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因幡若桜城

若桜城(わかさじょう)は、鳥取県八頭群若桜町にある標高445メートルの山城です。鬼ヶ城とも称される険しい城ですが、現在は林道を伝って、車で山頂近くまで行けます。



若桜城の築城年代は不明で、正治2年(1200年)頃、この地に赴任してきた駿河の豪族、矢部氏によって城砦が築かれた模様である。若桜城は播磨と因幡との国境にあり、街道を制する位置にある。そのため、戦国期には度々、争奪戦の的となった。天正3年(1575年)には、尼子再興を目指す、山中鹿之助の拠点としても、用いられた。しかし、翌天正4年(1576年)、吉川元春の攻撃によって、山中鹿之助は若桜城から追い落とされた。天正6年(1578年)、織田家の部将、羽柴秀吉による中国攻めが開始されると、この若桜城も落とされ、因幡攻略のための拠点とされた。



天正9年(1581年)、毛利方の鳥取城が落城し、因幡が平定されると、秀吉の部将、木下重堅が2万石の若桜城主として入った。その後、重堅は城を大規模に改修し、総石垣の近世城郭に改めた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍側に属した重堅が自刃すると、代わって山崎家盛が2万5千石で入封した。元和3年(1617年)、山崎家二代目、家治は移封され、代わって池田光政が因幡、伯耆の2ヶ国32万5千石の領主となって入封する。しかし、光政は鳥取城を居城とし、一国一城令もあったため、若桜城はほどなくして廃城となった。




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↑馬場



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↑崩れた石垣


若桜城の石垣は所々で崩れていますが、これは自然によるものではなく、廃城時に人為的に崩されたものです。



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↑曲輪



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↑上が本丸



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↑天守台跡



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↑砕けた瓦


かつては立派な建物が立っていたのでしょう。


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↑若桜城からの眺め


眼下に広がるのは、若桜の城下町です。


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↑若桜城からの眺め


右手奥の道は、旧播磨国へと通じています。秀吉もここから進軍してきたのでしょう。
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備中高松城 

備中高松城は、岡山県岡山市北区高松にある平城である。備中高松城は、織田家による中国攻めの際、その部将、羽柴秀吉によって水攻めにあった城として有名である。



高松城の築城年代は不明で、地元の豪族、石川氏が築いたのが始まりとされる。石川氏は備中の戦国大名、三村氏に仕えていたが、天正3年(1575年)、毛利氏の侵攻を受けて三村氏共々、攻め滅ぼされる。この時、三村氏に属していた清水宗治は、毛利氏に鞍替えして高松城主の地位に就いた。以後の宗治は毛利氏に従って各地を転戦し、深い信頼を得るようになる。



天正5年(1577年)、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨に入り、毛利氏との全面対決が始まった。この頃の戦場は播磨であったが、天正7年(1579年)、毛利輝元に属していた備前の戦国大名、宇喜多直家が織田信長に鞍替えすると、毛利家の戦線は一挙に後退し、清水宗治が守備する備中東部が最前線となった。そして、秀吉は播磨三木城、因幡鳥取城といった主要な城を落としていくと、天正10年(1582年)3月、今度は備中高松城を攻略すべく、姫路城を出立する。秀吉は攻撃に先立って黒田官兵衛を派遣し、宗治の誘降に取り掛かった。宗治は毛利に従ってまだ7、8年ばかりの外様であり、脈は十分あると踏んだのである。



だが、宗治はこの申し出を丁重に断った。それでも秀吉は諦めず、再び使者を送って説得せしめたが、結果は同じであった。秀吉は、武力をもって高松城を奪取する他、手は無くなった。同年4月、秀吉軍は高松城北方にある竜王山に陣取り、攻略戦に取り掛かった。秀吉軍は宇喜多軍1万余を加えた3万余の大軍団で、宗治は高松城を中心に6つの支城に5千人余の兵を配置して、これを迎え撃った。



