、そこを教育の場とした。これが、松下村塾の始まりである。この塾名は、かつて叔父の玉木文之進が開き、松蔭自身もそこで習った、松下村塾の名を受け継いだものである。当時、長州藩には明倫館と呼ばれる全国屈指の立派な藩校があって、それと比べると松下村塾は物置小屋を改装しただけの粗末な塾だった。それでも、松下村塾には明倫館には無い魅力があった。 


明倫館は朱子学を基本に封建的身分制が保たれ、教育内容も訓話が中心であったのに対し、松蔭の松下村塾は自由な気風に溢れ、町人、武士を問わずに塾生を受け入れて、師弟が一緒になって時勢を討議した。松蔭は誰に対しても公正に接したから、松下村塾には魚屋、医者、士分などの雑多な身分の若者が集まり、塾生達も身分の垣根を越えた交友関係を持った。例えば、高杉晋作は150石取りの士分の1人息子であったが、その家に足軽小者の子の和作と忠三郎が訪ねたり、逆に晋作が和作の家をぶらりと訪ねる事もあった。当時、身分や格式による上下関係の差は揺れ動いてはいたが、まだはっきりと残っていた時代である。 


この松下村塾を支えていたのは、松蔭だけではない。杉家の長男で松蔭の兄の杉梅太郎も、経済面で何かと支えてくれたし、叔父で藩の代官となっていた玉木文之進は、松蔭の後見役となっていた。それに親友の楫取素彦(かとり もとひこ)や幼馴染の久保清太郎らも一緒になって塾生の教育に当たっていた。松下村塾は、松蔭を軸に杉家が一体となった私塾であった。松蔭は尊皇攘夷の思想家であるが、ただ単純に外国人を排斥せよとの狭隘な考えは持ち合わせていなかった。世界を広く見聞し、進んだ知識を取り入れて富国強兵に励み、その上で諸外国に相対せよと云うものだった。松蔭は講義に当たっては、自らの信念を語りながらも、一方的に考えを押し付ける様な真似はしなかった。 


塾生の回顧によると、松蔭は誰に対しても親切で、言葉使いも丁寧であった。塾生には友人の様な姿勢で接し、分からない事があれば、すぐ側まで行って説明した。松蔭は実学を重視し、現実の世界で役立つ人間を育てたいと願って、学んだ事は実際に実行せよと説くのだった。松蔭の口癖は、「勉強なされませ」だったが、それはいたずらに知識を詰め込むのではなく、勉強への意欲を見せよと言うものだった。松蔭は学習成績は重視せず、何よりも学習に取り組む態度や意欲を評価基準とした。松蔭は塾生が自主的に行動する事を望み、持って生まれた素質を伸ばすように仕向けた。 


また、松蔭は、塾生を江戸や京都に遊学させて見聞を広めさせると共に、各地の情勢を探らせてもいる。そして、その情報を萩の自らの元へと届けさせたので、松蔭は幽閉の身でありながら、世の動向を手に取るように掴んでいた。江戸で塾生達の面倒を見たのが、桂小五郎(木戸孝允)である。小五郎は松蔭よりも3歳年下で、嘉永2年(1849年)からの付き合いだった。小五郎が松下村塾で学んだ事は無いが、松蔭とは度々会って親交を深めており、お互いに同士と認め合う仲であった。江戸での塾生達は小五郎を兄貴分として慕い、その下で勉学や情報収集に励んだ。 


ちなみに桂小五郎は凛々しい風貌であって、古写真にもそれを認める事が出来る。しかし、松蔭の風貌は冴えなかったようだ。塾生の回顧によれば、「先生の風采は極めて粗野なもので、かつ無精なお人であった。衣服は汚れ放題、破れ放題、手を洗うと袖で拭き、頭髪は2ヵ月も結い直さず、見るからに上がらない風采だった」とある。世間の人々から見れば、変人に映ったかもしれない。しかしながら、塾生達は、松蔭の内に秘める激情、実行を伴う行動力、進歩的な思想、純粋な憂国の念には惹かれて止まなかった。


木戸孝允
↑桂小五郎(木戸孝允) (ウィキペディアより)


吉田松陰
↑吉田松陰(ウィキぺディアより)

