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二条城

二条城は京都府中京区二条通にある、平城である。


慶長6年(1601年)5月、関ヶ原の戦いを経て天下の権を握った徳川家康は、重要な政治都市である京都に新城を築く事を決定する。同年12月、西国諸大名に費用及び、労務負担が割り当てられて大々的な天下普請が始まり、慶長8年(1603年)3月に落成する。同年2月12日に征夷大将軍に就任していた家康は、3月27日に二条城で将軍就任の祝賀の儀を執り行い、ここに徳川幕府の開府を見る。慶長11年(1611年)、家康と豊臣秀頼は、二条城の二の丸御殿にて初対面する。それから3年後の慶長14年(1614年)、大坂の陣が始まると、家康はこの二条城に本営を置いて、翌元和元年(1615年)に豊臣家を滅ぼした。



寛永3年(1626年)、徳川二代将軍、秀忠の時代、二条城は大改築されて、新たに本丸が築かれ、そこに廃城となった伏見城の天守閣が移築された。しかし、寛延3年(1750年)、落雷を受けて天守閣は焼失し、天明8年(1788年)にも京都の大火を受けて本丸御殿が焼失してしまう。この後、天守閣と本丸御殿が再建される事は無かった。時は流れて、慶応3年(1867年)、徳川十五代将軍、慶喜の時代、さしもの徳川幕府も力を失い、慶喜は二条城にて大政奉還、すなわち、政権を朝廷に返還したのだった。二条城は徳川幕府成立と、その終焉を見届けた城となった。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑東南隅櫓



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿


慶長8年(1603年)完成の御殿で、国宝に認定されています。二の丸御殿の廊下はうぐいす張りとして有名で、床板を踏みしめるとキュッキュッという音が鳴り響きます。


二条城
二条城 posted by (C)重家

↑二の丸御殿の装飾


二の丸御殿には各所に見事な装飾が施されており、建物全てが芸術品と言って良いでしょう。その絢爛豪華さから、徳川幕府設立時の勢いを感じさせられます。御殿内部は撮影不可ですが、ここにも見事な襖絵が飾られています。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸櫓門



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸庭園



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑本丸御殿


かつて、ここには二の丸御殿に匹敵する規模の本丸御殿があったのですが、天明8年(1788年)に京都の大火を受けて焼失してしまいました。現在ある建物は、弘化4年(1847年)に京都御所で建てられた桂宮御殿を、明治27年(1894年)に二条城に移築したものです。重要文化財に指定されており、内部は非公開となっています。



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑天守台跡



二条城
二条城 posted by (C)重家

↑天守台からの眺め



二条城
二条城 posted by (C)重家




二条城
二条城 posted by (C)重家




二条城は将軍が滞在する城としては規模が小さいですが、ここでは徳川家康と豊臣秀頼の会見、徳川幕府成立時の祝賀、幕末の大政奉還など、大きな歴史的出来事が起こっています。
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東本願寺

東本願寺は京都府京都市にある、浄土真宗大谷派の総本山である。


この東本願寺は、戦国時代に一大勢力を誇った本願寺から分裂して誕生した教団で、分裂の切っ掛けを作り、東本願寺の創立者となったのが教如である。永禄元年(1558年)、教如は、本願寺第11代法主、顕如の長男として生まれ、元亀元年(1570年)に得度(僧侶となるための儀式)をした。教如は身の丈6尺(約180センチメートル)の偉丈夫で、猛々しい性格の持ち主であったようだ。そして、奇しくもこの元亀元年は、戦国の風雲児、織田信長との対決の始まりの年であり、教如は若さ故の情熱も手伝って主戦派として教団を引っ張って行く事になる。しかし、信長の力は想像以上で、本願寺は徐々に追い詰められ、天正8年(1580年)3月、父、顕如はついに抗戦を諦めて、信長と和議を結び、本願寺の本拠、石山の地を明け渡す事を決した。そして、同年4月9日、顕如は恭順派を引き連れて石山を退去するが、抗戦派は納得しておらず、教如を立てて尚も抵抗せんとした。