高松城は低湿地の微高地に築かれており、平城ながら三方を沼に囲まれた要害堅固な城であった。秀吉は、高松城を強攻すれば犠牲は計り知れないと判断し、低湿地に築かれている事を逆に利用して、水攻めにする事を検討する。まず手始めに、高松城を援護する支城の攻略を開始した。同年4月25日、秀吉軍は冠山城に猛攻を加えてこれを落とし、100人余を討ち取った。続いて、加茂城、日幡城と落とし、5月2日には宮地山城を開城に追い込んだ。これで高松城を支える6支城の内、4つまでが落ちた。こうして障害を取り払った後、秀吉軍は堤防工事に取り掛かる。



秀吉は、金に物を言わせて農民多数を動員し、5月8日~5月19日までの僅か12日間で、高さ7メートル、長さ3キロメートルもの堤防を完成させたと云われている。(実際には高さはもっと低く、長さも数百メートルであったらしい)。上流の足守川の水が堤防内に引き込まれ、折からの梅雨の増水もあって、高松城の大部分が水に浸かった。これによって城方は、兵糧搬入と出撃はほぼ不可能となる。秀吉の方は、水攻めによって城方を封じ込める事に成功したので、自軍の大部分を援軍にやってくるであろう毛利軍主力に備える事が出来た。



これに対して毛利方は、4月中旬に小早川隆景の軍が後詰めにやって来たが、兵力不足で成すすべがなかった。5月21日になって、吉川元春の軍や毛利輝元の本隊が到着し、毛利方はようやく陣容が整った。この時、毛利方は総力を挙げた3万~4人余の軍勢を揃えたと云われているにも関わらず、積極的な動きを見せなかった。一つは、秀吉軍の包囲網がほぼ完璧で高松城に近寄り難かった事、二つは、最早、毛利家の劣勢は覆い難く、織田家との早期和平を望んでいたからである。秀吉は毛利方のそういった弱味を熟知した上で安土に使者を送り、信長の直接出馬を仰いだ。信長もこれを了承し、明智光秀ら畿内の諸将を率いて中国戦線に赴くと答えた。



毛利方は、信長の直接出馬を知って焦りが募る一方であった。秀吉の一軍だけでも押され気味であるのに、この上に信長の本隊が現れれば、毛利家は一挙に崩壊しかねなかった。すでにこの年、天正10年(1582年)3月には、名立たる強豪であった武田家が、織田家の大攻勢を受けて滅亡している事実もある。毛利方はそうなる前にと交渉を試みたが、秀吉は有利な情勢を背景に大幅な譲歩を求めてきた。すなわち毛利領国、五カ国の割譲と、清水宗治の切腹を要求してきたのである。



毛利方にとって領土の割譲は、最早、受け入れざるを得なかったが、毛利家に忠節を尽くし、今でも城を守り続けている清水宗治の切腹だけはどうしても受け入れ難かった。こうして和平交渉は暗礁に乗り上げたが、秀吉には焦る素振りは無かった。何故なら信長の親征を前にして、毛利方に更なる譲歩を要求出来る立場にあって、交渉を急ぐ必要などなかったからである。だが、信長が中国戦線に現れる事は永久になかった。天正10年(1582年)6月2日、本能寺において、織田信長、信忠父子が明智光秀によって討たれたからである。



同年6月3日夜半、高松の秀吉陣営にて1人の密使が捕らえられた。その密使が携えていた書を見て、秀吉は信長の死と明智光秀の反逆を知った。秀吉は長年仕えてきた主君の死の衝撃と、自らが置かれている危険な状況を鑑みて暗澹たる思いになった。しかし、秀吉に逡巡する時間は無かった。毛利方に信長の死が知れ渡るのは時間の問題であり、そうなれば光秀と毛利氏の挟撃を受ける恐れがあった。実際、そうしようとして光秀の密使が来たのである。



毛利方に正確な情報が伝わる前に、秀吉には直ちに和平交渉をまとめる必要があった。秀吉は密使を斬り、周辺の街道を封鎖して厳重な情報統制を行った。その上で秀吉は、この6月3日の夜中か、翌4日早々に毛利家の使僧、安国寺恵慶を呼び出した。会談にあたって秀吉は、面目上、清水宗治の切腹は譲れないが、領土の割譲に関しては、ほぼ現状を維持する形で講和すると大幅な譲歩案を示した。



