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宇佐山城

宇佐山城は、滋賀県大津市にある山城である。戦国時代、朝倉義景が京都を目指して進軍した際、織田信長の部将であった森可成がこの城で迎え撃って激闘を繰り広げた城である。



永禄11年(1568年)9月、尾張、美濃を領有する有力戦国大名に成長していた織田信長は、更なる飛躍を目指して、足利義昭を奉じて上洛戦を開始した。そして、見事、義昭を将軍の座に据える事に成功し、当時の日本の中心たる畿内も抑えた信長は、誰もが瞠目する一大権力者となった。しかし、その支配はまだ完全ではなく、信長の台頭を快く思わない勢力も内外に多数、存在していた。その中でも、信長に非協力的で、京にも程近い越前の大勢力、朝倉義景の存在は不気味であった。そこで、信長は義景打倒を念頭に置きつつ、朝倉軍の京都進出にも備えて、近江南部の志賀の地に築城する事を決定した。


これが宇佐山城の始まりであるが、朝倉軍の南下阻止だけでなく、近隣の大寺社勢力、比叡山延暦寺を押さえ込む目的もあった。 正確な築城年月日は不明であるが、多聞院日記(奈良興福寺の僧侶の日記)の元亀元年(1570年)3月20日の記事によれば、信長の部将、森可成が新城を築いて、その麓に道を通す工事をしているとあるので、道路はともかく城自体はこの時点で完成していた模様である。宇佐山城は険阻な山上にあって規模こそ小さいが、いち早く石垣を取り入れており、土塁だけのこれまでの山城よりも堅固な構えとなった。


そして、信長はその完成を待っていたかの如く、元亀元年(1570年)4月25日、大軍をもって朝倉討伐に乗り出した。信長軍は越前国境を打ち破り、義景を追い詰めたが、土壇場になって、同盟者と見なしていた浅井長政に裏切られ、信長は命からがら京に舞い戻る羽目となった。 復仇を誓った信長は、同年6月28日、姉川にて朝倉、浅井軍を打ち破ったが、決定的な打撃には至らず、その後も朝倉、浅井軍は信長を脅かす程の戦力を有していた。しかし、信長の敵は朝倉、浅井だけでは無かった。同年8月20日、四国と畿内に勢力を有する三好氏が、摂津の野田、福島に拠って挙兵した為、信長は軍を率いて摂津へと向かわねばならなかった。


同年9月14日、信長は優勢に戦いを進めていたものの、今度は一大寺社勢力、石山本願寺が反信長を掲げて挙兵したため、信長は大苦戦に陥った。こうして信長が摂津戦線に釘付けになっていた頃、間髪おかずに朝倉、浅井軍も南下を開始した。これら一連の反信長攻勢は、事前に申し合わせての事であろう。信長は桶狭間の様な、あるいはそれ以上の危機に陥った。 朝倉、浅井軍3万余は京を制圧し、信長の背後を襲わんとして、湖西を南下して行く。現時点でそれを阻止し得るのは、宇佐山城とその城将、森可成率いる3千人余の将兵のみであった。


同年9月16日、朝倉軍の先鋒が坂本口に迫ると、可成は城から打って出て、なんとしても南下を阻止せんとした。そして、森勢は坂本の町外れで朝倉軍を迎撃して、少々の首を取って勝利を収めた。しかし、これは前哨戦であり、9月19日、朝倉軍が陣容を整えて攻勢を開始すると、森勢はたちまち苦戦に陥った。それでも森勢は坂本の町を通らせまいと防戦に努めたが、ついに木戸を破られ、町中への侵入を許した。森勢は重囲に落ちたが、主将の森可成、信長の弟、織田信治を始めとする将兵達は最後まで抵抗の構えを崩さず、奮戦の末に討死していった。


この後、朝倉、浅井軍は余勢を駆って宇佐山城へと攻めかかり、主将を失った城の運命は風前の灯と思われたが、残置していた可成の家臣達がここで殊勲の奮闘を見せ、なんとか城を守り抜く事に成功した。しかし、宇佐山城の戦力が大きく減少した事も確かであり、大軍相手に長く持ち堪える見込みは立たなかった。翌9月20日、朝倉、浅井軍は一軍を割いて大津付近を放火せしめ、更に翌9月21日には醍醐、山科まで焼き払わせた。朝倉、浅井軍としてはこのまま全軍をもって京を制圧し、信長の背後を襲いたいところであったが、その為には宇佐山城を落として、背後の安全を確保しておく必要があった。それゆえ、朝倉、浅井軍は日を通して宇佐山城に猛攻を加えるのだった。