教如自身も和議には納得しておらず、抗戦派の声に応えて石山篭城を続けんとしたので、顔をつぶされる形となった顕如は怒って教如に義絶を申し渡した。既にこの時、本願寺は分裂の様相を呈していた。同年8月2日、再度の説得を受け、教如はようやく石山の地を信長に明け渡した。しかし、故意か偶然か、教如が退去した直後に本願寺は炎に包まれ、壮大な伽藍は悉く、灰燼と化した。信長が熱望して止まなかった石山の地は、焼け残りの柱が立つだけの焦土となった。教如は石山退去後、紀州にある鷺森別院(さぎのもりべついん)に移ったが、僅か数日滞在しただけで、毛利氏の勢力下にある安芸の国へと旅立つ。その後の教如の足跡は不明であるが、天正10年(1582年)春には、一向一揆の勢力が残る越中五箇山に赴いていた模様である。石山退去後も、教如は密かに反信長活動を続けていたのであろう。


天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって信長が倒れると、教如の流転の旅も終わり、父、顕如とも和解して、共に寺務に携わる様になった。文禄1年(1592年)、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、教如はかつて石山篭城を共にした強硬派を重用したので、顕如と共に和議に応じた穏健派との間で対立が生じた。時の天下人、豊臣秀吉は、武闘派として知られている教如の法主襲名を快く思っていなかったようで、本願寺の内紛に介入し、翌文禄2年(1593年)、教如に隠遁を命じる一方、その弟の准如を第12代法主とした。



慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、教如は法主返り咲きの機会と見たのか、徳川家康に接近して、慶長4年(1599年)秋に会見を行い、翌慶長5年(1600年)7月には、教如は関東まで赴いて会津攻めの陣中にあった家康と会見を行った。しかし、時はまさに関ヶ原の戦雲漂う中であり、教如の明らかな家康寄りの姿勢は西軍の首魁、石田三成に見咎められ、密かに教如抹殺の指令が下された。そして、同年8月、教如一行が墨俣の渡しまで戻って来たところ、突如として三成の手勢に襲われた。思わぬ襲撃を受けた教如であったが、地元の門徒達が救援に駆けつけてくれたお陰で、なんとか美濃の光顕寺まで逃れた。


しかし、三成勢は尚も追跡の手を緩めず、追い詰められた教如は光顕寺の須弥檀(しゅみだん)に身を隠し、時世の句を木板に刻む程であった。この時の木板は現在も、東本願寺に安置されている。教如は近郷から駆けつけた屈強の門徒82名に守られながら京を目指さんとしたが、三成勢の追跡は執拗で、途中、18人の門徒が戦死する。窮した教如一行は美濃と近江の国境にある国見峠まで逃れ、ここから更に道無き山中に分け入って鉈ヶ岩屋(なたがいわや)という岩窟に身を潜めた。



慶長7年(1600年)9月15日、岩屋で窮乏生活を続けていた教如に石田三成敗れるとの朗報が舞い込んだ。これを受け、教如はようやく安堵して山を下り、同年9月20日、大津城で家康との再会を果たした。翌年慶長7年(1601年)にも両者は二度、会見を行い、それらの活動が功を奏して、慶長8年(1602年)、教如は、家康より京都鳥丸七条の地を寄進される。そして、翌慶長9年(1603年)、浄土真宗の宗祖、親鸞の木像を迎えて、ここに東本願寺の創立を見た。これで本願寺の分裂は決定的となり、准如を法主とする西本願寺と、教如を法主とする東本願寺が並存する事となった。慶長19年(1614年)、教如は57歳で入寂する。僧侶としては破天荒な生涯であった。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺に創立時の建物はほとんど残っておらず、この御影堂も明治28年(1895年)の再建です。とは言え、明治期の建築、芸術の粋を集めて作られた一大木像建築物であり、十分、見応えがあります。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺にはこの他にも、阿弥陀堂、御影堂門など壮大な木像建造物が存在するのですが、この時は残念ながら修復工事中でした。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家>

↑渉成園(しょうせいえん)


ここは東本願寺の飛地境内で、東本願寺から東に150メートル行った所にあります。承応2年(1653年)に書院式の回遊庭園として作庭され、歴代法主の隠退所として、また外賓の接待所として用いられました。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家




渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園は見応えのある日本庭園で、心が落ち着きます。特に春の桜と、秋の紅葉の時期に訪れるのが良いでしょう。東本願寺を訪れる事があれば、この庭園も合わせて見学する事をお勧めします。

近江長浜城

長浜城は、滋賀県長浜市にある平城である。


豊臣秀吉が初めて築いた居城として知られている。また、秀吉が苦労を重ねて一国一城の主となった記念すべき城であり、織田家の最有力部将として認められた瞬間でもあった。自らの城と軍団を持つようになった秀吉は、信長から更に重要な仕事を任されるようになり、その立身出世に弾みがつく事になる。



天正元年(1573年)9月1日、織田信長は、近江北部の戦国大名、浅井長政を攻め滅ぼす。そして、信長は、この戦いで最も活躍した羽柴秀吉に対し、浅井の旧領12万石余を与えてその功に報いた。これで秀吉は晴れて大名身分となり、自他供に認める織田家の重鎮となった。そして、秀吉は浅井氏の本拠であった小谷城に入り、ここから北近江の統治を開始する。この小谷城は要害堅固な山城で、北国脇往還を扼する要地にあるが、その反面、居住は不便で、領内統治、城下の発展面でも不都合があった。そこで秀吉は、平地にあって発展の余地が大きく、琵琶湖の水運も活用できる、今浜の地に新城を築き始める。それに伴って、秀吉は信長から長の一文字を拝領し、今浜から長浜に改名する。これが湖北最大の都市、長浜の始まりである。


だが、秀吉の長浜築城は、信長の指示を受けての事だろう。何故なら、信長は後に自らの居城、安土城を中心として、近江北東に羽柴秀吉の長浜城、近江南西に明智光秀の坂本城、近江北西に織田信澄の大溝城を配する体制を取っているからだ。しかも長浜城、坂本城、大溝城は皆、琵琶湖に浮かぶ水城として作られている。安土城だけは平山城であるが、これも西の湖を通じて琵琶湖と繋がっていた。信長は湖上水運の要地に城を築かせて、その地を掌握すると共に、水運をもって相互支援する体制を取ろうとしたのだろう。それに、これらの城に配された部将は皆、信長も認める力量の持ち主で、その信頼も篤かった。長浜城は、信長の遠大な構想に則って、築城されたと考えられる。


長浜城の正確な築城年月日は不明であるが、天正2年(1574年)夏には建設は始まっており、その際、
浅井長政が竹生島に隠匿していた木材と小谷城の資材が転用されている。天正3年(1575年)秋頃には城は大方、完成した模様で、秀吉は小谷城から長浜城に移っている。完成なった長浜城は、湖水に浮かぶ白鳥の様な壮麗さであった。城の規模は南北に1.2キロメートル、東西に0.7キロメートルあったと推測され、琵琶湖の水を引き込んだ外堀と内堀を廻らせて、その中心に浮島の様な本丸があった。城全体に石垣が取り入れられ、天守閣も備わっていたと思われる。まさに新時代を感じさせる城であり、その出来には秀吉も大いに満足した事だろう。


そして、秀吉は各地を転戦しつつ、合間を縫って、統治の強化と長浜の発展に努めた。しかし、秀吉はその過程で、自らの与力で山本山城主の阿閉貞征が有する竹生島の権益を強圧的に取り上げて、阿閉氏から信長の側近に訴えられる事件も起こしている。この裁判の顛末は不明だが、遺恨を覚えた阿閉氏は秀吉の与力から外れ、信長の旗本に転じている。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて信長が倒れると、果たして山本山城の阿閉貞征は明智光秀方となって、長浜城を襲った。この時、秀吉は中国戦線に在って不在であり、長浜城は無防備と言っても良い状態だった。阿閉氏の襲撃を受けて、秀吉の母なか、妻のおねは取るものも取りあえず、命からがら伊吹山中に逃れた。だが、秀吉は驚異的な中国大返しをもって光秀を討ち破り、上方を掌握すると、阿閉貞征を一族諸共、皆殺しとした。


