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セント・ヘレナのナポレオン 孤独と苦悩の日々 1

2011.10.16 - 歴史秘話 其の二
1815年6月18日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはワーテルローで大敗を喫し、退位を余儀なくされた。そして、ナポレオンはイギリス軍艦ベレロフォン号に投降して、その身を委ねた。ナポレオンはイギリス本土在住を希望し、その法の下での保護を要請した。しかし、イギリス政府が下した決定は、無情にも、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島セント・ヘレナへの移送であった。無論、ナポレオンはこれに強く抗議した。

「余はイギリスの捕虜ではない。余は貴国の法の保護下に身を委ねるべく、自由意志をもって赴いたのだ。イギリス政府は、個人の権利ともてなしという侵すべからざる権利を保障する、自らの国家の法に違反している。余は抗議し、イギリスの名誉に訴える」

だが、イギリス政府の決定は覆らず、1815年8月8日、ナポレオンは望まぬセント・ヘレナの旅路についた。


ナポレオンに付き従ってセント・ヘレナに赴く人員は、ベルトラン内大臣とその妻子、ラス・カーズ伯爵とその子息、モントロン将軍とその妻アルビーヌ、グウルゴウ将軍、イギリス人外科医オミーラ、それに従僕10人だった。一行を運ぶのはイギリス人提督コックバーンで、彼はナポレオンに敬意を払って丁重に対応した。8月9 日、フランス本土が視界に入ってくると、ナポレオンはデッキの上で帽子を取り、「さらば、勇士達の大地フランスよ、さらば」と万感の思いを込めて、つぶやいた。ナポレオンは航海中、読書や、従僕との歓談、英語学習をしながら日々を過ごした。度々デッキに現れてはイギリス人水兵と会話をし、気に入れば自室に招いて歓待した。夜になればトランプゲームに興じたが、いつも負けてばかりだった。


10月15日、船はセント・ヘレナに到着したが、一行は目の前に広がる荒涼たる光景に暗然となった。島には熱帯の焼け付くような太陽光が照り返し、周囲は300~600メートルの岩山がそびえたって、草木もほとんど生えていなかった。10月17日、ナポレオン一行は島に上陸したが、ロングウッド台地に用意された邸宅はまだ建設中であったので、しばらくは、島の中心地であるジェームス・タウンに滞在する事になった。ナポレオンはここでベツィ・バルコームと言う14歳の少女と知り合い、大の仲良しになった。ベツィはお転婆娘で、ある時はナポレオン一行に体当たりして、一行が倒れたり、ナポレオンがよろめく様を見ては大笑いするのだった。また、ある時はナポレオンの帯剣を引き抜いて、その頭上で振り回した事もあった。ベツィにそんな危険な真似をされてもナポレオンはご機嫌そのものだったが、ベツィが剣を置くとその耳を掴んでひねり、痛いと喚かれると今度はその鼻をつまんで強く引っ張った。さすがのナポレオンも、内心は冷や冷やものだったのだろう。


ナポレオンは流刑の身となってもあくまで皇帝としての威厳を崩さず、侍従達にも儀礼を遵守させていた。だが、ベツィだけは特別扱いだった。ベツィがナポレオンをボーニーとあだ名で呼んでも上機嫌で、気ままに部屋に遊びにきても、いつも満面の笑みで迎え入れた。ナポレオンはこの少女との触れ合いを楽しみにしていたが、それでも仮住まいの暮らしは不自由で、ロングウッドの邸宅の早い完成を望んでいた。12月10日、邸宅が完成したと聞くと、ナポレオン一行は早速そちらに移り住んだ。しかし、そこは、非常に厳しい自然条件にあった。灼熱の太陽光を避ける陰も無く、水も無く、絶えず南東の風に晒されていた。特に、夏には耐えられないほどの暑さとなった。セント・ヘレナの気候は概して健康に悪かったが、邸宅のあるロングウッド台地はとりわけ悪かった。それでも、ここに邸宅が建てられた理由は、監視が容易なためだった。


