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伊賀上野城

上野城は三重県伊賀市にある平山城である。


上野城は、天正13年(1585年)、伊賀の領主であった筒井定次によって築かれたのを始まりとする。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、定次は徳川方に味方して所領の安堵を得る。ところが、慶長13年(1608年)、徳川幕府は失政を理由に突如として定次を改易し、代わって、伊予今治領主であった藤堂高虎を伊賀、伊勢の領主として入れた。藤堂高虎は外様ながら、その優れた能力と献身的な働きをもって、徳川家より譜代並の信任を得ていた。伊賀上野城は、大坂を攻めるにもそこからの攻撃を防ぐにも重要な拠点となり得るから事から、徳川家はこの地を高虎に任せ、豊臣家を抑えこむ役割を期待したのだった。そして、
高虎もそれに応えんとして、慶長16年(1611年)1月より、自ら縄張りをして上野城の大改築を開始する。本丸には30メートル近い高石垣が築かれ、更にその上に5層の天守閣を築かんとした。


ところが、慶長17年(1612年)9月2日、暴風雨が吹き荒れて、完成間近の天守閣が倒壊、多数の死傷者を出す事態となった。
天守閣の建設には膨大な費用を要する事から再建は躊躇され、それから3年後の元和元年(1615年)5月には豊臣家が滅亡した事から、上野城は既に役割を終えた形となり、城郭も未完成のまま工事中止となった。同年6月に一国一城令が布告されたが、上野城は伊賀国の城として存続を認められた。しかし、高虎自身は伊勢国の津城を居城として、上野城には城代が置かれた。そのまま藤堂家の統治が続き、やがて明治の世を迎えると、他の城同様、上野城の建物も次々に取り壊されてゆき、昭和の時代を迎える頃には石垣だけの城となった。昭和10年(1935年)、地元の政治家、川崎充は私財を投じて、3層3階建ての天守閣をが再建された。天守閣は時代考証なされずに建てられているが、同時期に鉄筋コンクリートで再建された大坂城天守閣とは違い、木造伝統工法によって再建された事は評価に値するだろう。



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑上野城の高石垣


この
城の一番の見所はこの30メートル近い高石垣です。



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑再建天守閣



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑天守閣内部


木造建築で、内部には様々な展示品が置かれています。展示品の撮影は可能との事でした。


伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑藤堂良重使用の兜。


元は、藤堂高虎が豊臣秀吉より拝領したもので、高虎がそれを一族の藤堂良重に与えたとされています。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、良重はこの兜を着用して参戦したものの、同年5月6日の若江の戦いで戦死しました。その後、この兜は遺品として同家に大切に保存されていましたが、近年になって上野城に寄贈されました。



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑日根野甲冑


胴には、鉄砲の試し撃ちの跡が残っています。



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑大名膳


藤堂家の家紋である蔦(つた)が描かれています。



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め



伊賀上野城
伊賀上野城 posted by (C)重家

↑天守閣からの眺め


天守閣から四方を眺めると、この城が山に囲まれた盆地(上野盆地)の中心に在るというのが理解出来るでしょう。はた目にはさほどの要地には映りませんが、
大坂の豊臣氏と江戸の徳川氏が睨みあっていた時代には、重要な拠点と成り得ました。この上野城の高石垣は、緊張の時代の名残であり、築城の名手と謳われた藤堂高虎の特徴でもあります。
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備後福山城

備後福山城は、広島県福山市にある平山城である。



福山城は、元和5年(1619年)、徳川譜代である水野勝成が備後10万石の領主として入封してから築城が始まり、3年後の、元和8年(1622年)、総石垣の近世城郭として完成した。勝成には毛利氏を始めとする西国大名の監視役を期待されていた事から、幕府もその築城を援助し、廃城となった伏見城の用材を届けて、伏見櫓や月見櫓などもそっくり移築された。福山城の規模は、10万石の大名の居城としては破格であり、高石垣の上にそそり立つ5重の天守閣や、30以上の櫓が建ち並ぶ様は壮観であった。また、城下町を土塁や水掘でそっくり包み込む、総構えも有していた。尚、初代福山藩主となった水野勝成は徳川家臣きっての勇将ながら、主と居所を転々と変えた奔放な人物である。伝えられる武勇の話には事欠けないが、統治面でも抜群の能力を発揮し、この勝成の時代に福山の町の基礎が整えられた。