同年7月26日、信長の跡継ぎと遺領配分を話し合うべく、織田家の宿老が集って清洲会議が開かれ、その結果、長浜城は柴田勝家に割譲される事となった。しかし、秀吉と勝家は対立を深め、その激突は必至となる。同年12月、勝家の本拠、越前が雪によって閉ざされると、秀吉は先手を打って長浜城を囲み、城主の柴田勝豊を降伏に追い込んだ。続いて、翌天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳にて秀吉と勝家が決戦した際には、長浜城は後方拠点として機能した。勝家を倒し、ほぼ天下を手中に収めた秀吉は大坂城を築き、そこを新たな本拠と定める。そして、長浜城には、天正13年(1585年)、秀吉の部将、山内一豊が近江長浜2万石の領主として入封する。しかし、天正18年(1590年)に一豊が遠江掛川5万1千石で転封されると、長浜城は次第に荒廃していったと云う。


秀吉が死去し、徳川家康の天下となった慶長11年(1606年)には、家康の異母弟、内藤信成が長浜城主として入り、それに伴って大修築が行われた。元和元年(1615年)、内藤氏が摂津高槻に転封されると、長浜城は廃城となり、その資材は彦根城の築城に転用された。この時に長浜城は跡形も無くなり、残された僅かな痕跡も近代の開発によって埋もれていった。だが、昭和58年(1983年)、秀吉の長浜城を再現したいとの地元市民の要望を受けて、城跡に鉄筋コンクリート製の天守閣が再建された。その近代的な建物は、長浜城歴史博物館として使われている。秀吉時代の長浜城は忘却の彼方に消え去ったが、ここには確かに壮麗な水城があった。それは秀吉初の居城であり、立身出世の一つの到達点であった。しかし、秀吉はそれだけで満足せず、眼下に広がる琵琶湖を眺めつつ、更なる大望を抱いた事だろう。





長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑長浜城本丸跡


在りし日の長浜城は琵琶湖に突き出た壮麗な水城でしたが、現在、その遺構のほとんどは失われて、原形を留めていません。



長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑石垣の根石


根石とは、石垣の一番下に置かれる石です。長浜城の石垣は、彦根城の築城のためにほとんど運ばれたそうですが、地下に埋もれている根石だけは残されたのでしょう。




大通寺
大通寺 posted by (C)重家

↑大通寺の台所門


この台所門は、かつて長浜城の大手門であったそうです。長浜城の廃城に伴って、移築されたのでしょう。



長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑復元天守閣


昭和58年(1983年)に建設された、鉄筋コンクリート製の復元天守閣です。内部は博物館となっており、戦国期の資料が多く展示されています。



長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑天守閣から北を望む


この方面には、山本山城、賤ヶ岳、小谷城があります。


長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑天守閣から東を望む


正面に見えるのは伊吹山で、その右奥には天下分け目の戦いが行われた関ヶ原があります。


長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑天守閣から南を望む


眼下の公園に、かつて長浜城の城郭が広がっていました。霞んでいますが、右奥に彦根城があります。


長浜城
長浜城 posted by (C)重家

↑天守閣から西を望む


霞んで見えませんが、この正面に安土城があります。織田信長に仕えていた頃の秀吉は、遥か先に映る安土城と織田信長を、感謝と畏敬の念、それと恐怖心をもって仰いだ事でしょう。


竹生島

竹生島は琵琶湖北部に浮かぶ、小島である。


この島は古くから神の住まう島として崇められており、雄略天皇3年(420年)には浅井姫命(あざいひめのみこと)を祭る小さな祠が建てられたとされる。現在、竹生島には宝厳寺と都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)という二つの寺社があるが、ほとんど一体化しており、通称、竹生島神社と呼ばれている。この神社は戦国武将との縁が深く、織田信長、豊臣秀吉、浅井長政、朝倉義景とも繋がりがあった。





竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑竹生島神社全景


近江北部の戦国大名、浅井氏は竹生島を深く信仰しており、その中でも浅井久政(1526~1573)とその母、寿松は竹生島弁才天を篤く崇敬して、久政は永禄8年(1565年)頃に、寿松は永禄9年(1566年)6月15日にそれぞれ、弁財天像を竹生島に寄進しています。その二座の仏像は、今でも竹生島の宝厳寺に安置されているとの事です。


