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炎の革命家 吉田松陰 1

2011.09.05 - 歴史秘話 其の二
吉田松陰は、幕末の思想家、教育者、そして、革命家として名高い存在である。 


天保元年(1830年)8月4日、松蔭は、長州藩士、杉常道の次男として誕生する。天保6年(1835年)、6歳の時、山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となるが、翌年、養父の大助が病死したため、7歳の松蔭がその名跡を継いだ。この後、松蔭の叔父で、山鹿流兵学免許皆伝の玉木文之進から厳しい、禁欲的な幼年教育を受けた。天保9年(1838年)、松蔭9歳の時、藩校明倫館の見習教授となる。天保11年(1840年)、松蔭11歳の時、藩主毛利敬親の前で山鹿流兵学の講義をし、賞賛される。天保13年(1842年)、叔父、文之進が松下村塾を開くと、松蔭もここに入門した。嘉永3年(1850年)、松蔭21歳の時、小倉・佐賀・平戸・長崎・熊本等を遊歴した。 


嘉永4年(1851年)、松蔭22歳の時、長州藩の命を受けて江戸に遊学し、ここで洋学の第一人者である佐久間象山と出会う。松蔭は象山の人物に心酔し、弟子入りして蘭学と砲術を学び始める。ちなみに、幕末の志士達は芸妓好きで知られており、そのような若者が花の江戸に出たとすれば、まず吉原に向かったりするものであるが、松蔭にはまったくそんな気配は無かった。松蔭は女性には奥手で、周りからは仙人と呼ばれていた。この年、松蔭は東北旅行を友人と約したが、出発期日までに通行手形が下りなかったため苦慮する。だが、松蔭は友人との約束を重んじて、思い切って脱藩した。嘉永5年(1852年)、松蔭は東北各地をくまなく遊歴した後、江戸に戻ったが、脱藩の罪を問われて、士籍剥奪、家禄没収の処分を受けた。翌年には許され、諸国遊歴も許可される。 


嘉永6年(1853年)7月4日、アメリカのペリーが日本に来航した聞くと、松蔭は佐久間象山と共に浦賀に向かい、そこで黒船の威容を目の当たりにした。それは、当時の日本では到底建造不可能な代物であり、松蔭は先進文明の技術にいたく感銘を受けた。しかし、同時に、その脅威に接して膝を屈せんとする幕府の姿勢に屈辱も感じた。そして、海外の情報収集に努め、更に洋学研究に打ち込むようになった。それからほどなく、ロシアのプチャーチンが長崎に来航したと聞き付けると、松蔭は海外渡航するとの一大決心を固め、同年9月18日、江戸から長崎に向かった。同年10月27日、松蔭は長崎に着いたものの、プチャーチンはすでに出航した後であり、同年12月27日に江戸に舞い戻った。これらの旅は、ほとんどが徒歩である。 


安政元年(1854年)1月、ペリーが日米和親条約締結のため、横須賀の浦賀に現れると聞くと、松蔭は今度こそ宿願を果たさんとの決意を固める。そして、ペリー艦隊が伊豆の下田沖に移動すると、弟子の金子重之助と共に後を追って下田に入った。同年3月27日、松陰は上陸中のアメリカ水兵を見かけると、ペリー宛ての漢文の嘆願書「投夷書」を手渡した。 

それは要約すると、こう書かれている。 

「私達2人は卑賤の身で、小禄の者です。これまでただ空しく歳月を過ごしてきた無知の者です。そんな私達ですが、書を読み、西洋の進んだ文明を知るにつれ、この目で実際の世界を見たいと思うようになりました。しかし、我が国では、海外への渡航が厳しく禁止されており、どうする事も出来ませんでした。そんな折、貴国の軍艦が来られました。ここにおいて、宿念の思いを実行せんと決意した次第です。乗船させて頂けるなら、船内の如何なるご用も引き受けるつもりです。しかし、我が国の国禁は未だ解かれておりません。事が露見すれば、私達は捕らえられ斬刑に処されるでしょう。その様な訳ですから、出航するまでは私達を匿ってください。言葉では十分に伝える事は出来ませんが、以上は我々の心からの願いであります故、どうか疑わないでください。よろしくお願い申し上げます」 


