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白旗城 2

白旗城、訪問記の続きです。


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↑奥が本丸


ここまで来るのに1時間かかりました。これは本格的な登山でした。



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↑本丸


本丸には老夫婦がおられました。達者な足をお持ちです。



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↑本丸からの眺め


黄砂の影響でしょうか、白く霞んで、遠くまで見通せなかったのが残念でした。



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↑本丸に展示されている、城の航空写真




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↑散りかけた山桜


本丸に咲いていました。



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↑本丸にある石碑




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↑麓にある五輪塔


新田義貞との攻防戦時に出た、戦死者を祭ったものと伝わります。白旗城の麓には、赤松円心の館跡もあります。今では畑のようになっていましたが、往時には立派な居館があって、普段はそこで政務を執っていたのでしょう。


この白旗城は、色々見応えがあって良き城跡でした。また、地元の方が草刈を行ったり、杖を置いてくれてたりして、登山者に便宜を図ってくれています。お蔭様で、バテながらも気持ちよく登山できました。
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白旗城 1

白旗城は、兵庫県赤穂郡上郡町にある山城である。この城は、標高440メートルの白旗山の山上部に築かれていて、南北朝時代の動乱期に主戦場となった。



白旗城は、建武3年(1336年)、播磨の実力者、赤松円心(則村 / 1277~1350))が白旗山に築いたのが始まりとされる。



後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を唱えて挙兵すると、円心はこれに加担する。しかし、鎌倉幕府打倒後、後醍醐天皇は独裁的な政治を始める。円心は倒幕戦に活躍したものの、恩賞もなく冷遇されたため、怒って播磨に引き込んだ。やがて、足利尊氏と後醍醐天皇が対立し、南北朝時代の幕が開けると、円心は北朝の尊氏に味方した。しかし、尊氏は南朝軍との戦いに敗れて、一旦、九州へと逃れた。



尊氏を破った南朝側は、今度は円心を討つべく、新田義貞を始めとする6万人余り(実数は2万人ほど?)の兵を播磨に向かわせた。円心は、白旗城を盾に2千人余の兵をもってこれを迎え撃った。義貞は圧倒的な兵力を有しながら、天険の要害である白旗城を攻めあぐね、50日余りもこの地に釘付けとなった。



その間、九州で勢力を回復した尊氏は東上を開始する。新田義貞は、尊氏東上を聞くと白旗城より撤退を開始するが、ここで赤松軍の追撃を受けて大きな打撃を被った。義貞は体制を立て直すべく、兵庫まで兵を引くが、ここで尊氏との決戦となった。この戦いでは、衰亡した新田軍が目立った働きを示す事はなかった。南朝の楠木正成は1人奮戦したものの退勢は変わらず、正成は討死し、南朝側は総崩れとなった。



この後も、南北朝の戦いは続いてゆくが、湊川の戦いは勢力が逆転する大きな転換点となった。そして、この尊氏の勝利に大きく貢献したのが、円心であった。建武3年(1336年)、室町幕府が成立すると、尊氏は円心の功を評し、播磨守護職に任命する。その後、赤松氏はさらに発展し、播磨、美作、備前の三カ国の守護に任ぜられると共に、京極、一色、山名と並ぶ四職として重んじられた。以後、白旗城は赤松氏の本城として用いられる。



その後の赤松氏と白旗城の歴史


康安元年(1361年)、南朝が京を占拠し、赤松則祐は逃れてきた足利春王丸(後の足利義満)を白旗城に迎えた。


嘉吉元年(1441年)4月、赤松満祐が第6代将軍、足利義教を殺害すると云う大事件を起こす(嘉吉の乱)。この後、赤松一族は満祐諸共、征討軍によって討ち滅ぼされた。この時に白旗城も落城したと見られる。


その後、赤松氏の残党である、赤松政則(1445~1496)が御家を再興し、再び播磨、美作、備前の守護となって勢力を盛り返す。しかし、その本拠は置塩城に移り、白旗城は支城として用いられた。白旗城は、戦国期にも用いられていたようだが、廃城の時期は不明である。


戦国期に入ると、家臣であった備前の浦上氏や播磨の別所氏、小寺氏らが実力を付けてきて戦国大名化するに伴い、赤松氏は勢力を縮小させていった。慶長5年(1600年)、関ヶ原合戦時には、赤松氏は僅か1万石の小大名となっていた。しかし、赤松氏は西軍に加担した事から、所領は没収され、名族、赤松氏はここに滅亡した。


 

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↑中央に白旗城


白い看板の後方の山が、白旗城です。左の方に民家が見えますが、その付近に登山口があります。



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↑岩だらけの登山道


ごつごつした非常に険しい山道で、所々で休憩しながら登っていきました。500ミリリットルの飲み物を持っていきましたが、足りなかったです。 赤松円心を攻め立てた新田軍も苦労した事でしょう。白旗城自体が峻険な上に、山上部からこの様な岩石を放り投げられたでしょう。