千両役者の秀吉は信長の死を秘し、「上様の親征を前にして、これが最後にして最良の和解の機会である」と説いた。毛利方にはまだ、信長の死は伝わっていなかった。安国寺恵慶はこれが最良の和解条件と信じて秀吉陣から出ると、その足で高松城へと赴いて、宗治に和解条件の事を伝えた。暗に切腹を促すためである。この頃、高松城では餓死者が出始めるなど、篭城の限界に近づいていたらしく、すでに宗治は自身の切腹と引き換えに開城する決意を固めていた。



そして、宗治は自らの命一つで、高松城の将兵と毛利家が救われるのならば本望であると述べ、直ちに切腹開城の運びとなった。6月4日巳の刻(午前10時)、宗治は湖上に船を浮かべ、敵味方多くの将兵が見守る中、「浮き世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」との時世の句を残すと、従容として死の徒についた。清水宗治、享年46。そして、宗治の兄、月清入道や、弟の難波伝兵衛、毛利家の軍監、末近左衛門らもその後を追った。



この清水宗治の自刃をもって、毛利家と織田家との和解は成り、高松城は秀吉軍に明け渡された。そして、毛利方が信長の死を知ったのは、そのすぐ後の6月4日夜半か、翌5日であったようだ。毛利方では、この機に乗じて秀吉を襲わんとの声も挙がったが、すでに高松城を明け渡して和約を結んでいる以上、名分が立たなかった。それに和約を破棄して攻撃せんとしても、秀吉はまだ陣を固めたままであり、隙は無かった。



また、毛利方がこの時に得ていた上方の情報は、はなはだ不正確で(明智光秀と柴田勝家が結託して謀反を起こしたと見なしていた)判断に迷っていた事もあり、ここは一旦、兵を引き情勢を見極める事に決した。そして、6月6日、毛利軍は、当初の和約通りに兵を引いた。秀吉は、この毛利軍の陣払いを見届けた上で撤退に取り掛かった。そして、宇喜多軍1万人余を毛利軍への備えとして残すと、明智光秀と雌雄を決すべく、2万人余りの兵を率いて急速に東上を開始するのである。



毛利方は、この秀吉の撤退を黙って見逃した。間に宇喜多軍が立ちはだかっているとは云え、もし、この時に大挙して毛利方が襲い掛かっていれば、情勢はどう転んでいたか判らない。本能寺の変後、織田家の関東方面軍司令官だった滝川一益が、北条家の逆撃を受けて大敗北を喫している事実もある。また、光秀の密使が迷わずに毛利陣に手紙を届けていれば、これまた情勢は大きく変わっていただろう。そうなれば、高松城の開城も清水宗治の自害も無くなり、おそらく、毛利軍は大挙して反撃を試みていただろう。秀吉は強運の持主であった。だが、強運だけでなく、好機を逸する事なく行動した秀吉には、やはり天下人の器があったのだろう。



歴史の転換点の舞台となった高松城であるが、落城後は宇喜多氏の持ち城となり、江戸時代初期には廃城となった。清水宗治の死後、その嫡子の景知は、秀吉から大名に取り立てようとの誘いがあったと云うが、これを断って小早川家の家臣として仕えた。その後、小早川家が断絶した事から景治は毛利家に復帰し、父以来の忠勇を評されて重臣格の身上となって、そのまま明治の世まで続く事となる。








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↑高松城全景




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↑高松城近辺の水田

かつて、この辺りが湿地帯であった事を偲ばせます


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↑高松城東方の山


秀吉の本陣が置かれていたとされる山です。



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↑資料館


高松城のすぐ近くにあります。


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↑水攻めの模型


資料館内にあります。これを見ると、大規模な堤防が築かれている様子が窺えますが、実際には堤防はもっと小規模であった模様です。また、高松城には5千人もの人数が篭っていたされる資料もありますが、これは誇張で、資料館の方に伺うと実際には千人程度ではなかったかと言う事でした。



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↑高松城本丸


かつて清水宗治らが、立て篭もっていた場所です。



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↑清水宗治の首塚


近辺の石井山に祭られてあったものが、明治時代になって高松城内に移築されました。



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↑清水宗治時世の句



「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」


宗治の兄、月清入道の時世の句も載せておきます。


「世の中に 惜しまれる時散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ」

実際には、下記の句を読んだのは宗治であって、上記の句を月清入道が読んだとの声があります。いずれにせよ、心に響くものを感じます。



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↑清水宗治自刃の地


宗治自刃の地は、高松城の駐車場から歩いてすぐの寺の近くにあります。



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↑ごうやぶ遺跡


宗治自刃の地のほど近くにあり、宗治を慕って自害した家臣を祭ったものであるとされています。こういうものが現在まで語り残されている事から、この出来事は史実であると思われます。