夜になると、松蔭と金子重之助は小舟を漕ぎ出し、苦労して黒船への接舷に成功する。そして、松蔭はペリーの通訳と話し合い、広い世界を見聞するため、乗船させて頂きたいと懇願した。しかし、ペリーの意を受けた通訳からは、「目的は理解するし、同行させたいのはやまやまであるが、現在、アメリカと日本とは条約を結んだばかりであるので、波風を立てる訳にはいかない」と断られる。松蔭らはそれでも諦めず、長時間に渡って話し合いを続けたが、聞き届けられる事は無かった。松蔭らは空しく引き返す他、無かったが、小舟が流されてしまったため、艦隊のボートで海岸まで送り届けられた。だが、流された小舟には、密航の証拠となりうる書類が載せられてあった。そのため、松蔭らは必死になって海岸を捜し回ったものの、とうとう見つける事は出来なかった。それが人目に付けば、すぐに密航は発覚するだろうと考え、松蔭は潔く下田奉行所に自首する。 


松蔭は下田から江戸の獄に移される事になった。その途中、赤穂浪士の霊が弔われている泉岳寺を通りかかった時、一句を手向けた。 

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」 

松蔭は死罪も覚悟の上であった。 

ペリーは、この出来事を遠征記に記している。 

「この事件は、厳しい国法を犯し、知識を増すために命まで賭けようとした2人の教養ある日本人の激しい探究心を示すものとして、興味深いものであった。日本人は探求好きな民族で、道徳心、知的能力を増す機会があれば、進んでこれを迎えたものである。この2人の行動は、同国人に特有のものと信じられる。日本人の志向がこのようなものであるとすれば、この興味ある国の将来には、なんと広い展望が広がっていることか!」 

ペリーは日本に開国を迫った時、尊大に構えて、どこか日本人を見下した態度を取っていた。けれども、松蔭らの命を賭しても学びたいという姿勢には心を打たれ、日本人に対する認識も改めたのだった。そして、松蔭らが捕われたと聞くや、直ちに助命嘆願を行った。 

「2人の行為は、日本の法律に触れるものであったかも知れない。しかし、私達から見れば、自由にして賛美すべき好奇心の発露に過ぎない。どうか、2人に対して寛大な処置を取られん事を望む」 


このペリーの嘆願書と、松蔭自身の憂国の一念から行ったものなのだとの説明もあって死罪は免れ、郷里の萩にて投獄される身となった。安政元年(1854年)10月、松蔭は萩に送られると、士分の幽閉先である野山獄に入れられ、従者の金子重之助は、庶民の幽閉先である岩倉獄に入れられた。松蔭は幾分、ましな環境の野山獄で囚人相手に孟子の講義を始めるが、より劣悪な環境にあった金子重之助は病んで、安政2年(1855年)1月に獄死する。これを伝え聞いた松蔭は嘆き悲しみ、それから出獄するまでの1年間、食費を節約し、金子を貯めて遺族に送った。その金子は石造りの花筒となり、現在でも重之助の墓前に供えられていると云う。 


この野山獄で松蔭は1人の女性と出会い、親しく言葉を交わす様になった。女性は高須久子と云い、藩士の娘であったが、遊芸好きな上、奔放な性格であったので、乱惰(らんだ)の所業として入牢させられていたのだった。この時、久子は37歳で、松蔭は25歳、久子の方が一回り年上であったが、2人は獄中で催された連歌会で歌を交わすなど、心の交流を重ねた。これが松蔭唯一の恋と、呼ばれている。安政2年(1855年)12月、松蔭は野山獄からの出獄を許され、代わって実家の杉家に蟄居するよう申し渡された。 


安政3年(1856年)、松蔭は実家の幽室に親族や近隣の者を集めて、孟子の講義を始める。その講義は評判を呼び、やがて城下からも人がやってくるようになった。安政4年(1857年)、受講人数が増えて狭い幽室に入り切らなくなると、松蔭は納屋を増改築して、そこを教育の場とした。これが、松下村塾の始まりである。この塾名は、かつて叔父の玉木文之進が開き、松蔭自身もそこで習った、松下村塾の名を受け継いだものである。当時、長州藩には明倫館と呼ばれる全国屈指の立派な藩校があって、それと比べると松下村塾は物置小屋を改装しただけの粗末な塾だった。それでも、松下村塾には明倫館には無い魅力があった。 


