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近江坂本城

近江坂本城は、滋賀県大津市坂本にある平城である。


現在の坂本城は城域に国道が走り、宅地開発も進んで、坂本城跡の石碑と、光秀の石像がぽつんと立つだけの何とも侘しい城跡となっている。遺構らしい遺構は残されておらず、琵琶湖の渇水時に僅かに石垣の礎石が見られる程度である。だが、かつてここには華麗なる水城があった。



坂本城は、元亀2年(1571年)9月、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを経て、その部将である明智光秀に坂本の地が委ねられてから、築城が始まる。この坂本は比叡山の門前町として栄え、要路の北国街道(西近江路)がすぐ脇を通り、琵琶湖の水運の要衝でもあった事から、当時、日本有数の商業地として賑わっていた。この地に坂本城を築くよう命じたのは信長であった。琵琶湖は畿内の物流、交通の要であり、それに目を付けた信長は湖に面した地に多数の城を築かせている。


まずは琵琶湖西南、明智光秀の坂本城、続いて琵琶湖東北、羽柴秀吉の長浜城、琵琶湖西北、津田信澄(信長の甥)の大溝城、そして、琵琶湖東岸にあって、それらの城の中心となるのが、信長の居城、安土城であった。安土城の脇を固める形になるこれらの城には、信長にその能力を認められ、信頼を受けていた者が配されたのである。そして、それらの城の先駆として築かれたのが坂本城であった。


坂本城には、信長の構想力、光秀の築城術に加え、当時の先端技術がふんだんに注ぎ込まれていた。当時、瓦葺きによる城は少なかったのだが、坂本城では大々的に取り入れられた。また、坂本には寺院が多く、石垣作りが盛んであった事から、その技術集団である穴太衆の手によって総石垣の城となった。本丸は琵琶湖に突き出し、陸地に向かって二の丸、三の丸と築かれた。


それぞれの区画間に堀が廻らされ、三重の堀を成していた。しかも、それら全てが琵琶湖に直結していた。城には船着場があり、船での往来も可能であった。そして、本丸には日本初とも云われる天守閣が建てられ、それに対面する形で小天守閣もあったと推察されている。この様に瓦葺き、総石垣、天守閣といった新機軸が取り入れられた坂本城は、近世城郭の走りとも云える存在であった。


イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも坂本城を見聞しており、「豪壮華麗で、信長が安土山に築いたものに次ぎ、明智の城ほど有名なものは、天下にないほどであった」と述べている。余談であるが、天正5年(1575年)5月14日、薩摩の武将、島津家久が上京して来た折には、光秀に舟遊びに誘われ、坂本城の付近を周遊するといった出来事もあった。


翌5月15日、城下にて連歌師、里村紹巴も交えて茶会が催され、この時にも家久は招かれた。しかし、家久は根っからの武人であったからか、茶道に疎く、ただ湯を所望するのみであったと伝わる。また、天正6年(1578年)には、堺の商人、津田宗及が坂本城に招かれて、茶会が催されている。茶会後、宗及は城内より、御座船を用いて安土に向かった旨が「天王寺屋会記」に記されている。


坂本城には光秀の妻子が住まわり、この華麗な城郭は、明智一族の繁栄の象徴でもあった。だが、それが急転直下するのが、天正10年(1582年)6月2日に光秀自身が起こした本能寺の変である。そして、同年6月13日、山崎の戦いにて光秀が敗死すると、坂本城にも羽柴秀吉の軍が押し寄せる。坂本城には、光秀の腹心であった明智秀満が僅かな一族、郎党と供に城に立て篭もった。


秀満は既に死を決しており、一緒に燃えるには惜しいとして、多くの宝物を羽柴軍の指揮官、堀秀政に明け渡したそうである。しかし、ルイス・フロイスの記述によれば、羽柴軍が坂本城に到着するにあたって、多量の黄金を湖に投げ入れたとも。いずれにせよ、それらを終えると秀満は一族を刺し殺してゆき、城に火を放った。そして、天下第二の城と謳われた坂本城は、明智一族と供に、炎の中へと消えていった。