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↑ハスの花


このハスは、高松城で公園造成工事をしていた際に見つかった種が、自然繁殖したものです。宗治在城時に咲いていたものと推測され、約400年振りに花を咲かせました。このハスは宗治ハスと呼ばれており、清廉な武人、清水宗治を偲ばせます。

岡山城

岡山城は、岡山県岡山市北区にある平山城である。


岡山城は、南北時代に前身となる砦が築かれ、戦国期には金光氏と云う豪族の居城となっていた。天正元年(1573年)、備前国制覇を進める、宇喜田直家によって金光氏は滅ぼされ、直家はその居城を自らの本拠と定め、大規模な改修を施す。直家の子、秀家の時代になると、城は近世城郭へと作り変えられ、慶長2年(1597年)には天守閣の完成を見る。しかし、秀家は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に破れて、八丈島へと島流しとなり、代わって小早川秀秋が新たな城主となる。


秀秋は岡山城を更に改築し、城域は2倍に拡張された。しかし、秀秋は慶長7年(1602年)に死去して、その治世は僅か2年で終わる。その後には、池田輝政の次男、忠継が入城し、以後代々、備前池田家の居城となる。池田氏治世の間にも城は逐次、増改築されてゆき、御殿や、後楽園などが作られていった。明治の世となると、城郭は取り壊されていき、天守閣と幾つかの櫓を残すのみとなる。やがて、天守閣は国宝に指定され、その保存が決まったものの、昭和20年(1945年)の米軍の空襲によって、惜しくも焼け落ちてしまう。その後、空襲の被害から免れた、月見櫓、西の丸西手櫓が国の重要文化財に指定され、天守閣は、昭和41年(1966年)、鉄筋コンクリート製で再現された。



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↑岡山城



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↑表書院跡


かつては、この辺りに御殿や書院が立ち並んでいました。



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↑塀と狭間



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↑石垣



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↑月見櫓



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↑天守閣


見た目はすこぶる立派なのですが・・・



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↑城内部


中に入ると、近代的な建物で、エレベーターもあって興醒め・・・

その他、天守閣内部には、甲冑や槍、刀、文献資料などが展示されていました。




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↑天守閣


天守閣の石垣は、米軍空襲時の激しい火災によって、変色している箇所があるとの事です。



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↑天守閣からの眺め



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↑天守閣からの眺め

弓木城

弓木城は京都府、与謝野町岩滝にある山城で、近くには日本三景として有名な天橋立がある。



弓木城の詳しい歴史は定かではなく、鎌倉時代末期に地元の豪族、稲富氏が丹後岩滝の地に城を構えたのが、始まりであると云われている。室町時代になり、幕府の四職である一色氏が丹後守護となると、稲富氏はこれに従う。以後代々、稲富氏は一色氏の家臣として仕え、戦国に至る。天正6年(1578年)頃から、畿内には織田信長の支配が浸透し始め、その矛先は丹後一色氏にも向けられるようになる。信長は配下の細川藤孝や明智光秀らを差し向け、丹後攻略に当たらせた。



当時の一色氏当主は義道で、建部山城を居城として織田軍に抵抗した。しかし、翌天正7年(1579年)相次ぐ国人の裏切りによって義道は孤立し、建部山城も落城する。義道は但馬に逃れようとして、途中、中山城に立ち寄ったところ、そこで家臣の裏切りに遭い、自害して果てた。義道死後、子の義定(満信とも)が残党を引き連れて、弓木城に立て篭もった。細川藤・忠興父子は弓木城を攻め立てるが、剛勇の誉れ高い義定の抵抗は激しかった。この戦いでは、一色氏の家臣の稲富直家(祐直とも)も、よく主家を支えて戦った。この直家は稀代の鉄砲の名手であり、細川方を大いに悩ませた。