しかし、元禄11年(1698年)、水野氏は勝成から五代目の勝岑(かつみね)で無嗣断絶し、備後福山領は一時、幕府の天領に組み込まれた。それから2年後の、元禄13年(1700年)、出羽山形藩主であった松平忠雅が10万石で入封となるが、10年後の宝永7年(1710年)、伊勢桑名に再び転封となり、代わって下野宇都宮藩主であった阿部正邦が10万石で入封した。そのまま阿部氏による統治が続き、やがて幕末の動乱期を迎えると、最大の監視目標であった長州藩が牙を剥き、慶応4年(1869年)1月には、新政府軍として福山城に迫った。かねてからの幕府の懸念が的中した形となり、福山藩には長州軍を食い止める本来の役割が期待されたが、本格的な戦闘を交える前に福山藩はあっけなく新政府に恭順した。


時代は明治となり、通達された廃城令によって、福山城の建物も民間に払い下げられていったが、天守閣や伏見櫓等は辛うじて残された。しかし、そのまま修繕もされず、荒れるに任されていたが、時が経るに連れ、その歴史的、文化的価値が見直され、明治30年(1897年)に天守閣や伏見櫓等の修復工事が行われた。福山城の再評価は進み、昭和6年(1931年)には天守閣は国宝に認定され、続いて、昭和8年(1933年)には、伏見櫓、御湯殿(御風呂屋)、筋鉄御門も国宝となった。だが、昭和20年(1945年)8月8日、アメリカ軍機による空襲を受け、天守閣や月見櫓、御湯殿など貴重な歴史的建造部の多くは焼失してしまう。昭和25年(1950年)、戦災を免れた伏見櫓、筋鉄御門は国の重要文化財に指定され、昭和41年(1966年)には天守閣、月見櫓が鉄筋コンクリートで、御湯殿は木造で再建された。


福山城
福山城 posted by (C)重家

↑福山城


福山駅のすぐ前にそびえたっており、駅から出ると、まず立派な高石垣が目に入ってきます。


福山城
福山城 posted by (C)重家

↑伏見櫓


その名の通り、伏見城から移築された櫓で、重要文化財に指定されています。伏見城といっても秀吉時代のものは関ヶ原の戦いで焼け落ちているので、その後の徳川時代の再建伏見城から移築されたものです。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑筋鉄御門(すじがねごもん)


この門も重要文化財に指定されています。伏見城から移築されたと云われていますが、確証はありません。


福山城
福山城 posted by (C)重家

↑鐘櫓


城中、城下に時の鐘を告げた建物で、緊急時に武士を招集する太鼓も備わっていました。廃城後も建物は残っていましたが、その後、大幅な改修を受けているので原型は留めていません。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑再建天守閣


鉄筋コンクリート製の再建で、内部はなかなか充実した博物館となっています。展示品は撮影不可でした。展示品の中で、まだ十代の阿部一族の書き残した筆跡の見事さに感銘を受けたのを覚えています。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑天守閣から南を望む


手前にあるのが福山駅で、遠くには瀬戸内海が見渡せました。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑天守閣から西を望む


この方角の彼方には、仮想敵国たる長州藩がありました。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑天守閣から北を望む


福山城
福山城 posted by (C)重家

↑天守閣から東を望む


現在の福山市は、結構な都会です。誰もが知る東北の戦国武将、伊達政宗は大都会、仙台の基礎を作り上げた人物としても有名ですが、水野勝成もまた、この福山の基礎を作り上げた人物として知られて良いのではないでしょうか。