首斬り浅右衛門

2011.07.03 - 歴史秘話 其の二
 江戸時代、刀剣の試し斬りと、斬首刑を専門とする特殊な一門が存在していた。試し斬りとは、処刑された罪人の死体を土壇(どだん)に載せてから、刀を大きく振りかぶって打ち下ろし、その切れ味の程を確かめる事である。現在から見れば、甚だ野蛮な行為であるが、当時は据物(すえもの)と呼ばれる武術の一種として認められており、特に将軍家のための試し斬りは御様御用(おためしごよう)と称され、名誉ある職と見なされていた。この御様御用を務めていたのが、山田一門と呼ばれる技術集団である。初代の貞武(さだたけ)から始まり、その跡を継ぐ者は代々、浅右衛門を襲名していた。


山田一門は試し斬りだけでなく、死刑執行人としても活動していた。山田一門によって斬首された罪人は数知れず、有名どころでは橋本左内や吉田松陰も含まれている。そのために人々から首斬り浅右衛門や、人斬り浅右衛門と呼ばれたのである。だが、これらは決して簡単な役目ではなかった。試し斬りをするには相当な技術が必要で、人の首を一刀両断するのも、技術に加えて、躊躇なく人の命を断つ、強靭な精神力が必要とされた。生半可な腕と心の者が首を落とそうとすれば、仕損じる事があり、そうなれば罪人に余計な苦しみを与える事になる。そのため、山田一門は厳しい修練を積み、一刀で首を打ち落とす、確かな腕を持った者を当主としていた。また、今際の際(いまわのきわ)の罪人が残す、時世の句を解するため、俳諧の修行も行っていた。この様に山田浅右衛門を襲名するには、文武両道の達人で無ければならない。しかし、山田一族から当主に足る者がいなければ、弟子の中から力量ある者を選んで養子とし、浅右衛門を襲名させて、その家風を受け継がせていった。


これらの役目は、武家政権である徳川幕府にとって必要不可欠なものであった。しかし、死を司る不浄な役目でもあったので、山田一門は正式な幕臣とはされず、浪人身分のまま雇われていた。だが、山田一門の財力は、数万石の大名並であったと云われている。山田一門は幕府、旗本、大名から依頼される試し斬り、刀剣鑑定などで相当な収入を得ていたが、それよりも巨利を得られたのが、人の内臓を用いた製薬の販売である。山田一門は御様御用の役得として、罪人の死体から肝臓、胆嚢(たんのう)を取り出して製薬販売する事を許されていた。当時、肝臓や胆嚢は、肺病に良く効く妙薬であると信じられていて、高値で出回っていたのである。


山田一門は処刑を執行し、その死体を試し斬りにし、さらに内臓を取って製薬を作る。世の人々は、山田一門の技には畏敬の念を持っていたが、その家業は忌み嫌ってもいた。しかし、山田一門に取っても、この家業は心身を著しく消耗するものであった。いくら罪人であっても人である事に変わりは無く、多数の処刑を執行した日には、体よりも心が疲れ果てて夜も眠れなかった。そのため、処刑をした日には宴会を開き、大騒ぎをして気を紛らわしていた。また、罪滅ぼしのため、罪人のための供養塔や寺院を建立したり、貧民の救済にも努めたとされている。


山田一門の家業は、武家の世が続く限りは安泰であった。しかし、明治の世を迎えると、試し斬りや人体の製薬は禁止されて、山田一門の最大の収入源が失われてしまう。それでも、しばらくは処刑執行人として斬首を担っていたが、それも明治13年(1880年)に絞首刑に切り替えられると、山田一門は完全に存在意義を失ってしまう。こうして山田一門は、武家の世の終わりと共に急速に没落してしまった。だが、その一方で、最後までその家風を守り抜いた者もいる。それが、最後の浅右衛門とも云われる山田吉亮(やまだ よしふさ)である。吉亮は安政元年(1854年)の生まれで、少年の頃から剣の才を発揮し、12歳にして斬首刑を執行したとされている。それ以来、多数の斬首刑を執行し、有名どころでは、雲井龍雄(維新の志士で元議員)や、高橋お伝(後に映画や小説のモデルとなった殺人犯)の斬首役も勤めたが、明治13年に斬首刑が禁止されると浪人となった。


吉亮は山田家から受け継いだ人胆(胆嚢)を隠し持っていて、金に困るとそれを売って糊口を凌いでいた。それでも食うに困り出すと、明治25年(1892年)、吉亮38歳の時から、知人の表具師(ひょうぐし)の職人宅を度々訪れるようになる。吉亮はここの主人からお小遣いをもらうまで、何日でも居候を決め込むのだった。吉亮の身嗜みは整っていたが、独身で洗濯をしないからか、虱(しらみ)を大量に飼っていた。主人の妻子はこの無遠慮かつ、虱を家中に撒き散らす居候を嫌っていた。吉亮は豆が嫌いであったので妻子があえて赤飯を出すと、敵もさるもの、箸で一つ一つ豆をつまみ出してから食べるのだった。だが、生真面目な一面もあり、妻子から手伝いを頼まれると、「はい」と答えて嫌な顔一つせず、仕事をこなすのだった。それに達筆の持ち主で、主人に代わって代筆をする事もあった。