 
Naporeon2.jpg










↑セント・ヘレナのナポレオン


イギリス政府は、この小さな島に3千人もの兵士を送り込んでナポレオンを厳重に監視させた。ロングウッドを取り巻く岩山の山頂には、イギリス兵が常駐して行動の監視に当たり、海上でも警備船が島を巡回して警戒に当たっていた。更に念を押すように軍艦が常駐して、ナポレオンの脱出と、不審船の接近に備えていた。そして、イギリス人提督コックバーンも、皇帝一行に慇懃な態度を取りつつも、政府の訓令に従って徐々に拘束を強めていった。夜21時になると、邸宅の周辺にはイギリス兵の歩哨が立つので、夜間の外出は不可能となった。時には歩哨から、銃剣を突きつけられる事もあった。誇りをいたく傷付けられたナポレオンは、これら一連の監視強化に激しく抗議する。しかし、その結果、コックバーンとの関係は冷却化して更に締め付けが強化され、昼間でもナポレオンがイギリス人士官の随行無しで散策できる範囲は、邸宅から7キロまでに限定された。


ナポレオンの日常は、変化の無い単調なものだった。起床時間はまちまちで、夜が明けると乗馬で散歩をし、それから朝食を取った。14時頃風呂に入り、雑談するか口述筆記をさせた。入浴後は伯爵や夫人方を四輪馬車に乗せて、ロングウッド台地を廻ったりした。19時に夕食を取り、その後は読書、歓談、口述筆記などをする。22時以降、歓談し、眠気を催すとベッドに入った。ナポレオンは寝つきが悪く、2箇所にあるベッドを行き来しながら眠りについた。ベッドは質素な野戦用だったが、それが一番しっくりくるようだった。ナポレオンが待遇改善を訴え出ると、イギリス政府はもっと快適な地に邸宅を建設すると約束した。しかし、ナポレオンはその企画書を見た時、「この家を建てるには5年はかかるだろう。その時、余に必要なのは墓であろうに」と漏らした。ちなみにイギリス総督の邸宅は、同じセント・へレナに在りながら、日陰と水に恵まれた住み心地の良い建物だった。それはナポレオンの目に付かないように、散策を制限して存在が隠されていた。


1816年4月14日、セント・ヘレナ島の責任者として、ハドソン・ロウ総督が赴任する。それに伴って、コックバーン提督は本国に帰還していった。この頃、コックバーン提督とナポレオンとの関係は冷えきっていたが、それでもコックバーンは精一杯対応してくれていた。ナポレオンは次の新任総督との待遇の差を、身をもって思い知る事になる。4月16日、ナポレオンとハドソン・ロウは会談の場を持ったが、お互いに良い印象を抱かなかった。ロウはナポレオンを見下して皇帝とは認めず、ボナパルト将軍と呼んだ。ナポレオンは今でも皇帝としての威厳を重んじていたので、ただの将軍と呼ばれる事に憤慨した。ナポレオンは、この新任総督の悪意を感じとって、「この男は余の看守であるに留まらず、余の死刑執行人となるであろう」と断言した。


5月7日、両者は再び会談の機会を持ったが、長く激しい言葉の応酬となった。ナポレオンは、「あの男は不快極まる。礼儀も無ければ、教養も無い。二度と会いたくないぞ」と言った。ロウの方も、「ボナパルト将軍は己の状況の良し悪しが、総督たる私にかかっているという事を認識すべきだ。何時までも私に敬意を払わないのなら、私の権威を分からせてやろう。彼は私の囚人であり、私には彼の振る舞いを左右する権利がある」とまくし立てた。外部の人間がナポレオンと引見するには、ベルトラン内大臣に申し込めば良かったのだが、ロウは自らの許可無しにナポレオンに会う事を禁止した。これでナポレオンの交友関係は狭められ、外部からの情報も伝わり難くなった。ストレスの溜まったナポレオンは、侍従達に当り散らす事もあった。1816年6月に島を去った料理人ル・パージュの回想、「皇帝はちょっとした事でもすぐ怒り出す。カッとなるとビリヤードのキューを手にして邸宅中を駆け回り、口汚く罵りながら手当たりしだいに叩きのめした」


イギリス人侍医オミーラは、ナポレオンとロウとの仲介役を担っていたが、上手くいかず、「私は板ばさみだ。何の解決も出来ない。両者とも気難し過ぎる」とつぶやいた。ナポレオン宛ての書籍や手紙は差し押さえられ、経費の削減も申し渡された。そのため、ナポレオンは銀器を破壊して、それを売り払って不足分に割り当てるよう命じた。ロウは更に、随員4人をロングウッドから退去させ、雇っていた使用人も削減するよう申し渡してきた。ナポレオンは怒りながらも、これを受け入れた。それに加えて、ナポレオンの監視体制は一層強化され、ほとんど軟禁状態となった。従僕の1人は怒ってロウの暗殺を口にしたが、ナポレオンは、「そんな事をすれば、私の立場がどうなるか分からないのか。復讐など、断じてならん」と強く押し留めた。


