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東本願寺

東本願寺は京都府京都市にある、浄土真宗大谷派の総本山である。


この東本願寺は、戦国時代に一大勢力を誇った本願寺から分裂して誕生した教団で、分裂の切っ掛けを作り、東本願寺の創立者となったのが教如である。永禄元年(1558年)、教如は、本願寺第11代法主、顕如の長男として生まれ、元亀元年(1570年)に得度(僧侶となるための儀式)をした。教如は身の丈6尺(約180センチメートル)の偉丈夫で、猛々しい性格の持ち主であったようだ。そして、奇しくもこの元亀元年は、戦国の風雲児、織田信長との対決の始まりの年であり、教如は若さ故の情熱も手伝って主戦派として教団を引っ張って行く事になる。しかし、信長の力は想像以上で、本願寺は徐々に追い詰められ、天正8年(1580年)3月、父、顕如はついに抗戦を諦めて、信長と和議を結び、本願寺の本拠、石山の地を明け渡す事を決した。そして、同年4月9日、顕如は恭順派を引き連れて石山を退去するが、抗戦派は納得しておらず、教如を立てて尚も抵抗せんとした。


教如自身も和議には納得しておらず、抗戦派の声に応えて石山篭城を続けんとしたので、顔をつぶされる形となった顕如は怒って教如に義絶を申し渡した。既にこの時、本願寺は分裂の様相を呈していた。同年8月2日、再度の説得を受け、教如はようやく石山の地を信長に明け渡した。しかし、故意か偶然か、教如が退去した直後に本願寺は炎に包まれ、壮大な伽藍は悉く、灰燼と化した。信長が熱望して止まなかった石山の地は、焼け残りの柱が立つだけの焦土となった。教如は石山退去後、紀州にある鷺森別院(さぎのもりべついん)に移ったが、僅か数日滞在しただけで、毛利氏の勢力下にある安芸の国へと旅立つ。その後の教如の足跡は不明であるが、天正10年(1582年)春には、一向一揆の勢力が残る越中五箇山に赴いていた模様である。石山退去後も、教如は密かに反信長活動を続けていたのであろう。


天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって信長が倒れると、教如の流転の旅も終わり、父、顕如とも和解して、共に寺務に携わる様になった。文禄1年(1592年)、顕如が死去すると、教如が第12代法主となったが、教如はかつて石山篭城を共にした強硬派を重用したので、顕如と共に和議に応じた穏健派との間で対立が生じた。時の天下人、豊臣秀吉は、武闘派として知られている教如の法主襲名を快く思っていなかったようで、本願寺の内紛に介入し、翌文禄2年(1593年)、教如に隠遁を命じる一方、その弟の准如を第12代法主とした。



慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、教如は法主返り咲きの機会と見たのか、徳川家康に接近して、慶長4年(1599年)秋に会見を行い、翌慶長5年(1600年)7月には、教如は関東まで赴いて会津攻めの陣中にあった家康と会見を行った。しかし、時はまさに関ヶ原の戦雲漂う中であり、教如の明らかな家康寄りの姿勢は西軍の首魁、石田三成に見咎められ、密かに教如抹殺の指令が下された。そして、同年8月、教如一行が墨俣の渡しまで戻って来たところ、突如として三成の手勢に襲われた。思わぬ襲撃を受けた教如であったが、地元の門徒達が救援に駆けつけてくれたお陰で、なんとか美濃の光顕寺まで逃れた。


しかし、三成勢は尚も追跡の手を緩めず、追い詰められた教如は光顕寺の須弥檀(しゅみだん)に身を隠し、時世の句を木板に刻む程であった。この時の木板は現在も、東本願寺に安置されている。教如は近郷から駆けつけた屈強の門徒82名に守られながら京を目指さんとしたが、三成勢の追跡は執拗で、途中、18人の門徒が戦死する。窮した教如一行は美濃と近江の国境にある国見峠まで逃れ、ここから更に道無き山中に分け入って鉈ヶ岩屋(なたがいわや)という岩窟に身を潜めた。



慶長7年(1600年)9月15日、岩屋で窮乏生活を続けていた教如に石田三成敗れるとの朗報が舞い込んだ。これを受け、教如はようやく安堵して山を下り、同年9月20日、大津城で家康との再会を果たした。翌年慶長7年(1601年)にも両者は二度、会見を行い、それらの活動が功を奏して、慶長8年(1602年)、教如は、家康より京都鳥丸七条の地を寄進される。そして、翌慶長9年(1603年)、浄土真宗の宗祖、親鸞の木像を迎えて、ここに東本願寺の創立を見た。これで本願寺の分裂は決定的となり、准如を法主とする西本願寺と、教如を法主とする東本願寺が並存する事となった。慶長19年(1614年)、教如は57歳で入寂する。僧侶としては破天荒な生涯であった。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺に創立時の建物はほとんど残っておらず、この御影堂も明治28年(1895年)の再建です。とは言え、明治期の建築、芸術の粋を集めて作られた一大木像建築物であり、十分、見応えがあります。



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂



東本願寺
東本願寺 posted by (C)重家

↑御影堂


東本願寺にはこの他にも、阿弥陀堂、御影堂門など壮大な木像建造物が存在するのですが、この時は残念ながら修復工事中でした。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家>

↑渉成園(しょうせいえん)


ここは東本願寺の飛地境内で、東本願寺から東に150メートル行った所にあります。承応2年(1653年)に書院式の回遊庭園として作庭され、歴代法主の隠退所として、また外賓の接待所として用いられました。



渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家


渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家




渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園
渉成園 posted by (C)重家



渉成園は見応えのある日本庭園で、心が落ち着きます。特に春の桜と、秋の紅葉の時期に訪れるのが良いでしょう。東本願寺を訪れる事があれば、この庭園も合わせて見学する事をお勧めします。
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