毎回、布団は丁寧に折り畳み、365日欠かすことなく、袴(はかま)をきちんと着こなすなど几帳面なところがあった。体格は小柄だが、気迫が漲っているかの様な迫力があり、その鋭い眼光は、人の心底まで見透かしているかの様であった。実際、吉亮は、ある人の面相を見て死を予言し、それを的中させて一家を驚かせた事があった。普段は物静かであるが、子供が誤って袴の裾を踏んだ時には、顔に怒気を含ませ、「打首にするぞ」と凄んだ。この時の顔は、本当に恐ろしかったそうである。この家族の回顧によれば、吉亮は東京の薬屋に頻繁に出入りしていて、人胆の取引をしていたようだと語っている。その縁あってか、明治44年(1911年)に吉亮が58歳で亡くなると、葬儀は薬屋が執り行っている。



その後の山田家であるが、明治18年(1885年)、山田吉顕(よしあき)が九代目浅右衛門を襲名したものの、最早、名目だけであった。昭和に入ると跡継ぎは絶え、嫡流は途絶えてしまう。明治以降の山田一族には不幸が立て続き、病死、事故死、徴用による戦死、が付きまとった。縁起の悪さから名跡を継ぐ者はいなくなり、やがて山田家は消滅するに至った。


yoshihiro.jpg













↑山田吉亮

明治36年(1903年)12月17日、吉亮50歳時の写真と伝わる。
 
主要参考文献「大江戸残酷物語」


カリブの海賊

2011.06.17 - 歴史秘話 其の二
カリブ海とは、北は大アンティル諸島のキューバ、ドミニカ、西は中央アメリカのコスタリカ、ニカラグア、南は南米のベネズエラ、コロンビア、東は小アンティル諸島までを範囲とする海域である。 かつて、この海域は、先住民が小舟に乗って漁をしたり、ささやかな貿易をするのみであった。しかし、そこへヨーロッパ人が大船に乗って現れると、平和な海はたちまち激変する。ヨーロッパ人は先住民を虐げるばかりか、列強と海賊が相争う、修羅の海となったのである。その切っ掛けとなったのがヨーロッパ人による、アメリカ大陸発見と植民活動である。


1492年、コロンブス率いるスペインの船団が、アメリカ大陸に達した。ヨーロッパの人々は、これを快挙と捉えて、興奮の渦に包まれた。しかし、アメリカの先住民にとっては、悪夢の始まりとなった。そして、これ以降、スペイン人は大挙として中南米に押し寄せ、先住民達を虐げつつ、無慈悲な征服活動を進めていった。スペインは、1521年にはアステカ帝国を、1533年にはインカ帝国を滅ぼし、莫大な財宝を手中にした。更に1545年、南米(現在のボリビア)でポトシ銀山が発見されると、大量の銀が産出されるようになった。こうしてカリブ海一帯は、金銀財宝をヨーロッパへと運ぶ船で満ち溢れるようになる。財宝目当てに多くのスペイン人が中南米に渡り、各地に植民都市を建設していった。


しかし、財宝に惹き付けられたのはスペイン人だけではなかった。富を独り占めにはさせじとフランスが、次にイギリスが、17世紀からはオランダが、それぞれ私掠船を派遣してスペイン船を襲撃するようになる。私掠船とは、国家公認の海賊である。それだけでなく、財宝の噂を聞き付けたヨーロッパ各地のあぶれ者達が、中南米に殺到するようになり、彼らも海賊となってスペイン船を襲うようになった。これら海賊や私掠船の集団は、「バッカニア」と総称されて、恐れられた。スペインも対策として輸送船に軍艦を付けて護送船団を組んだり、軍を派遣して海賊の根拠地を攻撃したりしたが、海賊行為は激しくなる一方であった。


17世紀、カリブの海は、勇猛かつ貪欲な海賊で満ち溢れるようになった。彼らの激しい海賊活動によって、スペインの植民地支配が揺るぎ出すと、ヨーロッパ列強は割り込む様に各地に拠点を築いていった。カリブ海の中核となる西インド諸島には、フランス人やイギリス人が植民するようになり、さらにアフリカから連れられてきた奴隷によって人口は急増した。これらの人々の多くは、社会の最底辺に位置しており、容易に海賊行為に走った。また、当時の商船の多くは傲慢で残忍な船長の下、船員は過酷な扱いを受けていたので、彼らも海賊に加わる事が多かった。