1816年12月30日、ナポレオンと同世代で親友の様な付き合いをしていた、ラス・カーズ伯爵とその子息が逮捕され、離島を余儀なくされた。これはナポレオンにとって、大きな心の痛手となった。しかし、ラス・カーズ伯爵自身は、稀代の征服者の回想録を書いて、大ベストセラーにしたいという野心からエント・ヘレナ行きに従っていたに過ぎなかった。実際、帰国後に彼が出版した回想録は、大ベストセラーとなっている。ナポレオンは私生活では、モントロン夫人やベルトラン夫人と肉体関係を持っていたようだ。夫はそれを黙認していたらしい。1818年1月26日にモントロン夫人アルビーヌは女児を出産しているが、これはナポレオンの子供と言われている。しかし、このナポレオンに良く似た女児ジョゼフィーヌは、翌1819年9月30日に死亡する。


1818年2月18日、ナポレオンやモントロン将軍と仲違いしたグウルゴウ将軍が島を去った。同年2月24日、不自然な事件が起こる。邸宅の給仕長だった、チプリアーニが突然、激しい腹痛を訴えて倒れて3日後に死亡、同日中に1人の女召使いとその子供も同じ症状になって死亡した。生前のチプリアーニはただの給仕長ではなく、ナポレオンの間諜としての働きもしていた。ナポレオンがエルバ島に流された時には、大陸に送られて情報収集に当たっていた。ナポレオンがエルバ島を脱出して百日天下を取った際には、チプリアーニのもたらした情報に依るところが大きかったと云われている。1818年8月、ナポレオンが信頼していたイギリス人侍医オミーラがロウによって追放された。ナポレオンと親しくしていた者達は次々に島から去って行き、その孤独は益々深まっていくのだった。


1819年正月を迎える頃にはナポレオンは憔悴して、体の不調を訴える事が多くなった。新しく赴任してきたイギリス人軍医はナポレオンを診察して、瀉血(しゃけつ・血を抜く行為)をし、有毒な水銀入りの丸薬を飲ませた。現在から見ればかえって体を壊すような医療行為であるが、これは悪意あってのものではなく、当時はこれが最良の方法だと信じられていた。ナポレオンの目には隅が出来て、顔は青白くなった。そして、横腹に剃刀で切られるような痛みを感じると訴えた。ただ、鋭い眼差しだけが、往時のナポレオンを偲ばせた。ロウからの締め付けは続いていたが、それに立ち向かう気力は衰えてはいなかった。


ナポレオンは侍従に本を朗読させたり、自らの戦記や思い出を口述筆記をさせるのが常だった。自分について書かれた本で明らかな間違いを見つけると、「間違いだ。馬鹿げておる!」と怒ったが、良く書けた本であれば、自らが批判されていても「なかなか良い文章じゃ」と素直に評価した。また、ナポレオンは古き良き時代の思い出を時折、語った。「フランスではもう、炉端というのが消えてしまった。炉端での機知に富んだ、気の利いた会話は夕べの一時を過ごすのに欠かせなかったものだ。今では一族といった精神も失われておる。若い者が年寄りを敬う事も知らん」と言うのだった。ちなみに「最近の若い者は・・・」との台詞は古代エジプト時代から、現在まで使われている。


熱帯の島での生活は、ナポレオンだけでなく、多くの侍従達も体を壊す原因となった。モントロン将軍の夫人も島の気候で体を壊したため、離島を余儀なくされた。ナポレオンはこのモントロン夫人とその子供達3人との触れ合いを楽しみの一つとしていたが、それも失われた。1819年7月12日、夫人とその子供達が島を出る日、ナポレオンは侍従のマルシャンに、「余一人、この悲しい孤独の中で死んでいくのだ」と寂しげに語った。続けて、「死とて余にとっては恩恵となろう。余は死を急ぐつもりはないが、生きるために藁(わら)をも掴むような真似はせんぞ」と言った。行動範囲を狭められたナポレオンは、気分転換に部屋の改装をしたり、庭園や噴水を作らせたりした。また、菜園を作って、そこで取れた食材が食卓に上る事もあった。貧相な野菜ではあったが、収穫の喜びを噛み締めるのだった。


 
Napoleon.jpg













↑皇帝時代のナポレオン



 
Naporeon1.jpg













↑セント・ヘレナのナポレオン



 
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