戦後、羽柴秀吉の命を受け、丹羽長秀が坂本城を再建した。だが、天正14年(1586年)、琵琶湖南岸に大津城が築城されるに当たって、坂本城の廃城が決定する。大津城の築城に坂本城の資材が転用されたため、その遺構はほとんど消え去る事となった。その後、坂本城は人々の記憶から忘れ去られ、その位置も長らく不明となった。だが、昭和54年(1979年)、住宅開発に伴って発掘作業が実施されたところ、坂本城本丸付近と見られる場所から、厚さ10cmから30cmにもなる焼土層が発見された。


この焼土層からは、安土桃山時代の物と見られる変色した鬼瓦や陶磁器等が出土した事から、坂本城が焼け落ちた時に生じたものと推測された。出土品の中には中国産の白磁、青磁や、銭貨、鏡、刀装具が数多く発見され、また、本丸跡からは、城主とその一族が居住していたと見られる邸宅の石組みも見つかった。これらの発掘調査から、城主とその一族が優雅な生活を送っていた事が窺えた。これらは、明智一族の夢の跡であった。





近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑坂本城碑


国道161号線のすぐ脇にありますが、車で通行していると、ほとんどの場合、気付かずに通り過ぎてしまうでしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑明智光秀の石像



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑この辺りは本丸付近で、山に向かって二の丸、三の丸とありました。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近の石垣


この石垣は一見して古さは感じず、公園を作る際に組まれたものだと思われます。かつてはこの辺りに御殿が建ち並び、明智一族が住まっていたと思われます。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の北方を望んでいます。湖に張り出した本丸跡で、この辺りに天守閣が建っていたのでしょう。往時には、光秀は湖に船を浮かべて賓客をもてなし、自慢の城を酒の肴としていた事でしょう。



近江坂本城
近江坂本城 posted by (C)重家

↑本丸付近からの眺め


琵琶湖の南、大津方面を望みます。湖に沈んでいるとされている、石垣の礎石の跡を探しましたが、見つける事は出来ませんでした。天下第二の名城と謳われた坂本城は、泡沫(うたかた)のように消えてしまっていました。


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比叡山延暦寺 

比叡山延暦寺は、滋賀県大津市坂本にある大寺院である。標高848メートルの比叡山全域が境内であり、東塔、西塔、横川塔の3地区に分かれている。比叡山延暦寺とは、これら堂塔群の総称である。


比叡山は古代より、神の鎮座する山として人々に崇められていた。そして、平安時代初期、延暦7年(788年)、この神域に伝教大師こと最澄上人が上がり、寺院を建立する。これが、比叡山延暦寺の始まりである。以来、延暦寺は王城鎮護の寺として崇められ、大いに繁栄していった。この延暦寺からは、法然、親鸞、良忍、一遍、真盛、栄西、道元、日蓮といった多くの高僧を輩出しており、日本仏教の母山とも称されている。また、紀貫之、源義経、吉田兼好、上杉謙信といった多くの歴史上の人物もこの寺を訪れている。



この様に、延暦寺は日本の歴史にも関わる重要な寺院であったが、その一方、大きな権威を振りかざして、度々、横暴な振る舞いも行った。また、強力な僧兵集団を抱えている事もあって、時の権力者であっても容易に手を出せる存在ではなかった。平安時代、院政を布いて強力な権勢を誇っていた白河法皇ですら、「余のままならぬものが、賀茂川の水、双六の賽、比叡山の山法師である」と嘆かせるほどであった。また、室町時代には、時の将軍、足利義教と抗争し、一触即発の事態にもなっている。



戦国時代に入っても、延暦寺はその権威と武力をもって一種の独立国家の状態を守っていた。しかし、戦国も後半に入ると、時代の風雲児、織田信長が台頭してきて、延暦寺の寺領も押収される事態となった。自らの権威と領域を侵された延暦寺は、これに強い反発を覚える。そして、元亀元年(1570年)、朝倉、浅井家が信長と敵対し、両軍が近江西方で対峙する事態が起こると、延暦寺は朝倉、浅井軍に加担し、比叡山一帯に陣所を提供した。