海賊の国籍は様々で、ヨーロッパ各地の白人、アフリカの黒人奴隷、白人と黒人の混血、南米の原住民など、非常に国際的であった。海賊船の乗員の大抵は20代の若者で、船長になる者は、30代から40代くらいだった。そして、大部分の海賊は独身だった。海賊となった者の多くは、社会の圧制から逃れて来た者達であり、彼らは権威に縛られる事を大変嫌った。しかし、中には海賊の捕虜となり、仕方なしに仲間になる事を強いられた者もいた。彼らは自分達の自由を守るため、民主的な方法で組織を運営している。例えば、ヨーロッパの海軍が会議をする際には、参加を許されるのは士官のみであったが、海賊の場合は全乗員が参加する事が出来た。


船長は多数決で選出され、同じく多数決で罷免する事も出来た。船長に次ぐ地位である操舵手は、乗員の代表でもあった。船長、操舵手、外科医、船大工などの少数の熟練した技術者には、多めの略奪品が分け与えられたが、それ以外は全乗員に公正に分配されるのが基本であった。しかし、獲物が無けらば、もちろん報酬などは無い。海賊とは、博打打ちのような職業であった。それでも、海賊ならではの保障もあった。当時の国家では、障害者に対する保障などほとんど無かったが、海賊では、戦闘や航海で手足を失うような者がいれば、補償金が支払われている。


海賊の乗り込む船は、全長30メートルほどの2、3百トンクラスの船が多かった。獲物と狙う相手の方が大型船である場合が多いが、大胆不敵な海賊達は度々、挑戦しては勝利を収めている。糧食や器具は、他の船からの分捕りで多くを補っていた。航海用具は貧弱で、海図も不正確なものだった。だが、彼らの技術は確かであり、経験と勘を頼りに各地を航海した。海賊が掲げる旗で有名なのは、黒の生地に二本の骨が交差する頭蓋骨である。実際には様々な絵柄であったが、黒地である事はほぼ共通していた。海賊はこの黒地の旗をたなびかせ、乗り込んでいた楽士が不気味な演奏を奏でつつ、獲物に接近する。これは、相手の恐怖心を煽って、早期に降伏させる心理的効果を狙ったものである。


海賊達は、獲物を狙う時、砲撃戦よりも接近戦を図った。船をなるべく傷付けずに、積荷ごと奪うためである。1985年、北米大陸東岸、トッド岬沖で発見された海賊船ウィダ号からは、海賊の戦術を推測できる遺物が見つかっている。船には、スペインの金貨や銀貨、腕輪や指輪などの豪華な財宝に加えて、多くの武器、弾薬類も積み込まれていた。弾薬の打ち分けは、ピストル、散弾銃、マスケット銃、それに手投げ弾だった。これらの武器は、船体をあまり傷付けずに甲板上の敵を殺傷可能であった。それと、回収された骨と衣服から推測した結果、ウィダ号の海賊達の平均身長は、165センチであった。海賊と言えば、大柄な荒くれ男と想像しがちであるが、そうでもなかったようである。


17世紀半ば、イギリスはジャマイカ島を占領し、ここにポート・ロイヤルと云う理想的な港湾を見つけた。このポート・ロイヤルは、カリブ海の海運ルートの中心に位置していた。現地のイギリス総督はスペインを苦しめてやろうと企み、周辺の海賊を歓迎して招き入れた。海賊達も拠点が得られると喜び、ポート・ロイヤルに殺到するようになる。町はたちまちの内に、略奪品の金銀で溢れかえるようになった。町には貨幣所が作られて容易に換金できるようになり、さらに居酒屋、売春宿、賭博場が雨後の竹の子の様に建ち並ぶようになった。海賊達は略奪してきた金銀を毎夜毎晩、町で馬鹿騒ぎしながら撒き散らした。こうしてポート・ロイヤルは、海賊の楽園となった。イギリスから遥々やって来たある牧師は、このポート・ロイヤルで神の教えを説こうとしたが、海賊、殺人者、売春婦などで溢れかえっている町を見て絶望し、来た船で戻ってしまう出来事もあった。