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↑石垣


これは、戦国期に作られたものだと思われます。


 

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↑山肌を流れる谷川


白旗城では、水に困る事はないでしょう。



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↑堀切


写真では分かり難いですが、かなりの切れ込みでした。


 

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↑櫛橋丸跡


高台にある曲輪です。


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↑櫛橋丸からの眺め


麓を流れる川は千種川



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↑三の丸跡


山上部はかなり広いです。




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↑三の丸にある土塁跡



本丸偏へと続く。



明石城

明石城は、兵庫県明石市にある平山城である。


元和3年(1617年)、徳川氏の譜代家臣である小笠原忠真が、信州松本から播磨明石に転封され、この地に築城する。時の将軍、徳川秀忠は西国大名の監視の役割を小笠原氏に求めた事から、普請費用として銀1千貫目を援助し、さらに普請奉行3人を派遣して、築城の手助けをした。元和6年(1620年)、明石城は、壮麗な近世城郭として完成した。ただ、天主台の石垣は築かれたものの、天守閣は築かれず、代わりに本丸に御殿が建てられた。


その後、明石城の城主は、目まぐるしく入れ替わった。寛永9年(1632年)、小笠原氏転封→松平氏入封。寛永16年(1639年)、松平氏転封→大久保氏入封。慶安2年(1649年)、大久保氏転封→松平氏入封。延宝7年(1679年)、松平氏転封→本田氏入封。天和2年(1682年)、本田氏転封→松平氏入封。以後、松平氏のまま、明治の世を迎える。明治7年(1874年)、明治政府による廃城令により、明石城は廃城となった


 

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この明石城は、日本の桜の名所、百選にも選ばれている桜の名所であります。私が訪れた日にも、大勢の花見客で賑わっておりました。

信州上田城

上田城は、長野県上田市にある平城である。



天正11年(1583年)頃、上田城は、信濃北部の領主である、真田昌幸によって築かれた。昌幸は、かの有名な真田信繁(幸村)の父として知られている。昌幸は、大国の狭間に置かれた弱小な真田家を統率して、なりふり構わぬ生き残り策をめぐらして戦乱を乗り切ってきた、したたかな武将である。そして、この上田城は、昌幸が徳川の大軍をものともせず、二度に渡って退けた城として有名である。


天正13年(1585年)8月、真田家は徳川家に臣従していたが、家康から上州沼田領を北条家に明け渡すよう、申し渡される。当時、家康は秀吉と対峙中であり、背後の北条家との関係を深める必要あっての事であった。しかし、昌幸は豊臣家と上杉家に誼を通じた上で、これを峻拒する。当然、家康は激怒し、昌幸を討つべく、徳川家の部将、大久保忠世、忠教らに諸勢7千余を預けて、上田に送り込んだ。この時、昌幸には2千余の兵しかなく、上田城もまだ未完成であった。だが、昌幸は上杉家に援軍を依頼した上で、秘策をめぐらせてこれを迎え撃つ。


8月2日、上田城正面で両軍はぶつかったが、徳川軍は城内深く引き込まれ、その上で伏兵の反撃を食らって大混乱に陥ってしまう。徳川軍がたまらず退却していくのを昌幸は逃さず追撃し、城外東の神川まで追い詰めて、徳川方多数を討ち取った。この時の徳川軍の死者は、350~1300人余に上った。その後も徳川軍は攻略を諦めず、再び大きな衝突もあったが、11月になって徳川軍は引き揚げていった。


慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの折、真田昌幸は石田三成と通じて、再び徳川方と激突する。家康は上方の三成を目指し、軍を二分して西進する。家康自らは東軍諸将を率いて東海道を通り、子息の秀忠には中山道を進ませた。9月2日、秀忠軍は小諸城まで来ると、上田城に降伏勧告を呼び掛けた。秀忠軍は3万を越える大軍であり、これに対する真田軍は2千人余でしかなかった。昌幸が降伏するのは、当然と思われた。


昌幸はこれに応ずる気配を見せつつも、何かと言い訳をして城の明け渡しを拒んだ。9月6日、昌幸に欺かれたと知った秀忠は激怒し、一挙に城を踏み潰すべく、全軍総攻撃の断を下す。これを迎え撃つ真田軍は、第一次上田合戦同様、小競り合いをしつつ徳川軍を城内に引き付けると、その上で鉄砲、伏兵による痛撃を加えたので、徳川軍は手痛い打撃を被った。


徳川方は上田攻略を諦め、小諸城へと引き返した。9月11日、上方情勢が風雲急を告げる中、秀忠軍は遅まきながら西進を再開した。しかし、9月15日、秀忠軍が妻籠までたどり着いた時に、関ヶ原の戦いは終わった。戦後、家康は、秀忠の遅滞に怒ってしばらく面会を許さなかったと伝わる。