福山城
福山城 posted by (C)重家

↑福寿会館から眺める天守閣


西本願寺

西本願寺は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派の寺院である。



戦国時代、戦国大名にも匹敵する強大な武力と財力を備えた教団があった。それが、かの有名な一向一揆の組織者、本願寺である。本願寺の元となる浄土真宗は、鎌倉時代の僧、親鸞(1173~1262)によって開かれたとされる。だが、この浄土真宗を本格的な教団に組織し、実質的な開祖とされるのが覚如(1271~1351)である。そして、この時より浄土真宗は、本願寺と称する様になった。それから徐々に信徒を増やしていった本願寺は、戦国の世を迎える頃には巨大な財力と戦力を併せ持つ一大教団に成長していた。並み居る戦国大名もその力に期待して、度々支援を要請する程であった。しかし、本願寺が積極的に大名間の戦いに介入するようになると、逆にその力を警戒され、天文元年(1532年)には六角定頼と法華宗徒によって本拠の山科本願寺が焼き討ちに遭うという憂き目にあった。それを受けて本願寺は、大坂石山の地にあった末寺の石山御坊に本拠を移し、石山本願寺と改称して再起を図った。戦火を受けてやむなく本拠を移したとは云え、石山の地は要害堅固にして、畿内の物流、商業の中心に位置する事から、石山本願寺とその寺内町は大いに発展していった。


大坂に巨大な根を下ろし、前途洋洋に思えた本願寺の目の前にいきなり現れたのが、戦国の風雲児、織田信長である。信長は本願寺が持つ財力と地の利に目をつけ、矢銭(軍資金)を要求して、更に石山の地を明け渡す様、申し渡してくると、本願寺第11代法主の顕如(1543~1592)はついに腹を固め、元亀元年(1570年)に信長に戦いを挑んだ。顕如は、その卓越した政治、外交力をもって信長包囲網を形成し、また、その指導力をもって各地の一向一揆を動かした。顕如と一向一揆は反信長勢力の中心として活躍したが、信長も底力を発揮して盛り返してくると各地の一向一揆は各個撃破されてゆき、やがては本拠の石山本願寺も織田軍によって封鎖された。その包囲は数年にも及び、さすがの本願寺も滅亡が迫ってきた天正8年(1580年)3月、顕如はついに信長に屈し、石山の地を明け渡して、紀伊国鷲森に隠遁する事を決めた。しかし、長男の教如(1558~1614)はこれに強く反発して、徹底抗戦を叫んで石山篭城を続けたので、困り果てた顕如は義絶を申し渡した。


同年8月、教如は、関白、近衛前久の説得を受けてようやく石山本願寺を明け渡したものの、その直後に火が燃え広がり、壮大な伽藍や寺内町も灰燼と化した。だが、天正10年(1582年)6月2日、遺恨の残る信長は本能寺に消え、それから程ない6月27日、教如は義絶を赦免され、以後は顕如と共に寺務に携わる事になる。文禄元年(1591年)11月24日、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、側近にはかつて石山篭城を共にした強硬派を用いたので、顕如と共に紀伊国に退去した穏健派との間で深刻な内部対立が生じた。文禄2年(1593年)9月、時の天下人、豊臣秀吉は、強硬な教如が本願寺法主になった事を警戒していたので、この騒動に割って入り、10年後に弟の准如(1577~1631)に法主の座を譲るよう申し渡した。しかし、これを教如が拒否したので、秀吉は怒って教如を隠遁させ、すぐさま准如を12代法主の座に据えた。


だが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下の権を握ると、隠遁していた教如に京都の地に寺領を与えて、新たな本願寺の設立を後押しした。これには、かつて天下を震撼させた本願寺勢力を分立、対立させておこうとの家康の魂胆が含まれていた。そして、慶長7年(1602年)、教如は、堀川にある本元の本願寺からすぐ東の鳥丸七条に、もう一つの本願寺教団を設立した。こうして准如を12代法主とする西本願寺(浄土真宗本願寺派)と、教如を12代法主とする東本願寺(浄土真宗大谷派)の分立が決定する。それから数百年の時を経た現在、この両寺の対立関係はほぼ解消されているが、ある程度の対抗意識は今だに残っている模様である。両寺とも消防意識が高い事で知られており、下京区で開かれる自衛消防訓練大会ではお互いを意識して切磋琢磨し、その対戦成績はほぼ互角となっている。