無論、信長はこれに激怒するが、山上に朝倉、浅井軍が立て篭もっている現状では、手の出しようが無かった。それにこの時、信長は、朝倉、浅井軍だけでなく、大阪本願寺、三好家、長島一向一揆といった敵対勢力に取り囲まれており、非常な苦境にあった。そこで信長は、延暦寺に対し、申し出を行った。寺領を返還するので朝倉、浅井軍に味方する事を止めてもらいたい。出家の身ゆえ、一方に味方する事が出来ぬと云うなら、せめて中立を守ってほしい。もし、それも叶わぬと云うならば、全山焼き払うと。しかし、これに対する延暦寺の返答は無かった。これで信長の決意は固まった。



翌元亀2年(1571年)8月、信長は3万余りの大軍を率いて、近江に出陣する。織田軍は、南近江の浅井方の諸城を幾つか攻め取った後、三井寺(園城寺)近くに陣を張った。織田軍は、そのまま京に入るかに見えた。しかし、信長の真の目的は、延暦寺にあった。そして、同年9月12日、織田軍が琵琶湖西岸の坂本に到着するや否や、あらやる家屋に一斉に火を放ち始めた。この坂本は、平安時代から延暦寺と深いつながりを有しており、それに伴って大勢の僧侶も居住していた。だが、織田軍の見境のない放火によって、当時、近江で最も栄えていた町は灰燼に帰す事となる。


織田軍は続いて、延暦寺の守護神とされている日吉神社も放火し、さらに比叡山を駆け上って、根本中堂を始めとする諸堂を焼き払っていった。しかし、延暦寺の堂舎の多くは坂本にあったため、殺戮と放火は主に麓を中心に行われた。火に巻かれた僧侶、町人、女、子供らは方々を逃げ惑ったが、織田軍はそれを容赦なく斬り捨てていった。この惨劇は4日間続き、比叡山が炎上する様は、京都からも窺えたと伝えられている。当時の公家の日記である「言継卿記」によれば、この焼き討ちによる死者は3千人から4千人に上ったそうである。これによって、歴史ある大社、延暦寺と日吉大社は、多くの人々ごと、その存在を抹消された。


この比叡山焼き討ちで、大きな役割を担っていたのが明智光秀である。光秀は元亀元年(1570年)末から、比叡山の近隣にある宇佐山城に在城しており、以来、近隣の土豪や村の懐柔工作にあたっていた。焼き討ちの十日前、光秀が地元の土豪に宛てた書状には、山麓をなで斬りにすると、その決意のほどが述べられている。焼き討ちの後、信長は光秀の果たした役割を評して、延暦寺領を含む、滋賀郡約5万石の所領を委ねている。光秀には合戦で戦死した将兵の菩提を丁重に弔うなど、慈悲深い面もあったが、このように冷酷に徹する一面もあった。光秀には、信長とも通じる冷徹かつ合理的に物事を進めるところがあり、それが重用された一因ともなったのだろう。


その後、延暦寺は、豊臣秀吉の時代に再建が始まり、さらに徳川時代になって多くの建物が復興された。現在、延暦寺の中心とも云える根本中堂は、徳川家光による再建である。延暦寺は険しい山上にあるが、現在は車やケーブルで気軽に行ける寺院となっている。しかし、今だにかつての悲劇を物語る遺跡も残されている。昭和初期、ケーブルの建設工事中に多数の石仏が発見され、それらは山麓に一箇所にまとめられて祭られた。この石仏群は、焼き討ちからまだ間もない頃、地元の人が大勢の死者の冥福を祈って、作ったものであると伝えられている。比叡山坂本ケーブルの脇にある、霊窟と呼ばれる場所がそれである。




比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑麓にある石段


かつては、ここから延暦寺に上がっていったのでしょう。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の略図


昔は麓にも寺院が広がっており、坂本は延暦寺の門前町として栄えました。延暦寺は全国各地に寺領を所有しており、それが坂本を通じて寺に収められていたそうです。


比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑延暦寺の象徴とも言える、根本中堂


この建物は、寛永19年(1641年)、徳川家光の手によって再建されたもので、国宝に指定されています。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