弓木城を攻めあぐねた藤は、娘を義定に娶らせて、その懐柔を図る。義定もこれを受け入れ、細川氏の支配下に収まったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月本能寺の変が起こると、藤孝、忠興父子は明智光秀から距離を取ったのに対して、義定は光秀に味方する。山崎の戦いにて光秀が敗死すると、勝者となった羽柴秀吉は、義定を不信の目で見た。同年9月、その意向を受けた藤孝、忠興父子は、義定を宮津城へと招き入れ、これを謀殺せしめた。 この時、一色家の家臣、雑兵100人も殺害された。


義定謀殺後、一色家では義定の叔父である義清が跡を継ぎ、弓木城に拠って最後の抵抗を試みた。しかし、細川方はすぐさま軍を派遣し、弓木城を激しく攻め立てる。一色方の敗色は濃くなり、義清は最早これまでと細川方の本陣に斬りこみ、下宮津の海辺にて壮絶な討死を遂げたと云う。そして、弓木城も落城した。一色氏滅亡後、
稲富直家は、その鉄砲の腕を買われて細川家に召抱えられ、弓木城はほどなくして廃城となった。尚、この丹後一色氏に関しては不明な点が多く、詳しい事柄は分かっていない。







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↑天橋立と弓木城


奥に見えるのが天橋立で、真ん中下よりの丸い丘陵が、弓木城です。



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↑麓から眺めた弓木城




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↑弓木城内にある稲荷神社


夜には何か、出て来そうです・・・



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↑弓木城



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↑副郭



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↑副郭付近からの眺め


往時には、眼下から細川方が攻め上がり、城からは弓、鉄砲が撃ち放たれて熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう。



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↑主郭手前からの眺め


写真では分かり難いですが、急な坂道となっています。



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↑上が主郭


堅固な構えであった事が伺えます。


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↑主郭


ここに館があって、一色氏の当主が立て篭もっていたのでしょう。




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↑主郭にある石碑



弓木城は比較的、街に近い山城ですが、訪れる人も少ないようで、ひっそりとしていました。弓木城は、かつての城主、一色氏共々、忘れ去られた城跡のようです。

上月城

上月城は、兵庫県佐用郡佐用町にある山城である。



上月城は、延元元年(1336年)、播磨守護赤松氏の支族である上月氏が播磨国西部、佐用の地に築城したのが、始まりであるとされている。嘉吉元年(1441年)、嘉吉の乱に巻き込まれて上月氏が滅亡すると、その後は赤松氏の持ち城となって戦国に至る。やがて中国地方の雄、毛利氏と、畿内の覇者、織田氏の勢力が播磨の地で接触するようになると、この山間の小さな城はにわかに注目を浴びる事となる。



天正5年(1577年)10月下旬、織田信長は毛利氏との対決を見据えて、有力部将の羽柴秀吉を播磨に送り込む。秀吉は任地に入るや、播磨中を飛び回って、各地の諸領主を次々に支配下に収めていった。秀吉の精力的な働きによって、播磨の過半は平定され、残るは宇喜多氏の支配下にある播磨西端のみとなる。当時の宇喜多氏は毛利氏に従属していたので、この地は毛利氏の最前線に当たっていた。そして、
この播磨西端で一際、重要な城が上月城であった。上月城は備前、美作、播磨の三つの国の境目にある交通の要衝で、秀吉が中国地方に攻め入らんとすれば、何としても手に入れたい城であった。そして、 同年11月、秀吉は、上月城目指して進軍を開始する。



当時の上月城の主将は、宇喜多直家に属する赤松政範で、近隣の福原城と連携しつつ、秀吉軍に対抗する構えを見せていた。同年11月下旬、上月城は秀吉自らが主力をもって攻略に当たり、福原城の方へは竹中半兵衛と黒田官兵衛らの別働隊を差し向けた。秀吉軍が7日間休まず上月城を力攻すると、城兵は敵わずと見て、主将、赤松政範の首を取って降参を申し入れてきた。しかし、秀吉はこれを許さず、城兵全て撫で斬りとした上、捕虜とした女子供200人余を備前、美作の国境まで引っ立てて、悉く磔(はりつけ)にかけて晒したのだった。もう一方の福原城でも、城兵250人余が悉く斬り捨てられた。これらの過酷な処置は、周辺の諸領主に対する秀吉の脅しであった。