越前の戦国大名である朝倉義景も、元亀元年(1570年)頃に竹生島を参詣しています。訪問日は不明ですが、同年9月から12月にかけての織田信長との対陣、志賀の陣の際に訪問したと推測されます。そして、翌年、義景は源頼朝由来の名刀、菊一文字と刀の由来を記した書状を竹生島の大聖院に寄進しています。現存するその書状によれば、義景にとって竹生島参詣は長年の大望であったそうです。



竹生島
竹生島 posted by (C)重家



天正9年(1581年)4月10日には、織田信長も竹生島を参詣しています。この日、信長は小姓5、6人を引き連れて安土城を出ると、馬を駆って羽柴秀吉の居城である長浜城に赴き、そこから舟に乗って竹生島に渡りました。安土から竹生島まで片道15里(約60キロメートル)、往復30里(120キロメートル)の道のりでした。交通の不便な当時としては、片道15里でも1日がかりと考えるのが普通で、安土城で留守を預かる人々の多くも、信長は長浜城で一泊して帰るに違いないと思いました。そして、側仕えの女房衆は二の丸や、隣接する観音寺山の中腹にある桑見寺まで思い思いに羽を伸ばしに出かけました。日頃、厳格な専制君主に仕えて緊張の日々を送っている側仕えにとって、ホッとする一時だったでしょう。


ところが、そんな人々の思惑をよそに、信長はこの日の内に安土に戻って来て、城内の人々は慌てふためきます。そして、信長は、本来、城にいるべき女房衆が城から出払っているのに気付いて激怒し、桑実寺に対して、女房衆を縛り上げて即刻、差し出すよう命令します。桑実寺の長老は恐れ戦く女房衆に同情して、信長に慈悲を願いますが、それを受けて信長は益々怒り、なんと寺の長老ごと女房衆は成敗、すなわち斬り捨てられました。戦国の世は、ふとした油断が即、死に繋がる、そんな中を生き抜いてきた信長としては、側仕えの者共の規範破りと気の緩みが許せなかったのでしょう。この話は、信長の30里(120キロ)の道のりを1日で駆け抜ける果断な行動力と、その厳格で容赦の無い性格を伝えています。




竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑宝厳寺弁天堂




竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑三重塔




竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑片桐且元手植えのモチの木


片桐且元は豊臣秀吉の家臣で、その子秀頼の傳役(もりやく・ふやく)をしていた人物です。現在、国宝となっている観音堂の普請奉行として島にやってきた時に、この木が植えられたそうです。



竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑観音堂唐門


竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑舟廊下



竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑舟廊下


何故、舟廊下と呼ばれるのかと言いますと、朝鮮出兵時に秀吉の御座船として作られた日本丸の船櫓を転用して作られた事に由来しています。



竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑左手にあるのが山本山城で、右手奥には小谷城


小谷城は浅井長政の居城して知られており、その小谷城を支える重要な城が、山本山城でした。しかし、この城が織田信長に寝返った事により、小谷城の落城は決定的なものとなりました。



竹生島
竹生島 posted by (C)重家

↑伊吹山


近江の国は、古代より日本の戦乱の中心地でありました。伊吹山はその戦乱の数々を目撃してきた、歴史の証人です。


宇佐山城

宇佐山城は、滋賀県大津市にある山城である。戦国時代、朝倉義景が京都を目指して進軍した際、織田信長の部将であった森可成がこの城で迎え撃って激闘を繰り広げた城である。



永禄11年(1568年)9月、尾張、美濃を領有する有力戦国大名に成長していた織田信長は、更なる飛躍を目指して、足利義昭を奉じて上洛戦を開始した。そして、見事、義昭を将軍の座に据える事に成功し、当時の日本の中心たる畿内も抑えた信長は、誰もが瞠目する一大権力者となった。しかし、その支配はまだ完全ではなく、信長の台頭を快く思わない勢力も内外に多数、存在していた。その中でも、信長に非協力的で、京にも程近い越前の大勢力、朝倉義景の存在は不気味であった。そこで、信長は義景打倒を念頭に置きつつ、朝倉軍の京都進出にも備えて、近江南部の志賀の地に築城する事を決定した。