興正寺
興正寺 posted by (C)重家


一見すると連なった一つの巨大寺院に映りますが、手前にあるのは興正寺(こうしょうじ)で、その右隣が西本願寺です。



興正寺
興正寺 posted by (C)重家

↑興正寺


興正寺も浄土真宗の寺で、真宗興正派となっています。永禄12年(1569年)、顕如の次男である、顕尊が興正寺の門跡を引継ぎ、天正19年(1591年)に西本願寺の隣に総本山が建てられました。本願寺が教如と准如とに分裂した時、顕尊は、弟の准如を支援しました。その縁もあって、興正寺と西本願寺はいわば兄弟の様な関係でしょう。この興正寺も、なかなか立派な構えでした。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑左が御影堂で、その右奥が阿弥陀堂


こちらは准如が引き継いだ、本願寺教団です。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑樹齢400年とされる銀杏の木


西本願寺の創建が天正19年(1591年)なので、その歴史のほとんどを見つめてきた事になります。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


内部は広く、装飾は鮮やかで、すこぶる立派なお堂でした。



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂


写真では伝わり難いですが、本当に大きなお堂でした。


西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑阿弥陀堂



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑門の装飾



西本願寺
西本願寺 posted by (C)重家

↑飛雲閣


かつて豊臣秀吉が創建した聚楽第の一部とされており、国宝に認定されています。この西本願寺は紅葉や桜の名所とかではありませんが、その壮大な建物は一見の価値があります。

犬山城

犬山城は、愛知県犬山市にある平山城である。木曽川南岸の丘陵上に築かれ、尾張国と美濃国の境目にあって、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら天下人もこの城の争奪を図った要衝である。



犬山城は、織田信長の叔父にあたる織田信康が天文6年(1537年)に築城したのが始まりとされる。城は木曽川の畔にある丘上にあって天然の要害を成しており、また、木曽川の水運に加え、中山道と木曽街道を睨む事も出来る経済、交通上の要衝である。信康は、兄の織田信秀の良き協力者として活躍していたが、天文13年(1544年)、信秀に従って斉藤道三の居城、稲葉山城を攻め立てた際、逆落としの逆襲を受けて戦死した。その跡は嫡男の信清が継いで犬山城主となり、引き続き信秀を支援した。天文20年(1551年)、信秀が急死して信長が跡を継いでも両者の協力関係は続いていたが、永禄5年(1562年)、所領の分与を巡って信長との対立が深まると、信清は美濃の斉藤龍興と結んで反旗を翻した。しかし、信長の勢いは強く、信清方の支城は次々に落ちて孤立を深め、永禄7年(1564年)5月には居城の犬山城も落とされて、信清は甲斐の武田氏の下へ落ち延びていった。


信長は犬山城を占領すると、丹羽長秀を城番に置いて、ここから美濃国侵攻を図る。犬山城は木曽川を挟んで美濃国に接する事から、重要な拠点として機能した。元亀元年(1570年)、織田家の部将、池田恒興が城主として入るが、天正9年(1581年)に摂津国へ転封され、代わって信長の五男、信房(勝長とも)が入った。天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きて信房が討死すると、尾張国は信長の次男、信雄の領域に加えられ、犬山城もその持ち城となった。
天正12年(1584年)3月、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄とが対立を深めると、美濃大垣城主となっていた池田恒興は羽柴方で参戦して、かつて知ったる犬山城に奇襲を加えて奪取し、これが開戦の狼煙となった。しかし、同年4月に起こった小牧・長久手の戦いで羽柴方は敗れて池田恒興は戦死し、同年11月に結ばれた和議によって、犬山城は信雄に返還された。


天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡に伴って織田信雄は、秀吉から移封命令を受けたが、これを拒絶したため、かつての家臣筋である秀吉によって容赦なく改易された。それに代わって尾張の領主となったのは秀吉の養子である豊臣秀次で、犬山城には秀次の実父である三好吉房が入った。しかし、文禄4年(1595年)、秀次が謀反の疑いをかけられて自害すると、吉房も改易され、犬山城には秀吉の直臣、石川光吉(貞清とも)が入った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、光吉は西軍側で参戦するも、本戦は敗れて徳川家康に所領を没収された。慶長6年(1601年)、家康の家臣である小笠原吉次が犬山城に入ったが、慶長12年(1607年)に平岩親吉に代わった。慶長16年(1611年)、親吉は死去するが、子が無く、嗣子断絶となった。それから6年間、無城主であったが、元和3年(1617年)に成瀬正成が犬山城主となり、そのまま明治の世まで成瀬家による統治が続く事になる。