宇佐山城は主将を失いながらもしぶとく持ちこたえていたが、援軍が来なければ、落城は時間の問題であった。摂津中島の陣所にあった信長が、朝倉、浅井軍が京に迫りつつあるとの凶報を聞きつけたのは9月22日の事であった。もし、朝倉、浅井軍がこのまま京の制圧に成功すれば、信長の権威が失墜するどころか、摂津の三好軍や、本願寺軍の挟撃を受けて滅亡しかねない。最早、一刻の猶予もならなかった。信長は即座に京へ取って返す事を決断し、翌9月23日、柴田勝家や和田維政らを殿軍として摂津に残すと、強攻軍でその日の夜の内に京へと入ったのだった。


9月24日、信長本隊が京に入ったと知ると、朝倉、浅井軍は宇佐山城の囲みを解き、比叡山へと退いていった。この後、両軍は比叡山を挟んでの対峙状態となり、信長にとってまだまだ余談の許さない状況が続くが、少なくとも京が制圧されると云う最悪の事態だけは避けられた。 信長の機敏な行動と、前もって宇佐山城を築いておいた先見の明、それに宇佐山城の将兵達の奮戦もあって、被害は最小限に抑えられたと言って良いだろう。それから約3ヶ月後の、12月14日、比叡山を挟んだ両軍の対峙は、和議によってようやく解消され、信長、朝倉義景、浅井長政らはそれぞれの本拠へと引き返していった。


両陣営ともよく粘ったが、さすがに行動の限界がきており、ここらで手を打ったと言うところだろう。だが、信長や義景にしても、これが一時の和議である事は理解しており、事実、年が明けて両者は再び干戈を交える事となる。翌元亀2年(1571年)9月12日、宇佐山城は再び、歴史の表舞台に立つ事となった。宇佐山城の眼前に広がる大寺院、比叡山延暦寺を焼き討ちする為の拠点となったのである。延暦寺は前年、朝倉、浅井軍に味方して陣所を提供した事から、信長の激しい怒りを買っていた。 そして、織田軍は手当たり次第に火を放ち、逃げ惑う人々を殺戮していった。


信長は宇佐山城から指揮を執り、眼前に広がる阿鼻叫喚を眺めていたと思われる。比叡山から上がった炎は、京都からも望見できたと云う。この焼き討ちにおいて最も功を上げたのが、明智光秀であった。光秀は事前に地侍を懐柔するなど、周到な計画を練っていた。信長もその功を評価して、比叡山を含む志賀郡の統治を光秀に委ねている。それから程なくして光秀は坂本城の築城を開始し、ここを統治の拠点と定めた。これを受けて宇佐山城は廃城になったと思われ、歴史の表舞台から去っていった。現在、宇佐山城の跡にはアンテナ塔が建てられており、往時の姿を思い起こす事は難しい。だが、この宇佐山城が、信長の最大の危機を支え、その歴史の焦点となった事には変わりはない。




宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑宇佐山城への登山口


宇佐山城へは、山腹にある宇佐八幡宮の脇から行く事が出来ます。ここからは城跡まで急坂が続くので、暑い季節には飲み物を持参する方が良いでしょう。


宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑山腹にある削平地


城跡まで立て札が設置されているので、迷う事はないでしょう。


宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸


本丸跡にはテレビ塔が建っていました。古城にこのような近代的な建造物が建っていると興が削がれますが、麓から見た場合、良い目印にはなります。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸跡


かつては、ここに織田家部将の森可成が主将として在城しており、朝倉、浅井家との対陣時や、比叡山焼き討ち時には、織田信長もこの城に入っていたと思われます。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸石垣



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸北面


宇佐山城が急峻な斜面の上に建っているのが、目で見て理解できました。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑本丸付近から比叡山を望む


元亀元年(1570年)の9月24日から、12月14日にかけて、この宇佐山城周辺に陣取る織田軍と、比叡山に立て篭もる朝倉、浅井軍とが睨みあっていました。往時には
比叡山の峰々に朝倉、浅井軍の旗指物が立ち昇り、信長はそれを宇佐山城から憎々しげに眺めた事でしょう。



宇佐山城
宇佐山城 posted by (C)重家

↑宇佐山城と比叡山


左側の電波塔がある山が宇佐山城で、右の大きな山体が比叡山です。その比叡山の麓には、かつて、明智光秀が築いた幻の名城、坂本城もありました。



比叡山
比叡山 posted by (C)重家

↑比叡山延暦寺


宇佐山城築城の大きな目的の一つが、戦国の大寺社、延暦寺を監視する事でしたが、延暦寺が討滅され、麓に坂本城が築かれるに至って、その役割を終える形となりました。
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