これが宇佐山城の始まりであるが、朝倉軍の南下阻止だけでなく、近隣の大寺社勢力、比叡山延暦寺を押さえ込む目的もあった。 正確な築城年月日は不明であるが、多聞院日記(奈良興福寺の僧侶の日記)の元亀元年(1570年)3月20日の記事によれば、信長の部将、森可成が新城を築いて、その麓に道を通す工事をしているとあるので、道路はともかく城自体はこの時点で完成していた模様である。宇佐山城は険阻な山上にあって規模こそ小さいが、いち早く石垣を取り入れており、土塁だけのこれまでの山城よりも堅固な構えとなった。


そして、信長はその完成を待っていたかの如く、元亀元年(1570年)4月25日、大軍をもって朝倉討伐に乗り出した。信長軍は越前国境を打ち破り、義景を追い詰めたが、土壇場になって、同盟者と見なしていた浅井長政に裏切られ、信長は命からがら京に舞い戻る羽目となった。 復仇を誓った信長は、同年6月28日、姉川にて朝倉、浅井軍を打ち破ったが、決定的な打撃には至らず、その後も朝倉、浅井軍は信長を脅かす程の戦力を有していた。しかし、信長の敵は朝倉、浅井だけでは無かった。同年8月20日、四国と畿内に勢力を有する三好氏が、摂津の野田、福島に拠って挙兵した為、信長は軍を率いて摂津へと向かわねばならなかった。


同年9月14日、信長は優勢に戦いを進めていたものの、今度は一大寺社勢力、石山本願寺が反信長を掲げて挙兵したため、信長は大苦戦に陥った。こうして信長が摂津戦線に釘付けになっていた頃、間髪おかずに朝倉、浅井軍も南下を開始した。これら一連の反信長攻勢は、事前に申し合わせての事であろう。信長は桶狭間の様な、あるいはそれ以上の危機に陥った。 朝倉、浅井軍3万余は京を制圧し、信長の背後を襲わんとして、湖西を南下して行く。現時点でそれを阻止し得るのは、宇佐山城とその城将、森可成率いる3千人余の将兵のみであった。


同年9月16日、朝倉軍の先鋒が坂本口に迫ると、可成は城から打って出て、なんとしても南下を阻止せんとした。そして、森勢は坂本の町外れで朝倉軍を迎撃して、少々の首を取って勝利を収めた。しかし、これは前哨戦であり、9月19日、朝倉軍が陣容を整えて攻勢を開始すると、森勢はたちまち苦戦に陥った。それでも森勢は坂本の町を通らせまいと防戦に努めたが、ついに木戸を破られ、町中への侵入を許した。森勢は重囲に落ちたが、主将の森可成、信長の弟、織田信治を始めとする将兵達は最後まで抵抗の構えを崩さず、奮戦の末に討死していった。


この後、朝倉、浅井軍は余勢を駆って宇佐山城へと攻めかかり、主将を失った城の運命は風前の灯と思われたが、残置していた可成の家臣達がここで殊勲の奮闘を見せ、なんとか城を守り抜く事に成功した。しかし、宇佐山城の戦力が大きく減少した事も確かであり、大軍相手に長く持ち堪える見込みは立たなかった。翌9月20日、朝倉、浅井軍は一軍を割いて大津付近を放火せしめ、更に翌9月21日には醍醐、山科まで焼き払わせた。朝倉、浅井軍としてはこのまま全軍をもって京を制圧し、信長の背後を襲いたいところであったが、その為には宇佐山城を落として、背後の安全を確保しておく必要があった。それゆえ、朝倉、浅井軍は日を通して宇佐山城に猛攻を加えるのだった。


宇佐山城は主将を失いながらもしぶとく持ちこたえていたが、援軍が来なければ、落城は時間の問題であった。摂津中島の陣所にあった信長が、朝倉、浅井軍が京に迫りつつあるとの凶報を聞きつけたのは9月22日の事であった。もし、朝倉、浅井軍がこのまま京の制圧に成功すれば、信長の権威が失墜するどころか、摂津の三好軍や、本願寺軍の挟撃を受けて滅亡しかねない。最早、一刻の猶予もならなかった。信長は即座に京へ取って返す事を決断し、翌9月23日、柴田勝家や和田維政らを殿軍として摂津に残すと、強攻軍でその日の夜の内に京へと入ったのだった。