カリブの海賊は、財宝を積んだ船だけでなく、植民都市も頻繁に襲った。海賊らはカリブ海周辺の沿岸都市を襲っては、住民を虐殺暴行し、略奪の限りを尽くした。また、町を破壊しないかわりに、法外な代償金をせしめる事も多々あった。捕虜となった者は、脅しと拷問を受けて財産の在り処を吐かされ、それが身分の高い者であれば、高額の身代金が要求された。カリブの海賊は恐るべき体力を誇り、大胆不敵かつ残忍だった。時に守備隊の方が数的に優勢であっても、彼らは粘り強い戦闘力を発揮して度々、勝利を収めている。彼らの活動は現地の住民にいつまでも恐怖の記憶として残り、子孫代々に渡って語り継がれていった。


スペイン側も捕らえた海賊は容赦なく殺害していったが、それでも攻撃が収まる気配は無かった。スペイン人が目の色を変えて中南米各地の住民から巻き上げた財宝は、同じく目の色を変えた海賊によって狙われ続ける運命にあった。略奪に成功した海賊がポート・ロイヤルに凱旋すると、酒、女、博打などのあらゆる放蕩にふけった挙句、数日の内に稼ぎを使い果した。これが、典型的な海賊の生態だった。莫大な財宝を得て海賊業から足を洗い、楽隠居を決め込む者もいたが、そういった者は少数に過ぎない。海賊の職業病はアルコール中毒で、大抵、若くして死んでいった。


海賊となった者には、一獲千金を得られる機会が確かにあった。そして、スリル、暴力、酒、女を存分に味わう事も出来た。しかし、その反面、リスクも大きく、戦闘、壊血病、暴風雨、熱帯病などが頻繁に彼らを襲った。また、海賊行為を行った者が官憲に捕まると大抵は縛り首となり、見せしめとして、目立つ場所に骸骨になるまで吊るされる事になる。それでも彼らはリスクを取って、海賊行為を続けた。例え平民として生きても、支配者から搾取されて長く貧しい生活を送るだけであり、それならば太く短く、自由気ままに生きようとしたのである。


1692年、ジャマイカに大地震が発生し、ポート・ロイヤルは地震とその後に襲ってきた大津波によって壊滅した。市街の大部分は海中に没し、2千人余の人々が死亡した。この町の成り立ちを知る人々は、神の審判が下ったのだと噂した。海賊の楽園は消え去ったかに見えたが、今度はバハマ諸島の島の1つ、ニュー・プロヴィデンスが新たな海賊の基地として注目される事になる。ここはすぐさま海賊の巣窟となり、たちまちの内に居酒屋、売春宿が建ち並ぶようになった。そして、彼らの吐き出す略奪品を目当てに、多くの商人も集まってくる。ここは海賊の楽園、第二のポート・ロイヤルとなった。海賊達は、俺達が死ぬ時には天国ではなく、ニュー・プロヴィデンスに帰るのだと言った。


200年余りもの間、カリブの海は海賊達に大いなる恵みを与えていた。だが、17世紀も後半になると、その実りは乏しくなる一方となる。財宝を運ぶ船はめっきり少なくなり、それに代わって植民地産の農産物などを運ぶ船が増えるようになった。それでも海賊をするしか能のない者は、農産物や日用品などを略奪したが、それらはほとんど金にならなかった。そんな海賊達に追い討ちをかける様に、これまで海賊活動を支援してきたイギリス、フランスが方針を転換して、基地の提供を拒否するようになる。今まで我が物顔でカリブの海を闊歩してきた海賊達に、暗い影が差し始める。だが、ロウソクの最後の灯火の様に、海賊達は再び活発な活動を開始した。


18世紀前半、黒髭を代表とする勇猛果敢な海賊の首領が次々に登場して、周辺の海域を支配したのである。ニュー・プロヴィデンスを中心に、海賊達の黄金時代が幕が開く。しかし、それは30年ばかりの期間でしかなかった。この頃から、国家として強力に成長してきたヨーロッパ諸国が海賊活動を強硬に取り締まるようになり、海賊の傍若無人な振る舞いを憎んでいた人々もこれに支持を与えた。1718年11月には海賊の代表格、黒髭が討ち取られて晒され、続いて1720年代には、名立たる海賊の船長達が片っ端から殺されたり、縛り首となる出来事が起こった。これ以降、カリブ海における海賊行為は急速に尻すぼみとなってゆく。これは、一世を風靡したカリブの海賊の終わりを告げる出来事であった。



 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
 最新記事 
 カウンター 
 アクセス解析 
 GoogieAdSense 
▼ ブログ内検索
▼ カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
▼ 最新CM
[04/24 DennisCal]
[04/16 Jharkhand escorts]
[03/14 お節介爺]
[05/12 杉山利久]
[07/24 かめ]
▼ 最新TB
▼ ブログランキング
応援して頂くと励みになります!
にほんブログ村 歴史ブログへ
▼ 楽天市場