関ヶ原合戦後、昌幸と信繁は、長男信之の取り成しで死一等は免ぜられたが、九度山への配流が決定する。昌幸の改易後、上田領には信之が封ぜられたが、上田城は徹底的に破却される事となった。その後、信之は松代城に転封され、次に入ってきた仙石氏によって上田城は復興される。宝永3年(1706年)、仙石氏が但馬出石城に転封されると、代わって松平氏が上田城に入り、そのまま明治の世を迎えた。



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↑大手門



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↑南櫓



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↑真田神社


真田氏、仙石氏、松平氏といった歴代藩主が祀られているとの事です。私も有名になって、神社を作ってもらいたいものです。



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↑本丸土塁と堀


天正13年(1585年)8月、徳川軍との一度目の対戦の折には、昌幸は400人余の兵で、この本丸まで徳川軍を引き付けたそうです。第一次上田合戦当時の上田城はまだ土塁の城で、その時の名残が今でも残っています。



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↑上田城からの眺め


往時には、城周辺を徳川軍がびっしりと囲んでいたのでしょう。



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↑真田井戸


ここから、城北の太郎山に抜ける事が出来るのだとか。
( ´,_ゝ`) ふ~ん 戦国版どこでもドアってとこでしょうか。



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↑真田石


慶長5年(1600年)9月、第二次上田合戦当時の上田城は、要所、要所に櫓が築かれ、城下町を取り込んだ惣構えも有する、堅固な近世城郭に発展していました。仙石氏復興時よりも、昌幸時代の上田城の方が厳重な守りであったと考えられています。

丹波八木城

八木城は、京都府南丹市八木町にある山城である。中世の山城としては有数の規模を誇り、黒井城、八上城と並んで丹波の三大山城の一つとされる。八木城のある地域は、山一つ越えるとすぐに京都に入れるので、口丹波とも呼ばれる。


八木城の築城年代は不明瞭で、管領細川家の被官であった内藤氏が、八木城を居城にして、口丹波に勢力を張った事だけが知られている。戦国期に入ると、内藤氏は三好家の傘下に入り、丹波の諸勢力、赤井氏、波多野氏らと攻防を繰り広げ、一時は丹波の大部分を支配するほどであった。しかし、その後、赤井氏に大敗北を喫した事から、勢威は衰えていった。


内藤氏最後の当主となったのが、内藤如安である。如安はキリシタンであり、城下で熱心な布教活動を行っていた。しかし、織田家による丹波攻めが開始されると、如安はこれに敵対した事から、明智光秀によって城を追い落とされる。その後、八木城は光秀によって改修が施され、新たに作られた亀山城の支城として用いられた。廃城の時期は不明である。



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↑八木城登山口


分かり難い所にありました。周辺を探し回りつつ、何度も聞き込み調査を行って、ようやく見つけました。刑事じゃあるまいに・・・



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↑曲輪跡


1人で歩く山道は、やっぱり薄気味悪いです。大抵の山城でもそうですが、誰一人として出会いませんでした・・・



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↑本丸跡



30分ほど、登って到着しました。かつて内藤氏の当主達が、君臨していた場所です。歴代内藤氏の中でも、内藤宗勝(1516年?~1565年)が実力者でした。宗勝は内藤姓ですが、かつては松永長頼と名乗っており、三好家の重臣でした。長頼は戦国の梟雄、松永久秀の弟であり、指揮官として非常に優れた能力を持っていました。


三好長慶の信頼も篤く、その出世は兄よりも早いものでした。久秀は弟の七光りで出世したとも云われています。長頼は丹波に派遣されると、八木城を拠点に丹波の平定に取り掛かります。長頼は一定の領域を支配する方面軍司令官的な役割を担っており、一軍を率いて丹波以外にも、各所に出征を重ねています。


長頼は丹波守護代、内藤国貞の娘を娶って、内藤宗勝と称するようになります。そして、丹波の大部分を平定し、残るは赤井直正の寄る黒井城のみとなります。永禄8年(1565年)、長頼こと宗勝は黒井城を囲みますが、ここで、赤井直正の逆襲を受けて、主従700余が討死する大敗北を喫してしまいます。宗勝の死は三好政権、松永久秀、内藤氏にとって大きな痛手となりました。宗勝の跡を継いだのが、内藤如安です。如安は守護代、内藤国貞の子とも、宗勝の子とも云われていますが、はっきりとはしていません。



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↑本丸跡と石垣の一部



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↑京都方面を望む


眼下には亀岡市が広がっており、山向こうには京都市があります。京都に隣接する事から、重要な地域です。天正10年(1582年)、光秀はこの亀岡から出陣して、本能寺へと向かいました。


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↑西を望む



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↑東を望む



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↑重臣屋敷跡


この周辺には家臣の屋敷が連なっていたそうですが、山林に埋もれてしまっています。かつては立派な建物が建ち並んでいたのでしょうが、今では、その情景を思い浮かべる事も難しいです。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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