明治の世を迎えると、廃藩置県によって愛知県の所有となり、櫓、城門などは取り壊されたが、天守閣だけは破壊を免れた。明治24年(1891年)に起こった濃尾地震によって天守閣は半壊してしまうが、明治28年(1895年)、その修復を条件に、旧藩主である成瀬正肥に無償譲渡された。昭和10年(1935年)、その価値が改めて見直され、国宝に指定される。犬山城は、明治から平成まで成瀬家による所有が続いていたが、平成16年(2004年)に財団法人犬山城白帝文庫に委ねられて、現在に至る。犬山城の最大の見所である天守閣は、1階と2階部分は慶長6年(1601年)に建築され、3階と4階部分は元和6年(1620年)に増築されたと見られている。天守閣は小振りであるが、最も古い形態を残している為、姫路城、松本城、彦根城と並んで国宝4城の一つとなっている。その古い天守に立つと、木曽川の優美な流れから、岐阜城のある金華山、遥か御嶽山までも望む事が出来る。



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城





犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城近くで開かれていた朝市


犬山城
犬山城 posted by (C)重家


犬山城の開門は朝の9時なのに、6時にここに着いてしまいました。3時間も待つ気は無いので、外観だけの眺めになってしまいました。



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑城内にある三光稲荷神社



犬山城
犬山城 posted by (C)重家



犬山城
犬山城 posted by (C)重家



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

せめて間近から天守閣を眺められればと思っていましたが、天守閣へと繋がる門は無情にも閉じられていました・・・



犬山城
犬山城 posted by (C)重家

↑犬山城

木曽川対岸からの眺めです。次にここを訪れる時は、天守閣からの眺めを写真に収めたいです。

岐阜城

岐阜城は、岐阜県岐阜市にある山城である。岐阜城は戦国史上において、最も名高い山城の一つである。



建仁元年(1201年)、鎌倉幕府の政所執事であった、二階堂行政が砦を築いたのがその始まりとされる。岐阜城は、低いながらも険しい金華山の山頂にあって、山麓には長良川が流れる天然の要害である。それを麓から眺めたなら、平野にそそり立つ難攻不落の城に映った。しかし、山上の地積が狭いのと、ここを普段の住居とするには険しすぎるのが欠点であった。


室町時代には美濃守護、土岐氏の最有力家臣で美濃守護代を務めた、斉藤氏の居城となり、天文2年(1533年)には、下克上の道を駆け上りつつあった斉藤道三(この頃の名は長井新九朗規秀)が城主となった。道三の時代、岐阜城は稲葉山城の名で呼ばれており、道三はここを拠点に美濃第一の実力者となりつつあった。だが、織田信長の父で尾張の実力者である、織田信禿が美濃攻略に乗り出すと、一時、支城の大垣城を奪われるなど苦戦に陥った。


天文13年(1544年)9月22日には織田信秀軍に稲葉山城下まで攻め入られるも、道三は夕刻を迎えて引き揚げる織田軍の一瞬の隙を突いて逆襲を加え、1千人余を討ち取る大勝利を収めた(加奈口の戦い)。この戦いで戦死した織田将兵を弔うために建てられた塚は織田塚と呼ばれ、現在でも金華山の麓に存在している。天文20年(1551年)頃、道三は、美濃守護で主筋に当たる土岐頼芸を放逐して美濃国主となり、下克上を極めた。そして、天文23年(1554年)、子息の義龍に家督と稲葉山城を譲って、自身は近隣の鷺山(さぎやま)城に隠居したとされる。