秀吉は攻略した上月城に、尼子氏の残党である尼子勝久、山中幸盛(鹿之助)ら7,8百人余を込めて守備を任せた。この時点で秀吉は播磨、但馬の大部分を支配下に収め、中国平定戦は順調に進んでいた。しかし、翌天正6年(1578年)3月、播磨最大の国人である別所氏が離反した事で、播磨平定は一からやり直しとなった。秀吉は直ちに三木城の封じ込めに取り掛かったが、ここで最も恐れていた事態が起こる。同年4月18日、毛利、宇喜多両軍がこの機に乗じて播磨に攻め入り、尼子残党が篭る上月城を囲んだのである。秀吉は三木城に押さえの兵を残すと、同僚の荒木村重と共に上月城の後詰めに向かった。



秀吉、村重軍1万人余は、上月城の北方にある高倉山に陣取って毛利、宇喜田軍3万人余と向かい合った。だが、秀吉軍は劣勢で手の出しようが無く、これから2ヶ月余り、ただただ遠巻きに上月城を見守る事しか出来なかった。万策尽きた秀吉は上洛し、信長の指図を仰いだ。だが、信長の出した命は、現実的で非情なものであった。上月城を見放し、三木城の攻略に専念せよとの断を下したのである。秀吉はこれに従うしかなかった。同年6月26日、秀吉、村重軍は高倉山の陣を引き払って撤退していった。上月城の将兵達はそれを見て、絶望に打ちひしがれた。



上月城の尼子残党は毛利軍に開城する事を決し、尼子勝久ら責任者の自刃をもって、城兵の助命を申し出た。同年7月3日、申し出は受け入れられ、まだ若い26歳の尼子勝久と、その嫡男で幼年の豊若丸も自害となった。尼子軍の主要人物であった山中幸盛は投降したが、危険人物であると見なされていたので、備中国高梁川、合の渡しにて斬殺された。山中鹿助幸盛、享年34か。この尼子主従の死によって、大名としての尼子再興の夢は閉ざされた。一方、かつての尼子家当主で、永禄9年(1566年)に毛利家に降伏していた尼子義久は客分として遇されており、その子孫は毛利家代々の重臣となっている。



落城後、上月城は廃城となった。この地を制した毛利、宇喜多両軍であるがこれ以上、進撃する事はなく、本国へと引き返していった。これで秀吉は一息入れる事が出来、以後、三木城の攻略に専念する事となる。翌天正7年(1579年)、宇喜多直家が離反した事から、毛利氏が播磨に関わる余裕は無くなった。戦闘の焦点から外れた上月城は急速に草木に埋もれてゆき、やがて忘れ去られていった。しかし、現在でも上月城周辺に目を凝らせば、包囲側の毛利軍の遺構や、それに対面する織田軍の遺構を見る事が出来る。それは、かつてこの地が織田、毛利の一大決戦地であった事を物語っている。そして、山麓にある尼子勝久と山中幸盛らを偲ぶ石碑が、今に尼子氏の悲運を伝えている。







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↑歴史資料館


上月城の麓には、資料館があります。城への登山口は、ここからすぐの所です。本丸までは歩いて2、30分といったところでしょう。



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↑堀切




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↑曲輪跡




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↑中腹からの眺め


前方の山には、毛利軍が陣取って上月城を囲んでいたのでしょう。



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↑上月城本丸


ここに尼子勝久らが詰めていたのでしょう。御家再興の儚い夢を抱きながら・・・



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↑本丸にある赤松政範の供養碑



赤松政範は、秀吉軍に攻め入られた際、城兵にその首を掛かれ、無念の最後を遂げています。その後、城兵、女子供も皆殺しとなりました。




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↑二の丸跡



ここには、山中鹿之助らが詰めていたのでしょうか。上月城は小さな山城で、千人以上の篭城は困難な様に思えます。軍記では2千人が篭っていたそうですが、実際には7、8百人ぐらいがせいぜいではないでしょうか。




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↑二の丸辺りからの眺め


眼下には、上月城の城下が広がっています。この城下も、かつては古戦場であったと伝わります。



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↑麓にある尼子勝久の供養碑



尼子勝久は、山中鹿之助らが担いだ神輿の様な存在で、影は薄いのですが、その最後は立派なものでした。

 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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