戒壇院(かいだんいん)


延宝6年(1678年)建立の重要文化財です。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め。


写真中央、琵琶湖東岸に見える山の右端付近に、信長の居城、安土城跡があると思われます。



比叡山延暦寺
比叡山延暦寺 posted by (C)重家

↑比叡山からの眺め


眼下に広がるのは坂本の町で、奥には大津市街が広がっています。今でこそ平穏な町ですが、信長による焼き討ち時には、麓は焼き尽くされ、阿鼻叫喚の地獄が広がっていたのでしょう。


丸亀城

丸亀城は香川県丸亀市にある、平山城である。見事な高石垣が見られる事で知られている


丸亀城は、応仁年間(1467~1468年)頃、細川氏の家臣、奈良氏によって、標高60メートルの亀山に砦として築かれたのが、始まりであるとされている。この城が、現在の様な姿になるのは、慶長2年(1597年)に生駒氏が讃岐18万石の領主として入封してからである。丸亀城は、生駒氏の支城として築城が始まり、慶長7年(1602年)に完成した。


寛永17年(1640年)、生駒氏は転封され、翌寛永18年(1641年)、代わって山崎氏が5万石で入封する。万治元年(1658年)、山崎氏は断絶し、代わって京極氏が6万石で入封する。以後、明治の世を迎えるまで、京極氏の居城となった。


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↑御殿表門



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↑麓から見た丸亀城



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↑搦手門から見た丸亀城




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↑石垣


丸亀城の代名詞とも言える、高石垣です。



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↑石垣



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↑石垣


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↑天守閣


天守閣は、万治3年(1660年)に建てられたもので、3層3階の小柄な木造建築物です。
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↑本丸からの眺め


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↑本丸からの眺め


眼下の林は二の丸で、奥には讃岐富士(飯野山、標高421メートル)が見えます。


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↑本丸からの眺め


ここからは瀬戸大橋が見えました。この日は霞があって、見晴らしはよくありませんでした。それでも、丸亀城の高石垣はやはり見応えありました。

鳥取城

鳥取城は、鳥取県鳥取市にある山城である。標高263メートルの久松山に築かれていて、総石垣の近世城郭となっているが、山上部には中世山城の遺構も残っている。



鳥取城は、天文年間(1532~1555年)に因幡の守護である山名氏によって築かれた山城である。鳥取城は山名氏の出城として作られたが、次第に拡張され、因幡の主城と目されるようになる。山名氏は名門の出で、かつては山陰の大勢力であったが、山名豊国(1548~1626)の代には毛利氏に屈し、その傘下に入る。しかし、天正8年(1580年)より、織田家の勢力が山陰にまで及んでくると、豊国は織田家に鞍替えしようとする。すると、それに反発した山名家重臣、森下道与、中村春続らによって、豊国は鳥取城から追放されてしまった。そして、森下、中村らは、毛利家の重鎮、吉川元春に新たな城主の派遣を請うた。当時の吉川元春は、毛利家の山陰方面を統括していた。


天正9年(1581年)3月、元春は、この山名重臣の要請に応じ、吉川一門から、良将として名高い吉川経家を鳥取城に派遣した。経家は出陣するにあたって所領を子息に譲っており、死を覚悟の上での出陣であった。織田家の部将、羽柴秀吉による山陰攻めは間近に迫っており、経家は城に到着するや、直ちに篭城の準備に取り掛かった。だが、経家は城内を見廻して、兵糧備蓄の少なさに愕然とする。これは、秀吉が予め、高値をもって因幡の米を買い占めていた結果であった。


経家は上方に間者を送るなどして、情報収集に務めた結果、上方の軍勢が襲来するのは7月頃であると分析した。そして、上方の軍は、積雪の厳しい山陰の冬が到来する11月頃には撤退すると読んで、自身は翌年の3月までは篭城する決意でいた。これは見事な読みであったが、その篭城の裏付けとなる兵糧が絶対的に足りなかった。しかも配下の因幡武士からは、兵糧を求める不満の声が挙がって、城内に不穏な空気が漲っていた。経家は自ら説得して回り、城内の意思統一に務めつつ、幾度となく本国に兵糧輸送を打診した。しかし、元春は、備前の戦国大名、宇喜多直家との戦いに忙殺され、なかなか支援に応じる事が出来なかった。