しかし、道三と義龍の仲は次第に険悪なものとなり、弘治2年(1556年)4月18日には両者は軍勢を催して、長良川を挟んで対峙する事態となった。人数は道三軍が3千人未満であったのに対し、義龍軍は1万人以上であったと云う。4月20日には合戦となったが、衆寡敵せず、道三は鼻を削がれたうえで、首を上げられた。道三の娘婿となっていた織田信長は、援軍を率いて美濃に向かっていたが、道三討死の報を聞いて空しく引き揚げていった。


血塗られた道を経て美濃の支配者となった義龍はなかなかの実力者で、度々の信長の侵攻を撃退して国内に踏み込ませなかったが、永禄4年(1561年)、35歳の若さで急死した。義龍の跡を継いだ龍興はまだ14歳の若年であり、信長はそれを当て込んで度々、美濃に攻め入った。それでも美濃勢は当初は若い当主を支えて、信長の侵攻を食い止めんとした。しかし、信長の圧力は強まる一方であるのに対し、今だ年少の龍興に指導力は期待出来ず、次第に美濃勢の結束は揺らいでいった。


そして、永禄7年(1564年)には、家臣の竹中半兵衛重治と安藤守就が背いて、稲葉山城を急襲、占拠する事件が起こった。城はすぐに返還されたものの、この事件は斉藤龍興の権威を失墜させ、信長の侵攻を加速させる契機となった。永禄10年(1567年)9月頃、ついに稲葉山城は落ちて、龍興は長良川を下って伊勢長島へと逃れた。この落城の際、火災が生じたらしく、麓にはその時のものと思われる焼土層が残っている。信長はこれにて念願の美濃攻略を果たし、100万石級の大大名となって、一躍、天下人への道が開かれた。


信長は稲葉山城を新たな本拠に定めると、その麓に4階の豪勢な居館を築いてそこを平時の住まいとした。そして、信長は、稲葉山城とその城下の井ノ口を岐阜と改名し、ここから天下布武の大号令を下したのだった。永禄12年(1569年)に岐阜城の信長の下を訪れたルイス・フロイスによれば、その居館は驚くほど壮麗で、欧州でもこれに比肩するものは無かったと云う。居館の外には4つから5つの庭園があり、形の良い石や白砂が撒かれて池には美しい魚が泳いでいた。


1階には20余の部屋があって、それぞれに絵画と塗金が施された屏風が飾られてあった。2階は更に美麗な装飾が施された婦人部屋があり、その前の廊下は中国製の金襴(きんらん)の幕で覆われていた。3階は一転、静寂優雅な佇まいで、ここには茶室が設けられていた。4階からの展望は素晴らしく、美しい庭園や、岐阜の町並みを一望する事が出来た。信長の独創的な発想は岐阜居館の作りにも存分に反映され、それは後に幻の名城、安土城へと繋がってゆく。だが、天正10年(1582年)6月2日、天下統一を目前に控えた信長は、突如として本能寺に消えた。


その衝撃は美濃にも波及して、織田信忠の家臣の斉藤利堯なる者が岐阜城を乗っ取る事件も起こった。斉藤利堯はしばらく岐阜城から天下の動静を覗っていたが、羽柴秀吉が明智光秀を破って上方を掌握すると、岐阜城を明け渡した。この後、岐阜城は信長の三男信孝の居城となるが、信孝は秀吉との対立を深めてゆき、天正10年(1582年)12月には秀吉の大軍に攻められた。信孝は一旦、人質を差し出して降伏するが、翌天正11年(1583年)3月、柴田勝家が越前から出陣すると、再び挙兵して岐阜城に立て篭もった。


しかし、頼みの勝家が賤ヶ岳の戦いで滅亡すると岐阜城は孤立無援となり、信孝は再び秀吉に降伏して、城を明け渡した。だが、信孝は許されずに切腹となり、岐阜城には池田恒興の嫡男、元助が入った。天正12年(1584年)4月、小牧、長久手の戦いで池田恒興、元助父子が討死すると、次男の輝政が岐阜城主となった。天正19年(1591年)4月、池田輝政は三河に転封され、代わって秀吉の養子、豊臣秀勝が城主となった。