明倫館は朱子学を基本に封建的身分制が保たれ、教育内容も訓話が中心であったのに対し、松蔭の松下村塾は自由な気風に溢れ、町人、武士を問わずに塾生を受け入れて、師弟が一緒になって時勢を討議した。松蔭は誰に対しても公正に接したから、松下村塾には魚屋、医者、士分などの雑多な身分の若者が集まり、塾生達も身分の垣根を越えた交友関係を持った。例えば、高杉晋作は150石取りの士分の1人息子であったが、その家に足軽小者の子の和作と忠三郎が訪ねたり、逆に晋作が和作の家をぶらりと訪ねる事もあった。当時、身分や格式による上下関係の差は揺れ動いてはいたが、まだはっきりと残っていた時代である。 


この松下村塾を支えていたのは、松蔭だけではない。杉家の長男で松蔭の兄の杉梅太郎も、経済面で何かと支えてくれたし、叔父で藩の代官となっていた玉木文之進は、松蔭の後見役となっていた。それに親友の楫取素彦(かとり もとひこ)や幼馴染の久保清太郎らも一緒になって塾生の教育に当たっていた。松下村塾は、松蔭を軸に杉家が一体となった私塾であった。松蔭は尊皇攘夷の思想家であるが、ただ単純に外国人を排斥せよとの狭隘な考えは持ち合わせていなかった。世界を広く見聞し、進んだ知識を取り入れて富国強兵に励み、その上で諸外国に相対せよと云うものだった。松蔭は講義に当たっては、自らの信念を語りながらも、一方的に考えを押し付ける様な真似はしなかった。 


塾生の回顧によると、松蔭は誰に対しても親切で、言葉使いも丁寧であった。塾生には友人の様な姿勢で接し、分からない事があれば、すぐ側まで行って説明した。松蔭は実学を重視し、現実の世界で役立つ人間を育てたいと願って、学んだ事は実際に実行せよと説くのだった。松蔭の口癖は、「勉強なされませ」だったが、それはいたずらに知識を詰め込むのではなく、勉強への意欲を見せよと言うものだった。松蔭は学習成績は重視せず、何よりも学習に取り組む態度や意欲を評価基準とした。松蔭は塾生が自主的に行動する事を望み、持って生まれた素質を伸ばすように仕向けた。 


また、松蔭は、塾生を江戸や京都に遊学させて見聞を広めさせると共に、各地の情勢を探らせてもいる。そして、その情報を萩の自らの元へと届けさせたので、松蔭は幽閉の身でありながら、世の動向を手に取るように掴んでいた。江戸で塾生達の面倒を見たのが、桂小五郎(木戸孝允)である。小五郎は松蔭よりも3歳年下で、嘉永2年(1849年)からの付き合いだった。小五郎が松下村塾で学んだ事は無いが、松蔭とは度々会って親交を深めており、お互いに同士と認め合う仲であった。江戸での塾生達は小五郎を兄貴分として慕い、その下で勉学や情報収集に励んだ。 


ちなみに桂小五郎は凛々しい風貌であって、古写真にもそれを認める事が出来る。しかし、松蔭の風貌は冴えなかったようだ。塾生の回顧によれば、「先生の風采は極めて粗野なもので、かつ無精なお人であった。衣服は汚れ放題、破れ放題、手を洗うと袖で拭き、頭髪は2ヵ月も結い直さず、見るからに上がらない風采だった」とある。世間の人々から見れば、変人に映ったかもしれない。しかしながら、塾生達は、松蔭の内に秘める激情、実行を伴う行動力、進歩的な思想、純粋な憂国の念には惹かれて止まなかった。


木戸孝允
↑桂小五郎(木戸孝允) (ウィキペディアより)


吉田松陰
↑吉田松陰(ウィキぺディアより)
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