それに鳥取城と元春の本拠、出雲との間には、織田方の羽衣石城が立ちはだかっていた。羽衣石城主の南条元続は、当初、毛利家に従っていたが、織田家の勢力が山陰にまで伸びてくると、これに鞍替えしたのである。そのため、陸路からの兵糧輸送は困難で、海路を用いる以外に手はなかった。対宇喜多戦での兵糧消耗に加え、羽衣石城による兵糧輸送の妨害もあって、元春は鳥取城への支援を後回しにする。この頃、経家は実家の家臣宛てに手紙を出しており、その中で、兵糧さえあれば全ての問題は解決するのにと嘆きの声を上げている。そうこうしている内に、秀吉軍の侵攻が始まった。


天正8年(1581年)6月25日、秀吉は姫路城を出立し、経家の読み通り、7月7日に鳥取表に到着する。そして、鳥取城東方の山に本陣を置くと、約12キロに渡って土塁や柵を廻らし、徹底的な封鎖を試みる。鳥取城は久松山(きゅうしょうざん)と云う山全体を城域としており、麓にも二つの出城がある大要害であった。このような城に力攻めを加えるのは愚の骨頂であり、秀吉は最初から兵糧攻めにする心積もりであった。この時、秀吉軍の戦力は2万人余で、鳥取城の戦力は、将兵1千人に非戦闘員2千人の合わせて3千人余であった。非戦闘員2千人は秀吉軍によって追い立てられ、城に逃げ込んだ民衆であった。


篭城が始まって1ヶ月余、城内では早くも飢餓が始まった。7月、吉川経家の父、経安は息子の苦闘を案じ、元春に銀子100枚を献上して、鳥取城への兵糧輸送を懇願する。これを受けて、元春はようやく本腰を上げて兵糧輸送に取り掛かった。元春は、名将と讃えられているが、この対応の遅さには疑問を感じざるを得ない。元春は石見銀山を押さえていたはずであるが、それでも財政は火の車であったのであろうか。一方、秀吉の方でも兵糧不足が深刻化しており、信長に願い出て、兵糧輸送を頼み出ている。天正8年(1581年)8月半ば、海路を通じて織田本国からの兵糧が秀吉の元に届いた。それから程なくして、元春からの兵糧を満載した船団も鳥取城の沖合いに現れた。ところが毛利船団は、丁度、兵糧を積み降ろして身軽になった織田船団とぶつかってしまい、無残な敗北を喫してしまう。これで、海上からの鳥取城への補給の見込みは、完全に無くなった。


元春は今度は、陸路から鳥取城を救わんと進撃したが、その途上、南条元続が篭る羽衣石城で足止めされてしまう。経家は、この元春の軍が駆け付けてくれる事を信じて篭城を続けた。鳥取城では兵糧が尽きると、人々は始めは草木の葉や稲株を食した。やがてそれらも尽きると、今度は牛馬を裂いて食した。それも無くなると、ぽつぽつと餓死者が出始める。そして、幽鬼の如く痩せ衰えた男女は、包囲軍の柵に取りすがり、泣いて助命を乞うた。だが、秀吉は、それに対して火縄銃の射撃で応じた。弾を受けて倒れた者に、痩せ衰えた人々が群がり寄せ、刃物を手に取って、争って肉を食い漁る様は、まさに地獄絵図であった。特に頭部は奪い合いになったと云う。この世のものとは思えない惨状を目の当たりにして、経家は開城を決した。


経家は自らの切腹をもって、城内全ての人々の助命を請うた。これに対して秀吉は、雇われ城主である経家に責任は問わず、切腹すべきは、山名家の重臣でありながら主を追い出した森下道与、中村春続の2人にあると答えた。だが、経家はあくまで責任は自分1人にあると主張し、森下道与、中村春続らを庇ったため、交渉は難航する。同年10月24日森下道与、中村春続は自分達の存在が、経家と篭城者を苦しめていると感じ、切腹して果てた。これを受けても経家は、篭城の総責任者として切腹する心積もりは変わらなかった。