文禄元年(1592年)9月、秀勝が病没すると、信長の孫に当たる織田秀信が城主となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、秀信は西軍側で参戦し、西上する東軍を岐阜城で迎え撃たんとした。そして、同年8月22日、秀信軍6千人余は岐阜城から出撃して木曽川の線で東軍1万8千余を撃退せんとした。だが、兵力不足から強攻渡河を許し、そのまま数に勝る東軍に押し切られて岐阜城へと退いた。8月23日、勢いに乗った東軍は金華山を駆け上がり、岐阜城を激しく攻め立てた。


岐阜城の見た目は堅固そのものであるが、山上部の地積が狭い事から、ここまで攻め入られれば、長くは持ち堪えられなかった。それでも秀信軍は激しく抵抗し、上格子門や二の丸門を巡る戦闘では双方多数の死傷者を出したと云う。だが、岐阜城の抵抗もここまでで、秀信軍は千人余が討ち取られ、同23日に秀信は降伏した。壮麗を極めた信長居館も、この時の戦災で焼失したのであろう。



戦後、秀信は高野山に追放され、代わって岐阜の地には徳川家康の家臣、奥平信昌が入った。だが、家康は岐阜城の廃城を決定し、信昌に加納城を築かせて、そこを統治の拠点とさせたので、岐阜城を巡る激動の歴史はここに終わった。それから4百年近い時を経た、昭和31年(1956年)、岐阜城跡に、鉄筋コンクリート製の3層4階建ての天守閣が復元された。決して風情を感じる建物ではないが、そこからの眺望だけは素晴らしいものがある。


それはかつて、斉藤道三や、織田信長が大望を抱きながら眺めた光景と一緒である。また、金華山の麓にあるロープウェー駅のすぐ側には、壮麗を極めたと云う信長の居館跡が存在する。安土城の前身とも言えるこの居館跡を発掘調査した結果、かつては居館を中心に広大な庭園が巡らされていたようだ。現在は山の一角と化し、訪れる人も少ないが、ここには確かに信長の息吹が残っている。






岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑上格子門跡


慶長5年(1600年)8月23日の岐阜城を巡る攻防戦では、この門付近で福島正則や池田輝政を始めとする東軍諸隊と、織田秀信軍との間で激しい戦闘が繰り広げられたそうです。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

二の丸門跡


慶長5年(1600年)の岐阜城攻防戦では、この二の丸門付近でも激しい戦闘があって、門付近にあった火薬庫が大爆発して、夜空を焦がしたと云います。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣


岐阜城は、標高329メートルの金華山の山頂にあって、平野部からの比高は308メートルあります。標高はそれほど高くはないのですが、見た目は険難そのものなので、麓にあるロープウェイを使って登るのが無難でしょう。天守閣は、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリート製で再建されたものです。外見は綺麗ですが、内部は味気ないです。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣からの眺め


写真中央、市街地の中にある小さな丘は、斉藤道三の隠居城であった鷺山(さぎやま)城跡です。岐阜城から長良川を渡った辺りが、斉藤道三とその息子、義龍とが父子相討つ戦いを繰り広げた場所です。そして、弘治2年(1556年)4月20日、斉藤道三はこの長良川の畔で、首を上げられました。道三の首塚は、付近の市街地の一角に存在しています。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑岐阜城天守閣からの眺め


これは、西の方角だったと思います。織田信長もここから西を眺めては、天下への野望を逞しくした事でしょう。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館跡


ロープウェイからの眺めです。かつては眼下に壮麗な建物がそびえ立っていたのでしょう。


岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑かつての岐阜城の姿



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館跡


ロープウェイ駅のすぐ側にあるので、乗られる際には足を運んでみる事をお勧めします。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

↑信長居館の奥にある小さな滝


近くには、滝へと下りる古い石段がありました。信長や斉藤道三などの歴代城主も政務の合間に、ここで一息入れる事もあったでしょう。



岐阜城
岐阜城 posted by (C)重家

信長居館前にある庭園


信長居館の周囲には、かつては、ルイス・フロイスも感嘆したと云う庭園がありました。現在、そのほとんどは埋もれてしまっているようですが、それでも僅かに往時を偲ばせてくれます。
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