9月24日、信長本隊が京に入ったと知ると、朝倉、浅井軍は宇佐山城の囲みを解き、比叡山へと退いていった。この後、両軍は比叡山を挟んでの対峙状態となり、信長にとってまだまだ余談の許さない状況が続くが、少なくとも京が制圧されると云う最悪の事態だけは避けられた。 信長の機敏な行動と、前もって宇佐山城を築いておいた先見の明、それに宇佐山城の将兵達の奮戦もあって、被害は最小限に抑えられたと言って良いだろう。それから約3ヶ月後の、12月14日、比叡山を挟んだ両軍の対峙は、和議によってようやく解消され、信長、朝倉義景、浅井長政らはそれぞれの本拠へと引き返していった。


両陣営ともよく粘ったが、さすがに行動の限界がきており、ここらで手を打ったと言うところだろう。だが、信長や義景にしても、これが一時の和議である事は理解しており、事実、年が明けて両者は再び干戈を交える事となる。翌元亀2年(1571年)9月12日、宇佐山城は再び、歴史の表舞台に立つ事となった。宇佐山城の眼前に広がる大寺院、比叡山延暦寺を焼き討ちする為の拠点となったのである。延暦寺は前年、朝倉、浅井軍に味方して陣所を提供した事から、信長の激しい怒りを買っていた。 そして、織田軍は手当たり次第に火を放ち、逃げ惑う人々を殺戮していった。


信長は宇佐山城から指揮を執り、眼前に広がる阿鼻叫喚を眺めていたと思われる。比叡山から上がった炎は、京都からも望見できたと云う。この焼き討ちにおいて最も功を上げたのが、明智光秀であった。光秀は事前に地侍を懐柔するなど、周到な計画を練っていた。信長もその功を評価して、比叡山を含む志賀郡の統治を光秀に委ねている。それから程なくして光秀は坂本城の築城を開始し、ここを統治の拠点と定めた。これを受けて宇佐山城は廃城になったと思われ、歴史の表舞台から去っていった。現在、宇佐山城の跡にはアンテナ塔が建てられており、往時の姿を思い起こす事は難しい。だが、この宇佐山城が、信長の最大の危機を支え、その歴史の焦点となった事には変わりはない。




宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑宇佐山城への登山口


宇佐山城へは、山腹にある宇佐八幡宮の脇から行く事が出来ます。ここからは城跡まで急坂が続くので、暑い季節には飲み物を持参する方が良いでしょう。


宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑山腹にある削平地


城跡まで立て札が設置されているので、迷う事はないでしょう。


宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸


本丸跡にはテレビ塔が建っていました。古城にこのような近代的な建造物が建っていると興が削がれますが、麓から見た場合、良い目印にはなります。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


かつては、ここに織田家部将の森可成が主将として在城しており、朝倉、浅井家との対陣時や、比叡山焼き討ち時には、織田信長もこの城に入っていたと思われます。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸北面


宇佐山城が急峻な斜面の上に建っているのが、目で見て理解できました。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸付近から比叡山を望む


元亀元年(1570年)の9月24日から、12月14日にかけて、この宇佐山城周辺に陣取る織田軍と、比叡山に立て篭もる朝倉、浅井軍とが睨みあっていました。往時には
比叡山の峰々に朝倉、浅井軍の旗指物が立ち昇り、信長はそれを宇佐山城から憎々しげに眺めた事でしょう。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑宇佐山城と比叡山


左側の電波塔がある山が宇佐山城で、右の大きな山体が比叡山です。その比叡山の麓には、かつて、明智光秀が築いた幻の名城、坂本城もありました。



比叡山
比叡山 posted by (C)重家

↑比叡山延暦寺


宇佐山城築城の大きな目的の一つが、戦国の大寺社、延暦寺を監視する事でしたが、延暦寺が討滅され、麓に坂本城が築かれるに至って、その役割を終える形となりました。
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