経家は切腹を前にして、父と子宛てに遺書を残している。これは、経家が父、経安に宛てた遺書である。

「去る7月12日、羽柴秀吉が鳥取城に攻め寄せてまいりました。昼夜200日余に渡って堅固に城を守ってきたものの、今に至っては兵糧も尽き果てました。この上は、私が腹を切り、諸人の命を助けたいと存じます。それによって、吉川一門の名誉ともなるでしょう」 

200日余と云うのは、経家が3月に入城した時からの日数である。開城した後、経家は行水で体を清め、死に装束を身にまとうと、具足の前に正座する。そして、時世の句を書き記し、別れの杯を飲み干した。それを終えると、別室に控える秀吉の検使に、「突然の事ゆえ、無調法があるやもしれません」と大声で呼びかけ、2、3高笑いを残すと、腹を真一文字に切って果てた。吉川経家、享年35。
 

天正8年(1581年)10月25日、吉川経家と森下道与、中村春続の首は秀吉の陣所へと届けられた。これによって、3ヶ月に渡っての鳥取城の篭城は終わりを告げる。過酷な篭城から解放され、痩せ衰えた人々が城からよろめき出るのを見て、包囲軍は炊き出しを振舞った。しかし、弱った胃に急に大量の食物を流し込んだため、大勢の者が死んでしまう。戦後、鳥取城では、雨の夜の日にはうめき声が聞こえるとか、幽鬼が現れるといった噂が流れた。


鳥取城は、その後、秀吉の部将であった宮部継潤とその子、長房の居城となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦において、長房は西軍に付いたため、改易となった。代わって入封したのは、池田輝政の弟、長吉で、この時に鳥取城は近世城郭に改められた。元和3年(1617年)、池田輝政の孫、光政が32万5千石で入封する。以後代々、鳥取城は池田家の居城として用いられると共に、増改築されていった。明治の世を迎えると、鳥取城も他の例に漏れず、順次、取り壊されていった。現在、鳥取城は地元の人々の憩いの場所として賑わっている。しかし、その光の影には、暗い歴史も埋もれている。








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↑鳥取城全景



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↑山麓の石垣



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↑山上部にある古井戸の跡


土砂に埋もれていますが、今でも水が滲みだしています。鳥取城の攻防戦時には、篭城者の喉を潤す命の水だったのでしょう。



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↑山上部の石垣



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↑山上二の丸


ここまで来るのに、30~40分ばかり掛かりました。結構、きつい登山でした。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取市内を望みます。



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↑鳥取城からの眺め


麓を流れる川は、千代川です。かつてはあの河口付近で、織田、毛利の水軍の激突がありました。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取砂丘が見えます。



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↑鳥取城からの眺め


鳥取城東方の山です。峰々には秀吉軍の陣所がありました。



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↑本丸跡


奥には天守台の跡があります。戦国期の鳥取城は、この山上が主城だったので、鳥取城の攻防戦時には、ここに吉川経家らが篭っていたのでしょう。そして、経家が篭城者の命を助けるために、切腹した場所もおそらくこの辺りでしょう。

仁風閣

仁風閣(じんぷうかく)とは、鳥取県鳥取市東町にある洋館で、鳥取城の敷地内に立てられています。明治39年(1906年)9月に着工され、明治40年(1907年)5月に完成しました。この館の命名者は、当時の日本海軍大将であった東郷平八郎です。完成年の明治40年には、嘉仁皇太子(後の大正天皇)による山陰巡業の宿舎として用いられました。



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↑正面から見た仁風閣



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↑らせん階段



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↑御座所



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↑東郷平八郎直筆の書



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↑裏側ベランダからの眺め



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↑裏側から見見た仁風閣



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↑和風庭園から見た仁風閣


建物内部は完全に洋風で、和室などはありませんでした。白亜の壮麗な建物で会見とかするには最適の場所でしょうが、落ち着いて住むにはきらびやか過ぎるかなと感じました。
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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